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豊臣秀吉と征夷大将軍について

豊臣秀吉は、なぜ征夷大将軍になれなかったのですか?小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れたため朝廷が難色を示したという説がありますが本当ですか?征夷大将軍より関白の方が官位は高いので関白になって正解でしたか?

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  • pri_tama
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回答No.5

>豊臣秀吉は、なぜ征夷大将軍になれなかったのですか?  足利将軍家を直に見ていた秀吉からすると、その地位に魅力有ったとは思えません。  (戦国時代には、将軍は多くの実力者の傀儡に成っていました。)  そもそも多聞院日記で、朝廷から征夷大将軍の任官を勧められたが断ったとの記載が有ります。  また征夷大将軍って内大臣(秀吉生前時の徳川家康) or 右大臣(織田信長や歴代徳川将軍等)が兼任する役職です。  そして、織田信長は天下統一前に右大臣になり、その先を考えてか一端辞任(子の信忠に譲る為?)しています。  と言うか、太政大臣と言う地位は、複数の足利将軍や織田信長に追贈された地位です。  秀吉は明らかに彼らより実力が上だと自認(信長を見下すような言動も残っている)している訳ですから、彼らが没後追贈された太政大臣に生前に就任する事で、彼らを超える天下人である事を世に示したかったのかと。  ⇒基本的には太政大臣は天皇の師たる臣と言う地位なので、特別な事情が無いと摂政・関白に成った者がなる地位。  (関白ですら目的の途中…。)  また征夷大将軍が武家の棟梁という認識に成ったのは、江戸時代との説が挙げられています。  ⇒そもそも太政大臣は徳川家康ですら亡くなる直前に就けた地位なので、その後の歴代将軍ですら就任するのは躊躇われる官職と成りました。    少し時代が下がりますが江戸時代最初に太政大臣に成った近衛基煕は、太政大臣は武家の官位で、未成年の天皇が元服する際に慣例で、太政大臣が天皇へ加冠するのなら、その任は徳川将軍の上洛を仰いで太政大臣に任命して、その任に充てるべきと主張しています。  天下人で絶対の権力が有る秀吉が、出自が問題でその地位に着けないと言うのは、江戸時代の林羅山らの主張(江戸幕府に忖度している)であって秀吉時代の信用できる資料ではありません…。  ⇒勿論、公家の反感は酷かったでしょうが、表立っては言えない…。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

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回答No.4

征夷大将軍は「家柄」が重要です。天皇(朝廷)にとって北方の蝦夷(平安時代の頃は秋田、岩手、青森と北海道以北)が最大脅威だったので、もともとは蝦夷を討伐出来る力量のある武人に対する最高称号でした。又、天皇の権威を示すために、家柄を最重要視したのです。秀吉より前の将軍はすべて源氏の系統だけです。百姓出身の秀吉はこのことを熟知していたので、征夷大将軍の称号ははなから諦めていました。尚、その後の徳川家も源氏の末裔です。

  • takochann2
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回答No.3

征夷大将軍は武家のトップと言う意味です。 関白は天皇に次ぐ公家のトップと言う意味です。 もちろん征夷大将軍を指示するのは上に立つ関白です。 しかし武家を直接的に従わせるのが目的なら征夷大将軍が適切でしょう。関白の意向を受けて征夷大将軍が諸国の武家を支配するという感じになりますので直接的でないのが難点です。当時は現実的には関白から征夷大将軍に強い指示が出るとは思えませんので、ならば征夷大将軍が良いという事になる。

  • eroero4649
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回答No.2

征夷大将軍は「武家の棟梁」です。その武家の棟梁は、源氏(清和源氏)じゃないといけないという決まりがあります。 中世の日本においては(日本に限った話ではなく中世という時代は世界中全般的に)「血統」というのが何よりも大事だったのです。昨年の大河ドラマの「鎌倉殿の13人」では、みんな文句をいいながら源頼朝に従っていましたが、なぜ東国武士がみんな頼朝に従ったのかというと頼朝が「優れた血統の持ち主」だったからです。その人の人間性じゃないのです。どこの血筋なのかが一番大事なのです。それは現代でも天皇家はそうですね。「立派な人物が国民の中から選ばれて天皇になる」ではなく「血統で選ばれる」ものですよね。 秀吉は武家の出身ではないので、征夷大将軍は無理なのです。というか、本来はどこの高い官位にも就けないのです。当時において農民はそもそも人間に扱われていません。秀吉が「猿」と呼ばれていたのは、そういうニュアンスもあるのです。お前は人間(武士)じゃなくて猿(農民)だよなって。「秀吉は指が六本あった」という話もあるのですが、それは事実である(多指症というのは確かに存在します)という説と、秀吉は農民の出身だから(身分がしっかりした)人間ではない侮蔑の意味を込めたものだという説があります。 そこで公家である近衛前久の養子になるという手段をとって、藤原氏になることができ、なので関白になることができたのです。 で、その後に「豊臣」という姓を賜っています。これは源平藤橘に続く新しい姓として作られて秀吉に与えられたのですが、ここまで読めばだいたい分かりますよね。秀吉が偉大な存在だったから源平藤橘と同格の新しい姓を作ったというより、公家や武士からすると「人外」の存在である秀吉を自分たちの源平藤橘のグループの中に入れたくないから新しい姓を作ってそこに放り込んでしまえとなったんだろうなってことがね。事実、豊臣は秀頼の代で途絶えて現代には続いていません。 実際のところは、秀吉には官位の選択権はあまりなかったといえるでしょうね。本音は公家の皆さんは「なんで農民に高い官位を与えないといけないんだ。官位が穢れる」と思っていたと思いますよ。 家康が征夷大将軍を選んだのは、東国である江戸で幕府を開いたからというのが関係していると思います。征夷大将軍の幕府というと、誰もが鎌倉幕府を思い浮かべます。「鎌倉幕府に習い、東国に幕府を開いた」というと特に東国武士の求心力は高かったと思います。幕末の倒幕となると、倒幕側は西国が多く、幕府側は東国が多かったですよね。そして明治になると、西国では威信はあったけれど東国では威信が及んでいなかった天皇の威信を広げるために、天皇は江戸(東京)に居を構えました。関東は平将門の乱の昔から、アンチ京都なんですよ。もちろん私(東京生まれ)もアンチ京都です・笑。

  • sutorama
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回答No.1

各部下・・各武将に「陶器」や「馬」や「刀」や「領地」を与えることで、信頼や忠誠を求めた時代がありました しかし、裏切りが当たり前の戦国時代、特に秀吉は調略によって敵である武将を仲間にしてのし上がった人です 故に、各武将に上記の物理的なモノを与えるのではなく、官位(地位)を与えることができる関白になった・・というのが歴史です

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