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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう)

ゴータマ・ブッダのさとりとは?中身はあるのか?

このQ&Aのポイント
  • ゴータマ・ブッダのさとりについて疑問を投げかける。
  • さとりの中身がないのではないかという問いを提起する。
  • ゴータマ・ブッダの教えによって人々がマインドコントロールされ、理性や感性が鈍らされている可能性を指摘する。

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noname#195588
noname#195588
回答No.45

何も覚っていない 修行中こそが覚りだと考えるのもどうかと思うので 回答してみます。 覚りは現在なのか、過去なのか。 覚る。なのか、 覚った。なのか。 ゴータマ・ブッダは覚る人なのか、 覚った人なのか。 それで、なんとなくウィキペディアの曹洞宗の項目を見たんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派も一部にあるが少数である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97 ~~~~~~~~~~~~~~~ 無限に修行こそが成仏というのは、 どうなんでしょうか。 この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの 覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。 でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。 発想が現在形というか現在進行形というか。 無限の修行が覚りなら これでは、覚りが過去にならない。 覚った人とは言えないのではないか? そんなことを考えていたら なんとなくゼノンのパラドックスを思い出しました。 飛んでいる矢は止まっている、とか アキレスは亀に追いつけない、とか。 道元はアキレスみたいに、いつまでも亀に追いつけない。 なんて言ったら怒られそうですけど。 それからついでに、 過去とか現在とか考えていたら 既視感とか、未視感とかそんなことを 考えたりしました。 つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。 とにかく修行。 という結論になるのもなんだかね。 人力飛行機とか自転車操業みたい。 死んだら修行は出来ないから 死んだら仏になれない気がする。どうだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~  死んだら修行は出来ないから  死んだら仏になれない気がする。どうだろう。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり ブッダ修行は 動態であるのだという見方でしょうか。  つまり このいま・ここなるわたしの――したがって つねに現在時として歩み行くところの――生きた動態でなくて 何が《さとり》であるものかと。   ○ 永遠の現在  という命題(実践課題)にまで到りましょうか。  このさとりを ゴータマ氏が成就したかどうかは まだ何とも言えないと思うのですが。  ★ という結論になるのもなんだかね。 / 人力飛行機とか自転車操業みたい。  ☆ これでいいんぢゃないですか。人生 一歩一歩なのですから。  それなら さとりに中身があると言えるかも知れません。  すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~  それからついでに、  過去とか現在とか考えていたら  既視感とか、未視感とかそんなことを  考えたりしました。  つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。  とにかく修行。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち   ○ 現在時における過去にかかわるような既視感(デジャ・ヴュ)は すでにそのふるさとにわたしはいたのだという・そのマボロシを見たという ようなことでしょうか。   ○ 現在時における未来にかかわるような未視感(ジャメ・ヴュ)は いままでに見たことのない風景が広がって見えるのなら それは いま現在を《ただただ坐禅(≒社会的活動全般)に生きる》とき ふと世界が開けるといったことを言うのでしょうか。世界の明けといったような。  でしたら これらの《わが自然本性における〈ふるさと〉の既視感》も《あたらしい世界の明けなる――わが自然本性の衣替えが成されて行く――未視感》も あたかもわが心なる《非思考の庭》におけるドラマが 開幕したことを告げている。  つまり 信仰としての――その動態としての――さとり でしょうか。  ★ 《無限に修行》こそが成仏というのは、 / どうなんでしょうか。  ★ 《何も覚っていない / 修行中》こそが覚りだと考える  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの  覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。  でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。  発想が現在形というか現在進行形というか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それでしたら さとりに《中身》があります。みとめなければなりません。脱帽します。  それにつけても ゴータマ自身は どうだったのでしょうか?   分からないけれども そのまだ言うとすればペテンまがいの振る舞いや説法をつうじて いまこのような《さとり=動態》説を得たのだから おおきくはブディズムの流れに乗っているということでしょうか。  ゴータマ氏の怪我の功名であろうか。  いや それをこそ はるか昔にゴータマくんは のぞみ見ていたというのであろうか。   ○ 只管打坐  つまり坐禅というのは タトエとして扱い 人おのおのの人生における仕事と務めに地道にあゆむことを さとりの動態として言っている。でしょうか。  あとは ヒラメキとしての贈り物を受け取ったがごとく未視感において広がるあたらしい風景・あたらしい世界 これを 理論構築をもしつつ 実践する。  これなら――その具体的な中身は ひとそれぞれに応じて決めればよいのですから―― 中身をともなった《さとり》説ですね。いわば実存思想としても受け留めることが出来そうです。その現在時において――永遠の現在として推移するかのように――つねにわが心と意志のありかにもとづき 一歩一歩地道にあゆむのだ。これよりとうとい思想は ないでしょうね。  怪我の功名・ペテンの効用 と言うべきではないかという疑いをゴータマ氏にはまだ持っていますが 中身のある《さとり=動態》説には まいりました。  心のあり方として あたまを丸めます。  

