「きれいごと」とは

このQ&Aのポイント
  • 「きれいごと」とは、理屈は正しくても現実には実現できないことを指します。しかし、実現可能なことを証明すればOKです。
  • 思想や哲学はすべて「きれいごと」なのか、それは実体験に基づいているのか疑問があります。
  • 「きれいごと」は慰めや勇気づけになるが、自分自身で体験して結論を得たものなのか、という疑問があります。
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「きれいごと」について

これについては知恵袋の方でも、よい回答をみつけました。 『理屈は正しくても、現実にその通り行うことができないことを、きれいごとと言います。 だから、「きれいごとばかり言うな」という人に対しては、それがちゃんと実現可能なことを 身をもって証明すればそれでOKです』 では、思想、哲学はすべてきれいごとなのでしょうか? それは机上の理論ではなく、身をもって体験されたことなのでしょうか? 確かに「きれいごと」は慰めにも勇気づけにもなります。 一方で単なる言葉遊びではなく、「それは自分で体験した得た結論なのか」という疑問もあります。 哲学ほど抽象的であれば難しいが、巷の様々な啓発についていろいろと試したいと思ってます。 そのため、「きれいごと」が期待していたものとは違うこともあると思いますが、 自分にとって真実だと思えることを選択していくため、また実現のためには、 どういう心構えが必要でしょう?

  • frau
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  • kanto-i
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回答No.16

全体の話しの流れから、綺麗事にもう少し前回よりも足したいので書かせて下さい。 ここは哲学ですので、よく戦争と平和や日本における自殺者問題や 宗教・思想、文化や経済など様々な話題が出ます。 理想は理想で実現できないことを「きれいごと」と 本来は言っているのだと思います。 日本語としての使い方は、そうですよね。 理想が実現できない範囲なら「理屈」だと思いますが 理想が実現できる範囲においては、理論になっていると思います。 たとえば自殺者問題。 自殺する人は、すでに孤立して内面が孤独になっています。 人との良い関係の繋がりが、しっかりとあれば自殺は防げます。 とういうか、自殺しないでしょう。 誰しもが、自分の隣にいる人といい関係を構築し互いに手を結んでいれば 自殺は起きないでしょうし、その繋がりが広がれば広がるほど 世界中の人が繋がって行きます。 世界中の人が互いを認めて繋がり合えば、戦争は起きませんし 経済も確実に上向くでしょう。 その根底は、自分を深く理解すること。 自らを知れば、仕事も含め人生において自身を活かすことが できるだけでなく、何が適切な選択かも理解できる。 それが叶えば、仕事は食べる手段に収まらず 高い労働力による高い収入や満足のいく労働にしていけるでしょう。 そのように変わって行くことで、搾取する者は減って行きます。 そこまで行けば、思想やシステムの問題より それを運営して行く側の問題(個が問題)だということが 多くの人の目にも明らかになってくるでしょう。 主義や思想が何であろうと、新しいシステムが発案された所で 裏で反していれば、いつまでたっても本当の意味で良くなることはないですからね。 自身が自らを理解して行くことが、世の中のために 大きく貢献できることであり、自分と周りが幸せになって行くことだと それが私が好きな「きれいごと」ですね。 自らを理解して自分の足で歩くのは、理屈ではなく 誰しもがそれぞれに十分叶えられる範囲であり 自身が、世の中が良くなって行く出発点だからです。 ですから理想を追っても、何も矛盾することは無いと私は思っています。 他者が与えてくれる幸せこそが、幻であり蜃気楼のようなものだと思います。 キラキラと呼ばれるものは、本来その幻や蜃気楼を 描いて追うなっていうことに繋がるのではないかと 個人的には思います。 そこに哲学的批判、つまりは問題をより高めて行く自問自答が とても有効だと思います。 それにより自らで、自分に磨きをかけていけるからです。 自己啓発は、そこで繋がってくると思います。 適切に使っていくことですよね。 本当はデキる自分が、真の理想として持ってるものだと 個人的には思っています。 余談ですが、純粋理性批判は「純粋理性哲学自問自答」とすれば 日本人にはわかりやすいと思えます。 が、漢字ばかりで長いです(笑)

