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イエスはヨセフとマリアとの子であり神の子でもある。

 (あ) イエスは ナザレの人たるヨセフとマリアとのコイトスによって生まれた子であり ふつうの人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。  言いかえると  (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。  (う) イエスは 神の子でありみづからも神であるゆえに イエス・キリストと呼ばれるわけであるが その《人間であるイエスが キリストなる神である》というのは 大嘘でありひとつの物語である。  (え) ただし この虚構によって 神は――世界のどんな名の神も 神という神は  《無い神》をもふくめて―― すでに要らないと見なされるかたちで 揚棄された。  (お) だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神などはいないとか いや いるんだとか いちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。  どうでしょう?

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  • ベストアンサー
noname#205416
noname#205416
回答No.1

「神の子」とは 全人類の事を指すのです・・ 万物と人間の決定的な違いが たった一つだけあるのです・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ぴんぐずさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  趣旨説明で叩いた大口について 情報の持てるかぎり説明してまいります。  ★ 「神の子」とは 全人類の事を指すのです・・  ☆ ええっとですね。この《神の子》というときには ふたつの意味に分かれると思います。  ひとつは イエスが人間であると同時に みづからも神であるという意味において神の子であると言う場合です。  これは 言いかえると 父なる神と子なる神とは 同等であり一体であるという意味になるはずです。  もうひとつは このイエスが指し示した神は ほかの名前の神とひとしいと言っているわけですから 神という神を心に受け容れている人にとっては――と言っても受け容れていないという形で受け容れた《無神論》の場合をもふくむことになるのですが したがってすべての人にとって―― 〔イエスが指し示した神は〕すべての人類の親であることになります。  すなわち おおせの通りに 全人類の一人ひとりが 神の子です。  では 同じ言葉で言っているが どう違うのか?  イエスはキリストとして 完全な普通の人間であると同時に 完全に神である。  われわれ人間が 生まれついた自然本性のもとに人間であると同時に――物語の上で・理論じょう――それぞれが神の子であるというのは おそらく神の聖霊をやどしていることだと見ます。それも おそらく完全にではなく 部分的にではないかと考えられます。  人間はそれぞれ神の霊を分有している。  ★ 万物と人間の決定的な違いが たった一つだけあるのです・・・  ☆ 人間よりほかのものごとについては この人間が そのような万物は神の霊を受けていると見なすかたちになりますから 少し違いがあると考えます。

その他の回答 (19)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.20

>「というと くりなるさんは 処女懐胎をそのまま信じていることになりますが そうなのですか?」 ・・・聞いただけ、です。

bragelonne
質問者

お礼

 聞いたあとのご自身の見解を明らかにしてくださいますか。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.19

B様、こんばんは。乱入いたします。 「ヨセフとマリアは、「そんなはずでは!?(有り得ない)」と、いうことだった」と、聞きました。 ・・・どちらかが、ウソをついているのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。書いてある文字通りに受け留めれば そうなりますね。    というと くりなるさんは 処女懐胎をそのまま信じていることになりますが そうなのですか?  ご回答をありがとうございます。

noname#205439
noname#205439
回答No.18

嘘かどうかが問題では無いのです・・・ イエスがキリストかどうかも問題では無いし 神が居ようと居まいと それも問題ではありません・・ 要は 人間の寿命 約100年・・・その後は死あるのみ・・ 次世代が幸せに暮らせる世の中を現代の人が考え実行するか 次世代に任すか・・だけなのです・・ こんなにも醜い世界 そして こんなにもポイ捨てゴミで汚れてる日本に 自分の子孫を残すのか!?  と言う事です・・ つべこべ言う前に ポイ捨て空き缶の一つでも拾って 子孫の手本になりなさい・・ じゃ~バイバイ(^o^)/

bragelonne
質問者

お礼

 バイバイ。  ご投稿をありがとう。

noname#205439
noname#205439
回答No.17

「同じことを ふつうの人がやろうったって 出来っこない」←これなら どうやってイエスはイエス以外の人類を救うの!?・・ 他の人が出来ないのならイエスだけが救える訳だから ウルトラマンでも何でも変身して救うしか方法が無いでしょ・・!?