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その他の回答 (57)

  • o-sai
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回答No.17

「食物連鎖の法則」です。 当時の見識において、学者=宗教家 でしたから、教えは「でっちあげのこの世界の原理」でした。 釈迦王子は、そういう既存の世界観を疑い、自分の頭で考えようとして世界を見る旅に出ています。 そして、多くの宗教家達の話を訊けば訊くほど、根拠の無い、ご都合主義の世界観だと知ります。 釈迦王子は、世界初の哲学思想家だったのでしょう。 西洋で哲学が構築される遥か昔に、その存在を捕らえていたのだとしたら、 それを非常識に縛られている衆生に説明する術などありません。 仏教の教祖は釈迦ではなく、釈迦の没後に商家の財力で各地で発生した「新興宗教集団」たちです。 彼らは、釈迦王子によって否定された「既存宗教」の後釜を狙って勃興した「ゴータマ・ペテン宗教家」達でした。 そして「大乗仏教」なる大いなる胡乱によって、現在まで受け継がれています。

bragelonne
質問者

お礼

 お-さいさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ○ 《さとり》の中身は 何でしょう?  ★ 「食物連鎖の法則」です。  ☆ ということは そうだとしたら ゴータマ氏には 先見の明があった。ということでしょうか。昔においては それが さとり――この上無きただしい智慧のさとり――だった。いまでは ふるい。と。  ただし いわゆるブディズムは  ★ 「大乗仏教」なる大いなる胡乱  ☆ である。よって ゴータマ氏については 特別に《さとり》という捉え方をする必要もないのだと。  《さとり》をめぐって 賛同する・批判するを問わず わいわいがやがやとはやし立てるほうがマチガイであると。  結論として ゴータマ・ブッダもブディズムもそして さとりも みんなただのマヤカシとして作られたもので まぼろしである。わづかにゴータマ氏にかんしては その昔 《食物連鎖の過程》を発見したことは 哲学としての営為であった。  と受け留めました。

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回答No.16

 悟りの内容は・・・・・  ☆『空間の無限と時間の無限と終始のない事と物質の有限』  自身の心を大精神に没入したことで、この事を実感、体感した。  これを言葉に置き換えた仏教は文字どうり「教え」である。  哲学カテの住人はこの「教え」に振り回されているようだ。(⇐これは私の悟り)  内容を体感するには“実践”するしかない。

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ☆ 『空間の無限と時間の無限と終始のない事と物質の有限』  ★ 空間および時間にかんする無限 終始のない事 物質の有限 でしょうか。  まづ  ☆ 終始のない事  ★ これは ダメですね。《諸行無常》ですから。それに 《物質の有限》とも矛盾します。  ☆ 時空間が無限であること  ★ これを知ったとしても どうってことはないでしょう。  なぜなら (1) まづ 果たして無限であるかどうかは 分かりません。  (2) 仮りに無限であったとしても それは 時空間のであって けっきょく《非経験の場》とは別です。非経験の場は 二で割っても三で割っても その商は やはり無限ですが 時空間の――つまり経験世界の――無限は 可能無限であって じつは限りはあります。限りがあるか無いかよりも その数が特定できます。つまり 経験事象です。  可能無限としての数に 一をさらに足すことができます。つまり 分かるか分からないかが分からないところの真無限ではないことになります。数が特定できるのですから。  すみません。アウトだと思います。

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noname#185634
noname#185634
回答No.15

平等?

bragelonne
質問者

お礼

 きゃん5すとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。   ○ ゴータマ氏は 《平等》を体得した。  といったご見解でしょうか。  これは No.13でのやり取りで考えました。つまり 《知恵のような・何かそれとしてあると受け留めるもの》をさとったというのではなく そうではなく 身と心とで なにごとか(たとえば苦しみからの自由)を実現したということ これが中身なのだといった見解のことです。  そうだとしますと 問題は それが事実か? にあります。その信憑性をどう推し測ればよいのか。迷うところです。  見方を変えて考えるなら 《平等をわが身に実現した》とか《一切の苦しみから解放された》というような実現のことを《完全な成就》だと言わなければ まだ思想として 脈がある。のかも知れません。ですが 言い切っていますから どうでしょう。  No.13のお礼欄を見ていただくと助かります。  以前或る人の回答として 《いっさいのモノに対して それぞれ完全にひとしく平等な立ち場に立ち そのように扱ったり振る舞ったりすること》 これが さとりの中身であるという議論をしめされたことがあります。苫米地英人という人の持論であるとか。  これも 《平等》説ですね そう言えば。    どうなんでしょう。果たして そのような状態が実現したとお考えになりますか?  仮りに実現したとして そんな状態の人間は おもしろくもおかしくもないのと違いますか?    あたかも数学か幾何学の解のように しっかり・はっきり・すっきりしているようには思いますが。  口先だけではないのでしょうか。

