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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう)

ゴータマ・ブッダのさとりとは?中身はあるのか?

このQ&Aのポイント
  • ゴータマ・ブッダのさとりについて疑問を投げかける。
  • さとりの中身がないのではないかという問いを提起する。
  • ゴータマ・ブッダの教えによって人々がマインドコントロールされ、理性や感性が鈍らされている可能性を指摘する。

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noname#195588
noname#195588
回答No.45

何も覚っていない 修行中こそが覚りだと考えるのもどうかと思うので 回答してみます。 覚りは現在なのか、過去なのか。 覚る。なのか、 覚った。なのか。 ゴータマ・ブッダは覚る人なのか、 覚った人なのか。 それで、なんとなくウィキペディアの曹洞宗の項目を見たんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派も一部にあるが少数である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97 ~~~~~~~~~~~~~~~ 無限に修行こそが成仏というのは、 どうなんでしょうか。 この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの 覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。 でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。 発想が現在形というか現在進行形というか。 無限の修行が覚りなら これでは、覚りが過去にならない。 覚った人とは言えないのではないか? そんなことを考えていたら なんとなくゼノンのパラドックスを思い出しました。 飛んでいる矢は止まっている、とか アキレスは亀に追いつけない、とか。 道元はアキレスみたいに、いつまでも亀に追いつけない。 なんて言ったら怒られそうですけど。 それからついでに、 過去とか現在とか考えていたら 既視感とか、未視感とかそんなことを 考えたりしました。 つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。 とにかく修行。 という結論になるのもなんだかね。 人力飛行機とか自転車操業みたい。 死んだら修行は出来ないから 死んだら仏になれない気がする。どうだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~  死んだら修行は出来ないから  死んだら仏になれない気がする。どうだろう。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり ブッダ修行は 動態であるのだという見方でしょうか。  つまり このいま・ここなるわたしの――したがって つねに現在時として歩み行くところの――生きた動態でなくて 何が《さとり》であるものかと。   ○ 永遠の現在  という命題(実践課題)にまで到りましょうか。  このさとりを ゴータマ氏が成就したかどうかは まだ何とも言えないと思うのですが。  ★ という結論になるのもなんだかね。 / 人力飛行機とか自転車操業みたい。  ☆ これでいいんぢゃないですか。人生 一歩一歩なのですから。  それなら さとりに中身があると言えるかも知れません。  すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~  それからついでに、  過去とか現在とか考えていたら  既視感とか、未視感とかそんなことを  考えたりしました。  つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。  とにかく修行。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち   ○ 現在時における過去にかかわるような既視感(デジャ・ヴュ)は すでにそのふるさとにわたしはいたのだという・そのマボロシを見たという ようなことでしょうか。   ○ 現在時における未来にかかわるような未視感(ジャメ・ヴュ)は いままでに見たことのない風景が広がって見えるのなら それは いま現在を《ただただ坐禅(≒社会的活動全般)に生きる》とき ふと世界が開けるといったことを言うのでしょうか。世界の明けといったような。  でしたら これらの《わが自然本性における〈ふるさと〉の既視感》も《あたらしい世界の明けなる――わが自然本性の衣替えが成されて行く――未視感》も あたかもわが心なる《非思考の庭》におけるドラマが 開幕したことを告げている。  つまり 信仰としての――その動態としての――さとり でしょうか。  ★ 《無限に修行》こそが成仏というのは、 / どうなんでしょうか。  ★ 《何も覚っていない / 修行中》こそが覚りだと考える  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの  覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。  でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。  発想が現在形というか現在進行形というか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それでしたら さとりに《中身》があります。みとめなければなりません。脱帽します。  それにつけても ゴータマ自身は どうだったのでしょうか?   分からないけれども そのまだ言うとすればペテンまがいの振る舞いや説法をつうじて いまこのような《さとり=動態》説を得たのだから おおきくはブディズムの流れに乗っているということでしょうか。  ゴータマ氏の怪我の功名であろうか。  いや それをこそ はるか昔にゴータマくんは のぞみ見ていたというのであろうか。   ○ 只管打坐  つまり坐禅というのは タトエとして扱い 人おのおのの人生における仕事と務めに地道にあゆむことを さとりの動態として言っている。でしょうか。  あとは ヒラメキとしての贈り物を受け取ったがごとく未視感において広がるあたらしい風景・あたらしい世界 これを 理論構築をもしつつ 実践する。  これなら――その具体的な中身は ひとそれぞれに応じて決めればよいのですから―― 中身をともなった《さとり》説ですね。いわば実存思想としても受け留めることが出来そうです。その現在時において――永遠の現在として推移するかのように――つねにわが心と意志のありかにもとづき 一歩一歩地道にあゆむのだ。これよりとうとい思想は ないでしょうね。  怪我の功名・ペテンの効用 と言うべきではないかという疑いをゴータマ氏にはまだ持っていますが 中身のある《さとり=動態》説には まいりました。  心のあり方として あたまを丸めます。  

