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聖母マリアは 聖霊と精子との両方により身ごもった

aran62の回答

  • aran62
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回答No.7

一般理論であれば処女が懐胎をするとは考えられない。 これはキリスト教徒だけの自宗教に盲目的に信じた結果である。 普通の女性が処女で妊娠をした。だれが信じる? これを土台に考えれば不義密通の結論もありうるのである。

bragelonne
質問者

お礼

 あらん62さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 一般理論であれば処女が懐胎をするとは考えられない。  ☆ そうですね。微妙なところがあると思います。  一般性と言っても 神と信仰および宗教にかんするものであるのですから それこそ一般に神学というものには 特異な内容をふくむという場合もあるかと考えます。すなわち   第三章 特異な内容のオシエ――イエス・キリストという補助線説明について――  については もろに経験合理性による説明をあきらめなければならない部分が出て来ると覚悟のうえでの一般理論です。  けれども 経験思想として一般性を持つ内容とそして非経験の場をめぐる想定上の・虚構としての神学内容とがあって これをなるべくきちんと区別して捉えるなら 或る程度は一般性を持ち得るのではないかと踏んでもいます。  ですから まづふつうには 処女は懐胎しない。ヨセフとのコイトスなる経験行為を経ているはずだ。というのが 人間の貌としての側面であり 他方 同時に――同時にです――神の貌としては 聖霊によって 処女のまま 身ごもったという仮説です。――これら両面を見るかたちでの理論です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  これはキリスト教徒だけの自宗教に盲目的に信じた結果である。  普通の女性が処女で妊娠をした。だれが信じる?  これを土台に考えれば不義密通の結論もありうるのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 最後の一文でのご見解は そのままおっしゃるとおりだと考えます。  ただしその《土台》は その内容も受け取り方も たぶん違うと考えます。  《盲目的に信じる》のは ワケの分からないナゾの何ものかなる神をです。神だけをひとは信じるのです。  聖書記事やオシエは 人間は《考える》ものです。  女性が妊娠したと聞けば これは 信じるのではなく 考えるものです。  もし仮りに コトバのナラワシによって 信じるとも言う場合があるとすれば それは 信じるの第一義としての《非思考において受け容れる》ではなく そうではなく《考えることをすべておこなった結果 なお分からない事態や事情がある。そのときそれでも これこれというひとつの見方が妥当性がありただしいとつよく願い思う》といった意味合いで使っているのでしょう。つまりこれは 《考える》の次元にとどまりおさまっています。  ただしたしかに 盲目的にそれがただしいと思い込む場合はあるようです。そしてそのことを《信じる》というコトバで表わす場合です。  ですからクリスチャンに対しては それは――オシエを《信じる》というのは―― コトバのあやまった遣い方であると指摘してやらねばなりません。  この点は おおむね最初の段落で説明し得たかと思います。  こういった感じになるかと思います。どうでしょうというのが 問いです。

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