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アスペな私に教えて~命は何より大切なのか~その2

前回の質問である「アスペな私に教えて下さい!~命は何より大切なのか~」の流れを受けての質問となります。(http://okwave.jp/qa/q8696467.html?from=history) 私はアスペルガー症候群を医師より診断されており、三級の手帳をもっています。医学的には間違いなくアスペです。日常生活で困ることは多くありませんが、本音と建前の使い分けの基準で、少し疑問に思うところがあり、質問いたします。 前回の質問では、命の価値は普遍なのか、相対的なのかという質問に対して、多くの方が、「普遍(何より大切)でもあり、相対的でもある」と答えておられました。 私の出した例題も、かなり過酷な状況を想定してものでしたので、余計にそう感じられたかと思います。皆様の回答は、分かるのですが、もやもやが残りました。いわゆるファジーな感覚がモヤモヤの原因だろうという指摘を頂き、今回は、そのモヤモヤにスポットを当てた質問となります。 「命の価値に優劣は無く、皆平等に尊いものである」事は、ある種当たり前のことだと思います。これを字義通りに理解すると、私も、回答者の皆さんも同じ「価値」を持つ命の保持者であると、仮定できると思います。これが、世間一般で「命は尊いもの。誰の命も奪ってはならない」といっても、ほとんどの人は異論を挟まないと思います。これは、建前(社会的な側面)だと私は思っています 一方で、私たちは建前を当然のこととして受け入れた上で「身近な人」と「見ず知らずの人」で、ごく自然に分類分けします。例えば、シリアやウクライナで、あるいはイスラエルで大勢の人が不幸で無くなっても、私たちは憤りこそすれ、身近な人がいなくなるような悲しみは受けませんよね。でも、身近な人が亡くなれば、深く悲しみにくれます。 これは当たり前のことなのは理解できます。様は区別の問題で、私たちは見ず知らずの人の「死」を情報としてしか捉えていない。自分の心理に重大な影響を与える因子としては、認識していない(できない?)と、私は理由付けています。「身近な人の死と、見ず知らずの人の死は等価ではない」これを、本音と言い換えます。 この本音を、例えば大勢の人の前で発言すると、たぶん顰蹙を買うと思います。議会の野次ではありませんが、「良識を疑う」とか「人として大切な資質が欠けているのでは?」というような、批判を受けるかもしれません。社会的には、受け入れづらいことだと思います。 ここまでが、前回の質問から、私が考え、理解できたと思う事柄です。 ここからが質問なのですが、上記の文章を踏まえたうえで 1 命の価値に関しての建前と本音の違いを皆さんは、自分自身にどう説明しておられますか? 2 命の価値に関する建前と本音の間の曖昧さが、気にかかることはありますか? 3 社会の中のこうした建前と本音の「違い」と出くわしたとき、皆さんはそれをどのように捕らえているのでしょうか?(私の場合は、とりあえず社会的に必要とされている答えと、自分の本音の二つを用意し、必要な場面で切り替えつつ、二つの間の線引きできる場所を考えます) 4 このようなことを、真剣に考えても理解できない私は(アスペですが)普通の方から見ると、やはり異様に見えるものなのでしょうか? について、教えていただきたいのです。 明確な答えなど、無い問題なのは分かっているのですが、普通の方がどう考えて、どう思うのか。自分の参考に出来る子tが無いかを考えたいのです。 難しい質問とは思いますが、回答いただければうれしく思います。 よろしくお願いいたします。

noname#208590
noname#208590

質問者が選んだベストアンサー

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noname#246942
noname#246942
回答No.9