bragelonne
質問者

お礼

 イエスは 人間である父母から生まれた人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。と言ってるぢゃないですか。  ご回答をありがとうございます。  キリストなる神つまりあるいは聖霊によって ハタラキをおこなった。それだけのことです。  もうちょっと言うと 人間イエス=神キリストという図式は――それにもうひとつのペルソナである聖霊なる神を加えて いわゆる三位一体の神を言うことにつながっていますが―― 問題は そんなこと(人=神)が 人間に信じられようか。ということにあるでしょうね。  そういう物語なのだという説明が ひとつあります。  でも大方の人びとは納得行かないでしょう。だから わたしは――これはわたしの専売特許ですが―― イエスは 自分が人間であると同時に 神の子であり父なる神と同等であるからにはみづからも神であるという大嘘を言ったのだと。と言って説明しています。  まだまだ議論は この件については尽きませんが。

回答No.16

Baragelonneさん おはようございます。 補足、追伸です。 本の紹介ありがとうございます。しかし、現在、図書館の書庫でコピーした資料と古本屋で買った本に埋まった部屋で生活しており、とにかく、つん読(積んどく)にならないよう、現在、これ以上、コピーや本の出費を抑え、あるものを消化吸収中です。 ところで、ここまで回答すると私はキリスト教徒と思われるかもしれませんが、洗礼を受けていません。私の私見でいうと、日本において、bragelonneさんのように、キリスト教、仏教、無神論やその他の宗教にも受けいれられる哲学を考えるのもいいと思いますが、現状ではそのような哲学はまだ早く、この哲学カテで知りましたが、教会にも神社仏閣にも行かないが家の神棚には毎日祈るという日本人の信仰も良いと思っており、そのような人に無理に宣教や布教したら、ますます宗教アレルギーになると思います。 それぞれの宗教に帰依した人は教えを個人として守り信仰し、他の人には無理に干渉しない。宗教的な教義の論争となるのでなく、いかに日本において共存すべきかを考えることが大事という考えです。 さて、お礼に対して補足します 「★ キリスト教を信じない人 ☆ この表現はいただけません。一般にはジョウシキになっていますが ひとは《おしえ》を信じるのではありません。それは 《考える》です。信じる(無条件に受け容れる)のは 非知なる神であり ほかにはありません。」 信じるという言葉を信仰という言葉に変えたら、いいのですか? 聖書にこのようなイエスの言葉があります。 「命を与えるのは霊である。肉は何も役に立たない。私の言葉は霊であり命である。しかしあなたがたのうちには信じないものがいる。」 ヨハネによる福音書6章63節~64節 アウグスティヌスの「告白録」を読むと、アウグスティヌスはラテン語の「cor」という言葉を多用してますが、これは「心臓」という意味だそうですが、「心の奥底」と訳すこともできるそうです。イエスがサマリア人から井戸の水をもらう場面の教えである、心の奥底に枯れることのない命の泉があるのではないでしょうか。このような心は現代科学が追求している脳にあると考えますか?アウグスティヌスやアリストテレスの言うように心臓にあるかもしれない。科学的にわかってないので何とでも言えます。また、「考える」とのことですが、考えるばかりで行動しなければ、何の意味もない。イエスが言ったように、「もっとも小さい人にしてくれたことは、私にしてくれたことである。」のように、困っている人に愛という行為を示す。哲学カテで討論しているより、世界における難民のためや東日本大震災の復興に尽力する人達のほうが、無神論者であっても、数段、「考える」だけよりレベルの高いと思いますよ。 「★ 体は霊魂の墓場であり ☆ これは 摂りません。天地創造のものがたりにおいて 神は創ったものをみて みな《よし》と言っています。むろん 人間のからだにしても よし なのです。どこが 墓場ぢゃ? 誰が墓場と言うたんぢゃい?」 これは、書いたように、ユダヤ教のフィロンの説でキリスト教の考えではありません。補足するとフィロンは天上の原初の人間は体を持たない霊的存在であり、男女の性差もなく、個別的特性も持たない不滅の人間と考えたようですし、アウグスティヌスは世界は時間と共に創造され魂と体は創造の起源において、それぞれ異なって、神は魂を万物を造るときに同時に創造したが、体は定められた時に現実化して魂と結合すると考えたそうです。 bragelonne哲学には「時間」の概念はあるのですか?ふたりは上述の時間的考えの下に、現世を考えてます。 しかし、私は前に回答したことがありますが、実存主義者であり、生まれる前の世界がどうだったとか、死後どうなるかはあまり追及しません。 現世において、いかにこの哲学カテのpsytexさんが、よく説く「馬車馬の前のニンジン」の富や名誉などのはかないものに目を向けず、よりよく生きることを目指しています。

