• ベストアンサー

精神は人間の性質?

精神は何で出来ているのでしょうか? 「精神は人間の性質である」と言えるでしょうか? 我思う故に我在り という自我意識 ある人は創発と言い ある人はクオリアという 人間精神 一体我々は何者なのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.10

図書館にお出かけになり、東洋哲学か、西洋哲学のいずかを選ぶか、全てを読んで、とにかく、盲読し、読破なさることです。

yuniko99
質問者

お礼

ありがとうございます

その他の回答 (9)

回答No.9

僕は、難しいことは書けませんし、書きません! >一体我々は何者なのでしょうか? 「透明人間」である、ということです。

参考URL:
http://www.youtube.com/watch?v=WvPCktuZX3w
回答No.8

zakky74でございます。 前回の投稿では、科学や物理学が説明が出来なくて困っているという現象がある事を紹介しながら、それは科学や物理学の土台や前提が間違っているからとお伝えしました。 何事もそうですが、前提や土台が間違っている状態ではその上に展開された論理は成り立ちません。地盤が安定しないところに安定した建築物を建てるのは不可能ですし、安定している建築物であっても、酷い地震が来る事によって倒壊してしまいます。 知識や情報も同じですね。 土台が間違っている場合、理解が誤っている場合は、その上に成り立ったどんな知見や論理展開も崩れ去ってしまいます。 ですので、説明出来ない現象、理解出来ない現象は数多く存在しておりますが、そうした一切の土台を取っ払う事によって難なく理解出来てしまうものです。人間に共通する一切の土台とは、学術的理解方式であったり学術的認識方式です。 ここは哲学のカテゴリーですが、哲学の土台も学術的理解方式、学術的認識方式に依っているところが大です。そして学術全般にも哲学にも大きく貢献したうちの一人にデカルトがおります。 そのデカルトに、残念な点がございましたのでそうした土台の上に成り立っている知識や情報には欠陥があるのでございます。 yuniko99さんが使っている言語にも、『脳内・ニューロン・シナプス・電気的・物質的反応・・・』などが代表として出てきておりまして精神が何であるかを規定されていますが、そもそもこうした言語やそれが指し示す機能などは学術的理解方式・学術的認識方式によって得られた知見ではないでしょうか? つまり、yuniko99さんのご質問は、本質的にはデカルトの時代よりも進んでおりません。デカルトが分からなかった事が結局は、学術を土台とした理解方式・認識方式において今の時代にも分かっておりません。 学術は、多様に進化発展はしたものの、デカルトが分からなかったところまでは結局、未だに分かっていないんです。 それがyuniko99さんのご質問にも現れております。 ところで、僕は学術的理解方式・学術的認識方式という土台が既に誤っておりますし、錯覚であるとお伝えしております。yuniko99さんは、これを聞いて如何思われますでしょうか? そして、そこから今一度ご自身のご質問を振り返ってみて何か気付く事や感じた事などはございますでしょうか?

回答No.7

 この質問で取り上げようとしているのは、生命に宿る精神の事。  有機物でできている生物は、雌雄に分かれ成長し、活動し、子孫を残し、活動を止め、動かぬ物体となり、その物体は、形を変化させ、たぶん無機物となる。  有機物は精神の存在を暗示させる「生命活動」をする。  精神は生命活動の、生きようという意志(エネルギー、チカラ)に現れている。  とりわけ質問で取り上げようとしているのは、人間の精神。   その人間の精神は高性能の“脳”を経由して“自身のこころを意識する事が出来る”  それゆえに「われ思うゆえにわれ在り」なんて考えたりする。  本来は意識できなくとも「われ」は存在する。  犬や猫も一匹一匹は、「われ」なのだ。意識していないだけ。  人間の自我意識は、精神が個体に発生したが故の現象。  精神は物体と共に在って現れ(現象)、精神は物体としての有機物に取り付いて生命と言う活動をする。  人間の精神は何でできているのか。  物質とは言えない精神は、宇宙の本体と言ってもいいのではないかと思える『精神』から分かれ出たものと思うしかない。  コップの中の“海水”のような存在。  ちなみに悟りの世界、迷いのない世界に入ろうとした修行者たちは自我を、自我意識を、棄てようとした。  大海に戻るために。  なんてことを考えてみました。