他の回答者さんに対する補足を拝見。 つまり、この質問の本質は「命の価値」そのものではなくて、君が抱えている「モヤモヤの正体」と言う事だね? だったら、「質問の本質」として、そもそもの「着眼点が違う」としか言えないな。 この質問の内容では、君の中のファジーな感覚を、恐らく明確にする事は出来ない。 今よりももっと、白黒ハッキリさせたいのなら、命の価値に対する「本音と建て前」では無く、命の価値に対する「理想と現実」と考えて見てはどうだろう? 実際、君の分析力は大したものだと思うし、文章構成から見ても、頭の回転の速さは相当のものだと思う。 でも、だからなのかな。 随所に自分の視点や感想を織り交ぜてはいるものの、あまりに物事を客観視し過ぎて、完璧を求め過ぎているように感じる。 一つの物事に対して白黒ハッキリさせたいと思うあまり、余計に物事の本質からかけ離れて行く事など、往々にあるものだよ。 本当に明確な答えを導き出したいのであれば、少し離れて、もっと全体を見渡す事の出来る大きな視野を持つ事も、一つの方法だと言えよう。 さて、話がずれてしまったが、最初に話した、命の価値に対しての「本音と建て前」ではなく、「理想と現実」と言う事について。 例えば、「光」がある所には、必ず「影」が存在するように、「理想と現実」もまた、片方だけを肯定したり、片方だけを否定していては、全体の答えは見えてこない。 君は、前回の質問で、もし津波に襲われて逃げている際に、見知らぬ人から助けを求められたとしても「自分は助けない」と言っていたね? それは、「自分の命が一番大事だから」だとも言っていた。 今の時点で、それが君の「本音」であり、「現実」でもあるだろう。 しかし、果たしてずっとこれからも、本当にそれを「正解」と言い続ける事が出来るのか?と聞かれれば、君はどう答えるだろうね? ここで君に質問したい事があるのだが、例えば、自分の「命」と、自分の「人生」。 君は、どちらが大切で、どちらに価値があると思う? 実際に、自らの命を犠牲にしても、他人の命を救おうとした者は、この世に多く存在する。 自分には、その者達の全てが、普段から決して君のように「自分の命が一番大事だ」と思っていなかった訳では無かったように思う。 逆に、普段から「死にたい」「死にたい」と言っている奴に限って、そういう時にこそ動けないだろうと、自分個人では思っている。 では、頭で考えるより先に、体が動いてしまうのは、どういう事なのか? 「自分の命」よりも、「他人の命」の方が大事だからだと思ったからなのか? あくまでも想像ではあるが、自らを犠牲にしてまで、他人の命を救う者達が、その瞬間に「最も優先した」ものは、「他人の命」ではなく、「自らの意志」では無かったのだろうか? 決して、自分の命を粗末にしたつもりなど無かったであろう。 そういう意味で考えれば、君の現時点での「本音」と「現実」は、どっちが「建て前」でどっちが「理想」と言えるだろうか? 「本音と建て前」自体は、白黒ハッキリ区別できるものだし、「現実と理想」自体も、白黒ハッキリ区別できるものだ。 しかし、「本音と建て前」「理想と現実」を並べた場合、その時点で線引きが非常に曖昧になるのだと自分は思う。 曖昧な部分は、全体を広く見ればハッキリ区別できる。 しかし、全体の答えを見るのは、「自分の答え」を見つける為のきっかけに過ぎないと言う事を、忘れてはいけない。 長くなり、質問の主旨とはずれてしまったが、参考程度まで。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 とても参考になります。正直、自分では気付かない視点だったもので。 回答ありがとうございます。

noname#208590
質問者

補足

回答ありがとうございます。 まず、回答を寄せてくださった皆様にですが、 私事が重なり思うように時間がとれず、お礼が出来ていないこと、まずこの場で謝罪いたします。今日明日で、時間がとれると思います。本当に申し訳ありません。 ご質問いただいたこと、私の言葉でいうと命の捨て所だと思います。自分以外の何かのために、自分が納得したうえで、命を使う。例えとして適切出はないかも知れませんが、特攻隊の遺書のような覚悟を持つことは、私の理想とするところです。 ただ自分の卑しさも承知していますので、現在の段階で、理想のように行動出きるか、自信がなく、自分の命が一番大事と申しております。これは実際、実行して実績ができるまで、変わらないと思います。だってそんな立派なことできると言うのは、すこぶる恥ずかしい行為ですから。 今回の質問は私としてはかなり芯に迫ったつもり でしたが、少し視野狭窄でしょうか?それとも真理を求め、ただひとつの答えを求め過ぎているでしょうか? もし宜しければ、問題からの距離の取り方、客観と主観のバランスなど、その辺りに関しても教えていただけると嬉しいです。 私の知りたいことの本質を突いた回答でした。取り敢えず補足として、失礼いたします。 お礼は必ずいたします。ありがとうございます。

その他の回答 (13)

