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淀が結城秀康をそそのかしたら

淀が結城秀康をそそのかしたら 秀康は豊臣の味方になったでしょうか? 淀ではなくて北政所がそそのかしたらどうでしょうか? 秀康は秀吉の養子になった事で徳川の家督を継げず 秀忠に対して少なからず恨みがあっただろうし また家康とも不仲だったという話もありますし

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  • oska2
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回答No.2

>淀が結城秀康をそそのかしたら、秀康は豊臣の味方になったでしょうか? と言うよりも、秀康は名前の通り「秀吉の養子」として子供の頃育っています。 また、実父の家康からは冷遇をうけていますよね。 面相から「鬼の子だ」とまで、家康は述べています。 家康との関係から、秀康は秀頼を実の弟の様に考えていた様です。 正に、「氏より育ち」です。 >淀ではなくて北政所がそそのかしたらどうでしょうか? 寧々は、大阪城退去時から「秀吉の時代は終わった」と考えていた様です。 淀は他人。淀の子供も、他人。 ※当時から、秀頼は秀吉の子供でなく大野治房の子供と囁かれていました。 大坂城を退去してからは、京都高台寺で余生を送る事になります。 が、実際は「徳川方・秀吉恩顧の武将」双方から頼りにされていました。 関ヶ原の裏切者として有名な金吾中納言も、戦闘前に寧々から「徳川に味方する様に」伝えられていたとの説もあります。 これらの史実を考えると、秀康は「当初から、秀頼を守る覚悟」だったのでしようね。 淀・寧々は、あまり関係なかった様に思います。

azuki-7
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回答No.1

結城領11万1,000石 目の前に、家康240万石 敵側に回るなんてあり得ません。 北の政所は秀忠の味方。 秀忠も12歳のときに家康から秀吉に人質として送られ、 その身柄を預かった寧々は、秀忠のことをかわいがった。 そのため、秀忠は上洛するたびに北の政所を訪ね、終生良好な関係だった。

azuki-7
質問者

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