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noname#195146
noname#195146
回答No.14

>☆ 要は 思考(および感性)とそして信仰とは 次元が違う。これに尽きるはずです。 >信仰は 非思考です。 >アン‐アートマン(無我)と唱えたところで ただ《無い神》を――有る神であるブラフマンの代わりに――立てたに過ぎない。  どうもゴータマを理解できなかったバラモンと同じですね。アートマンが無いなら、アン・アートマンにすがっているはずだ、と。  アートマン理論に無縁だった人にとって、ゴータマのアートマンに関する結論は特に驚くに当たりません。そんなものは無い、それだけです。無いものにすがることもありません。有るものにしかすがれないのですから、当たり前のことです。  信仰を全て非思考であると規定するのも間違いです。無条件に受け入れる原理が何かを見極め、それについては無条件に受け入れるということです。原理から思考により導かれることは、経験的に正しければ採用し、うまくいかないなら修正するか、捨てます。  例えば、ある経典が一言一句正しいと主張する人でも、何がどう正しいのかは経典を解釈した人の見解です。その解釈は、それを聞いた人にさらに解釈を生みます。数学なら、解釈のルールは厳密に決められていて、誰にも同じイメージを生じますが、宗教や哲学ではそうはなりません。あまねく成り立つことを求める場合には、注意すべきでしょう。  ゴータマの言行が自分にとってよいイメージとならないなら、そのイメージは捨てればいいのです。そして、そのゴータマの言行を批判するのであれば、それはそのゴータマのイメージを生んだ自分自身への批判であることも忘れるべきではないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 れいずぃどぐ1さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  微妙ですね。つまり  ★ アートマン理論に無縁だった人にとって、ゴータマのアートマンに関する結論は特に驚くに当たりません。そんなものは無い、それだけです。無いものにすがることもありません。有るものにしかすがれないのですから、当たり前のことです。  ☆ 1. 《アートマン もしくは その理論》を否定したということ〔(あ)〕は 《非経験の場ないしその磁場のごときチカラ》を否定したということ〔(い)〕にはなりません。  2. 前者(あ)は 人間の《考える(および意志として判断する)》ことです。経験行為であり すべては移ろいゆく経験事象です。  3. 後者(い)は 《非経験の場》〔なる想定のもとに立てた神〕に 自分もかかわったという意味があるだけです。言いかえると その神については 有ると言っても無いと言っても 何らその《神と我れとの関係》は変わりません。   * 《想定のもとに立てた神》と言いましたが これは 精確にはすでにわたしたち人間にとって 言語のナラワシとして 《かみ》という言葉は持たれているというのが 実際です。  4. 《神は死んだ》というのは 観念の神・人間が観念としていだく神のことです。想像や思考の産物としての神(つまりその言葉・概念)が じつは非経験の場なる神ではないと言ったことになります。(言った本人が自覚していたかどうかは 知りません)。  5. つまり その非経験の場なる神をめぐって 有る神をえらんだか 無い神をえらんだかのいづれかのカカワリにおいて その人には信仰が始まっています。   * 思考・感性の経験領域では ものごとは《有るか無いか》です。非思考の庭では 《有るか無いかは 決められない。決め得るか決め得ないかが 分からない》です。選択は 自由です。   6. ただし いわゆる無神論なる信仰の場合には 《その信仰が成った時点ですでに その〈無い神〉のことは打っちゃっておく》ことになります。すなわち  ★ 無いものにすがることもありません。  7. ただし ここで明らかになることは じつは   ○ 有る神に《すがる》と言っても それはイワシノアタマなる経験事物(つまり偶像の神)にすがりついて行くことではない。  これです。《思考に非ず》は 《一般的な意味での経験行為に非ず》です。  8. 非経験の場なる神を わが心なる非思考の庭において受け容れるというのは 対象がナゾであり非対象ですから 非経験なのですが そのワケの分からないナゾを受け容れるというのは じつは経験行為です。思考や意志による判断にもかかわっています。しかもそのかかわり方は 微妙です。  9. ところが:  ★ 信仰を全て非思考であると規定するのも間違いです。  ☆ とは成りません。いいえ。無条件に《非思考》です。  10. つまり微妙で分かりにくいかも分かりませんが こうです。(8)に触れたように 《受け容れるという経験行為にあたって 考えたり心を決めたりすることはある》わけです。しかも 心を決めたなら あとはむしろ《ハカラヒ無き》行動として成ります。《えいやっと》無根拠において決めたとき その受け容れは むしろ考えも思いもハカラヒもありません。つまり 無条件であり 考えると言っても 無根拠です。  ★ 無条件に受け入れる原理が何かを見極め、それについては無条件に受け入れるということです。   ☆ 11. それでは 《人間の思考や想像の産物》となります 神がです。  12. 《原理》が何であるかについて 人間は分かるか分からないかが分からないのです。初めからしまいまで無条件においてことは進んでおり 心に決めるときそれは《無根拠》として成ります。《非経験の場》は 《見極め》ようがありません。  ★ 原理から思考により導かれることは、経験的に正しければ採用し、うまくいかないなら修正するか、捨てます。  ☆ 13. それは あくまで《コギト》の領域にとどまり それとしての問題にしか過ぎません。そういう神は 死んだのです。(つまり 偶像の神は 初めから死んでいます)。イワシノアタマ教は お呼びではありません。  ★ 例えば、ある経典が一言一句正しいと主張する人でも、何がどう正しいのかは経典を解釈した人の見解です。  ☆ 14. これらはすべて《思考の緑野》における経験行為です。  ★ あまねく成り立つことを求める場合には、注意すべきでしょう。  ☆ 15. 注意して成った《非思考の庭》なる理論です。  ★ ゴータマの言行が自分にとってよいイメージとならないなら、そのイメージは捨てればいいのです。  ☆ 16. いいえ。《イメージ》の問題ではありません。論点のすり替えは いただけません。  ★ そして、そのゴータマの言行を批判するのであれば、それはそのゴータマのイメージを生んだ自分自身への批判であることも忘れるべきではないでしょう。  ☆ 17. 回答者氏や ほかのブディスムに親和性をいだく人たちにとってのお話です。この質問の問い求めるところ(方向)とは関係ないようです。  18. ゴータマ氏のトレードマークとなっている《さとり(この上なくとうとい智慧)》について    《さとり》の中身は 何でしょう?       つまり 中身はありますか? という問いです。  となっています。