  • mugen93s
  • ベストアンサー率19% (14/72)
回答No.14

「本音と建前」とは「隠す物」「隠さない物」で、 人によって「隠す」「隠さない」を仕分けしている 極めて日本的な風習です。 外国ではそこまで「本音と建前」は重視されていません。 さて、日本には「迎合」や「無私」という言葉があるように 「自分のため」という言葉を嫌うように教育されました。 「自分のため」といっただけで自己中心的と思われるのです。 しかし、人間は生きるためには食を食べます。これは自分のためです。 セックスもします。これも自分のためです。 将来が不安だから老後が困るからと子供も作ります。これも自分のためです。 ところが「自分のため」を嫌う文化があるため、 自己中心的という言葉を嫌う風習があるため、 あるいは、そういう人物を淘汰、排除しようとする国民性があるため。 生きるために食事をする。⇒みんなが食事したから自分も食事した。 セックスした。⇒相手が好きだったから、セックスしてあげた。 子供を作った。⇒二人が愛し合っていたから子供ができた。 あなたが理解できるかは分かりませんが、 「自分のため」という言葉を全て隠しています。 「自分のため」という言葉を改ざんして表出したのです。 「自分のため」を「あなたのため」に置き換えたのです。 この詐欺っぽい言い方こそ日本の「本音と建前」の正体なのです。 この国の定める「本音と建前」を操れることが、 正常な人とされているだけです。。 しかし、人間が生き物である以上、 自分のためという欲求を消すことは 死の状態になる以外はあり得ません。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 西洋人は「自分対神」の観点で社会性を考え日本人は「自分の所属集団」の観点から社会性を考える。結果西洋は個人主義が強くなり、自分というものを強く前面に押し出す。日本人は集団という立場で物事を進めようとするため、個人を前面に押し出すことは、和を乱す行為として忌み嫌われる。よく言われる西洋と日本の気質の違いと捉えて良いでしょうか。 だとすると、私も至極日本人的な発想で「集団から逸脱」したくは無いですね。白黒つけようとするあまり、詐欺的な言い方が許せないのだと思います。裏返して考えれば、いいのかもしれませんが、慣れるのは大変そうです。 本音と建前の具体的なところがわかったような気がします。 回答ありがとうございました。

  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1701/4759)
回答No.13

モヤモヤ 人には、「やる気」と「知識」と「行動力」があり、それらが「力」を湧きたてます 私はよく、車(ドライブ)に例えます ドライブで言えば 「やる気」は、目的やキーを回す行為です 「知識」は、カーナビ情報です 「行動力」は、エンジンです 「力」は、ガソリンやメンテナンスです このどれが欠けても車は動かず、動かしたとしても目的もない運転となります たぶんモヤモヤの正体は、エンジンでしょう ソコが抜けていることで、力も湧いてこない状態だと思います 普段の生活で、近くの知り合いと感じていることや思っていることを話すことができれば、おのずと話しているうちに、自分の中に「芯」(力)ができるかと思います よくここでも、本や資料を読んだり、ネットで調べたりして、それを自分の「知識」と勘違いしている人がいますが、違います やはり、人と接して、会話することで、無駄に身に付けた知識がそがれていくことで、自分の中の芯が見えてきます その「芯」が、見えることでモヤモヤも晴れ、何にも動じない自分の意見が見つかります それを持っている人と持っていない人も、すぐに見抜ける力も備わります そこでもう一度、今考えていることに向き合うと、意外とすぐに答えが出てきます 「やる気」と「知識」と「行動力」と「力」のうち、今自分に欠けてしまっているモノを、冷静に見定める機会を設けましょう

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 足りないものは「エンジン」、行動力ですか?私の中では、この相談すらも、かなりがんばっているほうなのですが、まだ足りないのですね。正直、人の生き死にに関して、リアルでの議論は辛いものがあります。学生時代、何でも話せた頃ならまだ、出来たのでしょうが、今ではその気がありません。 表面上は、周囲とあわせて、内心で矛盾を見据え、こういった場で見直しを図るのが、精一杯だと思います。 ご指摘、心に留め置いて、自分なりのエンジン代替品を模索してみたいと思います。 回答ありがとうございました。