回答No.6

物理学や科学が説明できなくて困っている現象があります。 一つひとつの細胞には精神がないのに、細胞が集まって精神が宿るのはどうしてか?一つひとつの物質は生命がないのに、物質が集まって生命が宿るのはどうしてか?一つひとつの素粒子には縦・横・高さがないのに、素粒子が集まって縦・横・高さが生まれるのはどうしてか? 実は、その様な科学が説明できなくて困っている現象は、科学の土台となっているモノの見方や価値観が誤っているからです。科学を発展させ、今も未だ中心的な土台となっている存在はデカルトですね。 このデカルトは中々素晴らしい追及をしました。 我思う故に我在りです。 ですが、ここにも残念な点が幾つかあり、その分だけ科学もそうですし学術全般が進展を見る事はありませんでした。yuniko99さんのご質問もそこに切り込む本質的な質問です。 ところで、お応えする前に確認したい事がございまして、逆質問となり申し訳ないのですが、質問させて下さい。yuniko99さんは精神とはどういうものであると規定されているのでしょうか?その精神が何から出来ているのかがわからないという質問でしょうか?それとも、そもそも精神が何であるのかが規定できなくて分からないから出ているという質問だったのでしょうか?

yuniko99
質問者

補足

私の考えでは 脳内でニューロン、シナプスが電気的、物質的反応をして 脳は環境と共に反応する訳ですが そのように物質としての在り様を幾ら見ても おそらくは我々がその反応によって生じてる意識、精神であったとしても、我々そのものは物質の反応ではない何ものかであるように思えてならないのです。そこで考えられるのは 私には物質などの持つ性質が反応し合って主体化したものではないかと思う訳です。

  • el156
  • ベストアンサー率52% (116/220)
回答No.5

先に、「精神は人間の性質であると言えるるか」について、個人的考えということになってしまいますが、回答してみます。 「精神」という言葉を「理性」と言うよりもっと広く、「心」『意識』「意思」「魂」などと同類の意味に解釈して良いでしょうか?デカルトは、心は人間だけが持ち、人間以外の動物は機械と同じだと考えていたようです。しかし今の時代にそう考えている人は少ないと思います。少なくとも人に心があるとすれば、霊長類と犬、猫あたりまでは心があることに疑う余地は無いでしょう。私はミミズや植物にだって心はあると感じます。正常に働いているコンピュータに心があるとは感じませんが、理由無くハングアップしたり、日によって調子が良かったり悪かったりする機械は、心を持っているのではないかと疑いたくなることがあります。機械が心を持てるかどうかはともかくとして、精神は少なくとも人間だけにある性質では無いと思います。 精神が何でできているかについては、心が何処にあるかという問題に置き換えて答えてみようと思います。 少なくとも心を脳の中に閉じこめてしまうと、心が環境に適応する為に環境に関する無限の情報が必要となって、フレーム問題が起きそうです。心は脳から体や環境にはみ出して構成されているのではないかと思います。例えば芸術家が筆を持ってキャンパスに向かう時、芸術家の脳と体と目と筆とキャンパスは一体的に働いていて、その状態が心だと思います。受動意識仮説という考え方もあるようですが、今のところ私はあまり好きではありません。

回答No.4

 考えてみました。  精神は何で出来ているか。  見えない電気とか電波とかは、物理的な現象として捉えられているようですが、精神は物理的にはまだ捉えられてはいないようです。  もしかすると永遠に物理的には捉えられないのではないでしょうか。  たぶんそれは「物」ではないから。  「物」はある一定期間“存在”していると言える。長短はあるかと思いますが。  でも、精神を物でないとするならば、“存在”するのではなく“現象”である、と言いたい。。  現象・・・・・沸き起こる。  青い空に現れる白い雲、  見ていると、現れては消え、そしてまた現れる。    こういった“現象”を精神に当てはめてみたい。  そしてこうした精神の現象は、物を通して現れる。  物を媒介にしなければ現れない。  この地球上に現れた人間は高性能の“脳”を働かせ“意識”という能力を使い「私」を感じる。  一粒の砂でしかない「私」を。  俯瞰すれば、人間一人一人は浜の真砂のようなもの。  その砂の一粒でしかないけれど、人間としての約八十年と言う時間を与えられた命に使い、全うする役目を与えられてしまった。  生命=生きること。そう思えば、すべての「命」は生きようという“エネルギー”。  エネルギーは、意志と言い変えることも可能で、それは形はなく、だから物質とは思えない。  でもこの肉体がなければ“我が心”は意識できない。  肉体があればこそ、我が心の「存在」が意識できる。  肉体は心を、心は肉体が必要。  心のない肉体は無く、肉体のない心は存在しない(現象しない)。  そう思うと、物質にも心、精神が。  物質は精神の現れ。  宇宙の本体は精神。  現象は意志。    現れ。  ・・・・・・なんてことを考えてみました。  

