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御醍醐天皇、隠岐の島へ護送された道。
一行は、元弘2年3月7日に六波羅を出発し、鳥羽離宮で昼食しています。 ここから隠岐の島への道順を簡単でよいですから教えて下さい。 舟で瀬戸内海へ出たのですか。 また、京から北へ山陰道を選ばなかったのは何故ですか。 よろしくお願いします。
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ご回答ありがとうございます。 やはり陸路のようですね。 山陽道を選んだ場合、天皇の奪還を企む勢力もいたそうですから、また一行には女性が3人いましたから、舟を利用してなるべく早く姫路あたりに着いて、そして山越えの美作路へ進んだのではないかと想像していました。 太平記には、 …五百余騎にて、路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て、弓箭帯せる武士共、前後左右に打囲奉りて、… とありますから、天皇とはいえ謀反人を護送する態勢です。 こんな先入観念があったものですから、「野中の清水・ふたみの浦・高砂の松など、名ある所々御覧じ渡さるるも」とは意外でした。 「御醍醐天皇、隠岐へ配流」という字面からは思いもせぬ様子が分かりました。 『増鏡』も『太平記』も後世の回想記ですから、山陰道は物騒だったからとは書けず、山陽道を悠々と護送された、という筋書きになったのかもしれません。 とはいえ『増鏡』で決まりですね。 すっきりしました。