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その他の回答 (57)

noname#195146
noname#195146
回答No.37

>☆ これは 自己矛盾です。よ。  その理由が、 >なぜなら 《無いもの》という規定は そのものが・つまりアートマンが何であるかを認識したあとに出て来るものだからです。 と思えてしまうわけですね。言って差し上げたと思うのですが、無いものを有るかのように扱っては間違います。そこが理解できない限り、ゴータマが何を言いたかったかは分かりません。そして、非常に簡単なことです。  言い換えて差し上げればいいのかな? 多少、後世の言葉も用いましょうか。こう言っても宜しい。  バラモンらはアートマンが有るとして、いつかは全てを説明可能かもしれない。これを仮にアートマン仮説と呼んでおこう。(ゴータマは)アートマンを全く仮定しなくても全てが説明できた。これを仮に、ゴータマ仮説と呼んでおこう。  オッカムの剃刀により、ゴータマ仮説を採用して、アートマン仮説は棄却して宜しい。適用範囲が同一で、事実上は未定義であるアートマンを含まない仮説のほうがシンプルであるゆえに。  それでも、アートマン仮説に固執することを止めはしない。両仮説を含め、あらゆる仮説の存在を否定する必要はない。無駄の多いもの、誤りの多いものは自然に消えていくのだから。  ゴータマ仮説はアートマンについて何も語りません。それがないとしたらどうなるかという理論ではないので。理論にないものの定義を問うても無益です。 P.S.  あなたの「ペテン師」という言葉は褒め言葉なのですね。常識外の日本語は定義してから使う方が宜しいが、この程度の話でそれには付き合ってはいられないので、通常の日本語に翻訳してから述べてください。  ウィキペディアの読み取りに(ゴータマを語ろうとして、それでは、ということはおいておく)、独自定義の日本語を用いたのなら、通常の日本語として読み直すといいでしょう。以上、老婆心まで。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ バラモンらはアートマンが有るとして、いつかは全てを説明可能かもしれない。これを仮にアートマン仮説と呼んでおこう。(ゴータマは)アートマンを全く仮定しなくても全てが説明できた。これを仮に、ゴータマ仮説と呼んでおこう。  ☆ このような判断を結論として あとは アートマン仮説には見向きもしないで 自分の道をすすむ。つまり すすんだ。  そのとき 何が起こったか?  けっきょくは 仏仏一如が現われたのです。    仏:マハーワイロ―チャナもしくはアミターバ    仏:ブッダター(ブッダ・ダートゥ・仏性)     もしくはタターガタ・ガルバ(如来蔵)  この仏仏一如は ブッダター=アートマンにより 梵我一如と まったく同じ類型になります。つまり 信仰の形態としてです。  そのとき ゴータマは 強いて言えば 無梵無我一如という形態において けっきょく梵我一如と同じ類型だと言えると思われますが しかしゴータマは 残念ながらこのことに自覚を持っていなかった。  こういった見通しが得られるものと考えます。  ☆☆ 《無いもの》という規定は そのものが・つまりアートマンが何であるかを認識したあとに出て来るものだ  ☆ ということであるのに 初めから《無いもの》と見ていたということが 何の意味もなかった。ことになっています。  それとも アートマンは《無いもの》だと見て 何も触れなかったことは マチガイだったと ゴータマの霊が出て来て あやまるのでしょうか?   ご回答をありがとうございます。  ちなみに  ★ バラモンらはアートマンが有るとして、いつかは全てを説明可能かもしれない  ☆ これは マチガイですよ。  非経験の場としてブラフマンおよびアートマンを想定しているのですから その《非経験の場》は 経験世界における《有る無い》をとうぜん超えています。  そのあと ブラフマニズムでは その神が《有る》のほうをえらんだ。ただこれだけのことです。  つまり アートマンと言う言葉も補助線であれば そこから《無い》を捨て《有る》をえらんだそのことも ただの補助線であるに過ぎません。  それが 神というものですし 人間にとっては信仰というものです。  ★ いつかは全てを説明可能かもしれない  ☆ とは考え得ません。思考に非ずなのですから。

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回答No.36

パーリ語原文はこちら ───────── 160 attā hi attano nātho ko hi nātho paro siyā attanā hi sudantena nāthaṃ labhati dullabhaṃ ───────── 《atta・アートマン》という単語が三個も使われている(笑い)。 ダンマパダ12章《自己》は、 《atta・アートマン》、《アートマン》の連呼です。 この《atta・アートマン》を《自己》と訳していま~す♪ いいんか、これで・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 しかるべき訳は?  ご回答をありがとうございます。

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noname#195146
noname#195146
回答No.35