bragelonne
質問者

お礼

 取り急ぎしたためます。  《自由意志(または 理性ないし思考)とめぐみ(自由意志ないし人間を超えているもの)》との照らし合わせは ひとつの主題です。  宗教は オシエです。オシエは 《理性ないし思考》の問題です。《めぐみ》によって――ヒラメキをとおして――得たのでしょうが 言葉にして表現された段階では 《信じる》ものではなく《考える》ものに成り切っています。観念を信じてはなりません。補助線を神本体として信じることになります。  だからキリスト教の《教》というのは 宗教としては・つまり信仰の成れの果てとしては そう言わざるを得ないとしても 信仰にとってはマチガイです。(アウグスティヌスも 目に見える教会つまり組織にもとづいて 信仰を説明しました。マチガイです。目に見えない教会――ふつうの共生としての共同体――ならいいでしょう)。  ★ イエスが言ったように、「もっとも小さい人にしてくれたことは、私にしてくれたことである。」のように、困っている人に愛という行為を示す。  ☆ これが オシエです。わたしたちは オシエを守るのでなく――ましてや信じるのではなく―― 神を心に受け容れ そこに成った信仰の動態として生きる。そこにあたかもオシエとして表わされた内容のことを思惟していたり行動していたりする。と知る。のです。前もってオシエを規範として行動するのではありません。  倫理規範や道徳律などというものは くそくらえです。    へんなところで切り上げますが 昼ごろまで土曜日の朝は 出かけます。

bragelonne
質問者

補足

 あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  小論《シンプリキアヌスへ》は 『アウグスティヌス著作集 第4巻 神学論集』におさめられています。  モーセの律法をめぐる問題と恩恵のはたらきをめぐる問題をパウロが議論しているところにもとづき説明したものです。  人によって違いがありますが 後者の恩恵論でわたしは目が開けました。  ★ 教会にも神社仏閣にも行かないが家の神棚には毎日祈るという日本人の信仰も良いと思っており、  ☆ こういう人びとにとっての神が 同じ神だとイエスは指し示したものと考えます。  オシエや倫理規範に頼ることなく 日から日へ共生生活を送るあゆみ。そしてそのいとなみの内に信仰があるというかたち。です。  もっともそういったムラの人びとは 先祖からの言い伝えを後生大事に守っているという側面もあります。  ふるいからダメだとは言いませんが(言えませんが) 陋習からは離れて欲しいとは思います。  ★ それぞれの宗教に帰依した人は教えを個人として守り信仰し、他の人には無理に干渉しない。宗教的な教義の論争となるのでなく、いかに日本において共存すべきかを考えることが大事という考えです。  ☆ (1) オシエに帰依するというのは 偶像崇拝です。補助線を神本体だと見做し思い込むことです。  (2) シュウキョウというのは 信仰から逸脱してそのかたち――特にはオシエと集団性――を採ったところから 無効の行為が始まっています。意味のない活動が延々と続いています。全面否定します。  (3) オシエ(知の対象)を信仰するというのは 言葉じたいの矛盾です。  (4) オシエを守ることは いわゆる信念の問題としてあり得ますが・そして信念としてでも立派なことを達成したという場合がいくらもありますが 信仰の徒としては 間違った歩み方です。信じるゆえにオシエの内容が守られ得ているといったかたちを思っています。  (5) もっとくどく言えば そもそもオシエないし律法は すでにその初めから 信仰をとおして神の恩寵を得てこそ そのオキテや決まりを守ることができるというものでした。人間が能力と努力とをむろん傾けますが そのおこないによってオシエを守り切ることは出来ないというふうに分かっていました。  (6) ハバクク書の初めのほうにあったはずです。義人は信仰によってあるくと。道徳堅固は 基本的にお呼びではないのです。その行き方が違っていると見なければなりません。  (7) パウロが言うには アブラハムは 律法のオシエを守ったから義とされたのですか? であり いいえ 信じたから義とされました。とあります。(ローマ書かコリント書でしょうね)。  (8) 律法は おのれが自分の良心にさからい神に対して罪を犯しているということを認識し自覚するためにだけあります。  (9) ただしそれが得られたのは 信仰をとおしてです。つまり律法も聖であるのですが それを理性や信念としての努力で守ることが われわれの行き方ではない。補助線の向こうに神を得ています。  (10) シュウキョウについてはそのオシエをめぐって これはそれこそ徹底的に議論しなければいけません。あらそいのためではないことは 分かり切っていることです。  (11) オシエは 人間が考えるものです。マチガイは正して行くものです。干渉になろうとも 教義にかんしては とことん議論しつくさねばいけません。共存すべきは どんな名の神をその人がいだこうとも それを互いに受け容れ共同自治してあゆむことです。シュウキョウは 百害あって一利なしです。  ▲ 命を与えるのは霊である。肉は何も役に立たない。(ヨハネによる福音書6章63節~64節)  ☆ この《肉》は むしろ――拡大解釈になるかも知れませんが―― 《身と心》のことです。肉体と精神とをふくむ広義に用いているとも考えられます。  つまりは 身と心とから成る自然本性のままでは――つまりその潜在するチカラとしての霊のハタラキを潜在のままにしていては―― 何の役にも立たない。ということだと見ます。  では その聖霊のやどる神殿は からだのどこにあるか。  ★ イエスがサマリア人から井戸の水をもらう場面の教えである、心の奥底に枯れることのない命の泉があるのではないでしょうか。  ☆ 《心の奥底》なのでしょうか。  これは 一案としてですが パウロは あなたがたの肉(身と心)が 神の神殿であると言っていたとしたら 自然本性の全体でしょうね。人間なる存在の全体が 神殿なのでしょうね。  心なり心の奥底という表現は たぶんそういう言い慣わしがあって 分かりやすいように使っているのではないか。問題提起しておきます。  ★ 「馬車馬の前のニンジン」の富や名誉などのはかないものに目を向けず、  ☆ それが 律法主義です。オシエを信じる偶像崇拝です。  では どうするか。ニンジンも富も名誉もその他その他はかないものをも すべて 利活用すればよいのです。一人ひとりがそれぞれ我れに還り わたしがわたしである生活を互いに送ることが出来るように 共同自治して行く。その過程で 利活用しましょう。  さもなければ 視野が狭い。神とその信仰に恃むのではなく おのれの人間としての知性や矜持やあるいはけっきょくプライドのたぐいのものを 神のめぐみよりも後生大事にしている。むろんそれも自由ですが 境地が狭いでしょうね。