noname#197347
noname#197347
回答No.12

No.11です。 それから、前回質問された「死刑反対論者」について書きたいと思います。 質問者さんもそうですが、日本人のおかしなところは「自分と異なる意見」の主張を勝手に決めつけることです。 私は、必ずしも死刑反対論者ではありませんが、死刑に反対している人は「命は何よりも大切」だから反対している訳ではありません。 たとえば「麻原彰晃」なんかは、実際に死刑執行することはできません。 なぜなら、死刑にすると「神」としてあがめられてしまうからです。 ある意味「政治犯」と同じようなもので、「反体制派として勇敢に戦ったからこそ殺された」となってしまうからです。 そもそも罪とは「悔い改めさせる」ことが目的です。 日本の場合は、そうではなく「ざまぁみろ」と言うのが目的だから、「さっさと殺しちゃえ」という安易なことになってしまうのです。 (って、私も決めつけていますが) 本人が本当に悔い改める心を持てば、「生きるほど辛いことは無い」と言う考えです。 でも、日本人は「相手を見下す」ことが最優先なので、死刑廃止は絶対にないでしょう。 それと、質問者さんも「アスペルガー症候群」なんて、言う必要はないと思いますよ。 見下されるだけです。

noname#208590
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 レッテル張りと取られてしまったようで、申し訳ありません。文面には注意しているつもりでしたが、至らなかったこと、素直にお詫び申し上げます。 質問の意図と致しましては、死刑に反対する人は、賛成派よりも命の価値を高く評価している(罪の代価として命を支払うことを拒否する=命は代価として当てるには高すぎる)と理解して、そのような立場の型から見た場合、私の考え(命の価値は相対的なものである)はどのように見えるのか、ということでした。無論、死刑反対派にも各論があることは知っておりますし、今述べた私の考えが、すでにレッテル張りなのかもしれないと考えることも出来ますが、それを言い出すと一言もしゃべれない事態になりかねないので、ある程度は方便と見做しております。いかがでしょうか? 賛成・反対については、この場で論ずるべきことではないですが、私は双方一理アリ一害アリ、もっと議論を重ね、死刑あるなしに拘らない制度設計が出来ればいいと考える派です。ミーハーなのかもしれませんが。 あと、アスペルガーは保険診療や障害者手帳も取得できる「認められた障害」だと、私は考えています。私個人はアスペルガーで苦しむことが、実生活においてはさほど多くありません。症状も正直軽いというか特殊というか、アスペにしてはコミュ力というか、人と話を会わせるのは出来ている方らしいです。 「理解してくれ」とは言いませんが「否定はしないで欲しい」とは言います。苦しい人は、本当に苦しいですよ(私も、思索や状況対処では、苦い思いをしていますし)。 さらに言うと、私個人としてはアスペだと公開することで、見下す人が来てくれるなら、それは大歓迎ですよ。そういう人たちが、どんなことを考え、どうしてそういう態度をとるのかを理解するいい機会ですから。 現実の付き合いでは、そういう実験めいた付き合いはし辛いですが、ネットの場は一期一会、もし本当に嫌なら安易に逃げ出すことも出来る空間だと考えています。ここで知識と対策を得ることが出来れば、実生活での対応も幅が出来ますからね。 そういう意味では、前回の回答の削除の部分、とても残念に思います(内容を見る前に削除されていたので余計です)。 回答ありがとうございました。