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  • a_hona
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回答No.13

一切の苦しみからの解脱ということでええんちゃうかな。あと、さとりの中身という表現がちょっと違和感あるな。教えの中身ならわかるけど、さとりに中身も何もないと思うよ。妄執を枯らして目覚める訳やから。逆に言うたら余計なものがなくなった状態、あった中身(煩悩)がなくなった状態をさとりとか解脱と言うんとちゃうかな。これは難しい話や。俺の手には負えんけど、一応こんな見解を持ってるよ。

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 一切の苦しみからの解脱ということでええんちゃうかな。  ☆ ですか。 つまり   ○ ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう?    ――(あ)★ 《一切の苦しみからの解脱》だ。  ということですよね? つまり 苦しみからの解放を《思い描いた》のでは ダメで それを《目指した》というのでもダメでしょうから     ――(い) 《すでに自分は解放された・その解脱なる状態     に成った》  ということでしょうか?  これは    ――(う) 《いっさいの苦しみ――または ものごとや世界     のうごきが自分の思うようにならないこと――から自由で     あること》  このことの成就だと言いかえたほうがよいのかも分かりませんが そういうことでしょうか?     ――(え) ★ 《妄執を枯らして目覚める》訳やから。  つまり 《目覚め》の中身は 《妄執を枯らすこと》でしょうか? そこに《苦しみからの解放ないし自由》があると。    ――(お) ★ 逆に言うたら《余計なものがなくなった状態》、     《あった中身(煩悩)がなくなった状態》をさとりとか解脱     と言うんとちゃうかな。  ★ これは難しい話や。俺の手には負えんけど、一応こんな見解を持ってるよ。  ☆ つまり一般の人にはその成就はむつかしいことだけれど ゴータマ氏は成し得たという見解でしょうか? それは どういう根拠でかと問うなら そういう感触であったり推理であったりするような受け留めなのでしょうか?  (か) 《煩悩――無明・無知・渇愛――》が ゴータマの身と心なる存在から ほんとうに《なくなった》と見ますか?  (き) おれはさとりを得たとゴータマが言ったとき そうだと見ることの保証は どこにありますか? まわりの人びとの中で ゴータマの宣言に信頼を寄せる人がいたというその理由は 何だと思いますか? 感触ですか?  (く) ほんとうに《渇愛からの解脱・解放・自由》が そのひとりの三十数歳のときの人間に成ったと思いますか?  (け) 成ったとして それが どういう《よいこと》なのでしょう? なんで説くべき《おしえ》になるのでしょう?  (こ) おまえたちよ みな おれの実現したように 《解脱》せよと何で言わなきゃならないのでしょう?  (さ) そんなことをする必要はあるのですか?  (し) たしかに     ○ ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう?     ――(あ)★ 《一切の苦しみからの解脱》だ。  ということで答えたことになると思いますが それではその事実性・信憑性が問題になるかと考えます。言いかえると ほかに誰かひとりでも その同じ状態を成就した人間がいるかという問いに変わります。  (す) 《中身》は ありますか?   (せ) つまり    ○ ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう?     ――(あ‐1) 《一切の苦しみからの解脱》だと宣言し 最後        までその言葉を変えず 言いつづけ言いふらし切ること        これだ。  というようなことではないのですか?   (そ) つまり さとりは 知恵のごとく何らかの中身があるといちおう思えるようなものではなく そうではなく いっさいの苦しみからの自由なる状態というその心身のあり方そのことだというとき なるほどそれは かんたんに説明することは出来ない。その《自由なる状態》を見せることくらいしか 証明のしようがない。だけれども 《中身》はあることになる。  (た) しかも ひとにはいわゆる真理を探究する気持ちがあり 菩提心もあって そのような《中身》の成就のことを耳にしたら 関心をいだく。そこで 《さとり》ゴッコが始まる。そしてこのゴータマ実験についての検証が 集団をも成して おこなわれ続けている。いまに到るまで。――ということではないのですか?  (ち) 《一切の苦しみから解放された》人間が 次のような言葉を言ったりすると思いますか?   ▲ (スッタニパータ 835 ) ~~~~~~~~~~~~~    (師((ブッダ))は語った)、     「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲     (という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをした     いという欲望さえも起らなかった。      糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。わた     くしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (つ) 性行為については 《情欲のない生殖》 これがあり得ると人びとに伝えようとするのではないですか?   (て) ゴータマ・シンドロームは じんるいの敵ではないのですか?

