- ベストアンサー
大阪陣で豊臣方は負けずにすんだのでは?
- 大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?
- 大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。
- 大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。
- みんなの回答 (12)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (11)
- kuma8ro
- ベストアンサー率40% (212/523)
- Yelm
- ベストアンサー率19% (63/324)
- sohcon
- ベストアンサー率15% (9/57)
- onbase koubou(@onbase)
- ベストアンサー率38% (1995/5206)
- bgm38489
- ベストアンサー率29% (633/2168)
- kingyo_tyuuihou
- ベストアンサー率30% (1237/4119)
- nankaiporks
- ベストアンサー率23% (1062/4474)
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1977/11763)
- 1
- 2
関連するQ&A
- 大阪の陣で城に命中した砲弾数について
豊臣家が滅んだ大阪の陣においては、大砲が活躍したいわれていますが、何キロも離れたところから撃っているため、滅多にあたらなかったという話を聞きました。 そこで質問なのですが、徳川方のその滅多に当たらない大砲は、何発、天守閣などの建築物に命中したのか記録が残っていますか? また、もう一つ質問なのですが、徳川方は大阪城の一番外側の石垣に触れることさえできなかったという話を聞きましたが、一番外型の堀の石垣とは、どこのことでしょうか? 大きな城には3重ぐらいの堀があると思うのですが、大阪の町まで囲った、天守閣から見て一番外側の3番目あたりの堀の石垣、という意味でしょうか。 よろしくお願いいたします。
- 締切済み
- 歴史
- 大阪の陣で上杉
歴史素人です 最近 歴史が好きになってきました 関ヶ原で西軍につき東軍の徳川に敵対した上杉家 ところが大阪の陣では徳川軍につき 豊臣軍と戦いました 私はガッカリしました 関ヶ原のキッカケになった直江状を徳川に送りつけた上杉が 大阪の陣では今度は徳川の手先になって豊臣と戦ったからです 私の感覚では関ヶ原で西軍につき東軍と戦った 真田幸村や宇喜多軍にいた明石全登や毛利勝永、長宗我部盛親 などは一本スジが通っていて 破れはしましたが 人間として尊敬出来ると思いました 考えが一貫してるからです なぜ大阪の陣で上杉は豊臣につかず徳川についたのですか? 単に徳川幕府の家臣になったからですか? この辺の事 判る方教えてくれませんか? 徳川にビビったのですか?なぜ徳川に尻尾を振ったのでしょうか? 関ヶ原の時の上杉家の心意気は何処にいったのでしょうか?
- 締切済み
- 歴史
- 詳しい方お願いします
大阪の陣で徳川と豊臣の和睦の交渉を常高院が行ったらしいのですがその和睦条件の中に外堀を埋めるのを家康は内堀まで埋めてしまったのは家康が常高院に密命をしたのでしょうか?しかも常高院の息子の京極忠高が工場奉行だった。常高院は息子の出世のために姉の淀殿を裏切ると知りながら和睦の交渉を行ったのでしょうか?工場奉行はなかなか手柄がたてられない役職と聞いたんですが・・・・詳しい方ぜひお願いします。
- 締切済み
- 歴史
- 大阪城は大砲の存在を考えて作られてますか?
大阪城は大阪の陣で落城していますが、その際は大砲が大きな役割を果たしたといいます。 有効射程距離が4キロから6キロあったとか。。 豊臣秀吉が1583年に築城した際(完成は何年でしょうか?調べても築城にとりかかった年しかわからないのですが。)、大砲は近畿圏など貿易の港から遠い地域にいる者がわかる程度に伝わっていたのでしょうか? また、そうだとしたら大砲の攻撃にも備えられるように作ってあったのですか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 歴史のIF 大阪の冬・夏の陣
大阪の冬・夏の陣の際、実際には大阪城には現役の大名が一人も入城せずに、浪人集だけがそれぞれの思惑により入城し豊臣方として戦いましたが、徳川方に敗れ豊臣家は滅亡しました。そこで、もし豊臣恩顧の大名がかけつけて大阪城内で政治や軍事の主導権を握ったならば、結果はどうなったでしょうか。 <例> 秀吉の正妻のおね(高台院) 前田利長(元五大老・加越能120万石の兵力36000名とともに) 福島正則(恩顧筆頭・芸備50万石の兵力15000名とともに) 蜂須賀家政(阿波17万石の兵力5000名とともに) 宇喜多秀家(八丈島脱出・元五大老・秀吉猶子) 高山右近(キリシタン大名やキリシタンたちに影響力絶大) 例えば、この6人が大阪城に入城して一致団結して徳川家康と戦ったら、歴史はどうなったと思いますか?皆さんの意見を聞かせて下さい。