noname#205439
noname#205439
回答No.15

「イエスの場合と ほかのわれわれの場合とで違うと言っています」←んっ!?・・ 何処が違うの!?・・・神は どんな事も差別しませんよ・・ だから 同じ形でイエスを送り込んだのですよ・・・ イエスだけ違うのなら もっと十字架に架からないで済む様に その当時の偶像と同じ格好で現れてたら 誰もがイエスをキリストだと信じた筈です・・・ もっと 勉強しましょう・・脳で無く 心で・・・

bragelonne
質問者

お礼

 もしイエスが キリストとして神でもある存在でなかったら 罪もないのにハリツケになり それでもたとえばローマ総督やユダヤの最高法院の議員たちを憎まなかった。それは 人間としてけなげなことだ あぁ 立派な人だったなぁ。でおしまいです。そこまでは たたえられますが それで おしまいです。  人間のからだが 聖霊のやどる神の神殿であるとは 言われなかった。言っても 人びとは信じなかった。  あるいは もし神であるだけであって人間でなかったなら 十字架じょうにあるとき ローマ兵士らから おい おまえ チカラのある神の子ならそこから降りて来たらどうだと言われて 仮りにじっさいに降りて行ったらどうなるか?  奇蹟が何だと言うんだ それは ただ神だから出来たことだ。でおしまいとなります。話が つながらない。人びとが部分的にであれ神の子となる資格を与えられるといった話も 半分眉唾ものとなってしまう。  以上の全体――人間であり同時に神である――そういうかたち あえて言えば神を指し示すための手段 これが使われている。  神の霊を分有するだけの人間には これは 出来ないことなのです。  なぜなら イエスが十字架上に去って行ったからこそ イエス・キリストなる神の背面が 人びとに見られるようになったのだからです。同じことを ふつうの人がやろうったって 出来っこない。  ★ 何処が違うの!?・・・神は どんな事も差別しませんよ・・  ☆ 以上の事情は 神と人とが絶対的に隔たっているということを言ったまでです。  人間については 人間であるイエスについてもほかの人間についても みな同じです。  神キリストは 同時に存在することであっても 別です。  別であるにもかかわらず 聖霊は 人びとにそれぞれ普通にかつ平等にやって来ています。  ご回答をありがとうございます。