yuniko99
質問者

お礼

色々考えていらっしゃるんですねえ エネルギーが意志と言い換えることが可能 とは思いませんが この宇宙にはエネルギーと同時に存在する性質が在ると思っています その性質が精神になり意志を持つと考えています。 >宇宙の本体は精神。  >現象は意志。 これはちょっと考え過ぎかも どうもありがとうございます☆

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

>一体我々は何者なのでしょうか と問い続ける生き物。 精神はなんでできているかというと、脳内物質。 あるいは脳神経。 例えば触ったという感覚。 いくら手のセンサーが正常でも、脳に手の感覚が伝わらないと、私たちは触ったということを認識できない。 脳にまでいたる神経 あるいは 脳の部分に障害があり、信号が途中で脳の適切な部位にまで信号を伝えなければ、情報は脳に伝達されず、プラスとならない。 躁うつ病の人は、同じものを心 つまり 脳のあり方で、世紀末のように感じたり、極楽のように感じたりする。 強迫神経症の人は、脳が危険信号を無駄に発して、不安物質を取り込む受容体を閉じてくれないので、手が汚いと思うと、ずっと手を洗い続けてしまう。 脳がもう十分だと受容体を閉じないので、いつまでもまだ不十分だという認識になり、本人をへとへとに疲れさせてしまう。 イドと超自我と自我ってのがせめぎあって行動を決めている。 で、一応自我ってのが本人に一番近い。 イドってのは原始的な本能 例えば お腹がすいたから何か食べるとか トイレに行きたいとか 寝たいとかいう本能。 超自我ってのは、「だけど店の棚にあるものを勝手に食べたらいけない、まだ講義中だから今トイレに行かず講義が終わってからでもいい、授業中に寝ると叱られるからがんばって起きていなければならない」と模範教師的な厳しい人格。 本能の欲求と模範教師の厳しさの中にあって、その両方をなだめて一番無難な選択をしようとするのが自我。 「まあまあ イドさん 超自我さんのおっしゃるとおり、店のものを食べるといろいろ問題が起こるから、レジで清算するまでは我慢しましょう。超自我さん レジで清算後なら食べていいですよね」 とかね。 イドも超自我も納得して騒がなくなる。 だからイドと超自我と自我で構成されていると考えるのが心理学の方。 脳科学になると前頭葉、側頭葉 とか もっと複雑だったけど、そこいらが関係して、人間の意志を決めているとされる。 で、クリミナルマインドってアメドラで、ちゃんと倫理感があり、日常模範市民的な行動をしている人が犯人だったというものがあり、どうして倫理観が人一倍あるのに、誰にも見つからずに殺人をしたのかというのが脳によって解き明かされたりする。 前頭葉の中(だったかな?)の視床下部に障害があると だめだと理解できているものをやらずにはおられなくなり、模範教師の超自我が、どうすれば人に見つからずに殺人ができるか判断するので、イドと超自我が納得した殺人を自我が実行する とか うんたらかんたら って。 脳科学が急激に研究されだしたのが、20世紀の終わり。 戦争で科学薬品を使うようになり、化学薬品 つまり薬が体にダメージを与えなくても脳のシナプス回路や器官を狂わせて、まるで精神病患者にような行動をやるようになったとわかりだした。 薬の怖さが注目されだしたわけです。 その薬が脳まで到達すると、人工的に脳内物質を変えてしまう。 精神病の人にも脳まで到達する薬を与えて、生理的なものを人工的に変化させられているわけです。 脳は可塑性があり、外部からの刺激によって変化し、ずっと刺激を与えられると、豆腐が圧力で形が変わるように、脳も正常が変化してしまう。 すると薬品が抜けた後も、薬品による刺激があったのを正常だと記憶してしまう。 PTSDがそれ。 忘れることはよくないとされるが、忘れるという能力があるから人は生きていける。 子供を失った人がグループセラピーを受け続けるとどうなるか。 やがて自殺する。 どうしてかというと、脳は時とともにダメージを忘却していこうとしているのに、グループセラピーで子供を亡くした悲しみを蘇らせ続けるので、せっかくダメージが弱まっても、再度思い出すことで新鮮に痛みが蘇ってしまうわけです。 治りかけた傷をわざとぱっくり開けるようなものがグループセラピー。 ずっと心の傷は癒えず、耐えられなくなり痛みから逃れるには死ぬしかないとなり自殺するわけです。 グループセラピーでよくなった人は一人もいない。そのことがわかりだして、問題視されているのですが、心理学者は金ずるを離すものかと、「いいや これで治る」って虚偽のデータを出して、自分の研究を正当化してお金を稼ごうとしている。 で、そうやって人を利用して金を稼いでいた人が、今度は自分が神経症になってしまった。 自分は見えない敵に攻撃されていると思い込んだ。 自分が推奨したグループセラピーによる治療に参加すればいい。 永遠に見えない敵から攻撃されているという感覚は消えず苦しみ続けることになる。 「そんな敵などいない」といくら言っても、本人は妄想を起こしているので、「確たる証拠は無いが、いつも届いていた新聞が今日は届いていないのは、敵が嫌がらせのため新聞を盗んだからだ」ってなる。 脳が歪むとそういう被害妄想が通常思考になってしまうので、結局は認知療法じゃ無理な場合は、薬を使って元に状態を脳に記憶させるしかないんですよね。 まっ そんなんで人間の精神って脳のありようだと思います。

