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自我というものは昔からあったのでしょうか?

itshowsunの回答

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  • itshowsun
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回答No.5

この問題を哲学的に考えると答えはでないと思います。 しかし、言語学的に考えると答えがでそうです。 そのヒントが日本語とラテン語の比較です。 日本語はもともとは主語というものがありませんでした。 一方、ラテン語は 主語+作為動詞+目的語 の形を取ります。 すなわち、(作為の)主体と(作為される)客体が言語的に区別されます。 このような言語を使う人間には「我」という概念が生まれるはずです。 日本語に主語がなかったということは、表現される文が、 人間が自然に何かを行なうというよりは、 起きていることを記述するものであったと思われます。 (現在の日本語は中国語や英語などの影響で主語を持つことがある) 言語がない場合、人は起きていることをそのままイメージで認識するわけですから、 記述文に近いと考えられます。 日本やドイツなどの主語を使わない民族の特徴は おそらく、自然と調和して生きている。 (ドイツ民族はゲルマン民族で、長い間野蛮人だと見なされていた) 一方、中国、インド、ローマのような主語を使う民族は 文明を築いた人々です。 それで、これらの人々は自然を自然のまま受け入れず、 自分たちの都合のいいように人工のものに変えて利用した民族ではないでしょうか? 以上、私の考えです。

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