frau
質問者

お礼

>理想が実現できる範囲においては、理論になっていると思います。 私もそう思うのです。理論というのは、万人に共通する普遍的なものです。心の整理ができていないとき、問題にぶつかったときに救うのは「理論」です。 その理論こそが哲学だと思っていますから、「きれいごとというのは哲学なのか」というこの自問についてはイエスという答えになるかと思います。 ですから「きれいごと」というのは、その人の経験からくる答えを濾過した理論ですから、万人といえなくとも、誰か一人のためにはなると。たったひとつの真実を、不特定多数が適用するか、それともそのように、たった一人が適用するかは本人の意思によりますから。 >いい関係を構築し互いに手を結んでいれば もちろん同意します。一方でノーともいえます。 昔、死後の世界を「純粋に」知りたくて山から飛び降りた少年の話を知りました。 もちろん私は彼のことは知らないので、真意はわかりません。でもこのエピソードにはすごく衝撃を受けたのです。だから今でも鮮明に「記憶した」ということを覚えています。 彼は純粋に死にたかったのかもしれませんが、実は孤独に悩んでいたため、自殺の理由を彼にしか分からない事情のための口実にしたのかもしれない。それでもその口実が、いかにも厭世の美に包まれていて、彼の考え方は、私の中では自殺肯定の根拠となっています。 そうでなくとも、私は自殺について、本能的には当然誰も死を恐れているなど考えていません。むしろ「生」の方が「死」よりも険しい道です。それを否定するときに、自殺は罪だという(根拠のない)考え方がありますが、死を忌むべきもの、もっとも恐れるべきものだと考えている人たちが、自死者に自分の恐れを投影して「罪」だと考えていると思うのです。 いわゆる「死にたいは生きたい」ですね。 その切実な気持ちを誰からも顧みられず「死」を選ぶのでしたら、自死者を責めるのは死人に鞭をふるうようなものです。 ですから「自殺は罪」だという人間も、仮に「自分でそれを実行できないことがきれいごとの真実」だとしたら、それこそが「きれいごと」だと思うのです。 >自分を深く理解すること。 そうすれば労働環境もよくなる、というお考え、私もまったく同意します。 天職をまっとうしている人は、この世でもっとも幸福だと思います。生きるためにしなければならないのが仕事。でも「人はパンのみ生きるに非ず」と言われているように、目先のことだけでは心は満たされない。 どうせ、労働という険しい道を、自立する人間が誰もが歩まなければならないのなら、どうせなら、本当にやりたいことをやればよい。それが人生の幸福を満たす。自分がやりたいことをやれないストレスを他人で投影することはない。それには自分を知るべきだ、と思うのですが、学校教育では「我を知る」という教育がなぜなされないのかと思うのです。 偏差値や、社会の考える労働論、つまり質的なことを押しつけられ、質的なことを教え、考えさせる教育はまったくなされてない… 話がそれていきますが(笑)要は自分は自分で育てるということではないでしょうか。すれば >搾取する者は減って行きます。 と思うのです。資本家も民主主義も、自由が本質です。しかし一握りの自由人で、多くの人が奴隷化されている。皆同じように平等の国で生きているのに。 だからここは、状況にまどわされない確固たる自分を持つべきだと思うのです。特に日本人は長いものに巻かれたい人種。巻かれないと決意した人間は容易く搾取されることを自分に許さないと思うのですが。 >他者が与えてくれる幸せこそが、幻であり蜃気楼のようなもの それが世俗的な幸福ですね。お金、名誉、地位、権力…なぜあまりにもこうしたことが持ち上げられ、それが幸福の本質だという考え方がありふれているのでしょうか。不幸は複雑怪奇で、むしろその中に本当の幸福があるかもしれないのに… >自問自答 誰かの幸も不幸もここにかかっていると思いますよ!

その他の回答 (17)

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.18

お礼、ありがとうございます。 >たったひとつの真実を、不特定多数が適用するか、それともそのように、たった一人が適用するかは本人の意思によりますから。 それでいいと思います。 多数が適用する必要も、特に無いと思います。 何故ならば、自分を理解して行き自分の答えを自分で持つのが その人らしさだと思うからです。 あえて書かせてもらったのは、自分を理解した人が同じ所にたどり着いた もしくは、同じような話しを何処かで読んだなどが無いものか? という思いが湧いたからです。 私は、自殺を否定・肯定や罪だとするのではなく 哲学カテゴリでよく話題になるということと 個人的には「もったいない」と思っているからです。 生きてさえすれば、楽しいや嬉しい体験をするチャンスがある。 自殺は、生きていれば味わえるかもしれない 喜びや嬉しさの体験を自分から自分が奪う行為に思えます。 何度も死にそうになり、偶然にも助かり生き延びたからでしょうか。 死にたいは、生きたいだと知っているからでしょうか。。。 死は、必ず誰にでも訪れるものですから楽しめるうちに 楽しんでおこうというのが、自分の今の生き方で有り 他者が同じでも違ってもいいと思っています。 誰しもが、生きたいように生きる自由を 今の日本に生きているというのは 多くのチャンスがあると思うのです。 自身を理解すれば、それもみえてくるものだと思うのですけどね。 >話がそれていきますが(笑)要は自分は自分で育てるということではないでしょうか。 その通りです。 全然それておりません。 自分を育てて、自由を与える。 所謂きれいごとをやって行く人が増えれば 黒人奴隷が解放されたように 時間とともに、人間の心も解放されて行くでしょう。 自由は、行動に矛盾がない方向を示してくれます。 未熟が減るようにやって行くだけです。 誰しもが自分の答えを見つけられるようになることを願います。 大切に思うのは、その点だけです。

