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特攻隊の祖父への質問

祖父は特攻隊の生還者なのですが、高齢で92になります。体も頭も健康なのですが何時他界してもおかしくありません。質疑応答で戦争時の記録を何とか残したいと思ってるのですが、どんな質問を投げかければいいでしょうか アンサーの皆様が聞きたい事でもかまいません よろしくお願いします

みんなの回答

  • r5305
  • ベストアンサー率28% (34/118)
回答No.10

私の祖母は今年96歳になります。 戦中は満州に暮らし、戦後日本に帰還した一人です。 夏になると、悲惨な戦争体験などの番組が放映されますが、当時を思い起こすので祖母は見たがりません。 しかし、当時のことを聞くと、けっこう話してくれます。 ペチカと呼ばれるかまど状のストーブで暖をとったとか、使用人だった地元の中国人は戦後も優しかったが、ロシア人は道の真ん中でもレイプするから家に隠し部屋をつくったとか、ロシア人はみな日本人から腕時計を奪って、片腕に何個も腕時計を巻いていたとか。 あるいは、近所に慰安所があって、知り合いの家の兵士が休日に家に帰ってくると、すぐさま財布(袋)を握って、慰安所に通っていたとか、慰安所に娘を売ったところ、最初は嫌がっていたのにやがてその商売が気に入って、借金を返しても慰安所から戻らずやがて客の一人と結婚したという(親の)話までも・・・ 特攻ともなれば、タブーの話もたくさんあると思います。 歳をとるほど、つらい気持ちに耐える心も弱くなっていきますから。 しかし、たとえば、三度の食事とかおやつは何を食べていたとか、服はどうやって洗濯したのかとか、水道のない中どうやって水を飲んでいたのかとか、風邪をひいたらどうやって治したのかとか、ヒマな時は友人と何をして過ごしたのかとか、カブトムシは多かったのかとか、カワウソを見たことはあるのかとか・・・当時の日常的な暮らしについて尋ねると芋づる式に思い出話が出てくることもあります。 特攻であっても、なつかしい思い出もあると思いますし、意外とつらい思い出も語ってくれるかもしれません。 うまく質問をつなげて、話を引き出してあげてください。 おじいさんも喜ぶと思います。

