• ベストアンサー

織田信長の四男は人質ですよね?

戦国時代の養子は家督乗っ取りか、人質。 実際、信長の次男と三男は家督乗っ取り。 五男は家督乗っ取りと人質の二役。 では四男(於次)秀勝は? 羽柴家は秀吉が死ねば、領地は織田の直轄。 家臣も織田の直臣になるだけで、家督を乗っ取る必要は無いです。 人質以外で養子としてもらっても、養子の身にもしものことがあったら大問題です。 家康が次男秀康を人質に出した様に、信長が秀吉に人質を差し出した形です。 秀吉が信長の人質を取ったとすれば、秀吉の下克上はこの時から始まっていて、信長は秀吉の傀儡。その後の歴史の展開は全て秀吉のシナリオどうりで分かりやすくなります。 織田信長の四男はなぜ、外様の家督乗っ取りや人質ではなく、秀吉の養子に使われたのでしょうか?

  • 60818
  • お礼率100% (26/26)
  • 歴史
  • 回答数11
  • ありがとう数1107

みんなが選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • lv48
  • ベストアンサー率28% (153/535)
回答No.10

秀吉が信長の子を、跡取りとして貰った可能性は0です。 弟、秀長の養子として丹羽長秀から養子を貰っても、家督を継がせずに捨てています。 信長の四男が長生きしていても、丹羽長秀の子のように処分されたのは明らかです。 実際に於次秀勝は、小吉秀勝とすり替えられました。 秀長の養子と同じですね。 秀頼が生まれると、身内の養子もすべて処分しています。 信長も秀吉の性格を見抜けなかったか? 承知で人質として出したか? 本能寺でわずかな手勢で討ち取られたのは、この時点では所詮その程度しか力がなかった。 信長より家臣たちの方が力を付け、パワーバランスは崩れていた可能性が高いです。 中国に援軍をよこせ、信長も来い、と秀吉の指図に従っている点は、もはや秀吉の傀儡ですね。 人質を取られ、言いなりで中国に向かう途中、光秀にも見限られ処分されたのでしょう。

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 荒木村重は生き延びて秀吉に許されています。 晩年の信長は完全に秀吉の掌で踊らされていたようです。 口先だけの足利将軍と同じく神輿として担がれていただけですね。

60818
質問者

補足

秀吉は北陸攻めから勝手に陣を引き、中国攻めに行くなど、好き放題やっています。揚げ句の果てに援軍をよこせ、信長も来いとやりたい放題。これをフィクションは秀吉が媚びへつらって乗り切ったとされていますが、笑い話ですね。事実を見れば、実権を失った信長が何も出来なかった証拠です。 松永、荒木、明智と謀反の連発は、異常事態です。事態の収拾にも大変苦労しています。最後は足利義輝のように、僅かな兵しか持てずに討たれました。晩年の信長は全く力が無かった証拠です。

その他の回答 (10)

  • lv48
  • ベストアンサー率28% (153/535)
回答No.11

http://shuchi.php.co.jp/article/969 光秀&長宗我部&足利 VS 秀吉&三好&織田 それぞれ、光秀は将軍を担ぎ、秀吉は信長を担ぎ、下克上の末の本能寺の変。 秀吉は信長の四男を、羽柴家の跡継ぎとして扱った記録はありません。 信長の葬儀の喪主として、傀儡として利用しています。 つまり、人質として取っていたと言う事です。

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 光秀&長宗我部&足利 VS 秀吉&三好&織田 最近はこの説が有力ですね。 信長より、秀吉と光秀の力が大きく、二人の闘争に巻き込まれたのでしょう。 http://okwave.jp/qa/q8605078.html フィクションが、最後まで信長を覇王として描くイメージに騙されていますが、事実を見れば、信長の四男は下克上の人質ですね。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.9

秀吉が死んだら、家督は秀長や秀次が継ぐでしょう。領地も家臣も織田家に収公されるわけではない。そこから考え直してみてはいかが?