noname#197347
noname#197347
回答No.11

>やはり異様に見えるものなのでしょうか? 「アスペルガー症候群」そんなものがあるなんて知りませんでしたし、Wikipediaを読んでも意味がよく理解できませんでした。 そもそも「本音と建前」を使い分けるなんて、あくまで自分の都合のいいように解釈しているだけの話であって、何も深く考えているわけではありません。 それに「本音と建前」を使い分けることが、正当化される国なんて私が知っている限り、日本だけですよね。 他の国はすべて仮に建前論だとしても「言ったこと、やったことがすべて」です。 わかりやすく言えば、「こんなことを言いたくない」って言って許されるのは、日本だけです。 他の国ならば「言いたくないのならば、言うな。自分の意見に責任を持て」これで終わりです。 当然誰にでも「本音と建前」は存在します。 でも、その中で自分の考えを述べることが「自分の意見」でもあり、「責任のある意見」となるのですが、日本では「建前論」ならば全然責任は伴いません。 「俺だって、こんなことは言いたくない」からです。 ですから、日本の「本音と建前論」なんて、実にいい加減なものです。 ----------------------------------------------------------------------- 本題です。 そもそも「命の重さ」は、みな同じではありません。 これでほぼ質問者さんの悩みは、解けるのではないでしょうか? 日本人は「本音と建前をうまく使い分けている」なんて、愚かな事を考えているからこそ、話がおかしくなってしまうのです。 まず、「命全般」で言えば 「人間>野生動物>家畜」となります。 人間が生きていく上で、栄養バランス、食欲を満たす上で、動物の肉などを食べるのは仕方が無いので、まず家畜に関しては「そのためのものとして、ゴメンなさい」って、感じです。 そして、それ以外の動物に関してはやはり「大きさ」が影響しています。 たとえ、蟻の巣があってもそこに平気で家を建てたり、アスファルトで固めて道を作ったりしていますからね。 さらに、「殺さないで済むものは、なるべく殺さないようにしよう」というのが、あります。 その代表格が「鯨」です。 日本は「反捕鯨」に反対していますが、この前までは「日本独自の文化だ」なんて言っていたかと思えば、最近では「他の国でもやっていること」なんて、論調を変えましたからね。 まさに、日本独特の「本音と建前」の世界であって、「結局、捕鯨さえ続けられれば、どうでもよい」のです。 そして人間で言えば、普通は自分が中心であり、そこから近い人ほど優先順位が高くなります。 ですから、特に日本では、中国や韓国の命なんて軽く考えているのです。 (但し、憎んでいる人に対しては、身近な人ほど命は軽く考えます) 「アスペルガー症候群」本当にそんな病気(?)があるのですかね? 私は、普通の日本人の方が余程「猟奇的」だと思いますけどね。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 普通の方は、本音と建前を使い分けるのに、そんなに意識していないのでしょうか? 私は、本音系統の会話経路と建前系統の会話経路の二本立てで運用していて、建前を使っているときは、無難な言葉や表現を高速回転で検索しています。意識して、注意して建前を使っています。正直に言うと建前=「嘘」という認識すらあります。 もしかしたら、問題の入り口から違うのかもしれないと考え始めています。 外国なら、建前と本音の乖離が日本ほど多くないという話は良く聞きますね。でも実際はどうなのでしょうか。私は、何となくですが、結局はその地域の「暗黙のルール」に則った生活をしないと弾かれるという点では、五十歩百歩な気もします。海外では、宗教の素養も絡んでくるでしょうから、日本とは別の意味で「本音と建前の使い分け」が難しいのではないでしょうか。それ以前に、私の残念な外国語能力では、たぶん生きていけません… 回答ありがとうございました。