frau
質問者

お礼

>自分を理解して行き自分の答えを自分で持つのが その人らしさだと思うからです。 自分探しの旅の終わりこそ「自分らしさ」かもしれませんね。 >あえて書かせてもらったのは、自分を理解した人が同じ所にたどり着いたもしくは、同じような話しを何処かで読んだなどが無いものか? これは私もまったく同じ想いです。 結論に対する確認でしょう。そして同じ発想や想いの人をみつけると嬉しいものです。 とくにネット時代になり、こうしてテキストだけですが、一方的に閲覧したり、会話をしたりして、そういったことを確認できるのは幸福なことです。

回答No.17

 理屈はどんなに正論であってもそこから具体的な実践へとつなげる段階で、TPOや人生のフェイズあるいは個人的な諸事情の要素等が絡まって、実行の困難度や重要度が決まってくるのが現実だと思います。「正論には個人差に応じた運用が必要だ」ということを頭において自分なりの咀嚼を加味することが大切になるのではないでしょうか。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >実行の困難度 そうですか…でも大衆を巻き込んで実行しているものがあります。「24時間テレビ」がその一つです、今年も告知されてたので、もしかしたらこれぞ、テレビ界の大きなきれいごとかと思ったので。 海外では、何かのチャリティに出演するとき出演料はもらわないそうですが、日本は違うようですね。あと募金の使途不明も含めて、いろいろと批判されているようですが、それが事実としたら、チャリティに純粋な目的を求めている人間からすればまさにきれいごとでしょう。いや、きれいごとを超えた偽善かもしれませんが。

  • Mychuo
  • ベストアンサー率23% (8/34)
回答No.15

お礼ありがとうございます。 追記になります 「理屈が正しければ現実にも反映される」というのは、その場合の理屈の正しさというものを、どの程度の尺度で捉えているかによります。 それこそほんとうに正しいものであれば、その理屈を考えた当人の中に疑いは消え、悪い意味でくすぶる必要が無くなり、行動や実行に移りえる。 ひいては、それは周囲にも言えることですね。 また、経験をして得た理屈かどうかということですが、 哲学や思想は、それを考えるとき少なからず経験は関係しているのかもしれませんが、それを全て自己経験と関係させることができるか、ということが、どういうことなのか、それが重要なところではないかと思います。