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうですね、羽柴家は秀吉の一代で、由緒も威厳も無いのに、信長の手に負えないほど力があったかもしれません。 本来なら秀吉のような下賤者に、信長が自分の実子を養子に出すなんてありえません。下剋上の人質ですね。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.8

>領地替えや与力替えは信長の十八番です。秀吉の生死は関係ないですね。 秀吉は秀吉自ら調略した子飼い武将をたくさん抱えています。 織田家譜代の与力を与力替えするより出奔のリスクははるかに高いです。 そういった意味で無駄なリスクを増やすよりは息子一人後継ぎに渡したほうがはるかによかったのでしょう。

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうですね、もう秀吉は信長の手に負えないほど力があったかもしれません。 この時期、松永や荒木に謀反を起こされています。 相当なめられていた証拠です。 この上、秀吉に謀反を起こされたら終わりですから、人質を差し出したのでは? 結局、明智に親子で討たれました。 歴史物語は本能寺の後から秀吉の下剋上を描きますが、本当はもっと早くから天下を狙っていたでしょう。

回答No.7

持論を展開するのはいいんだけど…ww そもそも小吉の方の秀勝はもっと前に亡くなってます 死んでる人間をすり替えて人質だ影武者だと言っても意味はありませんが

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%8B%9D 朝鮮の役で死んだのは小吉秀勝。 織田信長の四男(於次)秀勝はもっと前に死んでいる。 なぜ誤解したのか? 前回のお礼では、その参考になるURLを貼りました。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.6

何処から見ても人質ではないのは常識で、逆に人質を示す証拠も無い。 仮に人質と言うならば、信長に要求を出して飲ませるだけの力を秀吉が持っていた、または行った証拠が無ければ意味が無い。 「養子を貰う」は、「養子を貰う」以上の意味を成さない。 人質か、乗っ取りかを結果だけを見て判断している様では、話に成らない。 端的に信長の不利益を秀吉の好き勝手に無理やり要求して飲ませた事実があれば、貴方の言うように「人質」だったで間違いないです。 それが気に入らなければ腐女子並みの妄想を展開していれば良い。

60818
質問者

お礼

腐女子乙

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.5

信長に前例は通用しないでしょうが、一般的には秀吉が死んでも誰かが羽柴家をついでそのまま領地と与力をひきつぎます。羽柴家を解体し羽柴家の家臣団と与力を他の武将に再配分するというのはなかなかうまくいかないのです。 そうなると誰かが羽柴家の後を継ぐわけで、その場合織田家としては織田家のものが継ぐのが一番いいわけで子供を養子にしたのです。 なぜ二男三男と違って近隣小大名ではなく家臣のもとに養子に出したかとなると、この時期は秀吉がちょうど城持ちになる時期です。もはや織田家が大大名に名乗りを上げて大名勢力として安定化してきた時期ですし、近隣の小大名なんかより城持ち家臣のほうが重要性が高いのでしょう。

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 領地替えや与力替えは信長の十八番です。秀吉の生死は関係ないですね。 平手政秀の様に、信長の息子の後見人、与力に秀吉を付ければ良いはず。そうは出来ず、養子に息子を出すのは、秀吉がこのとき既に相当な力を持って下剋上が進んでいた証拠ですね。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.4

60818 さん、こんばんわ。 信長の4男、お次丸こと秀勝は秀吉の養子です。そして羽柴家の跡取りです。因みに秀勝の秀は秀吉の秀です。 人質ではありません。一説には羽柴家の家すべてを織田家に返還するという意味合いもあったと思われます。 詳細は下記のURLを参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%9F%B4%E7%A7%80%E5%8B%9D

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 建前は当然そうでしょう。 本音は人質をよこせですよね。

回答No.3

人質じゃないよ… 織田秀勝(羽柴秀勝)は子の居なかった秀吉が信長に懇願して養子にしたもの 信長が生きてる時代に家臣が主君から人質取るか? その証拠に秀吉は羽柴秀勝を自分の後継者に指名してます(秀勝が朝鮮の役で戦死したため頓挫しましたが) 人質ならありえない処遇です

