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特攻隊の祖父への質問

HAL2(@HALTWO)の回答

回答No.9

A No.4 HALTWO です。 「語りたくない」というよりも「語れるほどのものではない」という場合もあるかと思います。 例えば「高度成長期の日本で xx の環境に育った爺ちゃんの話」或いは「暗黒の停滞期に青春を生きた爺ちゃんの話」を「特別な体験を期待しているんだぞ!」みたいな瞳で私達の孫から訊ねられても「いや、同時代を生きたみんなと同じような体験をしていただけなのであって、そんな特別な話を期待されても(汗)……」でしょうし、孫の時代と比較した考察をするには孫の時代に於ける社会常識にも理解を得る博識を要しますので……。 世代の異なる人と話せば解るとおり、人は世代にによって社会背景から影響を受ける常識も異なっています。 終戦時から現代の平和な日本社会に至る常識は戦争忌避であり、何か事件が起きた際には右往左往するだけで有益な対処を講じるための情報収集や考察などできず、事が済んでからの事後考察しか論じられない者が多いものなのですが、戦前から終戦までの激動の時代もまた、国民に戦争を忌避する者が少なかったからこそ何度も戦争を続けていたのであり、戦争であろうと日々の生活であろうと必死に戦って勝ち抜く以外に何の将来も見えない時代であった筈です。 特攻に特別な違和感を抱く現代の者が特攻隊員の生き残りに「何故、特攻を?」みたいなものを期待しても「福島原発事故以前から数々の事故を起こしてきたのに何故原発推進の政府に投票を?」みたいな質問をされるようなもので「国家や国民全体の方向性を作りだした事象に対して、いくら大きく関わった世代とは言え、個人にそんな大きな話題を振られてもなぁ(汗)……」ではないでしょうか。 こういう例えは上手い例えではないかも知れませんが、原発の電力を受けることを拒否できるわけでもなく、その電気がなければ豊かな暮らしを得られないので、原発が作り出す電力を日々購入して生活している我々が、原発など過去のものとなった Clean Energy の世界に育った後生の若者に「原発って?」なんて聞かれても年長者らしく啓蒙的な話などできないようなもので、戦争をせずに生きることなどできなかった時代に栄えある皇軍の士として特攻に殉じようとした若者の心情を現代の若者に理解させるのは不可能でしょう。……大袈裟に言えば、現代の書籍が啓蒙する様々な見方はいずれも当時の当事者本人の心情とは大きく乖離するほど歪曲された後付けの解釈に過ぎません。 極めて個人的な事象であれば話せることも多いでしょうが、それを当時の社会に普遍化した解釈をしようとしたり、現代の常識から考察を試みたりするのは大きな誤りです。……そうされる相手に対しては私だって話したくはないでしょうし、常識が根本的に異なる孫と疲れる論議などまっぴら、孫から変人の目で見られるのも嫌ですものね(^_^;)。 歴史は (中国や韓国とは違って) 少なくとも日本に於いては、事象そのものと発生した時 (年月日) を変えるものではないとは言え、事象の解釈は後に幾らでも変化するものですので、個人の体験談もそれを伝え聞いた者の解釈によって大きく意味付けが変わってきてしまうものです。 そのため、意味付けを求めて質問すべきではなく、当事者本人の解釈で良いから事象を淡々としてもらい、そこに何の偏見も向けずに歴史は歴史として受け止める……そのためには話したい事を好きに話させ、こちらの解釈は日々学習して知識が増えるごとに変化するものだと思ってありのままに情報を受け止める姿勢が大事なのではないかと思いますよ。 コツは「お題を決めて質問」するのではなく、日々の何気ないきっかけから古い体験談を誘導すること……例えば当時の銀幕女優の話から慰問公演の話、そこから部隊の話、兵器の話、訓練や実戦の話等々に繋いで行くような聞き方ですね。 いきなり「特攻は?」なんて、いきなり「原発は?」みたいなもので、話し始めるきっかけさえ思い付きませんので。 この手法では悲惨な体験などなかなか聞けないものですが、その代わり、現代の我々が想像できなかった、当時の活き活きとした当事者達の生活を話してもらえます。 でもまぁ、聞き手には聞き上手の性格を必要とされることも確かだろうとは思いますが(^_^;)。 頑張ってみてください(^_^)/

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