>☆ まづもとに戻ってアートマンの定義は どうなりましょう?  定義できるんなら、何らかの意味、状況においてアートマンは『有る』んでしょうね。無いものの定義はありません。従って、アートマンの定義もありません。  ゴータマは神には言及していません。神を持ち出して語りたいなら、ゴータマと絡めて語らないことです。言ってもいないことで、何か言われるのは不本意なものでしょう。  もしどうしてもそうしたいということでしたら、まずあなたが語ったゴータマの悟りの素晴らしさについて、説明してください。それができたら、あなたが語った、この宇宙には神も神の力も痕跡すらないことについてです。それができても、まだまだありますよ。  後の言辞については、既にアドバイスは差し上げています。適当に過去回答を参照してください。連呼しても内容が同じなら、同じ答えしかありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 無いものの定義はありません。従って、アートマンの定義もありません。  ☆ これは 自己矛盾です。よ。  ご回答をありがとうございます。  なぜなら 《無いもの》という規定は そのものが・つまりアートマンが何であるかを認識したあとに出て来るものだからです。  もしたとえば死語のようなものだとしたのならば そのときにもまだ使っている人びとの用法について 批評を述べて その《無いもの》と規定する事情を明らかにするのが ふつうに社会を生きるひとの態度です。  言いかえると もしそのような説明を すでに要らぬことだと考えて しなかったのだとすれば そのアートマンという言葉を使っている人びとを無視したことになります。  それでよいとは おおかたのブディストは 思わないでしょう。ゴータマがそんなに冷たい人間だったのかと おどろくことでしょう。  ★ まずあなたが語ったゴータマの悟りの素晴らしさについて、説明してください。  ☆ これは すでに何度か触れて来ています。  たとえば  ☆☆ (No.30お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  人びとの菩提心をたくみに利用して 二千数百年!   せめて 後世のインドの人たちの到達した状態を考慮に入れるべしということではないか。        一切衆生 悉有仏性  と言って ゴータマのペテン師ぶりをあわれみ あたらしい梵我一如の信仰を取り戻した。すなわち 仏仏一如である。アートマン=ブッダター。  このふたつにしてひとつの信仰から見れば ゴータマの目指そうとしたものも じつは 《無梵無我一如》なる形態としてのやはり信仰であった。こう見られることになるのではないかという見方である。  ここから さらには    即身成仏    即得往生  という深みにまで じんるいの自己表現のいとなみは到っている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もっともこれは 大甘のゴータマ評です。ゴータマ自身は 自覚していなかったと思われます。自覚があったなら そう説明していた。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  定義できるんなら、何らかの意味、状況においてアートマンは『有る』んでしょうね。無いものの定義はありません。従って、アートマンの定義もありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 次のような・ブラフマニズムにおける意味とは違った用例はあるようです。(のちに やっぱりブラフマニズムと同じようなけっきょく《神の霊》としての意味があると見られるようになりました)。  ☆☆ (No.33お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲(ダンマパダ(真理の言葉) 中村元訳 ) ~~~~~~~~~~~~~  160 自己(* アートマン?)こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば 得難き主を得る。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ しかもこのように――あたかも 自灯明・法灯明の《拠るべき自己》につうじるかのように―― とうとぶべき自己としての〔おそらく〕アートマンを打ち出しているその傍らでは ぎゃくにこのアートマンに固執してはならないという別の考えをも語っている。  ▲(同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  279 《一切の事物は我れ(=アートマン)ならざるものである》(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (160)は 原文を確かめておらず たぶん《アートマン》のことだろうなという横着な引用ですが。  つまり   ★ アートマンの定義もありません。  ☆ というのは 言い過ぎでしょう。    

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.34

何を一人でいらだってんの? お前の相手はできへんわ。めんどくさすぎる。じゃあの。あと、その偉そうな態度はどうにかせえよ。質問者であって採点者ではないんよ。何を勘違いしてんだか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  めざめたまえ。というメッセージ。  少しは 刺激になったと思う。  圧倒的な床上浸水の状態から 失地挽回をせねばならない。  少々きつい言葉も必要だ。  これが 現代の日本。ひいては 世界。  このように いらだってんだよ。

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回答No.33

sabbe dhamma anatta(n). 「諸法無我」 all phenomena are without Self. all things lack inherent identiy. という意味で、「《アートマン》がない」という意味ではない!! と言っているですが。。。 《アートマン》でないものに執著するな、 というのが、 ゴータマさんの主張!! ───────── 157. attānañ ce piyaṃ jaññā rakkheyya naṃ surakkhitaṃ tiṇṇaṃ aññataraṃ yāmaṃ paṭijaggeyya paṇḍito. もし人が自己を愛しいと知るならば、 自己をよく守れ。 賢い人は、夜の三つの区分の一つだけで、 つつしんで目覚めておれ。 ダンマパダ 157 (日本語訳は、中村元のもの) ───────── サンスリット:atman パーリ:atta(n) 日本語:アートマン ゴータマさんのお言葉に、《アートマン》という言葉が出てきている!! 例によって、 独り言、独り言、 これは、 ひ・と・り・ご・と です。 ひ・と・り・ご・と!!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《アートマン》でないもの〔* われでないもの・われの所有するものでないもの・わが我執を置くべきではないもの〕に執著するな、  というのが、  ゴータマさんの主張!!  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですよね。  そして 分かっていることは のちに このアートマンの解釈が変わったことですよね。  ☆☆(No.28お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   ▼(中村元) ところがのちには「一切の事物は恒存する実体をもたない(anatta無我)」と解釈されるようになった。   ◇ ブディストのいう《アートマン》は〔* ――のちには――〕 《svabhava・自性・実体》の意味で~す。   ☆ と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わざわざ後世の解釈をここに出すこともないのですが・しかもゴータマ自身の発言として明らかなことが分かっているのならば なおさら持ち出す必要はないのですが 問題は 理論としては ブラフマニズムにおける意味でのアートマンが ブディズムとしても採用されるに到った。ということにあると考えます。    ナーガールジュナは 縁起説から 空観につうじる《無我》説を導き出したとかと言います。つまり ゴータマじきじきの《無我》説もあったと見ている。  もしそういった後世の解釈をめぐる《騒動》はみな打っちゃっておくとすれば そうしたとしても ゴータマの使ったアートマンという語には 《われ》の意味はあったということではないかと考えます。  ▲(ダンマパダ(真理の言葉) 中村元訳 ) ~~~~~~~  160 自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば 得難き主を得る。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ しかもこのように――あたかも 自灯明・法灯明の《拠るべき自己》につうじるかのように―― とうとぶべき自己としての〔おそらく〕アートマンを打ち出しているその傍らでは ぎゃくにこのアートマンに固執してはならないという別の考えをも語っている。  ▲(同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  279 《一切の事物は我れならざるものである》(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかなになる道である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりただ単に《我執にとらわれるなかれ》と言っているに過ぎないではないかと見られるところからも 《道》を説くかたちになってもいます。  つまり ここから ブラフマニズムにおけるアートマンに対する否定としての アン-アートマンを推し出したという見方へは 数歩で行くのではないかと考えられますまいか。  つまり言いたいことは もしそんな理論的なことは言っていないとなるならば それは もうどうでもよいことです。大したことは言っていない。ちょっとした世間のことわざ程度のことを言ったに過ぎないとして うっちゃっておけばよい。  ということは ゴータマのさとり説には ブラフマニズム批判としての《アン-アートマン(無我)》説は 何もない。ということで 余計に取るに足りない《さとり宣言》だということになるだけだと思うからです。