yuniko99
質問者

お礼

実を言えば私は精神障害者なので その妄想や脳内物質や忘れる事 自殺についても分かります >イドと超自我と自我ってのがせめぎあって行動を決めている。 と言うのがよく分りました 妄想と認識と事実の間には色々と難しい関係が在る様ですねえ ありがとうございます。

回答No.2

「明日は雪である」、これ(文あるいは文の意味)も立派な「精神」ということができると思われます。 熱帯に住み、雪を見たこともない人にとって、この文は意味をなさないと言うことができる、つまりこの文の「精神」はかの地では存在しえないということです。 その瞬間のみを生きるほかない、あるいは明日まで生き延びる可能性の低い動物にとっては、この文にふくまれる「明日」もナンセンスでしょう。 「ある」という「繋辞」に「意味あるいは精神」があるかどうかはおくとして。 「雪」はただ空から落ちてくるものではなく、「汚れちまった肩」(中原中也)に「降りかかる」ものでもあります。 あるいは、ジャン・ギャバンが逃れていく国境の雪原(映画『大いなる幻影』の終景)でもあります。 つまり民族の「歴史」や「伝統」のなかでのみ「精神」も可能なのではないでしょうか。 どこか、無色透明で、中立不偏不党の空間において「精神」といっても滑稽なだけです。 この大震災のときに「他人への配慮を忘れない」という日本的な「精神」は何千年もの時間のなかで生え育ってきたものでしょう。 「我々は何者なのか」という問いが消える(ナンセンスになる)のは、こう問う者がおのれの本質(来歴)において生きるときであると、こう思います。 的外れな返答かもしれませんが、参考までに。

yuniko99
質問者

お礼

どうもありがとうございます 文には意味が在り それが精神に伝わりますねえ 意味をなさない時もある 場所もあるのでしょう 我々は何者なのか と言うのは己の本質において生きれば自ずと分るという事でしょうか? なるほど。ありがとうございます。

回答No.1

「精神の実体」に悩むのは、それに「物体」が対置され得る事に 於いてである(“自分”とは別に独立した存在性が外にある)。 その『物体』が脳の中の現象~認識される事によって有限化 した量子性(無=無限不確定性の潜在としての認識可能性= 自我仮説と、時空仮説の相補分化)である時、精神の在り処を 思い悩む必要はない。

yuniko99
質問者

お礼

何だか難しい言葉で 意味がよく分りませんが >精神の在り処を思い悩む必要はない。 という事ですね 自我と時空両方存在している様に思いますが その接点は性質という キーワードで繫がると思っています どうかお手柔らかに ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 精神の質は何質か 何で出来ているか?