noname#246942
noname#246942
回答No.10

No,9です。補足拝見しました。 自分は、君とは対象に、物事を非常に曖昧に表現したがる癖があるからね(笑 でも、だからこそ、君とはバランスが良いのかも知れない。 >ただ自分の卑しさも承知していますので、現在の段階で、理想のように行動出きるか、自信がなく、自分の命が一番大事と申しております。これは実際、実行して実績ができるまで、変わらないと思います。 自分も同じく、そう思う。 そして、恐らく大抵の人が、そうなのだろうとも思う。 ただこの時点で、どれが本音で、どれが建て前なのか、自分でも分からなくなるのではないだろうか? 例えば、「本音と建て前」を使い分けるには、自分自身でそれを「自覚」している必要がある。 ただ大抵の人は、恐らく、自分が本音を話しているのか、建て前を話しているのか、いちいち自覚などしていないと思うんだよ。 「建て前」は、決して「嘘」などでは無く、どちらかと言えば「理想」に近い。 しかし、その「理想」も、時として「本音」になる時があり、その「本音」もまた、必ずしも「現実」になるとは限らない。 ふふ、何だか自分で書いてても、非常に混乱する内容だな。。。 ただ、人間社会では、常に「理想と現実」が混在しているだろう? その結果、そこで一体何が生まれるのだと思う? 「人間」には、他の動植物では決して起こり得ない、「矛盾」と言うものが存在するんだよ。 分かるかな? 君が抱えている「モヤモヤの正体」は、きっと「矛盾」そのものなのではないかと自分は思うのだが、どうだろう? 大抵の人間は、自分の中に存在する「矛盾」を、明確には出来ないものだ。 だから、そこに気付いても見て見ないふりをしたり、逆に受け入れては開き直ったりするんだよね。 自分は、アスぺと言うものがどういうものなのか、あまり良く分からないけど、君の場合は、ただ他の人よりも「矛盾を無くしたい」と言う思いが強いだけの話ではないかと思うよ。 それと、補足にあった「問題からの距離の取り方」「主観と客観のバランス」についてだけど、自分は頭が良い訳ではないから、また抽象的なアドバイスに徹底してしまうのだけど、例えば、「遠視」と「近視」の関係に似ているのではないかと思う。 近視の人は、遠くのものが見えないから、近くまで行って物事を正しく判断しようとするだろうし、遠視の人は、近くのものが見えないから、少し離れた所で、物事の正しさを判断しようとするだろ? 問題から、どれだけ正確な距離を取ればいいのかは、まずは自分自身がどっちに属するのかを見極めなくてはいけないのではないかな。 例えば、君の質問は、すごく冷静で建設的な質問だとは思うが、その分、すごく熱心で、同等の脆さを感じる部分もあるんだよね。 自分は「自分の考えや答え」が、核心に迫れば迫るほど、逆に「全体の考えや答え」から、離れて行くように感じるんだよ。 一つを見れば、全体が分からなくなるし、全体を見れば、一つが見えなくなる。 だから、常にそこら辺のバランスを取るように意識しているんだけど、そうしている内に、いよいよ「明確な答えが出ない」事に気付く訳だ(笑 だから、いつも曖昧で、抽象的な答えしか、自分は出来ないでいるんだよね。 君は「妥協」と言う言葉を嫌うかも知れないが、結局の所、矛盾を抱える人間の妥協点としては、「自分に責任を持てる」範疇での答えしか、人は出せないのかも知れないよ? 本当にグダグダな回答になってしまったが、久々に面白い質問だった。 自己満足のまま、終わらせて頂きます。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 仰るとおり、私は対象をぼかす癖があるようです。正直、今回の質問で問題を正面から見据える勇気が無かったとだと思います、だから、外堀を埋めつつ、最小の被害で時間をかけてと、及び腰の質問となりました。補足の書き込みは、正直恥ずかしい気持ちで書きました。 私自身も、自分のモヤモヤの正体が「矛盾」であろうとは、想定していました。たぶん、ご指摘の通り私は「矛盾」を無くしたいのだとおもいます。白黒付けたがるアスペルガーの特質なのか、生来の気性なのか悩ましいところですが、私は自分の中で、社会の中で矛盾があることが、落ち着かないのでしょう。なぜなら、自分の能力は「矛盾の存在を明らかにする・受け入れる」部分が決定的に欠けているからです。たぶん、分析や理解の能力と比べると絶望的に劣っています。もし、矛盾を受け入れてしまえば、理解も対処も困難な事柄に取り込まれてしまうという恐怖感から、それを突っぱねているのが、現状なのだと思います。 なので >例えば、「本音と建て前」を使い分けるには、自分自身でそれを「自覚」している必要がある。 ただ大抵の人は、恐らく、自分が本音を話しているのか、建て前を話しているのか、いちいち自覚などしていないと思うんだよ。 「建て前」は、決して「嘘」などでは無く、どちらかと言えば「理想」に近い。 しかし、その「理想」も、時として「本音」になる時があり、その「本音」もまた、必ずしも「現実」になるとは限らない。< の発想は、まったく思いつきませんでした。確かに、言われればその通りだと納得しますが、そこまでたどり着けるのが凄いなと、素直に思います。 変な例えですが、私の考えを裏から見ると、こう見えるのかなと思わされました。とても柔軟な思考をしておられますね。うらやましい。 お礼を述べれば、まだ書ききれない事はたくさんありますが、あまり長すぎても蛇足となりますので、この辺で。頂いた回答、何度も読み返し、自分の思考に取り込めるよう努力したいと思います。 ありがとうございました。

回答No.8

 「身近な人の死と、見ず知らずの人の死は等価ではない」   有名人の死は驚くけど、それほど悲しくはない。身近な人の死は体が憔悴するくらいこたえる という経験や説明が伴えば、たぶんこのことを人前で言っても、顰蹙をかうことはありません。  どこまで人前で言ってもいいか、普通の人は差しさわりのあること(言ってはいけないこと)に敏感ですが、アスペの人は差しさわりのないこと(言ってもいいこと)がよくわからないということなのでしょうか。  「身近な人の死と、見ず知らずの人の死は等価ではない」 は人前で言ってもいいんですよ ということです。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 経験や説明が伴えばそうだとは思います。私も職場の人と有名人の訃報を話題に上げることもありますから。ただ、それは「某有名人の死」と 「身近な人の死と、見ず知らずの人の死は等価ではない」を結びつけることではないのでは?とも思います。例えば訃報の話題に「代わりに○○が死ねば…」と付け加えると、よほど共通の認識のあるグループで無い限り、眉をひそめるのではないでしょうか。まあ、品性の問題な気はしますし、正直論点ぼかしですが、状況次第で、同じ言葉でも受け取り方が違ってきますよね。 アスペルガーの一般的に言われる症例の中には、そういうのがあります。複数のグループ間で、共通の認識と別々の認識、これが暗黙のルール(空気)となっている場合、読み取れないことが多いです。結果aグループでは問題が無く、同じ事をbグループでやったら問題が起きた。となります。 私の場合、それを防ぐために、こうした質問で、予備知識を増やすわけです。 なので、「身近な人の死と、見ず知らずの人の死は等価ではない」 は人前で言ってもいいんですよ ということです。の件はそういう場合もあるよ、と受けとらせていただきます。 回答ありがとうございました。