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  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.32

こんにちは >ゴータマ氏は 人びとの苦しみを除くことは出来たとお考えですか? 確実に出来たと思います 例えはあまり良くはないですが 今日本にいるお坊さんでも なーんも悩むこともなく楽しそうにお経をあげているでしょう たいした悩みが無いお坊さんも お釈迦様により恩恵を授かっているのは事実のようです(お釈迦様が救うのはお坊さんですから(笑)) 人間は 記憶とか感情が発達したために 自分が食べもしない物を美味しいんじゃないかとか思ったりして悩んでいる 全ての判断は主観で決まるんです 今という時空間(空)で美味しいと感じる物が最高に美味しい物であることは間違いないと思います 同じように 今という時空間(空)で楽しければそれが最高の楽しみであると思います 言語はコミュニケーションをもたらすので 大切な要素ですが 記憶や感情の主観に関する要素は 人間に最高の幸福をもたらすのは誰も疑いようがない真実です 人間は自らが経験もしたことが無いような楽しみも知らないし 苦しみも知ることは出来ない ただ 殆どの人は何もしなくても生きていけるので 釈迦の教えは必要ありません 本当は 釈迦は何も語りたくなかったけど 他人を慰めて励ます活動をしたのかもしれません(知彗に目覚めよとお坊さんに言ったetc) それが 仏教になったのでは?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  本当は 釈迦は何も語りたくなかったけど 他人を慰めて励ます活動をしたのかもしれません(知彗に目覚めよとお坊さんに言ったetc)  それが 仏教になったのでは?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは てふ_てふさんも いまそのように他人を元気づける活動をなさっているのですから 内容として ブディズムと同じということになりますね。  そういふうに理解してよいのですか?  つまり 思いやりや助けあいで みんながブディストである。ということで?  ぢゃあ ゴータマ氏も そう言えばよかったぢゃないですか。  おれのさとりの内容は いくら説明しても誰も理解できないと なんで思ったのでしょう?  どこかおかしかないですか? どっちがおかしいのでしょう?  てふ_てふさん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全ての判断は主観で決まるんです 今という時空間(空)で美味しいと感じる物が最高に美味しい物であることは間違いないと思います  同じように 今という時空間(空)で楽しければそれが最高の楽しみであると思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 刹那主義という思想に利用されやすいですから 気をつけたいと思います。いまは 刹那主義とはあまり言わないようですが。

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noname#195146
noname#195146
回答No.31

