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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう)

ゴータマ・ブッダのさとりとは?中身はあるのか?

このQ&Aのポイント
  • ゴータマ・ブッダのさとりについて疑問を投げかける。
  • さとりの中身がないのではないかという問いを提起する。
  • ゴータマ・ブッダの教えによって人々がマインドコントロールされ、理性や感性が鈍らされている可能性を指摘する。

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noname#195588
noname#195588
回答No.45

何も覚っていない 修行中こそが覚りだと考えるのもどうかと思うので 回答してみます。 覚りは現在なのか、過去なのか。 覚る。なのか、 覚った。なのか。 ゴータマ・ブッダは覚る人なのか、 覚った人なのか。 それで、なんとなくウィキペディアの曹洞宗の項目を見たんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派も一部にあるが少数である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97 ~~~~~~~~~~~~~~~ 無限に修行こそが成仏というのは、 どうなんでしょうか。 この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの 覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。 でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。 発想が現在形というか現在進行形というか。 無限の修行が覚りなら これでは、覚りが過去にならない。 覚った人とは言えないのではないか? そんなことを考えていたら なんとなくゼノンのパラドックスを思い出しました。 飛んでいる矢は止まっている、とか アキレスは亀に追いつけない、とか。 道元はアキレスみたいに、いつまでも亀に追いつけない。 なんて言ったら怒られそうですけど。 それからついでに、 過去とか現在とか考えていたら 既視感とか、未視感とかそんなことを 考えたりしました。 つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。 とにかく修行。 という結論になるのもなんだかね。 人力飛行機とか自転車操業みたい。 死んだら修行は出来ないから 死んだら仏になれない気がする。どうだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~  死んだら修行は出来ないから  死んだら仏になれない気がする。どうだろう。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり ブッダ修行は 動態であるのだという見方でしょうか。  つまり このいま・ここなるわたしの――したがって つねに現在時として歩み行くところの――生きた動態でなくて 何が《さとり》であるものかと。   ○ 永遠の現在  という命題(実践課題)にまで到りましょうか。  このさとりを ゴータマ氏が成就したかどうかは まだ何とも言えないと思うのですが。  ★ という結論になるのもなんだかね。 / 人力飛行機とか自転車操業みたい。  ☆ これでいいんぢゃないですか。人生 一歩一歩なのですから。  それなら さとりに中身があると言えるかも知れません。  すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~  それからついでに、  過去とか現在とか考えていたら  既視感とか、未視感とかそんなことを  考えたりしました。  つべこべいわず、坐禅していればいいんだ。  とにかく修行。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち   ○ 現在時における過去にかかわるような既視感(デジャ・ヴュ)は すでにそのふるさとにわたしはいたのだという・そのマボロシを見たという ようなことでしょうか。   ○ 現在時における未来にかかわるような未視感(ジャメ・ヴュ)は いままでに見たことのない風景が広がって見えるのなら それは いま現在を《ただただ坐禅(≒社会的活動全般)に生きる》とき ふと世界が開けるといったことを言うのでしょうか。世界の明けといったような。  でしたら これらの《わが自然本性における〈ふるさと〉の既視感》も《あたらしい世界の明けなる――わが自然本性の衣替えが成されて行く――未視感》も あたかもわが心なる《非思考の庭》におけるドラマが 開幕したことを告げている。  つまり 信仰としての――その動態としての――さとり でしょうか。  ★ 《無限に修行》こそが成仏というのは、 / どうなんでしょうか。  ★ 《何も覚っていない / 修行中》こそが覚りだと考える  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  この考えを採用すると、べつにゴータマ・ブッダの  覚りに内容が無くても、仏だといえてしまうでしょう。たぶん。  でも、覚りがいつまでも、過去にならないと思います。  発想が現在形というか現在進行形というか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それでしたら さとりに《中身》があります。みとめなければなりません。脱帽します。  それにつけても ゴータマ自身は どうだったのでしょうか?   分からないけれども そのまだ言うとすればペテンまがいの振る舞いや説法をつうじて いまこのような《さとり=動態》説を得たのだから おおきくはブディズムの流れに乗っているということでしょうか。  ゴータマ氏の怪我の功名であろうか。  いや それをこそ はるか昔にゴータマくんは のぞみ見ていたというのであろうか。   ○ 只管打坐  つまり坐禅というのは タトエとして扱い 人おのおのの人生における仕事と務めに地道にあゆむことを さとりの動態として言っている。でしょうか。  あとは ヒラメキとしての贈り物を受け取ったがごとく未視感において広がるあたらしい風景・あたらしい世界 これを 理論構築をもしつつ 実践する。  これなら――その具体的な中身は ひとそれぞれに応じて決めればよいのですから―― 中身をともなった《さとり》説ですね。いわば実存思想としても受け留めることが出来そうです。その現在時において――永遠の現在として推移するかのように――つねにわが心と意志のありかにもとづき 一歩一歩地道にあゆむのだ。これよりとうとい思想は ないでしょうね。  怪我の功名・ペテンの効用 と言うべきではないかという疑いをゴータマ氏にはまだ持っていますが 中身のある《さとり=動態》説には まいりました。  心のあり方として あたまを丸めます。  

