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聖母マリアは 聖霊と精子との両方により身ごもった

NemurinekoNyaの回答

回答No.3

こんにちは。 ☆「お釈迦様は脇の下から生まれた」というのと同じように ◇という話がありますが、 このお話は、実は、 ───────── 『リグ・ヴェーダ』に収載された「プルシャ賛歌」によれば、神々が祭祀を行うにあたって原人プルシャを切り分けた時、口の部分がバラモンとなり、両腕がラージャニヤ(クシャトリヤ)となり、両腿がヴァイシャとなり、両足はシュードラとなった、という http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3 ───────── というバラモンの《原人神話》が伏線になっているんですよ。 ですから、 「お釈迦様は脇の下から生まれた」は、 お釈迦様はクシャトリア階級出身だ、 ということを意味していま~す。 ですから、 ゴータマさんの出生に関する、この話はそれほど不思議な話ではない。 「ゴータマさんは、不思議な生まれ方をしたのだ」と考えていけない・・・。 マリアとの関係性を取り上げるのならば、 ───────── 『ラリタ・ヴィスタラ』(『普曜経』、『方広大荘厳経』)などによれば、マーヤーはヴァイシャーカ月に6本の牙を持つ白い象が胎内に入る夢を見てシッダッタを懐妊したとされており、その出産の様も、郷里に帰る途中に立ち寄ったルンビニーの園で花(北方伝ではアショーカ樹(無憂樹)、南方伝ではサール(娑羅双樹))を手折ろうと手を伸ばしたところ、右脇から釈迦が生まれたと伝える。これは『リグ・ヴェーダ』10.90.11-12 プルシャの歌でプルシャ(原人と訳されることもある)を解体した際、両腕からラージャニアが生まれたことから、ラージャニアすなわちクシャトリア階級の出産は脇から生まれたと表現されることによる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E8%80%B6%E5%A4%AB%E4%BA%BA ───────── の話の方がいいのでしょう。 マリアの《受胎告知》と、この話はよく似ている、 と思います。 《白い象》は、 大乗仏教では、 普賢菩薩が乗っているもの、普賢菩薩の《アトリビュート》ですので、 この話は似ているんです。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ そうなんですか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「お釈迦様は脇の下から生まれた」は、  お釈迦様はクシャトリア階級出身だ、  ということを意味していま~す。  ですから、  ゴータマさんの出生に関する、この話はそれほど不思議な話ではない。  「ゴータマさんは、不思議な生まれ方をしたのだ」と考えていけない・・・。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ じつは――おっと まづは ねむりねこさん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。――なんだか見え透いた虚構のように感じていましたから 直前の回答でのやり取りでは パスしました。  出身階級を表わすのなら なんでもないことなんですね。  マーヤー夫人が郷里へ帰る途中に出産したうんぬんなどなど。これについては わたしの印象では マリアの出産のほうが 単純でいいように思います。  ベツレヘムの宿で ふつうの部屋ではなく馬小屋を当てられたというのは お腹が大きかったのでもし分娩するに到ると 不浄と見られる。ゆえに 一般客から離れたところに宿りした(させられた)。という解説を読んだことがあります。ごくふつうで 単純な話だと考えます。

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