>☆ この《気づいたこういうこと》が何であるか? これを尋ねています。それだけです。  何度も書いたと思いますが? アートマンは無いということです。それ無しで目の前のことから見て行けばいいのです。そしてこれも既述ですが、アートマンの代りに、あるいはアートマンが無いと悟ったことで、何かが有ったり、生じたりはしないということには留意してください。  そう考えない、つまりアートマンが有るとするバラモンらとゴータマは議論はしましたが、脅すようなことは言っていません(地獄に落ちる云々等)。それが「どうする?」の意味するところです。  苦痛でないときは、何してても別に問題ありませんからね。苦痛でも、好んで耐えたいならそうすればいい。ゴータマはそうしたくないと言い、そうしない方法を提案してみた。それだけの話です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ アートマンは無いということです。  ☆ まづもとに戻ってアートマンの定義は どうなりましょう?  《他のものに依ることなく それ自身で存在するもの》でよろしいでしょうか? つまり《非経験の場》 もしくはそれをわが心に受け容れたというかたちで成った《非思考の庭》 このようにこちらでは定義していますが それでよろしいでしょうか?  でしたら こちらも何度も説明しています。  ☆☆(No.20お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《アートマン》は モノでもなければ精神の眼に見える観念でもありません。非経験の場としてのナゾの何ものかです。  非経験のものを 《取り去る》ことは〔* つまり 《無い》と規定するのは〕叶いません。叶うのは 《観念としてのアートマン》です。それは 《神は死んだ》と言われるような偶像の神のことです。  ・・・  アートマンは 人間が 肯定しようが否定しようが けなそうが讃えようが まったく何の影響をも受けません。または 受けるかどうかが 人間には分かりません。それが 神であり ナゾゆえ 霊とも呼びます。  ただし その名を――つまり ヤハヱーならそれ キリストならそれ アッラーフならそれというふうにそれぞれその名を―― わが心の非思考の庭に受け容れるということが起き得ます。それが 信仰の成り立ちです。  つまりは 神は すべて補助線としてあります。そういう言葉が 補助線として持たれています。それだけのことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ★ それ無しで目の前のことから見て行けばいいのです。そしてこれも既述ですが、アートマンの代りに、あるいはアートマンが無いと悟ったことで、何かが有ったり、生じたりはしないということには留意してください。  ☆ 《神は死んだ》あるいは《神は無い。存在しない》と人間が言ったところで 神は痛くも痒くありません。そういう《非経験の場(磁場としてのようにチカラでもありうる)》が 神であり 古代インド人はこれをアートマンとも名づけました。  このような神は だいたいどこでも 《息・風》を表わす語で 《神》の説明的な表現を持ちました。    アートマン    ルーアハ     プネウマ    スピリトゥス    息∽生き  むろん《息や風》は 経験事象です。つまりは それを非経験の場である神にあてはめたということは それが補助線だということです。その言葉じたいが 神そのものなのではない。代理として指し示しているわけです。  ですから この補助線としてのたとえばアートマンについて 《無い》とか《取り去る》とか言っても ムダです。何の意味もありません。せいぜいが あたまの中にモヤモヤとしてくすぶっていたその思念や観念が取り払われるということはあってもです。それは 神のことではないのですから 取り外しが可能であり自由です。  もし  ★ アートマンが無いと悟った  ☆ というのであれば それは 以上のようなことを意味させていなければ何の意味もありません。言葉だけ・観念だけのことに過ぎません。それは 悟るも何も 《アートマンという概念は 中身が無いと自分は思った・判断した》という意味にしかならず 《アートマンという語が指し示す神については 何ら意味のあることを言ったことにはなりません》。  ★ アートマンが無いと悟った  ☆ と誰が言おうと・また人類のすべての人が言おうと アートマンが指し示す神については ビクともしません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そう考えない、つまりアートマンが有るとするバラモンらとゴータマは議論はしましたが、脅すようなことは言っていません(地獄に落ちる云々等)。それが「どうする?」の意味するところです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あたりまえです。オドシは無効の行為ですから そうひと言言っておけば済みます。取り上げるに足りません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  苦痛でないときは、何してても別に問題ありませんからね。苦痛でも、好んで耐えたいならそうすればいい。ゴータマはそうしたくないと言い、そうしない方法を提案してみた。それだけの話です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《方法を提案する》のは自由ですが ただのインチキではないのですか? そもそも自分が苦からの解放は成っていません。口先だけです。毒キノコに当たって死んだぢゃないですか。    どうして こうも一人前の人間が 少なからず見え透いたペテンに引っかかるのでしょう?  ひとつには 人間には菩提心があるから それを刺激されそれにみちびかれ 途中でインチキだと分かっても まじめな求道心の旺盛な人たちは けっきょくゴータマが それでもあわれに思えて 何とかその詐欺師の地獄から這い上がってくるようにと 心を痛め 考え悩んでいる。こういうことかも知れません。  ですが 事実は事実ですし マチガイはマチガイです。そういうふつうの眼が曇らされ 判断が出来なくなっているとしたら ゴータマ・マジックは じんるいの敵であると言わざるを得ません。  それこそ めざめたまえ。ということになります。  ★ ゴータマはそうしたくない(* 苦痛に耐えたくない)と言い、そうしない方法を提案してみた。それだけの話です。  ☆ このちょっとしたさとり宣言によって かくも多くの人間が洗脳の地獄へと落ち入らせられた。  ゴータマのさとりは 何も無い。それぞれが自分で 自分の道をしっかりとあゆむべし。と何で はっきりと言わないのか。  日本は崖っぷちにある。

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  • a_hona
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回答No.30