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回答No.12

こんばんは。 Ākāśaは、《空・sky》の意味だけではなく、別の意味もあるのですよ。 http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=akasa&trans=Translate&direction=AU vacuity(真空) god brahma(梵天) etc. といった意味もあります。 仏教用語のakasaは、ソラの意味ではなく、何もない空っぽな空間くらいの意味です。 『阿毘達磨倶舎論』では、 ─────────  空間とは礙(さまた)げなきこと。 礙げることがないことのが、「空間」の特性であって、物はその中で自由に占める。 ───────── と定義されています。 仏教では、akasaを《ソラ・sky》の意味では使わないんですよ。 ☆☆ それにしても 《ブッダの本質》ですよ。そんなことでいいんでしょうか。  その《太虚》は 経験世界に属するのか。それとも 非経験の場という想定にしたがうものか。というところでしょうね。 ◇《太虚》という言葉は、聖徳太子の憲法十七条に出ているのではないでしょうか。 それはそれとして、 《荘子》における《太虚》は、《道》や《無》を言い換えたものでしょうから、 これは、《非思考・非経験》ですよ。 ───────── 無始曰:「有問道而應之者,不知道也。雖問道者,亦未聞道。道無問,問無應。無問問之,是問窮也;無應應之,是無內也。以無內待問窮,若是者,外不觀乎宇宙,內不知乎太初,是以不過乎崑崙,不遊乎太虛。」 No-beginning (further) said, 'If one ask about the Dao and another answer him, neither of them knows it. Even the former who asks has never learned anything about the Dao. He asks what does not admit of being asked, and the latter answers where answer is impossible. When one asks what does not admit of being asked, his questioning is in (dire) extremity. When one answers where answer is impossible, he has no internal knowledge of the subject. When people without such internal knowledge wait to be questioned by others in dire extremity, they show that externally they see nothing of space and time, and internally know nothing of the Grand Commencement. Therefore they cannot cross over the Kun-lun, nor roam in the Grand Void.' http://ctext.org/zhuangzi/knowledge-rambling-in-the-north ───────── ─────────  無始はまたこういった「道のことを尋ねたり、またそれに答えたりするというのは、道を知らない者だ。道を尋ねたところで、道について聞けるわけでない。道は尋ねられないもので、たずねても答えられない。尋ねられないものなのにそれを尋ねるというのは、目当ての無い質問であるし、答えられないのにそれを答えるというのは、内実の無い回答だ。内実の無い回答で目当ての無い質問に対応するという、こうした問答にふけっている手合いは、外では広大な宇宙の広がりが眼に入らず、内では神妙な万物の始原が理解できない。そこで崑崙の山を訪ねることもなければ、大空の中で遊ぶという事もない」。   http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/17_26souji.html ───────── どちらの訳もかなり苦しい訳ですけれども。。。 にしても、〔古代〕中国語は難しいですね。 わたしは、《無問問之》と《無應應之》で沈没しました(笑い)。 残りは、何気に分かるのですが・・・。 《問問》は《問》の強調表現、あるいは、 「是を問う問い無し」の意味、ハテナ???