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 http://blog.livedoor.jp/kinginsango/archives/2337465.html 於次秀勝は下剋上を成し遂げた後、用無しで死去。 小吉秀勝とすり替えられました。

回答No.2

秀吉に子供がいなかったため、秀吉が養子に貰うように信長に頼んだと思います。  秀吉が死んだらその後を信長の四男に継がせるることが出来るから信長は乗ったのだと思います。 たしか昔読んだ本にそう書いてあったと思います。

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 建前は当然そうでしょう。 本音は人質をよこせですよね。

  • 1paku
  • ベストアンサー率21% (344/1575)
回答No.1

信長が、秀吉を家臣として頼りにしてるぞという意思表示。織田家の血筋を預けることで、成り上がりという理由で譜代の家臣たちから軽視されてる秀吉に箔をつける。 秀吉本人もだけど優秀な家臣もいるので、教育のため。徳川の六男忠輝を伊達政宗の婿にしたのと同じパターン。 まぁ、秀吉が信長の妹お市にスケベ心を持ってたのは確実なので、秀吉のお市獲得工作が中途半端に効力を発揮して、代わりに信長四男を貰ったと。。 信長「お市はやれぬが、代わりにお市並みの美形でもっと若い子をやろう」 秀吉「はは、ねがったり」 信長「男でもいいだろう」 って、感じで。

60818
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 教育のためなら、なおさら四男の後見人、与力に秀吉を付ければ良いはず。そうは出来ないほど下剋上が進んでいたのでは? 婿と養子じゃ次元が違います。むしろ、そのように外様の縁組に利用すべき筈なのに、秀吉の養子とは? 秀吉がこのとき既に相当な力を持っていた証拠ですね。

関連するQ&A

  • 信長の四男

    何故、信長が家臣である秀吉に養子として出したのでしょうか?逆なら人質の意味もあるので理解できるのですが。

  • 織田信長は800万石、豊臣秀吉は220万石?

    織田信長の直轄の版図は、北条、大友、宇喜多、徳川等の完全に又は半分以上従属したような大名の版図を抜かして計算しても600万石から800万石あったといいます。 対して豊臣秀吉の直轄領は220万石といいますが、この差はどこからくるのでしょうか? 豊臣秀吉は織田信長の後継者としてさらに版図を拡大させて人ですよね。 それと、織田信長の版図の600万石から800万石という話しですが、その間の200万石はどこのことなのでしょうか? ご存じの方がいたら、あわせてお願いします。

  • 織田三法師のその後は?

    織田信長の孫、三法師は、どのような人生を送ったのでしょうか? 素人向けの本には、「三法師が秀吉後見のもと織田家家督に決まった」というところまでしか書いてありません。その後は、秀吉の天下。三法師が生きていて、元服する年頃になったのなら、秀吉を討って天下をとろうとする動きはなかったのでしょうか?  

  • 織田「上総介」信長とは?

    連続質問おそれいります。 織田信長は上総介=千葉県の次官 羽柴秀吉は筑前守=福岡県の長官 といった具合に、ほとんどやってもいない役職名がついているのが気になるんですが、 (1)そもそもこの役職名は、上に書いたような解釈で正しいのでしょうか? (2)こういった役職名は誰に与えられたのでしょうか? (3)(1)の答えが「正しい」だった場合、実際仕事はしてたんでしょうか? (4)(3)の答えが「してなかった」だとしたら、役職が有名無実化したのはいつ頃からでしょうか?