frau
質問者

お礼

>その理屈を考えた当人の中に疑いは消え 信頼性や妥当性ということですね。分かりました。 補足回答ありがとうございます。

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.14

他人に自分を良く見せるためや、自己欺瞞のための、口先だけの理想論は、きれいごとになってしまうでしょう。 たとえ現在、実現できていなくても、少しでもそれを実現するために行動を続けているのであれば、それは、信念となって、いつかは実現するでしょう。 あるいは、自分が生きている間に、それが実現しないとしても、その可能性を信じたい。 ありのままの自分で生きることができれば、こんなに身軽で、自由な事はありません。 自分自身をも欺く、ごまかしや嘘で、他人に見せるための理想的な自画像を作り、その中に閉じ籠もっていないだろうか?ということを常に自問自答することが大切でしょう。 そのためには、自分の醜い姿を自分自身で認め、それを他人に対しても隠さないことです。 ある部分は私もそれができていますが、ある部分ではできていません。 私は、「自分を守るための嘘はつかない」と言うことを心がけています。 そうはいっても、とっさに苦し紛れの嘘をついてしまうこともあります。 完璧になどできるわけもありませんが、嘘をついた時に、それを自覚する事が大切だと考えています。 実生活で、こんな事を人に打ち明けたことはありません。 それこそ、きれいごとと思われますから。 待てよ?きれいごとを言う人間だと人に思われたくないから、本当の自分を出していないのか? どうなんでしょうね? 自分でも分からなくなりました。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >ありのままの自分 レリゴー♪レリゴー♪(笑) >自分自身をも欺く、ごまかしや嘘 欺瞞! 他者が私を苦しめる根本的な理由はまさにこれだと最近やっと気づいたのです。 そういう欺瞞人間達に比べたら、私はかなり自分に正直だと思います。それはもう、少しは自分を守る必要があるくらいに。だからで生きづらさにつながってていますが。病んでいながら健康である、というような感じでしょうか。 それでも自分に嘘をつくことは耐えがたい(これが私の信念かもしれません)。 >ある部分は私もそれができていますが、ある部分ではできていません。 私も弱い人間の一人です。だから私も同じです。 私が向き合ってきた強さが、ゆるぎない信念を作り、私が向き合わなかった弱さが、別の信念を求めているのかもしれません。 その弱さと向き合い、克服していく中で少しずつ、無意識のところで身についていく考えや自信の集まりが信念となるのでしょうか… >「自分を守るための嘘はつかない」 私もこれと同じ信念をもっています。 自分を守るための嘘をつく欺瞞人間はたくさんおりますが。そのため他者を無意識に無自覚に不幸にする。 私が知る欺瞞人間らに共通していることは、自分の弱さを認めることができません。いつもそれを他者に投影し、他者の弱さを追求し、他者を犠牲にしながらも、他者を通して映る本当の自分を見ようともしません。 そして、このような人間は容易に「きれいごと」を口にします。自分こそ、それを口にするに値する人間だというように…そのとき、彼らが身に付けたきれいごとは、安っぽい飾りや隠れ蓑にしかみえない。 ですから使う人間によって、きれいごとは、その言葉自体が持つネガティブなイメージになりさがるではないかと…とも思えます。 >きれいごとを言う人間だと人に思われたくないから、本当の自分を出していないのか? よくわかります。 私はそのときの自分をだしすぎて後悔し、一方で、だすべきところでださなくて、後悔しています。 でもそのどの自分も、本当の自分、あるがままの自分を見つけさせるための自分、だと考えてます。 人のまじめな信念や考えを、他者がその無関心、軽薄さによって、きれいごとだと笑うとき、きれいごとは汚されたように感じることもあります。 だから皆、容易に自分の思いや信念を口にしないのかもしれません。 でも当人にとっては、宝石箱の中に輝く言葉たちなのであり、その輝きは変わることはない。むしろ、一見汚されたかのように感じることによって一層その美は増すのではないでしょうか。 傷つくのは口にしたことに後悔している自分。私もなんどそれで傷ついたか。でもダイヤモンドは傷つかないのです。それなのに、一緒にきれいだね、と言ってくれる相手、なかなか見つかりませんね、私の場合。

noname#214841
noname#214841
回答No.13

回答番号11で最終のつもりだつたのですが、すばらしい「お礼」をいただいたので、もうすこし。「輪廻」の質問文を読んだときから、frauさんとは、お話してみたいと感じてゐました。 >>恐ろしいのは個人のそれに加担する社会心理です。 これも、「ゆきすぎ」でなければ、いいのではありませんか。たぶんお読みになつてゐないと存じますが、詳細は、「驚き!!」ページに記載しました。回答番号9「安倍君をwatchでしょう。」の意味もわかります。「今日本でいちばん嫌われている男らしいですね。」(笑)ちなみに、私は現政権の政策にはかなり理解のある立場です。 >>自分の弱さを相手への愛によって誤魔化してしまう。 >>そういうとき「他者への愛」がきれいごとになる。 >>自分への愛をまっとうできて、その結果として、 >>自分を愛するように他者も愛する >>(これが聖書でいう「隣人を愛せよ」ということかもしれませんが) >>ことを実現できている人はとても少ないと思うのです。 これに、感動しました。私の考へのはるか先を進んでゐます。

frau
質問者

お礼

お褒めいただき、誠にありがとうございます。 これからも仲良くしてください(^-^) 「驚き!!」について、読んでみましたが…kurinalさんとの対話がこちらに延長されていたのですね(笑) でもこの質問が「ゆきすぎ」なのかどうかはちょっとわかりませんでした(^^ゞ でも哲学カテゴリ、本当に個性豊かな人がたくさんいらっしゃいますね。 本当に久しぶりにここにきて、質問や回答をしていますが、やっぱりここはいいですねー。 plapotaさんの穏やかな感じの感性が、柔らかな文体に乗って伝わってきます。今後ともどうぞよろしくお願いします。

