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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「きれいごと」について)

「きれいごと」とは

noname#214841の回答

noname#214841
noname#214841
回答No.11

まことに丁寧な「お礼」ありがたうございます。 私がいちばん影響を受けてゐる書物は、聖書です。たぶんfrauさんとは、思想が異なるとおもひます。聖書のなかに、あれだけ「他者への愛」が説かれてゐるのに、聖書を人生の指針とする人たちが、一般的にいつて、日常生活でも品行方正とはほどとほく、歴史的にも戦争好きなのは、なぜか、長年考へてゐる問題です。その現時点での見解が、回答番号7です。もちろん、宗教にかぎらず、人間一般にあてはまるものとして、書きました。 論点を明確にするために、いつも極端な書き方をしてゐます。現実には、さまざまな考への組みあはせが必要になります。それに、自分の考へが正しいとは、思つてゐません。みづからの狭い世界のなかで経験したことをもとにしてゐるだけです。おそろしいのは、他者を排除する姿勢です。哲学カテゴリなのですから、議論や批判は、当然あるべきものです。反対意見があるからこそ、みづからの見解が成長してゆきます。 質問文にもどりますが、「きれいごと」なら、素直にそれを「きれいごと」だと認識することが必要なのではないか、と最近感じます。(ゆきすぎた)他者への愛が「きれいごと」だとわかつてゐれば、他者におしつけたりはしません。他の人たちも自分と同じやうに「他者への愛」といふ考へを受け入れなければならないのだ、さう考へることが、争ひの原因となります。(あくまでも、ゆきすぎた「他者への愛」についてです。私自身、聖書の記載を否定してゐるわけではありません。) 「きれいごと」はあくまでも「きれいごと」です。実践したら、滅亡します。軍備放棄した国家が簡単に侵略を受けてきた歴史は周知の事実です。夢は必要です。しかし、夢は自分で見てゐるもの、他人に無理やり見せようとしても、無理です。悪意で侵略する者は、まだかはいい。悪いとわかれば、引きかへすことが可能です。しかし、自分の心を見失つた状態で、善意と信じて実行する者には、あともどりの道が残されてゐません。これが、宗教戦争、そして、国家戦争、民族戦争の多くの原因ではないか、そんなふうに、考へてゐます。 私の意見がまちがつてゐるかもしれません。世間は広いもので、だれかれかまはず、ヤマシサを追及し、ウソだと弾劾し、オシエを説く、そんな人までゐます。私はいろいろな人から話を聞きたいと思つてゐます。もちろん、frauさんからも。

frau
質問者

お礼

私も常々思っているのですが、なぜキリスト教の人たちは、昔から自分が帰依している教えにそむくようなことをやっているのかということです。核保有国アメリカの戦争好きがまさにそう。 でもそれが >善意 ゆえだというところに、plapotaさん独特の考えがおありになる。 >他者を排除する姿勢 まったく同感です。恐ろしいのは個人のそれに加担する社会心理です。誰かが誰かを批判するのは仕方がない。しかし、よく考えもせずに同調したり、異種だからという理由で排除に加担する、そういう浅はかな心理です。 ネットの掲示板などは特に、匿名性が増長させ、そういう社会心理が蔓延しやすいところでしょう。 「ゆきすぎた他者への愛」というのは、心理学でいえば「共依存」です。泥船です。 >争ひの原因 愛は争いではないですよね。私は愛というのは、無我になることだと思ってます。 でも共依存の一部のような、「尽くす」ということは自己愛にすぎません。 自分がみたくない自分の弱さを互いに投影するのは、男女間に限らず、親子、上司と部下、教師と生徒など、あらゆる関係に通じることらしいです。ですから宗教と信者、国家間でも同じなのかなと思いますね。 それでも、人が人と共存していくときに生じてしまう仕方ない心理だとしたら、真の心の自立ということは本当に難しいことです。 でもそれに気づかず、皆それを「愛」という言葉を口実にしている。どんな関係でも愛という名のもとに悪を実践している。すでにその関係が形骸していようが。 そして「愛」を実践する人は無口でなければと思うんです。本当に実践できなければ愛もきれいごとですね。それは自他への欺瞞です。私は欺瞞がいちばん許せない。 「自分を愛せなければ人も愛せない」ということについても、心理的にいえば、自己評価の低さが原因で自分を守れない、大切にできないことから結果的に間違った愛を導いてしまう。 自分の弱さを相手への愛によって誤魔化してしまう。 そういうとき「他者への愛」がきれいごとになる。 自分への愛をまっとうできて、その結果として、自分を愛するように他者も愛する(これが聖書でいう「隣人を愛せよ」ということかもしれませんが)ことを実現できている人はとても少ないと思うのです。 (この愛は自己愛という意味ではないです。いきすぎた自己愛はむしろ争いを生むと思いますから) >「きれいごと」はあくまでも「きれいごと」です。実践したら、滅亡します。 だからこの世は不条理なのですね。不条理がこの世がある意義だとしたら、きれいごとがそのまま実現したら「この世のおわり」かもしれません。

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