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回答No.9

A No.4 HALTWO です。 「語りたくない」というよりも「語れるほどのものではない」という場合もあるかと思います。 例えば「高度成長期の日本で xx の環境に育った爺ちゃんの話」或いは「暗黒の停滞期に青春を生きた爺ちゃんの話」を「特別な体験を期待しているんだぞ!」みたいな瞳で私達の孫から訊ねられても「いや、同時代を生きたみんなと同じような体験をしていただけなのであって、そんな特別な話を期待されても(汗)……」でしょうし、孫の時代と比較した考察をするには孫の時代に於ける社会常識にも理解を得る博識を要しますので……。 世代の異なる人と話せば解るとおり、人は世代にによって社会背景から影響を受ける常識も異なっています。 終戦時から現代の平和な日本社会に至る常識は戦争忌避であり、何か事件が起きた際には右往左往するだけで有益な対処を講じるための情報収集や考察などできず、事が済んでからの事後考察しか論じられない者が多いものなのですが、戦前から終戦までの激動の時代もまた、国民に戦争を忌避する者が少なかったからこそ何度も戦争を続けていたのであり、戦争であろうと日々の生活であろうと必死に戦って勝ち抜く以外に何の将来も見えない時代であった筈です。 特攻に特別な違和感を抱く現代の者が特攻隊員の生き残りに「何故、特攻を?」みたいなものを期待しても「福島原発事故以前から数々の事故を起こしてきたのに何故原発推進の政府に投票を?」みたいな質問をされるようなもので「国家や国民全体の方向性を作りだした事象に対して、いくら大きく関わった世代とは言え、個人にそんな大きな話題を振られてもなぁ(汗)……」ではないでしょうか。 こういう例えは上手い例えではないかも知れませんが、原発の電力を受けることを拒否できるわけでもなく、その電気がなければ豊かな暮らしを得られないので、原発が作り出す電力を日々購入して生活している我々が、原発など過去のものとなった Clean Energy の世界に育った後生の若者に「原発って?」なんて聞かれても年長者らしく啓蒙的な話などできないようなもので、戦争をせずに生きることなどできなかった時代に栄えある皇軍の士として特攻に殉じようとした若者の心情を現代の若者に理解させるのは不可能でしょう。……大袈裟に言えば、現代の書籍が啓蒙する様々な見方はいずれも当時の当事者本人の心情とは大きく乖離するほど歪曲された後付けの解釈に過ぎません。 極めて個人的な事象であれば話せることも多いでしょうが、それを当時の社会に普遍化した解釈をしようとしたり、現代の常識から考察を試みたりするのは大きな誤りです。……そうされる相手に対しては私だって話したくはないでしょうし、常識が根本的に異なる孫と疲れる論議などまっぴら、孫から変人の目で見られるのも嫌ですものね(^_^;)。 歴史は (中国や韓国とは違って) 少なくとも日本に於いては、事象そのものと発生した時 (年月日) を変えるものではないとは言え、事象の解釈は後に幾らでも変化するものですので、個人の体験談もそれを伝え聞いた者の解釈によって大きく意味付けが変わってきてしまうものです。 そのため、意味付けを求めて質問すべきではなく、当事者本人の解釈で良いから事象を淡々としてもらい、そこに何の偏見も向けずに歴史は歴史として受け止める……そのためには話したい事を好きに話させ、こちらの解釈は日々学習して知識が増えるごとに変化するものだと思ってありのままに情報を受け止める姿勢が大事なのではないかと思いますよ。 コツは「お題を決めて質問」するのではなく、日々の何気ないきっかけから古い体験談を誘導すること……例えば当時の銀幕女優の話から慰問公演の話、そこから部隊の話、兵器の話、訓練や実戦の話等々に繋いで行くような聞き方ですね。 いきなり「特攻は?」なんて、いきなり「原発は?」みたいなもので、話し始めるきっかけさえ思い付きませんので。 この手法では悲惨な体験などなかなか聞けないものですが、その代わり、現代の我々が想像できなかった、当時の活き活きとした当事者達の生活を話してもらえます。 でもまぁ、聞き手には聞き上手の性格を必要とされることも確かだろうとは思いますが(^_^;)。 頑張ってみてください(^_^)/

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回答No.8

「戦争に行ったことを思い出すと辛い?」とか、「戦争体験で、若い世代に話しておきたいことはある?」くらいのことから自由に話してもらって、聞いた内容から話題を広げるように質問していけば自然じゃないですか? うちの祖父は両方とも結核家系らしく、父方は結核で亡くなり、母方は結核でサナトリウムに入ったとかで、健康問題で徴兵されず、聞けるのは疎開の話くらいでした。

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  • KappNets
  • ベストアンサー率27% (1557/5688)
回答No.7

今の時代での話題としては (1) その時代の人のがんばりのおかげで今の日本があるという政治家などの意見をどう思うか (2) 中東では自爆が続いています。特攻隊の人の(内なる)気持ちとどう違うか (3) 中国政府は昨今の「日本の無反省・復古主義」を責めていますがどう思うか。若い中国人にどう語りかけたら良いか。 語りたくないという人が多いようですが、語らないのでは後世に何も残らないと思うので...