  • Mychuo
  • ベストアンサー率23% (8/34)
回答No.12

理屈が正しければ、現実にも反映されているということになります。 つまり >『理屈は正しくても、現実にその通り行うことができないこと』 ということは存在しません。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど~! この場合、実行できないというのは実践を他者にゆだねている主体のことでしょうか。 その人自身の経験からの答えではなく、理屈で得たことを他者にやってもらうという無責任さのことでしょうか。 しかし、裏付けのない提言を、他者が実現してしまうということもあるのではとも考えます。 それでも理屈が正しければ、現実に反映する、ということになる。その場合、主体は関係なく、理屈の妥当性が重要になる、ということですね。

noname#214841
noname#214841
回答No.11

まことに丁寧な「お礼」ありがたうございます。 私がいちばん影響を受けてゐる書物は、聖書です。たぶんfrauさんとは、思想が異なるとおもひます。聖書のなかに、あれだけ「他者への愛」が説かれてゐるのに、聖書を人生の指針とする人たちが、一般的にいつて、日常生活でも品行方正とはほどとほく、歴史的にも戦争好きなのは、なぜか、長年考へてゐる問題です。その現時点での見解が、回答番号7です。もちろん、宗教にかぎらず、人間一般にあてはまるものとして、書きました。 論点を明確にするために、いつも極端な書き方をしてゐます。現実には、さまざまな考への組みあはせが必要になります。それに、自分の考へが正しいとは、思つてゐません。みづからの狭い世界のなかで経験したことをもとにしてゐるだけです。おそろしいのは、他者を排除する姿勢です。哲学カテゴリなのですから、議論や批判は、当然あるべきものです。反対意見があるからこそ、みづからの見解が成長してゆきます。 質問文にもどりますが、「きれいごと」なら、素直にそれを「きれいごと」だと認識することが必要なのではないか、と最近感じます。(ゆきすぎた)他者への愛が「きれいごと」だとわかつてゐれば、他者におしつけたりはしません。他の人たちも自分と同じやうに「他者への愛」といふ考へを受け入れなければならないのだ、さう考へることが、争ひの原因となります。(あくまでも、ゆきすぎた「他者への愛」についてです。私自身、聖書の記載を否定してゐるわけではありません。) 「きれいごと」はあくまでも「きれいごと」です。実践したら、滅亡します。軍備放棄した国家が簡単に侵略を受けてきた歴史は周知の事実です。夢は必要です。しかし、夢は自分で見てゐるもの、他人に無理やり見せようとしても、無理です。悪意で侵略する者は、まだかはいい。悪いとわかれば、引きかへすことが可能です。しかし、自分の心を見失つた状態で、善意と信じて実行する者には、あともどりの道が残されてゐません。これが、宗教戦争、そして、国家戦争、民族戦争の多くの原因ではないか、そんなふうに、考へてゐます。 私の意見がまちがつてゐるかもしれません。世間は広いもので、だれかれかまはず、ヤマシサを追及し、ウソだと弾劾し、オシエを説く、そんな人までゐます。私はいろいろな人から話を聞きたいと思つてゐます。もちろん、frauさんからも。

frau
質問者

お礼

私も常々思っているのですが、なぜキリスト教の人たちは、昔から自分が帰依している教えにそむくようなことをやっているのかということです。核保有国アメリカの戦争好きがまさにそう。 でもそれが >善意 ゆえだというところに、plapotaさん独特の考えがおありになる。 >他者を排除する姿勢 まったく同感です。恐ろしいのは個人のそれに加担する社会心理です。誰かが誰かを批判するのは仕方がない。しかし、よく考えもせずに同調したり、異種だからという理由で排除に加担する、そういう浅はかな心理です。 ネットの掲示板などは特に、匿名性が増長させ、そういう社会心理が蔓延しやすいところでしょう。 「ゆきすぎた他者への愛」というのは、心理学でいえば「共依存」です。泥船です。 >争ひの原因 愛は争いではないですよね。私は愛というのは、無我になることだと思ってます。 でも共依存の一部のような、「尽くす」ということは自己愛にすぎません。 自分がみたくない自分の弱さを互いに投影するのは、男女間に限らず、親子、上司と部下、教師と生徒など、あらゆる関係に通じることらしいです。ですから宗教と信者、国家間でも同じなのかなと思いますね。 それでも、人が人と共存していくときに生じてしまう仕方ない心理だとしたら、真の心の自立ということは本当に難しいことです。 でもそれに気づかず、皆それを「愛」という言葉を口実にしている。どんな関係でも愛という名のもとに悪を実践している。すでにその関係が形骸していようが。 そして「愛」を実践する人は無口でなければと思うんです。本当に実践できなければ愛もきれいごとですね。それは自他への欺瞞です。私は欺瞞がいちばん許せない。 「自分を愛せなければ人も愛せない」ということについても、心理的にいえば、自己評価の低さが原因で自分を守れない、大切にできないことから結果的に間違った愛を導いてしまう。 自分の弱さを相手への愛によって誤魔化してしまう。 そういうとき「他者への愛」がきれいごとになる。 自分への愛をまっとうできて、その結果として、自分を愛するように他者も愛する(これが聖書でいう「隣人を愛せよ」ということかもしれませんが)ことを実現できている人はとても少ないと思うのです。 (この愛は自己愛という意味ではないです。いきすぎた自己愛はむしろ争いを生むと思いますから) >「きれいごと」はあくまでも「きれいごと」です。実践したら、滅亡します。 だからこの世は不条理なのですね。不条理がこの世がある意義だとしたら、きれいごとがそのまま実現したら「この世のおわり」かもしれません。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.10