noname#244637
noname#244637
回答No.7

前のご質問も拝見致しました。 他の回答者様のアンサーも、それぞれ成る程と思えたのですけど、私も何かモヤモヤ感を感じましたから、それが何か考えてみました。 あなた様は、命が失われた時に悲しみの有無や深さで、命の重さの感じ方が違うという事を主張されていますねぇ。 まだ幼い子供さんが事故で亡くなられた、他方百歳のお年寄りが老衰で亡くなられたとしますね。 一般的に幼い子供さんは、まだ若いのに可哀相ご両親も哀しんでいるだろうと悲しく感じますが、片やお年寄りは畳みの上で大往生されて、本人もご家族も本望だったろう(介護の大変さも知らずに)と感じるでしょうねぇ。 あなた様は、この二人の命の重さが違うのではないか?と疑問に思っておられる訳ですよね? また、あなた様の知らない世界中の人達が、毎日亡くなられておりますけど、あなた様の理屈からすると、ご自分の認知していない命には感情が働かないから、全く重さを感じる事が出来ない=だって知らないのですからねぇ。 言い換えれば、自分の感じる(知覚、認知)悲しみの感情の深い浅いによって、それで命の重さを決めているのは、あなた様ご自身に他ならないという事です。 そして、この私は幼い子供さんも大往生したお年寄りの命の重さは同じと感じる人間です。 確かに、可哀相と感じる度合いは違いますけど、その感情によって重さは変わりません。 罪を犯した憎い人には、死んでほしいと思う感情と、愛する人に長生きしてほしい感情が、イコール人間の命の重さを決める事になるのでしょうかねぇ? 亡くなった人に関わった立場によって、相対的な感情(命)があり、自分の知らない人であっても命には普遍的な重さがある、という事だと私は理解しております。 見ず知らずの人間に対しては、自分が直接的間接的に関わらなければ、悲しみどころか喜怒哀楽の感情が起こらないのは当たり前です。 そもそも、悲しみの有無や深さで人間の命の重さを量ろうとする事に、無理があるのではないでしょうか?

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど確かに、「重さ」と「価値」は違うのかもしれません。私はたぶん「価値」の方に重きを置いて文章を構成していると思います。 回答者様の命の普遍的重さとは、具体的に何を指しておられるのでしょうか。文面から愚考するに「社会的価値とは一線を画した、個人の内面における重要性」つまり「個人にとり命は一つ限りで、代替が無い。これは全てに生命に等しく同じ」と読み取りましたが、いかがでしょうか? もしそうであれば、私も同じ考えだと思います。 ただ、私の場合は自分(主観)を一旦通さないと、物事を理解できない傾向があると認識しています。なので、他人の命というものも「自分から見た重要性・関係性」で判断してしまうのだと考えます。 定常発達の方ならば、この辺が本当の意味での客観性で判断できるのでしょうか。 正直、私は頭では「普遍性」を理解できつつも「価値」で命を判断しようとして「モヤモヤ」が出来ている状態です。 回答、参考になります。ありがとうございました。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.6

おじさんです。 ご質問をゆっくりと読み、率直な感想を書きます。 最後の1,2,3,4の疑問点を分析することによって、どのようなことが開けてくるのでしょうか。 といいますのは、それらを分析してもあまり意味がないと思うのです。 もっと毎日が楽しくなるような思索対象を探したほうがいいと思いますが。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 質問の1234は、私の考えでは「外堀」と考えています。他の方の補足で書きましたが、私が真に知りたいのは「モヤモヤ」の正体、矛盾の発生原因です。ただ、今の考え方が、本丸を一気に攻めるには弱い気がして、少し迂遠な質問としています。 自分の考えてと、定常の方の考えの相違点と共通点を洗い出し、分析し、間違いがあれば方向性を正すという意味で、今回の質問も多いに意味はあったと考えています(正直、補足の内容は、私の心の叫びです。痛かったです)。 これはこれで、楽しいですよ、考えるの。よく胸を掻き毟ったり、叫びだしたり、時々死にたくなる様なこともありますけど… 回答ありがとうございました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.5