  • eld3399
  • ベストアンサー率4% (16/345)
回答No.14

マリアはある古代人の末裔であり、彼を誕生させるために選ばれた女性であったといわれています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《女性》ということは 人間ですね。  ありがとうございます。

回答No.13

bragelonneさん こんばんは。 私には、現在のbragelonneさんの学説はかなり脱線して、キリスト教からは猛反発を食らうと思います。 私の私見ですが、もしマリアとヨセフが性交して、イエスが生まれたなら、十字架の後に墓場に人間たるイエスの遺体が残っててもいいと思います。 キリスト教を信じない人には、聖書は非科学的な話ばかりで、湖を歩いたり、死者をよみがえらせたり、5つのパンと2匹の魚から5千人もの人に食事をあたえたりという、しるし(奇跡)の羅列です。 しかし、キリスト教の要諦は、イエスがキリストであって死んだ後、復活したという非科学的な奇跡を信じることにあります。十字架の後、復活せず、ただの人間として死んだなら、イエスはただのイエスでキリストである神の子ではなく、宗教となるような信仰は生まれなかったと私は思います。 聖書の中で、哲学的といわれるヨハネの福音書1章ををもう一度読み直してみてください、言葉(ロゴス)が肉となったとあります。み言葉が肉となったのです。 ロゴスはギリシア時代まで遡るとヘラクレイトスによって「比率・言葉・理性・理法」という意味で語られますが、キリストと同じくらいの年代に生きたと思われる、ユダヤ教のアレクサンドリアのフィロン(B.C.20~A.D.45)によるとロゴスを「神の精神・思想」として、神と世界を媒介するロゴスがあってロゴスを原型とする人間の魂は体という牢獄につながれていて、そのため体は霊魂の墓場であり、ロゴスを介して神と一体になるという世界観を打ち立ててます。 bragelonne哲学の思想に大きな影響を与えた、アウグスティヌスの「告白録」の8巻を読み直してみてください。アウグスティヌスは生命体は魂と肉体(骨とまで言ってます)からなるとして、bragelonneさんのよく振りかざす「自由意志」を再考してもらいたいですが、アウグスティヌスに言わせると「神の意志」と「人間の意志」。人間において「掟の意志」と「肉の意志」のふたつの意志が対立していて、そのような状態では「自由」はなく「隷属」しかない。神に従おうとする意志が、あるところに「自由」生まれ「救い」となると説いてます。 ちなみにアウグスティヌスの訳において「魂」と訳されているのはラテン語の「アニマ anima」であり、これを考えるとアリストテレスの「霊魂論 デ・アニマ」を思いつくと思います。 アリストテレスの言わんとする魂はギリシャ語の「プシュケー」として生物に命を与えるものとして、その後長らく動物精気として、追及されました。また、ギリシャ語の「プネウマ」という言葉も霊魂の意味をして、これは風や空気という意味にも訳されますが、キリスト教では聖霊です。 もしかしたら、現在、科学において追求されている、宇宙の中の未発見物質「ダークマター(暗黒物質)」に生命の源となるプシュケーが含まれているかもしれませんよ。科学的に分かってないので仮説を立てることは自由です。 では、お礼にてご見解をお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 やあやあやあ。ご回答をありがとうございます。  ★ 私には、現在のbragelonneさんの学説はかなり脱線して、キリスト教からは猛反発を食らうと思います。  ☆ そんなことを 今頃言ってんですか?   【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6981757.html  【Q:イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7023399.html  キリスト教会から 批判を受けてみたいものです。  ★ 私の私見ですが、もしマリアとヨセフが性交して、イエスが生まれたなら、十字架の後に墓場に人間たるイエスの遺体が残っててもいいと思います。  ☆ これは――遺体が墓場から消えたというのは―― 復活に関係するものと思います。  《復活》については いづれおとづれると見ますが そのことについていま説明せよと言われても 困る部分があります。  いまは いまの人間が 百歳平均だとすれば その倍の二百歳を平均で生きるようになるとき 復活が実現したのだと言っています。  《霊のからだ》というようなことも 分かりません。  死後の天国は関係ないとは見ます。  ★ キリスト教を信じない人  ☆ この表現はいただけません。一般にはジョウシキになっていますが ひとは《おしえ》を信じるのではありません。それは 《考える》です。信じる(無条件に受け容れる)のは 非知なる神であり ほかにはありません。  あるいはつまり オシエは 神本体の依り代です。神という正解を知ろうとするための補助線です。  依り代や補助線を信じるのではありません。もしそうなら それこそイワシノアタマ教が成立します。  ★ 聖書の中で、哲学的といわれるヨハネの福音書1章ををもう一度読み直してみてください、言葉(ロゴス)が肉となったとあります。み言葉が肉となったのです。  ☆☆(趣旨説明欄) (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。  ★ 体は霊魂の墓場であり  ☆ これは 摂りません。天地創造のものがたりにおいて 神は創ったものをみて みな《よし》と言っています。むろん 人間のからだにしても よし なのです。どこが 墓場ぢゃ? 誰が墓場と言うたんぢゃい?  ★ 人間において「掟の意志」と「肉の意志」のふたつの意志が対立していて  ☆ これは 思考の緑野と感性の原野とを言っています。これらを超えることが 問題です。  『自由意志と恩恵』を読んでください。  アウグスティヌスは 何とかして人間の意志自由を擁護しようとしたが 神の恩恵には勝てなかったと言っています(これは 『再考録』に書いています)  《シンプリキアヌスへ》という小論文のほうがよいかも知れません。短く簡潔です。神のめぐみと人間の自由意志との関係について考察しています。  あとは 経験事象と非経験の場の区別です。  