仏教は人間讃歌とちがうんよ。迷いの生存からの解脱を推奨し、この世は一切皆苦であると見るのよ。まして生殖なんか肯定するわけないよね。でも人類の敵ではない。衆生、つまり人類は仏になれると説くんやから。それを信じるか信じないかは各人の自由やろ。でも、説得力はあるよね。迷いの生存と言われたら、どう?人類の歴史を鑑みて。わからんでもないと思うよ、そういう見方に一定の理解を示すのは難しいことじゃない。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 衆生、つまり人類は仏になれると説くんやから。それを信じるか信じないかは各人の自由やろ。  ☆ ええかげんにせんかい。     ○ 仏になる。なれる。  これが ブッダとしてのさとりであるはずだ。そのさとりの中身は 何か? と尋ねている。ええかげんにせい。  そんな あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  宗教の勧誘の場ぢゃない。《信じようが信じまいが》 そのさとりの中身を説明できるか? と尋ねている。できまい。なぜなら 中身はないゆえ。とも尋ねている。  中身があるなら あると言って説明すべし。  ないなら ないと言って それでも人びとを引きつけてきたのは 何か? そういう問題にでも答えることができれば 優秀な回答となる。   ○ ~~~~~~~~~~~~~~   仏になる。   迷いの生存からの解脱   一切皆苦と見る   生殖を肯定しない   でも人類の敵ではない   妄執を枯らして目覚める   余計なものがなくなった状態   あった中身(煩悩)がなくなった状態   ~~~~~~~~~~~~~~~~  これらはすべて看板です。中身は〔まだ〕ない。  もし中身があってその中身を 言葉では説明できない方法において 身と心とでは 実現できたというのなら ほんとうにそう思うのか? と尋ねている。  ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (ち) 《一切の苦しみから解放された》人間が 次のような言葉を言ったりすると思いますか?   ▲ (スッタニパータ 835 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (師((ブッダ))は語った)、     「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲     (という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをした     いという欲望さえも起らなかった。      糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。わた     くしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (つ) 性行為については 《情欲のない生殖》 これがあり得ると人びとに伝えようとするのではないですか?   (て) 〔看板だけをかかげて 実現できないことを目指せと言いつづけるひとだましの術を弄する〕ゴータマ・シンドロームは じんるいの敵ではないのですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  断定します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも、説得力はあるよね。迷いの生存と言われたら、どう? 人類の歴史を鑑みて。わからんでもないと思うよ、そういう見方に一定の理解を示すのは難しいことじゃない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここまでの護教論が口をついて出て来るのは すでに〔タトエですが〕 DNA にまで刷り込まれている。のではないか。  それは 《非経験の場を 信じる》のではなく 《身と心とに実現するかどうかという経験事象について 思い込む》ことでしかなく その根拠や実際の状態についての説明がないのなら イワシノアタマ教と変わらない。  ここまでの状態に人びとを連れ込むのは じんるいの敵でなくて何か。  人びとの菩提心をたくみに利用して 二千数百年!   せめて 後世のインドの人たちの到達した状態を考慮に入れるべしということではないか。        一切衆生 悉有仏性  と言って ゴータマのペテン師ぶりをあわれみ あたらしい梵我一如の信仰を取り戻した。すなわち 仏仏一如である。アートマン=ブッダター。  このふたつにしてひとつの信仰から見れば ゴータマの目指そうとしたものも じつは 無梵無我一如なる形態としてのやはり信仰であった。こう見られることになるのではないかという見方である。  ここから さらには    即身成仏    即得往生  という深みにまで じんるいの自己表現のいとなみは到っている。  世界をようく見てみることが だいじなのではないか。  ★ まして生殖なんか肯定するわけないよね。  ☆ 単純に言ってこれは じんるいの敵ではないかえ?

