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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?)

大阪陣で豊臣方は負けずにすんだのでは?

Yelmの回答

  • Yelm
  • ベストアンサー率19% (63/324)
回答No.11

私はほぼ絶望的だと思います。 たとえ家康を討ったとしても豊臣方に勝ち目はほとんど無かったでしょう。 関ヶ原の頃ならいざ知らず当時、既に家康は家督を秀忠に譲って10年以上経っています。 実際に大坂の陣の時の総大将は秀忠です。 もちろんこの時点でも家康はただの「隠居した老人」ではなく、大きな影響力がありますので、その家康が討たれれば一時的に徳川方が混乱し、体勢を立て直すために一時撤収する事はあるかもしれませんが、総大将の秀忠が無事である以上、総崩れになる見込みは薄いでしょう。 つまり家康を討っても一時の勝利でしかなく、結局は体勢を立て直した徳川方に敗れる可能性が極めて高いです。 あと大坂方の敗因に淀殿が挙げられる事は多いですが、これも疑問があります。 別に淀殿が賢明だとか、正しかったとか言いたいわけでは無く、大坂方の戦闘を左右する程の影響力を行使したとされる通説はあくまでも豊臣家が滅んだ後のものであり、人物像が歪められた可能性が考えられるからです。 他の人も書かれているように、援軍のあてもなく籠城して狭い場所に押し込められると必然的に士気は低下します。 長期戦になれば兵糧も不足するでしょうし、内部からの裏切り者も出てくる可能性も高いです。 つまり冬の陣において大坂方が和睦したのは、やむを得ない判断であり、淀殿がどのような態度をとったかはあまり関係がないと思われます。 幕府が積極的に淀殿の人物像を歪曲したのか、それとも講談などで真田幸村や後藤又兵衛らを持ち上げる際の都合のよい悪役とされた結果なのかは分かりませんが、個人的に大坂方の敗因とするのは淀殿に対する過大評価だと思います。

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質問者

お礼

ありがとうございます。 しかし、家康を討たれて、そのまま徳川方は戦いを続けたのだろうか。 もし続けたのであれば厳しい戦いになったでしょうが、その時は撤退した可能性も十分あると思います。(別の機会に、秀忠、もしくは家光以降の将軍に滅ぼされた可能性は残りますが) また、和睦に応じた点についてですが、個人的にはギリギリまで粘ったほしかったですね。長期化すれば豊臣恩顧の大名や反徳川の大名が寝返った可能性もゼロではないんじゃないかと・・ まあ、難しいでしょうけどね。

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