仏教の教えに気付いた!手を合わせることが許されるとは?

このQ&Aのポイント
  • 仏教の教えは「何事も盗む前には手を合わせなさい。手を合わせれば何事も全ては許される」というものではない。
  • 手を合わせることが許されることとしてブッダが説いた。
  • 御飯を盗む前には手を合わせて食べると許される。命を殺す前に手を合わせれば許される。食べる前に手を合わせれば許される。この考え方は他の行為にも適用される。
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【仏教の教えの核心部に気付いた】仏教は「何事も盗む

【仏教の教えの核心部に気付いた】仏教は「何事も盗む前には手を合わせなさい。手を合わせれば何事も全ては許される」という教えではないでしょうか? だから、御飯を盗む前には手を合わせて食べると許される。 命を殺して肉を食べる。殺す前に手を合わせれば許される。食べる前に手を合わせれば許される。 「手を合わせて」の文化が日本から消えて、「頂きます」と言えば許されると思っている。 けど、ブッダは頂きますと言えば許されるとは言っていないはず。 ブッダは手を合わせることが許されることだと説いた。 だから、私は御飯を食べるときに頂きますとは言わずに手を合わせて、盗む前に手を合わせれば許されると説いたブッダの教えに従い、万引きをする前には不良に手を合わせると許されると説きたい。 暴力団構成員も人を殺す前に手を合わせると全ては許されると説きたい。 よって、「殺すぞコラァ!!」と言われたら、ああ、これは殺されたら、あなたの代は滅亡しますよと助言してあげたい。 手を合わせて、これからあなたを殺しますと言われたらもう全てを受け入れるしかない。 だから、電車に乗っていて、老人が前に立って、手を合わせ出したら、席を譲る。 ときどき手を合わせ出す老人は私と同じ悟りを開いたというかブッダの本当の教えに気付いたんだと思う。 ブッダは物乞いなので神にお供えされている食べ物を盗む際に、手を合わせて盗めば罪は逃れられると都合が良い解釈を思い付いて罪人から多くの指示を得た。 侍も人を殺すので本能として罪悪感が残る。その罪悪感を全て取り払ってくれるのが手を合わせてから、首を跳ねれば全ては許されるという一種の儀式にしたから人間は平気で他人を殺せるようになった。 言葉が分からない人に取って、手を合わせるだけで罪が無くなるという教えは大変分かりやすいもので儀式化しやすかった。 イエスキリストも手を合わせている。 手を合わせてからなら何をやっても許される。 これが仏教の究極の教えだったのでは?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

Japanwayさん こんばんは。 数年前、NHKの番組で、茶道の裏千家の前の家元の千玄室大宗匠の茶道の番組がありました。 千玄室さんは戦時中、特攻隊に配属されたそうです。 しかし、名門、裏千家の家の出ということで、出撃命令は出されず、特攻隊として飛び立っていく隊員の最後の別れとして、お茶を点てることが命じられたそうです。 どんな、思いで、お茶を点てたのだろうと番組を聴きながら思いました。 そして、終戦を迎え、水戸黄門の役をつとめた、西村晃と共に生き残ったそうです。 しかし、終戦後、なぜ、自分だけが生き残ったのかという思いが消えず、悶々とした日々だったそうです。 そして、京都の大徳寺で修行して、作務として、草抜きをしていたところ、下記のように言われたそうです。 「ただ、漫然と、草を抜いているのではないのですか?草にも命があるのですよ。抜かせていただきますという気持ちで作務をしなさい。」 仏教の人間にも動物にも植物にも仏が宿るという、一切衆生悉有仏性です。 この言葉に、千玄室さんは、はっとなり、死ではなく、生きるということを考えなくてはならないと気付いたそうです。 そして、このようにおっしゃっていました。 「茶道にはカタというものがあるが、カタを学ぶだけで、終わってしまう人が多い、大事なのはチ(こころ・精神)である。これがそろって「カ・タ・チ」というものが出来て、やっと茶道の奥義を極めることが出来る。」 手を合わせるという行為は「カタ」です。 そこに「チ」という「感謝のこころ」がなければ、意味がありません。 私たちは「生かされている」という事実に、もっと感謝しなければならないと思っております。

japanway
質問者

お礼

みなさん回答ありがとうございます 感謝の心はない まだ悟ってないってことか

その他の回答 (1)

  • nattsbb
  • ベストアンサー率14% (2/14)
回答No.1

教を悟ってる人は こんな事を考えない・・ それだけの事・・

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