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特攻隊の祖父への質問

yuseikamenの回答

回答No.5

私の父は昨年87歳で他界しました。 特攻隊の生き残りです。 戦争のことはほとんど話しませんでしたし 聞いても話すことを嫌がりました。 私の祖母が生きていたころに聞いた話として 大学の理工学部の学生で兵役猶予だったのに 同級生の文系の学生が学徒動員されるのをのをみて 大学を休学して海軍に志願したようです。 私の父は長男一人息子だったので祖父が 勝手なことしてと大変怒ったそうです。 父が話した数少ない戦争体験として木更津で訓練をうけた後 九州に派兵されたそうです。 しかしその頃は沖縄も陥落しており、沖縄から戦闘機や 爆撃機が特に空港には徹底的に空襲をし 特攻機に乗る前に空襲でたくさんの兵隊が命を落とし その場で火葬したようです。 その時亡くなった戦友の母親が息子の死を信じず しかも占い師が貴方の息子は南方の島で生き延び 帰れるようになるのを待っていると言われ頑固になっているので 見たことをその母親に話してやってほしいと遺族に頼まれて 話したようです。 するとその母親は「なんでそんなでたらめを言うのや、 もし息子が死んだならなんでお前は生きているのや」 って罵倒され土下座して謝ったようです。 大学を休学してまで特攻隊に志願した父でなく 本当に謝罪しなければならない人がいると私は思いました。 多かれ少なかれ特攻隊の生き残りと言うのは大変つらい思い出を 持っているので言いたくなければ聞かぬが花だと思います。

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