    精神の質を「クオリア」という感覚質だという説明を見かけますが 私は普通の脳内物質や細胞 脳波などの自然の性質が 複雑に自我を形成してると思います。 これに関して考えがある人は どうかご教示ください 我々の精神、意識、自我は何で出来ているか 何質か。 次元が違うのでしょうか?

  • 私は精神は性質で出来ていると考えているのですが

    私は精神は性質で出来ていると考えているのですが 皆さんはどう思いますか? クオリアという考えもあるようですが 私の観測する限りでは この宇宙にはエネルギーと性質しかないと思えます。 精神は人間の性質としても働きますし 色んな性質を持っています 例えばカッターで物を切るという性質とか 車を運転する性質とか 人を抱く性質とか 懐中電灯で闇のなかを照らして見る性質とか 動物達が持っている性質も持っています。文字を読む性質などは脳内物質の働きでもありますが 脳のホルモン 物質 微弱な電磁波などの働きによって性質が実現してると考えます。 それは物質である酸素分子が性質お持つのと同じです。 どうでしょう?精神は性質で出来ていると言えるでしょうか?

  • 精神、性質、存在、を使って人間を説明してみました。

    この質問コーナーで質問して人間や存在のことが幾らか分かって来ました。 人間とは現実存在(実存)である。精神を中心としている。(人間は精神である?) 性質は存在で出来ている。性質と精神は同じ質である(仮説)(精神は性質である?) 存在とはハイデッガーの言う、定義できない空虚なものではなく 人間に限らず 実存の事を言うべきである。でないと不可解(人間は存在である?) ここから(仮説)「人間は脳を介した精神であり、それは性質で出来た存在である」 と考えてみましたが どうでしょうか? その人間である現実存在を実現しているのが無数の存在性なのです。 どうでしょうか?良いとこ、良くないとこをお教え下さい?よろしくお願いしますm(_ _)m

  • 精神も性質も目に見えず、情報を持ったものです?

    精神も性質もセイシ まで一緒です。ひょっとして語源も? 僕が考えられる範囲で精神の存在を説明するとすれば 脳の脳内伝達物質やニューロンの電気伝達や、ホルモンゃ脳波や・・・ そう言った物質的、エネルギー的現象の「性質面」 その様な現象によって目に見えない性質の反応が複雑かつ組織的に起こり 我々の知る自我、我、意識、心、精神を実現していると考えます(後は言葉の問題) 異論のある方は持論を御提示下さい よろしくお願いします。 精神は何ものであるか?です。

  • 精神は性質で出来ている か?

    私は色々考えた挙句 精神は脳の物質反応による性質のハタラキによって出来ていると考えます。 それ以外に説明がつきません そうだと言う方 そうじゃないと言う方の精神の存在の説明をお願いします。 性質というのは物質にもあり、生命・生物にもあり 人間にもあるものです。 性質とはその存在が持つ力 によるハタラキ そしてそのシルシでもあると思います。 これは結構大きな問題です。精神とは何か? 性質で出来ているか? [勿論環境(文明文化とか)や食物なども精神には関わってきます]

  • 人間は精神である。精神は人間の存在性である?

    人間と言うと体と頭に宿る精神と・・・と考えますが 私は極論ですが、人間とは精神の事だと言いたいです。 精神は人間の存在性であり。従って人間は存在性そのものです 存在しようという性質(のハタラキ)が人間なのです。 え~~~?という方も居られるとは思いますが そう思う貴方 貴方は精神ではありませんか? 精神がなくなったら、貴方ではなくなるのでは? 精神が存在性でなければ 人間は死んでしまうのでは? 存在性とは そのものを存在させる性質の事です つまり精神は性質なのです? おかしいでしょうか? 教えてください よろしくお願いしますm(_ _)m

  • 精神は性質で出来ている か?