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回答No.6

どなたかが言われたように、話すのが辛い場合もありますね。 それだから、戦後から今日まで、戦争体験の証言が少ないのですから。 とりあえず、あの戦争ってなんだったのか?を聞かれたらどうですか。 話したいと思えば、ポツポツとでも話すでしょうし、嫌なら沈黙するでしょう。 戦争というのはそれくらい悲惨で、自らも思い出したくないものが多いのですよ。 どんなことでもいいのではないでしょうか。

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回答No.5

私の父は昨年87歳で他界しました。 特攻隊の生き残りです。 戦争のことはほとんど話しませんでしたし 聞いても話すことを嫌がりました。 私の祖母が生きていたころに聞いた話として 大学の理工学部の学生で兵役猶予だったのに 同級生の文系の学生が学徒動員されるのをのをみて 大学を休学して海軍に志願したようです。 私の父は長男一人息子だったので祖父が 勝手なことしてと大変怒ったそうです。 父が話した数少ない戦争体験として木更津で訓練をうけた後 九州に派兵されたそうです。 しかしその頃は沖縄も陥落しており、沖縄から戦闘機や 爆撃機が特に空港には徹底的に空襲をし 特攻機に乗る前に空襲でたくさんの兵隊が命を落とし その場で火葬したようです。 その時亡くなった戦友の母親が息子の死を信じず しかも占い師が貴方の息子は南方の島で生き延び 帰れるようになるのを待っていると言われ頑固になっているので 見たことをその母親に話してやってほしいと遺族に頼まれて 話したようです。 するとその母親は「なんでそんなでたらめを言うのや、 もし息子が死んだならなんでお前は生きているのや」 って罵倒され土下座して謝ったようです。 大学を休学してまで特攻隊に志願した父でなく 本当に謝罪しなければならない人がいると私は思いました。 多かれ少なかれ特攻隊の生き残りと言うのは大変つらい思い出を 持っているので言いたくなければ聞かぬが花だと思います。

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回答No.4

私の父も大学から学徒出陣で海軍に入隊し、外地の航空基地に配属されましたが、基地は特攻基地ではありませんでした。 生きていれば 91 歳ですから御質問者さんの御祖父様と同時期ですね。 幸か不幸か、父は悲哀の想いを息子達に伝えることなく他界し、几帳面で正義感に篤く勇ましくて格好良い帝国軍人の Image と調子っ外れの軍歌を子供時代に植え付けられた息子達は皆右寄りの思想を育んでしまいました(笑)。 勿論、陸軍に入隊した実兄が戦死していることからも、辛く、悲しい経験が多々あった筈なのですが、父からはそんな悲しい体験を聞いたことは一度もなく、定年後の父は軍人時代の同窓会に行っては上機嫌で帰ってきていましたね。……私は未だに父から貰った軍人会の手拭いを持っています(^_^;)。 戦争という切り口から見れば……そんな切り口から記された書籍がたくさんあることからも……個人の体験にもそうした切り口からの話を聞きたがる者が多いだろうと思いますが、父の思い出から考えるに、そんな話は殆ど聞けないだろうと思います。 ……と言うのは、学徒出陣した父は、当時、大学生でしたので 20 歳程度の年頃です。 高校生 (当時は中学と呼んでいましたが) が受験勉強して大学合格後、戦争が始まり、数年で学徒出陣、訓練を受けて配属されたと思ったら終戦 (特攻隊員は訓練を受けて配属されたと思ったら特攻機に乗る羽目になったのですが)……ハタチそこそこの男の子だった方に質問者さんはどのような難しい体験談を聞こうというのでしょうか? 今の大学生に何かを聞いたとして、どれほど有益な答えを期待できますか?……例えば、今の東大生にどれほどの答えを期待できますか?……東大から学徒出陣した父でさえ、あんな感じでしたし……(^_^;)。 生き残って社会に出、世界を相手に Business の現場で苦労して、退職して暇を持て余すようになった父は様々な書籍を読み漁って、何やら独自の思想感を固めるべく毎日のように Word Processor に向かっていたのですが、結局、息子達に伝えるべく論文を完成させるには至らなかったようで、60 歳、70 歳、80 歳を超えても「xx の手習い」の如く勉強していましたね。……具体的に言えば「正論」などの雑誌を読んでは感想文みたいなものを Word Processor に打ち込んでいました(^_^;)。 そんな歳になった方の現代に対する一家言は深みがありますが、ハタチそこそこの頃の体験なんて深みを期待できるものではありません。……父の体験談も戦時下だったというのにバンカラ風の面白可笑しい体験ばかりでしたし……。 「何かを期待して聞き出す」というのではなく「中味は何でも良いから残したい想い、受け継いでもらいたい記憶」を綴ってもらった方が良いのではないでしょうか? 綴ってもらったものの中に特攻隊員としての想いが入っていなくても御祖父様を責められるものではないでしょう。 兄を戦地で亡くした父もそうですが、御祖父様も「自分の胸の中に蔵ったまま逝きたい」とするものがあるでしょうし、そのことを責める権利は我々にはありません。 私の場合、父が伝えてくれた戦時の話は悲哀の話など何一つなかったのですが「今となっては笑い話」みたいな話を後になって当時の社会状況についての学習知識で肉付けすると「大変な苦労をしてきた」のだということがよく解ります。……尤も、当時ハタチそこそこであった父本人はハタチの男の子が持つ感覚で乗り切ってしまったのですから、現代の我々が勝手に想像するような重々しい、深遠な考察による感覚を伴っていたわけではない筈です。 質問ではなく、兎に角、無理をせずに、何でも良いから伝え残して欲しい……92 歳になる私の母は存命ですが、その母に対して私はそう願っています。……まぁもう子供時代から幼い姉の手を引いて引き揚げてきた時までの満州開拓時代での母の話はたくさん聞き出していますけれど(^_^;)。