bragelonne
質問者

お礼

 ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《荘子》における《太虚》は、《道》や《無》を言い換えたものでしょうから、  これは、《非思考・非経験》ですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり   ◇ Ākāśa : vacuity(真空) / god brahma(梵天)etc.  ですか。じつは いちど調べたことがあったのですが でしたら完全に見落としていたんですね。考え違いでした。失礼しました。  ぢゃあ 仏仏一如 という呼び名での信仰になりますね。

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回答No.11

NO.8さんを少しフォローします。 《太虚》とは、 ───────── たいきょ【太虚 tài xū】 中国で天空,または大いなる虚空をいう。《荘子》知北遊篇に〈崘(こんろん)に過(よ)ぎらず,太虚に遊ばず〉という古い用例がみえる。後漢の黄憲は日月の軌道の外を太虚と呼んだ。北宋の張載(ちようさい)は無形の宇宙空間を太虚とし,万物はそこに充満する気の自己運動によって形成され,消滅するとふたたび太虚に帰るとする気の哲学を樹立した。明の王守仁(陽明)は〈良知の虚はすなわち天の太虚〉と述べ,大塩平八郎はこの張・王の影響を受けつつ,〈帰太虚〉の哲学を唱道し,日本思想史上に異彩を放っている。 http://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E8%99%9A ───────── です。 中村元が何を念頭において、何を意図して、この語を使用したのかは不明ですが、 出典は『荘子・外篇・知北遊』です ───────── 無始曰:「有問道而應之者,不知道也。雖問道者,亦未聞道。道無問,問無應。無問問之,是問窮也;無應應之,是無內也。以無內待問窮,若是者,外不觀乎宇宙,內不知乎太初,是以不過乎崑崙,不遊乎《太虛》。」 ───────── 中村元は、 仏教の《虚空・Ākāśa》を念頭に置いているのかもしれませんが・・・。 《虚空》も《無為》であり、 《さとり》や《空》の比喩などとして、《虚空》というタームは仏典によく出てきますので。

bragelonne
質問者

お礼

 ◇ 仏教の《虚空・Ākāśa》  ☆ いえ。このアーカーシャは ただ《そら(空)》という意味だと思います。《虚》という意味はないはずです。  もっとも漢字から《虚》を取り上げているのかも知れませんが。  こんばんは ねこさん。ご回答をありがとうございます。  ☆☆ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▼ 中村:  そうです。だからブッダの本質というものは、「太虚」だという。  ☆ 何なんでしょうね この《太虚》とは。まさか 中国方面ではないでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 中国方面だったのですか。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ 日月の軌道の外を太虚と呼んだ。    ・ 無形の宇宙空間を太虚とし,万物はそこに充満する気の自己運動によって形成され,消滅するとふたたび太虚に帰るとする〔気の哲学を樹立した〕  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ それにしても 《ブッダの本質》ですよ。そんなことでいいんでしょうか。  その《太虚》は 経験世界に属するのか。それとも 非経験の場という想定にしたがうものか。というところでしょうね。

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noname#195146
noname#195146
回答No.10