noname#205439
noname#205439
回答No.12

面白いね・・・人間は「神の子」・・それなら人間の目的も神の目的も一緒・・・ そんな事も解からないの・・!?

bragelonne
質問者

お礼

 《神の子》については No.1のお礼欄で こちらの思っている概念を説明しました。  イエスの場合と ほかのわれわれの場合とで違うと言っています。  ★ 神の目的  ☆ については それにまつわることをわたしは触れるようにして言ったことがあるので 気が引けますが でもこの《神の目的》という主題や概念で語ったことはないですよ。  神のこころは これこれこうだとか言っていますので ほとんど同じではないかと言われるでしょうが どこか視点などが違うのではないかとは思います。  とは言いましたが よく読んでみると  ★ そんな事も解からないの・・!?  ☆ というその《そんな事》というのは よく読み取れないとも考えられます。つまり それには《神の子》をどう捉えているかにも関係して来るでしょう。  というお応えになりますが?  ご回答をありがとうございます。

noname#205439
noname#205439
回答No.11

「どこか別の質問とまちがえているのではありませんか?」←間違ってません・・あなたに言ってるのです・・ それが 神の目的だし 次世代人類の為に こんなゴミ環境の日本を現在生きてる人間が綺麗にして渡す事が必要・・ 其処まで考えれない人は 神に近づいて無いだけです・・

bragelonne
質問者

お礼

 ですから   ★ 神の目的  ☆ をどうして人間が決めつけるのですか? これこれだと言って。  そういう問題です。どの神も みな同じひとつだという神論は。  ご回答をありがとうございます。

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     イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  (あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  (け) しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。   宗教のオシエは どうでもよい。のです。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • なぜイエスを子なる神として扱うのか

    こんにちは。先程誤って質問を締め切ってしまったので再投稿です。 西洋史を個人的に勉強していて、必然的にすこしキリスト教の歴史についても触れるのですが、タイトルの件がよく理解できません。 というのも、同じ一神教のユダヤ教やイスラム教の預言者とされる人たちは、神ではなくあくまで人間として扱われていると思います。実際、イスラム教ではイエスを預言者として認めているものの、あくまで人間として扱いますよね。 しかし、キリスト教の正統派においてはなぜ三位一体という直感的に理解できない理屈を採用してまで、ゴルゴダの丘で磔刑にされたナザレのイエスを神として扱うようになったのでしょうか?普通にわかりやすく、神がイエスを人間の代表として罪を背負わせるために遣わした。とかではだめだったのでしょうか? 回答に期待する内容としては、信仰心に基づいた神学的解釈というより、キリスト教の歴史として、なぜそうである必要があったかを知れるものをいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • なぜナザレのイエスを神として扱うのか