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回答No.29

今私は、かなり忙しい時間の合間にネットに向かうしかない状況を生きています。 ですので、どうやら論議形式の質疑応答となっている質問に対して、じっくりすべてを総合的に回答しながらその質疑応答形式の思考実験につきあっている時間はとれません。 しかし、仏教思想に関する重要な思索展開を求められているので、一つ一つ追いかける形でなら、質疑応答野展開になんとかついてゆけるかもしれないと思いました。 途中で質問を閉じられるのはそちらの自由であるわけですが、そちらの質問への質問という形で私の方は、時間の許す間にて回答していってみたいと思います。 ほぼ、毎日寝るのは夜中の12時過ぎ、朝は生業のために早く起きなければならない日課の中での10時間睡眠タイプの私の回答の努力である点、どうかそのへんはご理解ご了承ください。 ☆最初のそちらへの質問は、そちらの質問タイトル自体への質問です。 「ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう」という質問自体本来はなりたたないのではないか?という内容の質問なのです。 当時のインドには、人物の記述の「習わし」は無かったといいます。 記述ということ自体はまったく存在しなかったわけではなくても、紙は普通の人たちの手に入るものではなく、腐ってしまう葉っぱに記すのがやっとの状態だったはずです。 交通も通信も今からは、まったく何もなかったような時代にて、 それが口伝えの伝承をもとにして、記述の始まったのはなんとほぼ100年後、しかも、最初の地元の言葉であるマカダ語でしたか、その方言の口伝の記述は、サンスクリット語に訳されて始める頃から本格化されたとのこと、ところがそのサンスクリット語訳もほとんどが散逸し、それがさらにパーリ語に訳されて始めて、 そちらの紹介されているウィキペディアに書かれている南方に伝わった、確かに伝えづつけられた記述の世界が生まれる形となったわけです。 スリランカからさらにインドシナ半島に伝わったいわゆる小乗仏教の世界ですよね。 しかし、それとても、後々書き換えられてきたのが仏教の歴史、 たしかに、漢訳されるようになってからは、それはそのまま現代まで保存されるようになったということが今では文献学の発達により解っているとはいえ、 もとのパーリ語の仏典も、安志高でしたっけ、たしかそういった名前の漢訳者によって訳されていたので、少しはもとのパーリ語もものも正確に残っていたりするそうですが、それはもとのパーリ語の仏典の一部であるわけですし、 後にさらに仏滅後500年もたってから、生まれた、あきらかに創作物語形式の大乗仏教教典が、後に、ガンダーラを東に向かいシルクロートを通って韓国、日本へと伝わって来た仏教思想の世界、 このように大雑把にその史実をひも解いても、 もはや、もともとのブッダという人物は、せいぜい実在はしていただろうということが解った程度でしか、わかりえないままとなっているわけです。(そのへんはウィキペディアに記されている通りかと思われます) 100年も後に記述が始まったということは、今から言えば明治の初期の頃の口伝の記述が始まったようなもの。 というより以上に、 解りやすく言えば、自転車すらなかったそのはるかはるか昔の世界においての100年前と言えば、想像がつくことと思われるのですが、 とてもじゃないですけど、後のその記述群から、実在の人物としてのゴータマ・ブッダがどういう人物だったかということもどういう悟りを開いたのかということも、もはや解りえない世界なのではないですか? ウィキペディアに記されているところの中村・元も認めた仏典によるゴータマ・ブッダ史自体、とてもとても、史実などと認めることは無理です。 少しは史実に近いのでは、とすら言えないことをどうして中村・元のような学者が何も語れなかったのでしょう? 近いのかもしれないけれども、ただの伝説(虚構)かもしれない、という世界を、現代の私達が 史実としてそれを扱えるはずがないではないですか。 そこを、最初から彼をペテン師というのも言い過ぎなのではないでしょうか^^。変な話となってしまいます。 まずは、それがゴータマ・ブッダからの何らかの影響はあったにせよ、一度はご破算にして 後から創作された仏教思想の世界は、あくまで後から創作された思想として、 その仏教思想において、「さとり」とはどのようなものとして記述されてきたのか、それはどのような内容をそれぞれ持っているのか、その内容の真実は、価値はどこにあるのか、相互的にはどうとらえられるものなのか、それは現代では批判されるべき内容のものなのか、を問うのであれば、その問い方自体に疑問を感じることはないのですが、 ここでのそちらの質問への質問は(最初の質問)は、 なぜ「ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう」という質問を、おそらく学者であろう歴史に詳しいであろう「そちら」がなぜここにたてられたかという質問なのです。 私自身も仏教思想に対してであれば、ウィキペディアに乗っている説明での、最初の十二因縁の話しにしても、最初の教えとかいう「四諦八正道」にしても、一言で言えば疑問だらけとも言えます。 もちろん「生老病死」の起こりのお話しにしても、それ自体めちゃくちゃな分類の仕方としか思えません。 そんな分析から慈悲の思想が生まれるとも思えません。 疑問はたくさんあります。 が、その疑問を追いかけてゆくことで、元のブッダについての推理ならば、推理としてですがいくつもむしろ素晴らしい点、価値ある点をも推理できるところとも思っています。 推理ではペテン師であることも、どこまでも推理しえます。 どちらが現代の私達に意義のある推理の仕方でしょうか? いえ、これは視点の違いという見解の相違の問題であり、そちらにはそちらの正しい意図があってのあえて言葉を選んでの質問なのかもしれません。 正しさに導くためのそちらのご専門と聞く言語学の知識も応用しての、正しい意味での政治的駆け引きのようなものなのかもしれませんね。 でしたら、このような質問への質問自体、ただの邪魔かもしれません。 ただ、私は私で、現在、仏教思想への疑問をネットで書き始めていますので、その立場からも、一応は、このへんからまず問うておくべき立場となっていると思われ、一応質問させていただきました。 私の中での結論は、ゴータマはペテン師なんかではないわけですが^^。 今回は以上です。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 私の中での結論は、ゴータマはペテン師なんかではないわけですが^^。  ☆ という反論を――何であるかその根拠の分からない理由によって〔と判断せざるを得なかったのですが〕―― 発言するというまでの状態にあるということは ゴータマ・マジックなるペテンにかかっていることになりませんか。  それとも ゴータマは 何もさとっていないのだというご議論でしょうか。  ご回答をありがとうございました。