綺麗事かどうかはわかりませんが、身の丈ということはあると思います。身の丈の論理と言いますか、それは身につけられることなのか、実行出来ることなのか、ということです。 一方で、哲学は心の世界のことでもありますから、身の丈である必要はなく、想いの丈を綴っても構わないものでもあると思います。 実践にこだわるならば、身の丈を、純粋さにこだわるならば想いの丈を、述べれば良いのだと思います。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 身の丈、というのは成長するに比例することですから、そのときどきで違うきれいごとがあると思います。それは実行できる余裕というか、可能性というか。 そのときすんなり心に収まる言葉でも、実践するにはまだ早いということもありますものね。 >哲学は心の世界のことでもありますから、身の丈である必要はなく ですよね。心の混沌が、頭の整列とした理論を作るのだと思っています。頭ではわかっているけど、自由にできない、というように、頭は心より自由かもしれません。 >実践にこだわるならば、身の丈を、純粋さにこだわるならば想いの丈を、述べれば良い なるほどです。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

安倍君をwatchでしょう。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 アベくん、今日本でいちばん嫌われている男らしいですね。 秘密保護法、閣議決定の件…まさに「きれいごと」オンパレードですねー。 彼の場合、ゴリ押しに後づけする「きれいごと」ですわ。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.8

お礼をありがとうございます。 リクエストに答えて、自論を語ります。 >私は「全て自分の行動が招いた事だと理解」したのでしょうか?もしそうでしたら、そう思われた所以は? 「理解」では無く、「気付いた」ですね。 >『理屈は正しくても、現実にその通り行うことができないこと』についてもう少し具体的に知りたいというのが質問の主旨です。 それは「その場限りの言い逃れ」の言葉です。 しかし言葉は基本、全部これです。 言葉は心を動かす、エネルギーにも引き金にもなりますが、心そのものや、事象そのもの(物心)にはなりません。 役に立つ時は役に立ちますから、都合に合わせて用いればいいだけです。 >「無理しないほうがいい」「楽しいと思える仕事を見つけろ」「心の底からやりたいと思えることだけやればいい」などが挙げられています。 これ等の言葉は女性の口説き文句と同レベルですね。 私も口にしてみたいw 全部、相手を全肯定しているだけで、結果の全てを丸投げしているだけの無責任な発言です。(私もどうでもいい他人に使うのは大好きですw) 取り合えず口にするのは簡単ですね。 >では「きれいごと」とは一体何?と考えたわけです。 都合良く、答えを外に求める心がキレイゴトを招きます。 成長の為の言葉では無く、肯定(安心)の為の言葉を欲しがる人間には、当たり障りの無い言葉で充分ですし、むしろそっちを求めます。 私の様にエグル言葉は嫌われますよw 逆に言うと答なんて簡単にはありませんから。 簡単に言うなら、「才能が無いからだよ」になってしまい、金を貰えませんw >世の中のいろいろな思想、方法、選択肢が多すぎて、皆、それぞれ持論について正しいと思っているようですし~ 正しいどうこうでは無く、安住出来る場所を探しているだけです。 だから、其処を突き崩されるのを極端に恐れます。 殻に閉じ篭っていれば、そもそも他と交わらないので、破壊もされませんが、「承認」も得られないので、外と交わろうとするのが人間です。 相反する感情で悶えている訳ですね。 で、自らを正しいと思い込む事で安心しようとしている事を、皆に告知して、認めてもらう事で安心しようとしている。 だから「言葉」の鎧を更に着込もうとして、動けなくなっている方を良く見かけます。 >極力実現可能なことを選択する指標を決めなければならないと思うのですが、それについて考えあぐねている次第です。 先ずは息をする事ですね。 中には生まれ付きに困難な方もいらっしゃるので、軽々に口にするべきアドバイスではないかもしれませんが。

