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神仏分離など維新で日本はどのように変わりましたか?

古来より日本は調和の精神の文化を持っていたと思います。 仏教伝来しかり遣隋使しかり南蛮貿易しかり、 外国から優れた文化を受け入れそして自分の文化とくっつけて自分のものにしてきました。 しかし、明治維新で日本はそれを止めてしまいました。 そもそも日本が仏教と共存していくことなんて丁未の乱で命をかけて答えを出したはずなのに西洋の文化と触れあって今までの文化を壊してかぶれた文化にしてしまいました。 なので私は日本の文化の本質的なところは壊されて残っていないと思っています。 皆さんはこの私の意見についてどう思いますか?

  • 歴史
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みんなの回答

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.6

 始業までの時間がまだありますので、具体的事例を元に補足します。 日本の前近代と近代以後を隔てる最も大きな素因をシステムの側面から考えてみましょう。この両者を隔てる最も大きな組織としての違いがどこにあるかといえば「議会」そして「議論の有無」に求めることも容易でしょう。  その「議会システム」そのものが、西洋を元にした翻訳文化の象徴ともいえます。典型的なパターンです。 質問者様が誤解されているのは、恐らくそうした政治文化を文化の範疇に含めないとの部分であると認識もします。  そして社会経済構造の部分として「商業と交易」の問題もあります。日本が農耕型社会つまり土地に人間を縛り付ける形で社会秩序の編成を意図しているのが律令の前提にあり、そこからはみ出した部分も既に8世紀には生じ始めます。班給された口分田を放棄し、他の土地に移動するとの行為そしてその班給に基づく徴税を忌避するための手法として偽籍が広範に行われていた事実も史料から確認することができ、今ではそれが共通認識でもある以上、人間を土地に縛り付けることと現実の間のギャップが相当のものであることも推察に難くありません。と同時に、農業経済のみに財政基盤を置くシステムならば、公出挙といった国家による貸し付けが最初から盛り込まれていたことに対する疑問も生じます。  それほどに人間の移動を忌避するならば、この様な発想にはならないはずです。ではそれがなぜ最初から想定済みとして処理されていたのかを改めて問わねばならない必要もあります。  これが日本の文化の特性である「翻訳を本質とする」ならば、あっさりと説明することが逆に自然となります。その対象が中国であろうと西洋であろうと、自分に都合の良いものならばそれを受け容れるのが自然であると先人達が意識していたなら、逆に「日本の文化の本質的なところは壊されて残っていない」との部分は、この日本文化の本質から遠離るとの結論になるはずです。  菅原道真が遣唐使を廃止し中国との公式関係を断絶したとしても、実際には唐銭の輸入は見られ、更にその後の日本文化(overedculture)である禅が日本文化のあらゆる側面に影を落としている事象を説明することが不可能になります。  元々「調和」なる概念が儒教による社会秩序の維持を目的としていますから、それも輸入文化の一つであり、それとは異質な文化を新たに翻訳することも日本文化の流れとして説明は可能です。

narutahirotyan
質問者

お礼

調和というよりは翻訳ということですか。これは一ついいことを学べました。ありがとうございました。

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.5

決めた、時の権力者達は、文化の破壊なんて認識はありませんよ。 後世の我々が、そう思い、惜しいことした・・・って思っているだけですよ。 歴史は、後世が評価するって事ですよ。

narutahirotyan
質問者

お礼

ということは今私たちが生きているこの時代ももう少ししたら懐古されるのですかね。ありがとうございました。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.4

 一つ言うとね、鷗外や漱石といった明治以後の文豪達は和魂洋才との形で複眼の眼差しを持っていることも確かです。それが前近代と一転する部分であり、前近代では個人としてその様な視点を持つ者が少なかった。つまり権力者による独占状態にあったともいえます。  それが一変するのが近代以後であり、調和などというよりも個人が確立され始める萌芽期ともいえます。「調和」を上からの組織化・序列化あるいは単線型のタテ社会と見なすならば、「個人」はそれを突き破りつつそしてある部分で遺すことで「新たな枠組作り」に意欲的に取り組んだとも理解することができませんか?  根っこにある部分を遺しつつ、新たな接ぎ木をする形が前近代にあるとするならば、近代以後でも同じではありませんか?  余りにも短絡的に断定すると危険なナショナリズムに陥ると考えますが、如何でしょう。日本の文化的特性が元々継ぎ接ぎだらけであり、根っこにあるものが曖昧な存在だったから、それを補完する形(=翻訳文化としての日本文化の特性)で継承されてきたとするならば、ご指摘の様な前近代と近代の断絶論は日本の近代に内在する逆のベクトルを説明することができなくなってしまいます。  伝統回帰とはまことに便利で耳心地の良い言葉ですが、それがひとたび排他性を帯びてくる時には注意が必要です。

narutahirotyan
質問者

お礼

もともと継ぎ足しを続けていたところにまたさらに継ぎ足しただけかもしれないですね。ありがとうございました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.3

”明治維新で日本はそれを止めてしまいました”     ↑ 明治維新をやった幹部連は、上海などで中国人が 欧米の奴隷にされているのを目撃したわけです。 このままでは日本も植民地にされ、奴隷にされる という危機感に溢れていました。 だから明治維新をやったのです。 中国は欧米から技術だけを学ぼうとしました。 これに対して、日本は文化そのものから欧米に 学ぼうとしています。 欧米に学んで、日本を強くしようとしたのです。 この違いが、日本と中国の進路を決定的に分けた のです。 だから、外国から学んで我が物とする、という 伝統はそのままだと思います。 廃仏毀釈をしたのは、天皇の宗教である神道一本 に絞って、国民を一丸にしようとしたためです。 一丸にならねば、植民地にされてしまう、 という危機感がそうさせたのです。

narutahirotyan
質問者

お礼

技術だけを学ぶのではなく文化から学ぶという姿勢が日本の伝統なんですね。そう考えてみると私の疑問は見当違いかもしれませんね。ありがとうございました。

回答No.2

明治維新でやめた? ここが理解できない。鎖国政策の間の方が、物資も知識も文化も流通がなかったのでは? あと、丁未の乱は仏教を名目にしたただの内乱です。現代において調和が欠けているとすれば、品性も理性も持たない南北朝鮮に対しての事でしょうか? 盗人とは調和するべきではないですから。 調和以前に学がないとは思いますが。

narutahirotyan
質問者

お礼

なぜに朝鮮半島のことがでてくるんですか。ですが、言われてみれば鎖国中の方が各藩に独自の文化があって日本の文化とは言えなかったかもしれませんね。ありがとうございました。

回答No.1

懐古主義だと思います。 「外国から優れた文化を受け入れそして自分の文化とくっつけて自分のもの」にしていた時代にも、あなたと同様、「今までの文化を壊してかぶれた文化になってしまった」と思っていた御仁はたくさんいたでしょう。「昔はよかった」という幻想は今に始まったことではないということ。

narutahirotyan
質問者

お礼

やはり私の意見はただの懐古主義にすぎないのでしょうかね。ありがとうございました。

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