>アン‐アートマンも 神(ないし 無い神)の霊と一如なのだと どうみても 思われますが  どう見たらそう思えるのかは私では分かりかねます。ゴータマ自身の言行は「人を見て法を説け」を地で言っていますが、その中でも「死後の世界については死んでみたことがないから知らない」が、おそらくは本音と思われます。余計な、あるいは未知な前提を、正しいものとして置くことは避ける、ということにつながります。孔子の、怪力乱神を語らず、も同じような趣旨でしょう。  要は、判断抜きに信じるに足るものは無い、ということがゴータマの結論です。  仮にゴータマが、自分の像が作られ拝まれているのを知ったとしたら、困惑したり、苦笑してしまうでしょう。死体も朽ち果てた過去の人間に何を望むのか、と。もしかすると、悟りを『得た』『開いた』という表現に疑問を呈するかもしれません。迷信を捨てはしましたが、得たり発案したりはしていませんから。

bragelonne
質問者

お礼

 れいずぃどぐさん あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 要は、判断抜きに信じるに足るものは無い、ということがゴータマの結論です。  ☆ 要は 思考(および感性)とそして信仰とは 次元が違う。これに尽きるはずです。  信仰は 非思考です。思考に非ずであるからには  ★ 判断  ☆ から自由なわけです。つまり そういった非思考なる信仰のことを――具体的には 梵我一如なる信仰のことを―― 知らなかった。信仰としては 捉え得ていなかった。これに尽きます。  ですから アン‐アートマン(無我)と唱えたところで ただ《無い神》を――有る神であるブラフマンの代わりに――立てたに過ぎない。このことがシッダルタ君には分からなかった。  こういう見方です。  信じる――つまりわが心なる非思考の庭にあって じつは 神を受け容れるというコトとしては経験行為――は  ★ 判断抜きに信じる  ☆ というコトでしかありません。判断をともなうのなら それは 思考と言います。  ○ 《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 余計な、あるいは未知な前提を、正しいものとして置くことは避ける  ☆ これは 《未知》ということの位置づけを確認すべきでしょう。おのづから 《信仰》と《思考》との区別が得られましょう。  ○ 信仰は 非経験の場にかかわり 非知である ~~~~~~~      経験事象     可知      既知      未知     不可知(知り得ないと知った。ゆえに経験事象)   非経験の場       非知(知り得るか知り得ないかは 人には分からない)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 迷信を捨てはしましたが、〔* さとりを〕得たり発案したりはしていませんから。  ☆ ぢゃあ ゴータマは ただただ対機説法をしつづけて死んで行った。というまとめになりましょうか?   それを聞いたりその内容をさらに考えたりした人びとの頭の中で 変な理解や解釈が出回って いっさい中身の分からない――じつは 玉ねぎの皮むきであって 何も無い――さとりなるものが あたかもトレードマークのごとく広まった。だけである。内容は 何もない。あるいは ほかの思想と同じレベルのことがらばかりである。  ――こういう捉え方になりましょうか。  でも ゴータマは 生前にあってもみづからの神格化について まんざらでもなかった。よく騙せてくることが出来たと満足だったのではないでしょうか。つまり やはり《さとり》は得たと言ったし それをトレードマークとしていたものと思われます。  よくやったものです。末法を過ぎても 崇拝者たちにめぐまれているようですから。

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回答No.9

お釈迦様が自分で納得していたのならそれでいいんじゃないの。 何を言っても無であるとしか答えなかったのなら救ってくれなんてのはあきらめるのが得策でしょうよ。 救いを感じた後世の人々にこそ仏教は批判する余地がありませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  なくても  ★ お釈迦様が自分で納得していたのならそれでいいんじゃないの。  ☆ ???????????????  自分でさとりを得たと言っているのですよ。  インチキだった。けれど 自分で納得していたから それでよい。  ―― ん????????    しっかりしてください。  ご回答をありがとうございます。

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noname#195588
noname#195588
回答No.8