”この本音を、例えば大勢の人の前で発言すると、たぶん顰蹙を買うと思います”     ↑ 果たしてそうでしょうか。 飛行機が墜落して、マスコミが真っ先に報じるには 日本人犠牲者が存在したかどうかです。 殺人の量刑には遺族の想いも考慮されます。 ”1 命の価値に関しての建前と本音の違いを皆さんは、自分自身に  どう説明しておられますか?”      ↑ 命の価値なんてのは、人間が勝手に造ったものに 過ぎません。 そんなものはご都合主義です。 だから、殺人はダメだが、死刑執行や戦争で 人を殺すのは可、ということができるのです。 2 命の価値に関する建前と本音の間の曖昧さが、  気にかかることはありますか?      ↑ ありません。気になりません。 どうせ、人間は必ず死ぬのです。 何十億も死んで来ました。 そんな命が至高であるはずがありません。 命は手段であって目的ではありません。 命をいかに有効適切に使うか、という問題が あるだけです。 3 社会の中のこうした建前と本音の「違い」と出くわしたとき、  皆さんはそれをどのように捕らえているのでしょうか?      ↑ どうして建前が必要なのかを考えるべきです。 本音を言うと、相手を不快にさせるからです。 その結果、自分が悪く思われたりするからです。 つまり、本音が醜いから、自分もそれを知っているから 建前を駆使するのです。 建前と本音の乖離が苦しいなら、清く正しい本音に 修正すればよいのです。 そういう努力をすれば良いのです。 孔子も70歳になって、やっとその境地になれたと 告白しているではないですか。 「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」 (論語) 4 このようなことを、真剣に考えても理解できない私は (アスペですが)普通の方から見ると、やはり異様に見えるものなのでしょうか?          ↑ 正直に言いますと、異様とまでは思いませんが マジメ過ぎる、少し変わっているなあ、と 感じます。 ただ、こういうことを真剣に考えられる、ということは 得がたい素質のようにも感じます。 私には真似ができません。 勉強を更に深めれば、素晴らしい境地に達することが できるかも知れません。 だからアスペの人に著名人が出るのかもしれません。

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 飛行機の件については、私も以前は疑問に思っていたのですが「公益に資する目的」という説明で納得した覚えがあります。報道の目的は命の軽重ではなく、国内の社会的事情(関係者への情報提供)を目的としていると理解しています。どうでしょうか? >命は手段であって目的ではありません。 命をいかに有効適切に使うか、という問題が あるだけです。 とても意味深い言葉だと感じました。また、本音と建前を矛盾が無いように統合していく考えも、凄いと思います。そのようになれるよう努力しなければ。 回答ありがとうございました。

  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1701/4759)
回答No.4

簡単に言っちゃうと結局のところ、目的を書かれていません 前回の質問は、価値観についての判定だったと思いますが、今回は違います 目的、つまり・・・ (1) どのように思われても良い (2) 良い人間と思われたい のどちらですか?という、二者択一を求められているのでしょうか? 気の知れた相手なら本音で話をしますし、真意を汲み取れないような(関係)相手には建前です そのような回答しか、できない質問かと思います

noname#208590
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 補足にも書きましたように、今回の質問で私が知りたいことは「モヤモヤ」の正体です。外堀を埋めていく中で、その正体に迫る意図で、本意より少しずらした部分で質問していました。申し訳ありません。 でも、私の中に、良い人に思われたい・自分は常識人と思われたいという思いが強いことも事実です。その思いが、質問ににじみ出ていたかもしれません。 回答、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

noname#208590
質問者

補足

回答ありがとうございます。 取り急ぎ補足のみさせていたただきます。 今回、私が知りたいのは、モヤモヤの正体です。知識としても、感情としても、ある程度わかっているはずののに、どうしても腑に落ちない理由が知りたく、質問した次第で、命の価値そのものは、各論あるいは目的を達するための道具と思っていただいて結構です。 主文が不明確で申し訳ありません。

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