  • 信長 あだ名の命名

    元猿岩石の有吉弘行じゃないけど、織田信長はあだ名をつける天才と聞きます。 羽柴秀吉→"猿" "ハゲ鼠" 明智光秀→"ハゲ" "キンカ頭" 朝倉義景→"大ヌル山" 上記以外に信長のつけたあだ名をご存知なら教えて下さい。お願いします。

  • 淀が結城秀康をそそのかしたら

    淀が結城秀康をそそのかしたら 秀康は豊臣の味方になったでしょうか? 淀ではなくて北政所がそそのかしたらどうでしょうか? 秀康は秀吉の養子になった事で徳川の家督を継げず 秀忠に対して少なからず恨みがあっただろうし また家康とも不仲だったという話もありますし

  • 織田の家督を継いだ三法師から秀吉の下克上(手口)

    【NHK大河ドラマ・江】を視聴していましたが、本日の清洲会議(織田家の跡目相続会議)のシーンで信長の嫡男・信忠の忘れ形見として三法師(後の秀信)が登場しますが、その後の豊臣秀吉・秀次・秀頼と続く歴史では、織田秀信からの家督奪取?臣下への格下げ(下克上)の経緯や大義名分、権力闘争の有無等が余り記録・記載されていません・・・ そこで、質問ですが・・・ ◇織田三法師(秀信)は、いくら幼少とは言え、秀吉の狡猾さ智謀からか、多くの織田家家臣や親族(叔父叔母や従兄弟達)がありながら、徳川の影響も排して、何時ごろ何故に秀吉に権力奪取され、結果的に豊臣の臣下に甘んじたのでしょうか? 興味あるテーマーであり、その経過・経緯、諸将の対応等を簡単にお教え願えませんでしょうか・・・ ~関連記事~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1

  • 織田信長、羽柴秀吉、徳川家康のガチシーン

    ガチでヤバかった戦のベスト3を教えてください。 ※当人が参戦したものに限る タイムリーな説明あれば嬉しいです ちなみに・・・・・・ 織田信長 1位 本能寺の変 (というか死んでいる)  2位 金ケ崎の逃げ (雑賀孫一により足に銃弾浴びたとか?) 3位 姉川の戦い (13段構えなのに恐ろしい) 羽柴秀吉 1位 金ケ崎のシンガリ、大逃げ(死を覚悟してたらしい) 2位 山崎の合戦 (戦場に着くまでのハラハラ感) 3位 小牧・長久手の戦い (家康やっぱりつおい) 徳川家康 1位 武田信玄チームと戦いクソ漏らした時のやつ (絵とか書いてもらった) 2位 関ヶ原の戦い(秀忠がまだこないと知った瞬間) 3位 大阪・夏の陣(真田が突っ込んできた時間帯) 当ってます?? 回答、宜しくお願い致します。

  • 敵は本能寺にありって誰が

    '敵は本能寺にあり!'って言葉は誰が話したんですか。 明知光秀が本能寺への奇襲の前で話すって人もいますが、羽柴秀吉が織田信長の殺害を分かる時で話すって人もいますから どちらが事実かなんか確かに知ってません。

  • 信長、秀吉の罪悪?

    武田信玄が帰依していたのは快川紹喜国師ですか。 伝わるお話から正に国師だと不肖なる私も思います。 快川紹喜国師とそのお弟子を一か所に集めて、焼き殺した織田信長。 武田家を護り織田信長に服従しなかった武将を引き渡さなかったから。 奇矯な性格の戦国武将としては織田信長の行為の発揮ですね。 快川紹喜国師に帰依した信玄によってこの島国の統治がなされていればと思うが、やはり古かったのでしょうか。 そういうめぐりにはならなかった。 1)家康のパックスお江戸は文化と心性を築くうえで素晴らしいが、日本人の結果重視やaggressive性はこうして戦国という下剋上へとさかのぼれるのでしょうか? 2)秀吉なんかはもう、信念も理念の追求なんかも全くないただただ勢力だけしか思わないという、何か現代に通じるところもあるようですし、戦国時代は日本にあまりいい伝統を作らなかったのではないでしょうか? 3)確かに群雄割拠で、権力と価値の統一がなく、それだけ自由があり空も広がっていたろうが?(戦後の焼け跡生活者は、瓦礫の中で軍隊と在郷軍人会や隣組のない青空は呼吸を許されるものでした) 価値の統一や大きな権力って辛いですよね。