ブッダについては、もはや 『イシバーシヤーイム』を読むまで なんとも言いようが無いです。 翻訳でも何でもされて読めるようになるまで 気長に待つしかなさそうです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 十七条憲法」の第二でございますが、ここに仏・法・僧の三宝が出てまいりましたが。   中村:  この「三宝」という言葉の意味を少し考えてみたいと思うんです。従来の一般的な理解によりますと、ここで聖徳太子は、「仏教にたよれ」ということを勧めておられるんだ、と。そうすると、後の人はどうかすると、仏教という一つの宗教だけにたよれということになると偏っているんじゃないか、と。そういう思う人もあったわけですが、しかしここで三宝という言葉の意味を考えてみたい。はっきり書かれていますように、三宝―三つの宝というのは、仏と法と僧なんですね。当時は世界宗教というか、普遍宗教というものは、東アジアには仏教だけしかなかった。だから仏教のことを意味したというのは当然ですが、しかしよく考えてみますと、まず「仏」という言葉、これはインドの「ブッダ」という言葉の音を写したわけです。「ブッダ」と申しますのは、仏教の開祖のこともいうけど、あるいは仏教でたてる理想的人格のことをいうわけですが、しかし成り立ちを考えてみますと、仏教が起こった頃には聖者のことをみんなブッダと呼んでいたんです。   奈良:  それではブッダというのは、仏教の中で悟りを開いた人だけではないんですね。   中村:  ええ。そうなんです。ジャイナ教でも立派な聖者をブッダというんです。   奈良:  じゃ、一般的な言葉だったわけですね。   中村:  そうです。それからジャイナ教徒が伝えているもろもろの哲人の言葉の集成があるんですね。イシバーシヤーイム(ジャイナ教に限らずバラモン教、仏教を含めた諸哲人、聖者の語録を集めた異色の聖典)という難しい名前ですが、そこに出てくる聖者はみんなブッダと呼ばれているんです。さらに「釈迦に提婆(だいば)」と申しましょう。提婆(だいば)というのは、後世には非常に悪い人のように見られておられますが、あれは要するに異端の徒であった仏教者というだけのことでして、提婆達多(だいばだった)(釈尊に従って出家をするが、釈尊を妬んでことごとく敵対し、三逆罪を犯したとされる)というのが彼の元の名前ですが、提婆達多自身が、「自分はブッダだ」と言っている。それからまた彼に付き従っている人たちが後世までいたんですね、その仲間が。その人たちも彼のことをブッダと呼んでいた。だから聖者・賢者を意味しているわけですね。本当の意味の聖者・賢者となるようにというわけです。聖徳太子はそれを受けておられる。だから聖徳太子の解釈によりますと、ブッダは成就なる存在であって、悟りを開いた人、と、哲学的解釈をしているわけですが。   奈良:  直接的には仏教を讃え、仏教の仏を言いながら、その基本的理念とすれば、仏教という一つの教えを離れて、もっと広い意味での人間としての聖者をそこでは意としておられる。   中村:  そうです。だからブッダの本質というものは、「太虚」だという。そういうことも聖徳太子は書いておられるんです、これは別のところで。「太虚」というのは中国哲学でよくいう言葉ですが、その言葉をもってきて使っているわけです。だから、名付けるのはどうしてもいいわけです。本当の根本のもの、それを太子はブッダと理解しているわけです。 http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-329.htm

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ○ 『イシバーシヤーイム』:ジャイナ教に限らずバラモン教、仏教を含めた諸哲人、聖者の語録を集めた異色の聖典  ▼ (中村元) そこに出てくる聖者はみんなブッダと呼ばれているんです。  ☆ したがって ゴータマが ブッダと呼ばれた者のうちのひとりであるに過ぎないという事実は そのゴータマが得たというさとりの中身を考えるときに 重要な要因となるであろうと。  言いかえると 容易に推測できることは 何もゴータマの教説がこのさとりにかんして独自の内容を言っているわけではないことになる。ということなのでしょうね。  まぁ 自称したか他称されたかを別としてブッダなる人物たちは それぞれ自分がいちばんえらいと言ったかも知れないにしても 独自性は 必ずしもあるとは思えない。それだけ 一般的な名称であったのなら。――こういう憶測が得られますね。  もしそうだとすれば けっきょく独自性がないということは そのさとりの中身にさして重要性を持たせるわけにも行かない。となりますまいか。  ▼ 中村:  そうです。だからブッダの本質というものは、「太虚」だという。  ☆ 何なんでしょうね この《太虚》とは。まさか 中国方面ではないでしょうね。

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  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 仏教における小乗と大乗の違いとは?

    仏教における小乗と大乗の違いとはどのようなものでしょうかという質問です。 釈尊の背中を見ていると、菩提樹下でお悟りを開くまでが小乗で、梵天勧請を受けて、伝道を開始して、弟子を増やし教化する段階が大乗のように見えますが、経典主義の方々には違った見方もあると思います。 回答よろしくお願いします。

  • 乳粥

    牛乳歴史クイズの質問第4弾です。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm 上記サイトに、 「お釈迦さまが1杯の乳粥を飲んで悟りを開いたという「乳粥」とは? 」 といふクイズがあります。解説は、かうです。 「『 ヨーグルト 』仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッタルタ)にも、乳をめぐるエピソードが残されています。悟りを開くため出家して山奥で断食苦行をしていた釈迦は、悟りが開けぬまま衰弱したからだで山を下りていきました。その途中、出会ったひとりの乙女スジャータから1杯の乳粥(インドでダヒというヨーグルト)を捧げられます。あまりのおいしさに驚き、その瞬間に悟りを開いたというのです。 」 私は、インドで「キール」と呼ばれる食品だという話は、聞いたことがありますが、「ダヒ」といふヨーグルトだといふ説は初耳です。 「乳粥」は、ほんとうは、何なのですか。