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回答No.28

例によって、独り言です。 ひ・と・り・ご・と!! sarva-dharma anatman. sabbe dhamma anatta(n). は、 「アートマンがない」という意味ではないんですが。。。 ───────── 二七九 一切の事物は我(われ)ならざるものである。───sabbe dhamma anatta.───これがパーリ聖典であらわれる古い思想である。ところがのちには「一切の事物は恒存する実体をもたない(anatta無我)」と解釈されるようになった。 『ブッダの 真理の言葉 感興の言葉』 中村元訳 岩波文庫 p124 ───────── 「アートマンがない」という解釈は、ゴータマさん没後のだいぶ時間が経ってからのブディストの解釈。 しかも、この時の《アートマン》は、バラモン教の《アートマン》とは意味が違いま~す。 ブディストのいう《アートマン》は《svabhava・自性・実体》の意味で~す。 バラモン教のいう《アートマン》とは意味が違うのですね~。 ゴータマさんは、「アートマンがある」とも「ない」とも語っていないんですね~。 《アートマン》については、終始一貫して、《黙して語らず》というスタイルを通している……。 中村元は『原始仏教』のなかで、 ───────── 『これがアートマンであると執しないならば、苦しみが現に生じつつあるときには、苦しみ が生ずると見、苦しみが現に滅しつつあるときには、苦しみが滅すると見て、惑わず、疑わず、他によることなくして、ここに智が生ずる。これだけのことによって正しい見解が起こるのである。』  これがすなわち解脱である。『物質的なかたち、または感受作用、表象作用、形成作用、識別作用に執着してこだわるが故に、われ有りとの念が起こる、それらに執着してこだわらないならば、われ有りとの念は起こらない。』  このような思想を世間一般の呼称にしたがって、かりに「無我説」と呼ぶにしても、それは 決して「アートマンは存在しない」と主張したのではない。ただ客観的実体的なあるいは機能的なアートマン観に反対したのである。アートマンが存在するか、あるいは存在しないか、という問題に関しては、沈黙を守る、というのが原始仏教経典に現われている思想的態度であった。すなわち、───仏教以前の諸哲学思想においては、われわれの現実存在の中心に我(アートマン)という常住で固定的な原理、あるいは本体、あるいは機能が存在し、主宰者となっていると想定し、それに関しては種々の形而上学的判断を下していた。そのために種々の哲学思想が互いに争っていたのである。しかしながら仏教では、そのようなアートマンは実は誤って想定されたものに他ならないと考えて、沈黙を守ったからこそ、他派の諸哲学と抗争対立することもないのである。 NHK出版 原始仏教 その思想と生活 中村元 ───────── このような中村説に対する反論はあるのですが、 ゴータマさんが「アートマンはない」と言ったという客観的な証拠を示さないかぎり、 独断の域を越さないのではなかろ~か。 神様や超自然的な現象に関する記述、つ・ま・り、都合の悪い部分をすべて《方便》とするのは、如何なんでしょう。。。 世界最古の仏典とされる『スッタニパータ』蛇の章、9、10に、《七岳》や《アーラヴァカ》という神霊が出てきま~す。 独り言ですよ、独り言。 これは、 ひ・と・り・ご・と!! ゴータマ応援団の皆さん、ガンバです。 Bさんを打ち負かしてください!!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ (中村元:ブッダの真理の言葉 感興の言葉) ~~~~~~~~~~~~~~  二七九 一切の事物は我(われ)ならざるものである。───sabbe dhamma anatta.───これがパーリ聖典であらわれる古い思想である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは 《いっさいの事物について われのものだと言い張ったり ものごとについて我執を込めて取り扱ったりすることは しないように》ということではないでしょうか。  ただし 《われ》は 意志としてのごとく あると見てはいると考えられます。任意に例示しうると思われます。  ▲ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~~~~~~  第一 蛇の章 <8、慈しみ>  143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《能力のある者であらねばならぬ》と発言することは 《われがある》ことを示していると考えます。  このような《漠然として矛盾したことがら》は まだあると思われます。  ▼ (中村元:原始仏教 その思想と生活) ~~~~~~~~  しかしながら仏教では、そのようなアートマン(* 仏教以前の諸哲学思想における常住で固定的な原理)は実は誤って想定されたものに他ならないと考えて、沈黙を守ったからこそ、他派の諸哲学と抗争対立することもないのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《沈黙を守った》のは  ▼ アートマンは 実は誤って想定されたものに他ならないと考えて  ☆ のことである。と言っています。  その上で  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマさんは、「アートマンがある」とも「ない」とも語っていないんですね~。  《アートマン》については、終始一貫して、《黙して語らず》というスタイルを通している……。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ となるようだと聞くときには 《漠然とした矛盾》を感じます。  そこから  ▼ ところがのちには「一切の事物は恒存する実体をもたない(anatta無我)」と解釈されるようになった。  ☆ のではないかと。  ◇ ブディストのいう《アートマン》は 《svabhava・自性・実体》の意味で~す。  ☆ と。

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 仏教における小乗と大乗の違いとは?

    仏教における小乗と大乗の違いとはどのようなものでしょうかという質問です。 釈尊の背中を見ていると、菩提樹下でお悟りを開くまでが小乗で、梵天勧請を受けて、伝道を開始して、弟子を増やし教化する段階が大乗のように見えますが、経典主義の方々には違った見方もあると思います。 回答よろしくお願いします。

  • 乳粥

    牛乳歴史クイズの質問第4弾です。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm 上記サイトに、 「お釈迦さまが1杯の乳粥を飲んで悟りを開いたという「乳粥」とは? 」 といふクイズがあります。解説は、かうです。 「『 ヨーグルト 』仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッタルタ)にも、乳をめぐるエピソードが残されています。悟りを開くため出家して山奥で断食苦行をしていた釈迦は、悟りが開けぬまま衰弱したからだで山を下りていきました。その途中、出会ったひとりの乙女スジャータから1杯の乳粥(インドでダヒというヨーグルト)を捧げられます。あまりのおいしさに驚き、その瞬間に悟りを開いたというのです。 」 私は、インドで「キール」と呼ばれる食品だという話は、聞いたことがありますが、「ダヒ」といふヨーグルトだといふ説は初耳です。 「乳粥」は、ほんとうは、何なのですか。