- ベストアンサー
- 歴史
- 豊臣秀次をなぜ・・・
豊臣秀吉は往年、千利休や関白豊臣秀次など高名な人たちを事実上始末しています。 秀次については淀君(茶々)の間に生まれた秀頼との抗争を避けるため等々、色んなことを調べるとそう書いてます。とにかく大事で大事で仕方ない秀頼なのは解るんですが、おそらく秀次を外す頃には5大老の筆頭家老である家康とは過去、小牧・長久手の戦いなど複雑に絡み合って悶着しながら付かず離れず実際にはある程度距離を置いてます。 5大老の長、ということもあり絶大な信用もしていたのでしょうが、秀吉自身、徳川家康が着実に力をつけてるのは大阪から容易に知れ、危惧してたと思います。 そこでお聞きしたいのですが秀吉はなぜ、自身の老体も顧みず(歳が歳なのでそのうち死ぬだろうと予期できたはず)安易に秀次を処分してしまったのでしょうか? 幼い秀頼では心許ない、と旧友である前田利家なんかにも相談してますよね。だったらせめて格好だけでも豊臣性である秀次を残しておかなかったのか疑問です。そして逆に言えば、東国の家康を全く驚異に感じていなかったのでしょうか? 更に秀次が生きていたら(秀吉がうまいこと操って担ぎあげてたら)大阪の陣は起きていたでしょうか?また起きていたなら豊臣勢が有利に展開できたでしょうか?ifの質問ですが個人意見として参考になればと思いました。 質問が複数になり申し訳ありません。 なんだか矛盾を感じたもので教えて頂ければありがたいです!
- ベストアンサー
- 歴史
- 関ヶ原後の豊臣の衰退
関ヶ原の戦いの後、家康によって豊臣家の領土・勢力は大きく削がれますよね? 一応、徳川方の言い分としては、忠臣家康が奸臣三成一派を成敗した・・・というものであったはず。 だから主君である豊臣家が徳川方の大名達に、恩賞を与えなくてはならない という名目は分からないでもないのですが・・・ だからといって、豊臣家の身をあそこまで急激に削らせるのは、 いくら秀頼が幼いといっても豊臣家または豊臣恩顧の大名から異論や抵抗はなかったのでしょうか? あまりにもあっさりと家康が豊臣家の勢力削減に成功したように見えて不思議です。 家康はどのような手段を使ったのでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 豊臣秀吉と征夷大将軍について
豊臣秀吉は、なぜ征夷大将軍になれなかったのですか?小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れたため朝廷が難色を示したという説がありますが本当ですか?征夷大将軍より関白の方が官位は高いので関白になって正解でしたか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 大坂城の内堀
大坂冬の陣で講和した時の条件は堀を埋めるという事でしたが、徳川家康は堀をわざと指定せず外堀どころが内堀まで埋めるという狡猾な事をやり、丸裸にされた大坂城は大坂夏の陣で豊臣秀頼・淀君の親子もろとも落城の憂き目を見ることになってしまいましたが、 どうして豊臣方は内堀も埋められてしまうのを黙って見てるしかなかったのでしょうか? 内堀と言っても広くて大きいでしょうから、埋め立てるのにも日時が掛かるでしょうし、武力行使で止めようと思えば出来たはず。「内堀を埋めて良いとは講和条件にない!」と抗議して止めさせる事だってできたはずなのに、なぜ家康のながすままにされてしまったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- データの喪失からの復活方法を紹介します!データの消失は誤操作や故障などで起こることがありますが、復活させる方法はあります。バックアップを活用した復元やデータ復旧ソフトを使った復元など、さまざまな方法があります。データの重要性を理解し、復活方法を事前に学んでおくことが大切です。
- データの喪失からの復活方法を解説します。まずはバックアップを活用しましょう。定期的にバックアップを取ることでデータの消失リスクを軽減することができます。また、ソフトウェアを利用してデータ復旧を行う方法もあります。データ復旧ソフトを使えば削除されたデータを復元することも可能です。
- データの喪失からの復活方法をご紹介します。まず、バックアップの重要性を再認識しましょう。データのバックアップは定期的に行うことが必要です。さらに、データ復旧ソフトを活用することもおすすめです。データ復旧ソフトは削除されたデータを復元することができる便利なツールです。データの消失に備えて、復活方法を知っておくことが重要です。
お礼
遅くなりましたが、ありがとうございます。 おっしゃるとおりですね。 機を見て表に出て戦うのはリスクもありますが、そういう見方もできますね。