frau
質問者

お礼

>それは「その場限りの言い逃れ」の言葉です。 私はそうは思わないのですよ。言い逃れというのは自信がないことですから。でもどれも感慨深い言葉なのです(だから迷う) >言葉は心を動かす、エネルギーにも引き金にもなります これについては同感です。 >心そのものや、事象そのもの(物心)にはなりません。 それだからこそ、一人一人にとってその「心を動かす」ということになるのではないかと思います。 >答えを外に求める心がキレイゴトを招きます。 そうか、やはり心に留めるばかりで実践しない場合に、「きれいごと」になるのでしょうね。 >「承認」も得られないので、外と交わろうとするのが人間です。 たとえば引きこもりは、承認を得ようとしないからということになってしまいますが、承認を得るための社会に対する恐れというものもありますよね。 また、人間には必ずしも承認欲求などない(そのために動かなくてもよい)、という説もありますが。 >皆に告知して、認めてもらう事で安心しようとしている。 むしろ「きれいごと」というのは実践者の答えです。 答えを提示しているにすぎない。それを支持されるために、つまり承認欲求を満たすために彼の答えをだしているとは思いません。

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    「探究」の姿勢こそ格好いいと思う風潮って今の世の中にありませんか? より深くを洞察するというか、見えないものを開拓するかのような、 向上心に対しての姿勢を優れているとする傾向に疑問を感じました。 私にとって哲学は「人が豊かになる為に考えさせる」学問だと思います。 そして、これは私たちが「哲学」を考える上での素朴な疑問です。 「科学的に分析する」=「探究」という姿勢、 これは東洋哲学を理解するにそぐわないと考えます。 「木を見て森を見ず」という言葉が日本語にあり、 これは「木」も「森」もどちらも大切でその姿勢を説いています。 私はこうしたことから「哲学」の本質は 世の中の「ありのまま」である真実を見抜くことだと考えています。 しかし、何もかもが全てであるとか、人の見地ではその全ては分からない。 「ありのまま」という立場を受けいれる姿勢が馴染み易いかと思います。 「探究」という言葉に目を向けたとき、 それは人の我欲の表れを示しているように思います。 好んで「探究」という言葉を使う時は、究めたい(よう)とする我欲に陥ります。 人の「心」というものを知ろうとする時、 曇った眼で真実が見えてこないのと同じで、 我欲は人の「正しく考える」知恵を曇らせてしまいます。 確かに西洋哲学には「超越」という境地があります。 しかし、真実というものは「超越」するものではなく、 「そこにあることに正しく目を向ける」ことにあるのではないでしょうか。 自らが見つけた一つ一つの真実、 そこに捉われずにさらに進んだところに目を向けるようにすれば、 私たちはより深くものごとを知ることに繋がると考えています。 日本思想や文化は「侘び寂び」といった「あるがまま」に対する 「ものの憂い」といった精神から育ってきました。 それは私たちが私たちであるというアイデンティティと呼べると思います。 私たちが「想うがまま(侭)=わがまま」にならないことに、 一番に目を向けてきた誇りだと呼べると思うのです。 感覚的に何かを置きっぱなしになっているような気がして、 それが「哲学」を「探究」するという姿勢を不適切に思わせます。 飽くまで「ことば遊び」に過ぎないので、 「探究」という言葉の価値自体を否定する気はないのですが、 この辺りについて、西洋哲学や東洋哲学といった枠を越えて、 ご意見をお待ち申し上げます。

  • どんな哲学なら精神性を高められるか?

    どんな哲学なら精神性を高められるか? 私は哲学など学んだことがありませんが、好奇心をかりたてる特殊な兄貴分の認識を、自分にコピーしたくなりました。なぜなら普遍的であり、物理などと矛盾しない思想だからです。私は大学に入学できるほど勉強は得意ではないです。ニーチェ、カント、なんて尻ませーん。 哲学ってのは探求する学問だけど、身につけるべき思想は1つだよね(物理法則と矛盾しちゃいかん)。その思想を探知できる感受性なら馬鹿な私にも自信がある。 皆さんの好きな哲学は、最新の物理によりサビついてませんか? かなりガタがきてると思いますよ。ケンカ売る気はありませんが。。。

  • このような現象を哲学的にいうと?