    こんにちは。 西洋史を個人的に勉強していて、必然的にすこしキリスト教の歴史についても触れるのですが、タイトルの件がよく理解できません。 というのも、同じ一神教のユダヤ教やイスラム教の預言者とされる人たちは、神ではなくあくまで人間として扱われていると思います。実際、イスラム教ではイエスを預言者として認めているものの、あくまで人間として扱いますよね。 しかし、キリスト教の正統派においてはなぜ三位一体という直感的に理解できない理屈を採用してまで、ゴルゴダの丘で磔刑にされたナザレのイエスを神として扱うようになったのでしょうか?普通にわかりやすく、神がイエスを人間の代表として罪を背負わせるために遣わした。とかではだめだったのでしょうか? 回答に期待する内容としては、信仰心に基づいた神学的解釈というより、キリスト教の歴史として、なぜそうである必要があったかを知れるものをいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • 第三章 特異な内容のオシエ(宗教) 

     ○  神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第三章 特異な内容のオシエ――イエス・キリストという補助線説明について――  1. 神とは何であるかについて説明するのが 補助線としてのオシエです。(ちなみに 《神》というコトバも 補助線です。《かみ》というコトバ・文字・発音は 神そのものではありません)。  2. 聖書の神は 新約に到って――もとからのあり方がいっそう明らかになったごとくではありつつ―― 一般的に見て 特殊である。《ふつうの人間イエスは 同時に 神の子でありみづからも神なるキリストである》と想定している。  3. 神は 《真理》として これを人間が信じるものである。人間イエスは存在としての《事実》であり そしてそのオシエは 《キリスト・イエスの主観真実が表わされたコトバとしての命題(考え・判断)》である。つまり 考えるものである。  4. ここでは この特殊な神学について 聖母と呼ばれるマリアをめぐって 説明し得たらと願う。  5. すなわち マリアは 一方で神の貌(かお・かたち)としての議論においては 神なる聖霊によってみごもった。また一方で人間の貌としては 許婚のヨセフとのコイトスをつうじて受胎した。  6. 聖霊によるものと人間の精子によるものとふたつの受胎が同時に起きたという物語である。明らかにおとぎ話である。  7. このほうが しかしながら 人びとには 元気をあたえる。人びとがそれぞれ元気が出ることをささえる。のではないか?  8. もしゴータマ・ブッダのように 法身としてのブッダ――すなわち《真理》――と そして必ずしも百分の百においてではないと考えるが応身としての――ひとという事実存在としての――ブッダとに分かれているならば 人びとにとっての元気は――つまりブッダター(仏性)の発現は―― その場その現在においてただちには のぞみがたい。ということになるのではあるまいか?  9. マリアなる女性における聖霊によるイエス・キリストの身ごもり この奇妙奇天烈な物語のほうが 人間にとっては よりいっそう現実的である。のではあるまいか。  10. なお ゴータマ・ブッダによるオシエは 考えてみるに必ずしも補助線ではないと思われる。それは 向こう岸へ渡す筏であり 渡ったあとは捨ててしまってよいというように補助線のごとくではあるが どうもそうでもないようだ。  11. それは けっきょく足場でしかないように思われる。足場がいかに立派に組まれていたとしても 本体の家が 立派に建てられる保証はまだない。のぞむ家とはまるで違ったものが建つかもしれないし または何にも建たなかったということもあるかも知れない。  12. つまり 《家》としての法身なるブッダ(真理)が そのオシエなる補助線によって指し示されたとは なおまだ言い難い。単に家の出来上がると想定されたところに ただ足場をこしらえただけであったと成らないとも限らない。  13. つまりは ブッダターの発現としてのさとりなる状態が――つまり肝心の家本体が―― まるでさだかでも明らかでもない。二千年を超えて永遠に 分からない状態でありつづけている。と言わざるを得ない。(むろんこれは ブッダ批判です)。  ☆ 以上の趣旨説明について 当否・是非を問います。思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • なぜ、イエスは神なの!?

    今、キリストについて学んでいます。 神がいて、神を人間と似たてイエスという人間の身体として他の人間に神の愛をつたえたのですよね? しかし、わからないことがあります。 どうしてイエスは‘私たちの罪のために十字架に担がれ殺されてしまった‘のですか?? これが‘私たちのに対する愛とするならばなぜ殺されることが愛なんですか??‘イエスは神なんですか??‘