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聖母マリアは 聖霊と精子との両方により身ごもった

kurinalの回答

  • kurinal
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回答No.8

bragelonne様、こんばんは。 「懐胎するためには、男女の交わりが必要だ」というのは、 二千年前にも「常識」だったのでしょう。 あれ、でも、聖母とヨセフは「そんなこと、してないのに?!」と いうことでは、なかったですか。 (即ち、「イエスとヨセフとは、生物学的には?何も無い」と、 そういうことになるのが、スジでしょうか・・・ でもイエスは「完全な「人間」だった」とか、説かれるのですよね)

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ▼ (ヰキぺ:処女懐胎) ~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6%E5%A5%B3%E6%87%90%E8%83%8E  § マリアの懐胎  マリアの処女懐胎が記述されているのは、新約聖書の福音書中では、マタイによる福音書とルカによる福音書である。  どちらも聖霊により身ごもったことが記述されている(マタイ伝 1章20節、ルカ伝 1章35節)。  処女懐胎の記事は、両福音書が参考にしたマルコ福音書、また、マルコかルカの福音書を知っていたかもしれないヨハネが記した福音書には、言及はない。  マタイ福音書では、天使のガブリエルの告げる言葉が、七十人訳聖書(ギリシア語訳の旧約聖書)のイザヤ書からそのまま引用されている。即ち、    「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。    その名はインマヌエルと呼ばれる」     (マタイ伝 1章23節、イザヤ書 7章14節)    この伝承をヘレニズムに由来するものと考える研究者がいる(H. ケスター他) 。新約の諸文書は、ヘブライズムだけでなくヘレニズムに大きな影響を受けており、実際にこの種の伝承は、当記事の例にもあるように地中海やオリエントの神話に見られるもので、珍しいものではない。  処女懐胎の物語は、イエス・キリストがその誕生から神の子(神性)であったということを明示する意図を持っている。  しかし、マリアに関しては全く神聖視していない。マリアを普通の女とみなすのは、マルコやヨハネも同じである。  後に、キリスト教が他の地中海世界に広がるに際して、処女信仰や太母神信仰と複雑に絡み合い、カトリックや東方教会ではマリアは聖母として崇敬の対象となり、処女懐胎は最も重要な教理の一つにまでなった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうでしょうか。  次の二点が おもな内容だと思います。それを たたき台のように表現しています。  ▼  処女懐胎の物語は、イエス・キリストがその誕生から神の子(神性)であったということを明示する意図を持っている。  ▼ しかし、マリアに関しては全く神聖視していない。マリアを普通の女とみなすのは、マルコやヨハネも同じである。  ☆ イエスは ふつうの人間です。キリストは 神の子でありみづからも神であるその神を――霊としてですが―― 指し示すことばです。つまり イエスが 人間であると同時に神であったと言おうとしています。むろん いわゆるドグマです。《非思考の庭》における主観的な思いないし見方です。

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