    ある人間の悪い行為に対して、公平な立場で評価しなければならない第三者(警察や行政など)が、善の行い(この場合正当な評価)をすることで、自分にも被害が被ることになります。そのため、正当な評価をしなかった場合。 その評価を被ることになる立場(被害者等)からすれば、例えば「不条理」になります。 「不条理とは何よりもまず高度の滑稽である。なんらかのものあるいは人とうまく調和しないことを意味する。不条理とは通常の予測を外れた行動または思想であり、不条理な推論とは非論理的な推論である」~ウィキペディア「不条理」 しかし、不条理という抽象ではなく、上の例で述べた(よくある)現象(定型)を哲学、倫理学など「理屈」で説明できるとしたら、教えてください。

  • 頭では分かっているけど

    自己啓発と言っては怪しいですが、自分を変えたい・今の状態から脱却したいと考える時、色んな書物を読んだり他人からのアドバイスを貰ったり環境を変えてみたり試行錯誤したりしますよね。 その中で閃きに誓い感覚で自分の中に無理なく届き意識に根付くものと、理解はできたし理屈は分かったけど、中々身にならない考えが自分にはあったりします。 それは何故なんでしょうか。

  • 初体験の年齢(真面目に男女の返信お願いします)

    人に聞くには自分から言わないと失礼だと思いますので、私は25才位に初体験しました。男性です。 巷では10代で済ますと色々な雑誌に書かれていますが、どうなんでしょうか?真実味に欠けるなら、ああいう記事でショックを受けて悩む若者が増えるような気がします。 私の場合は、「こいつが一番!」と思う恋人で無いとしないと決めていたので後悔はしていません。風俗も一度も無いですね。 仕事柄、若い子にも相談を受けることが多いのですが、皆さんはどう思いますか?

  • 秋葉原通り魔事件容疑者に共感してしまう私は人として失格でしょうか?

    秋葉原通り魔事件から1週間が経ちました。 私はその容疑者に共感し、気の毒に感じます。 とても人ごとには思えません。彼の側としてです。 それが危険な思想であることは認識しています。 もちろん自分はその一線は越えませんが 彼がやったことは決していいことではないけれど、 私が共感してしまう感情は理屈ではない真実なのでどうしようもありません。 もしも自分が殺されていたのなら、どうか彼を無罪にして欲しいと願います。 そして、どうか彼の心が救われますようにと願います。 こんな感情を持ってしまう私は人として失格でしょうか? ただ彼は、他人の命を奪うくらいなら、 命がけで、もっと堂々と効果的な方法で世の中に訴えるべきだった。 私ならそう考えます。 誰も傷つけるべきではなかった。 被害に遭われて亡くなった方々に対してご冥福をお祈りします。

  • 仕事・恋愛・結婚と哲学・思想・信条 選ぶならどっち

    誰だって大概の人は何でも夢が叶えばいいと思うと思いますが 実際には何かを捨てて何かを取るという場合が多いのではないでしょうか 自由を捨てて結婚を選ぶとか 伴侶を捨てて自由(離婚)を選ぶとか 夢を捨てて仕事を選ぶとか 仕事を捨てて夢に賭けるとか。 皆さんご自分なりの体験、現状がおありでしょうけど 皆さんの人生体験で 振り返って 仕事・恋愛・結婚という普通のコースを選ぶべきだったか 哲学・思想・信条をとことん明らかにすべきだったか どっちかしか選べないとしたら どっちを選びますか?

  • 行きたい学部とは違うところに進むことって

     まず、質問させていただく前に、私の質問内容は、もしかしたら偏見のカタマリであるかもしれないことを謝ります。せいぜいネット上の一部を閲覧して積み重ねた程度で考えたことなので、気分を害されたなどありましたら、本当に申し訳ありません。  文章もろとも拙く、見難くはありますが、ご勘弁を。      では、本題に。    私は来年大学受験を控えているんですが、未だどこの大学に行きたいか決めていません。  ただ学部は文学部の哲学科に行きたいと考えています。単純に、一つの事柄に対して、色んな人が誰かを批判したり、自分の考えを主張したり、そういった人間の思想に惹かれたのがきっかけです。浅はかで恥ずかしいのですが。  ただ、ネットで哲学を学べる大学、などと検索していると「哲学は大学で学ぶことじゃない」とか「大学に行かなくても、趣味なら自分で出来る」とか、そういったものを目にします。  私自身、哲学を研究したいというのはあります。ただ、実際のところ大学で研究せずとも、自分で哲学を研究できるのなら、別の学部、あるいは学科を考えるのもありかなと思ったのです。    というのも、私とは全く違った考えを持った人の中に入るのも、またそれは面白いかなと思ったのです。でも、あまり興味のない学部に行っても仕方ないかもしれませんが・・・。  本を読むのは好きだし、まあ古典的な本や、太宰治や志賀直哉のような本を読んでいるわけではありませんが。  自分自身、今本当に何がしたいのか、わからなくなってきているのかもしれません。    とにかく、行きたい学部とは違った学部に進むのはどうなんでしょうか?  大学四年間、続けていられるものなのでしょうか。   質問が抽象的で申し訳ありません。