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  • kuma8ro
  • ベストアンサー率40% (212/523)
回答No.3

あれ?特攻隊の生還者の方って、今80代後半じゃなかったっけ?ということで、年齢を計算してみました。 終戦の年に、23歳でおられたことになりますが、当時の学徒動員は20歳前だったという認識です。 昭和20年の特攻隊は、学徒動員で入隊し、すぐに特攻隊としての訓練を受けている間に終戦を迎えた方々が特攻隊からの生還者ということになります。 おそらく、そのあたりが、お祖父様への質問の焦点になるのではないでしょうか。 せひ、うまい具合に聴きだして下さい。

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  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11964)
回答No.2

こんにちは。 特攻隊の生還者なら、特攻で戦死した戦友に申し訳ない気持ちで当時のことは思い出したくないと思います。 私の、母方の伯父と父方の叔父も海軍で戦死してますが、私の父親は軍需工場の技師だったことで戦時中の兵役は免れたことに負い目を感じてたようで弟である叔父の戦死についての話題や両親(私の祖父母)を一夜にして亡くした東京大空襲の話題には触れたがらなかったです。 また、兄になる伯父の戦死についても母親は思い出したくないようで、沖縄特攻に向かった戦艦大和と運命を共に撃沈した軽巡洋艦矢矧に乗艦してた兄を思い出したくないのか、このような戦時中の記録番組などは視たがらないです。 このように、実際の戦争に関わったり兄弟の戦死を知り辛い思い出を持ってる人は当時を思い出したくないのか話題にしたがらないので、特攻隊の生還者という祖父様も辛い過去は思い出したくないのではないでしょうか? もし、質問に答えてくれるなら「なぜ生還が出来たか」と「生還後は軍からの扱いはどうだったか」を知りたいです。

yokoyamakthr
質問者

補足

祖父も辛い記憶であることは良く口にしています。ただ残ったものとして当時の記録を何か残したいようなのですがうまく筆も進まないようです。私自身が思ったくらいの質問には答えてくれますが、もっと掘り下げた質問ができないものかと思い投稿させて頂きました

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  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.1

志願してなったのか、否応なくもしくは一方的に決められたのか。 仲間が出撃するときの心境は。 終戦を知った時の心境は。戦後どうやって立ち直ったのか。

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