     敢えて言うなら、私はこの世の中のものは全てエネルギーと性質が織り成していると考えているのですが(もしそうでないものがあれば上げてください 例えば霊が独立して存在する事はありません DNAは物質であり本能は性質です 情報も概念も性質です) では精神はエネルギーの一形態か性質か、最近では脳の働きもかなり解明されていますが(ニューロンや脳内伝達物質 脳内モルヒネや脳波 といった物質や微弱な電磁波など)、パソコンにたとえればハードが脳、ソフトが精神と考えていいでしょう。もちろんハードも大切ですが、インターネットにしてもゲームにしてもその情報をいくらでもコピーできるし、人に教えることもできます(エネルギー保存則に当てはまらない)。  精神も多くは親や環境から伝わってきた部分が多く、エネルギーとしての移動ではないでしょう。つまりソフトも精神も情報も物質ではありません、エネルギーでもありません、性質を言っていると考えるべきでしょう。少なくとも性質に反応していると言えると思います 例えば新聞の印刷でも物凄いスピードで情報をコピーしています  人間の精神も動物だった頃の神経の反応が複雑に反応し合った結果生まれてきたものです 原生動物では光や熱や水に反応します  それは外界や内部の刺激やサイクルで受けた性質に反応したものです 人間も色々なものを見聞きしますがエネルギーも脳まで入っていく訳ですがその反応も色々です その脳の性質として反応します 感覚神経から神経中枢に伝わり、脳の中で活発に神経伝達物質が反応しますが それは性質にそって反応しているのです 神経伝達物質はエネルギー(物質)としては微量ですが その命令で人間が行動を起こせばスイッチ一つで・・・ということにもなります したがって精神活動はエネルギーとしての存在ではなく性質としての存在が主であり問題になるのです。  精神は性質で出来ていると考えますが どうでしょうか?どうかよろしく。

  • 性質としての精神・人間存在、唯物・唯心の融合?

    私達人間は精神です、精神は性質で出来ています、性質としての存在が人間存在です 我思う処の我は 性質としての人間存在です。実存です。 実存でなくても客観視すれば世界が存在している事は自分が世界であることから間違いありません 物質が存在し その脳内物質の性質が精神としての実存を実現してる 唯心論と唯物論の融合です。人生観と世界観の根拠です。 存在性について語りたいのですが 分かる人が少なくて困っています。 誰か分かる人はいませんか?

  • あなたは精神ですか?

    私は人間です 人間の体を持っています 五体満足です(病気してますが) でも人間の体と人間の精神は別ものだと思うんです TVの受信映像機とテレビの番組の内容が別ものの様に。ハードとソフトですね。 で改めて私はどちらかと聞かれたら 私は精神だ と思います。 肉を食って糞をまってるのは命を持つ生々しい体で 精神はそれと関係はあるけれど 体ではなく 性質で出来た自我から意識と成り精神となった私であると思うんです。 だから肉体の食物連鎖と精神の競争は全く別だと思うんです。真似ることはありますが。 私は精神です。あなたはどうですか? あなたも精神ですか? 病気なんで短めに要点をお願いしますm(_ _)m

  • 精神は一体何で出来ているのでしょう?

    唯物論や唯心論。哲学の世界にはまだ両方在るようですが 精神、心、意識は何で出来ているのでしょうか? 感情は体の腸(はらわた)とか心臓とかも関係在りそうですが 理性を持つ精神は イデア界 我思う故に我あり 実存などとも捉えられ  形而上のものとも言われますが この宇宙をそして脳を隈なく探しても 霊とか神とかは心の問題としてしか出て来ません つまり宇宙にも脳にもクオリアを生じる為の特別なものは何もなく 在るのはDNAに従って飲み食い呼吸したものが組織化されて脳を構成しているだけです 私が知りえた限りでは 性質(全てのエネルギー・物質等が持つ)が精神を構成しているのだろうと 思うばかりです。 素粒子やヒッグス場のヒッグス粒子まで発見された今 形而上をなす精神・意識・概念・言葉は 一体何で出来ているのか それを明らかにするのが哲学の仕事ではないでしょうか? 是非賛否両論お聞かせ下さい。 精神は 一体何で出来ているのか? (出来れば簡潔に)