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その他の回答 (57)

回答No.48

こんにちは。 まず、ブラフマンを・・・。 服部正明著『古代インドの神秘思想』講談社新書から抜粋します。 ─────────  「ブラフマン」は神秘的・魔術的な潜勢力であって、讃誦やさまざまの儀礼によってその 力は現勢化される、という解釈をハウグ(1827ー1876)によって提唱され、オルデンベルグは、「精神的・呪術的な力の流体または潜勢力、ならびに、一方には聖句・呪句その他の儀礼における、他方にはその力を所有する婆羅門の状態におけるその具現」「神聖な、呪力を持ったヴェーダの語、並びに、その語 やそれを身につけたものに内在する神秘的な流体」というように「ブラフマン」を定義した。「ブラフマン」は、呪術、呪文を意味する古アイルランド語の「ブリヒト」(bricht)と親縁関係を持つというオソトホフの説を、オルデンベルグは支持している。また、「ブラフマン」を「呪力の流体」とする解釈は、ヒルレブラントにも共通するものであるが、オルデンベルグはこの解釈を提示しながら、宇宙の最高原理へと高められる以前の段階における「ブラフマン」は、メラネシア人のマナに類似する観念であると記しているのである。 ───────── 《ブラフマン=流体〔エーテル〕》説。 《ブラフマン=火》説 ─────────  ヒルレブラントも「ブラフマン」の語義を呪術から創造力一般へという展開の線に沿って 理解するが、これとは著しく異なる説も提唱されている。ヘルテルによれば、「ブラフマン」はギリシア語の「フレグマ」(phlegma)、 ラテン語の「フラグロ」(flagro)と語源的に関係があり、身体の熱、およびそれに対応する宇宙的な 熱、すなわち天上の火がその原義で、『リグ・ヴェーダ』においては、心臓内に放射する熱の所産としての讃歌を意味するのである。 ───────── 《心臓》という言葉は、非常~に重要です。 《アートマン》は、心臓に宿ると考えられていますので・・・。 ───────── 彼がこうして眠っていたとき、認識から成る《神人》(プルシャです)は、〔自らの本質である〕認識によって、これらの諸機能の〔分有している〕認識力を摂取し、この心臓の内部にある空間においてやすらっていたのだ。彼がそれら〔の諸機能〕を捉えるとき、神人は眠っているといわれる。そのとき、気息(嗅覚機能)は捉えられ、語は捉えられ、眼は捉えられ、耳は捉えられ、思考力は捉えられるのである。 ───────── アートマン=心臓にいる小人(プルシャ)説 ─────────  この睡眠現象の解釈に見られる眼の中の人間、心臓内部の空間、太陽光線と連結している脈管などの表象は、ヤージニャヴァルキヤのアートマン論に哲学的に深められるにつれ捨て去られる。熟睡のとき、アートマンは心臓の脈管の中に入るのではなく、一時的に身体を脱してブラフマンと一体になる、という見解がとらえるようになり、夢の解釈にもまた変化 が生じてくる。 ───────── 要するに、 アートマンは、人が起きている間は心臓の真奥に宿り、人が眠っているときは、心臓を抜けだし、ブラフマンに抱かれ合一し、歓喜を感じる、 と、ウパニシャッドでは考えられていた。 以上はすべて、服部正明著『古代インドの神秘思想』から抜粋しました。 生き物にしか、《アートマン》はない、というお話でした。 ☆《中国・日本の仏教》における《草木国土皆悉成仏》とは違って 一切衆生悉有仏性と言う。衆生(サットワ)とは 生命あるものである。 ◇インドの《衆生》は、生命あるものです。 ですから、 《草木国土皆悉成仏》は中国・日本〔天台〕仏教の特色であり、大きな逸脱です。 注目は、「草木や国土は、成仏している」という点。 成仏していないのは、人間を含む生き物・動物、ケダモノ!! 文学的な表現になりますけれど、 《器世界》は《ホトケさま》の身体の一部と考えれば宜しいのでは。 ただ、われわれは《非思考・非経験の場》に至っていないので、そのことに気づかない。 《ホトケさま》によって荘厳された、この上なく美しい世界を、汚らしい《穢土》だと認識する・・・ みたいなカンジ。 仏教的な言い方をするならば、《分別作用》によって《穢土》に見える・・・ ☆☆ というとき 《法》には《存在》の意味があり だとすると《有為法》としての現象は これも《存在》に属していると見るなら 《ブッダター=アートマン》のやどるその存在と一体であるのではないか。といううたがいであり 質問です。 ◇いえいえ、 《有為法》は煩悩によって構成・形成されるものです。 だから、これは否定されます。 《煩悩》がなくなれば、《心・身》は構成・形成されない。 それが輪廻からの解脱ということ。 そもそも、 ゴータマ仏教というのは、《心身》に限定されたもので、世界観を提示していない!! 《世界》や《宇宙》などは、《わたし・ゴータマ》のいう《さとり》に直接関係しない、というのが、 原始仏教で描かれるゴータマさんの仰せです。 ちなみに、 アビダルマ、特に説一切有部では、《心》以外の存在は《実在・実法》と考えます。 ───すこし自信がありませんが、《心の作用・心所有法》も《実在・実法》としているのでしょう─── 「あらゆる現象(諸法 dharmā)」を構成する基体として、有法、法体(ダルマ dharma)を想定し、この有法は滅することなく、過去・現在・未来にわたって存在し続けること」(法体恒有、三世実有)を主張した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8 因や縁により、それら(原子)が集り、身体や事物は、構成・形成される。 ただ、それは絶えず離合集散を繰り返している、《刹那生滅》を繰り返している(諸行無常)。 だから、《わたし》と呼べるものはない(人無我)。 《五蘊仮和合》説とか呼ばれる《人間観》ですね。 そして、 《五蘊》を形成する〔《原子のような》or《法体=仏教的イデア》〕ものは《自性・svabhava》を有するとする。 物質を構成する《色(いろ)原子》や《形(かたち)原子》などは実在する、と考えます。 アビダルマでは、何と、《原子論》を採用しています。 説一切有部では、 微小な原子は、間隙をおいて、風〔力みたいなもの〕で互いに結合している、 とまで言っています。 思弁の力のみで、ここまで到達していたのだから、驚きですね~。 それはおかしい、というのが、 大乗の《法無我》という主張です。 ブッダの説いた《諸法無我》を矮小化している、 と、 大乗ブディストは、こうしたアビダルマ的《諸法無我》説を攻撃する。 この時の《我》は《自性・svabhava》の意味です。 atman=svabhava と定義したのは、 龍樹・ナーガルジュナだと言われています。 ☆☆ という解説によるかぎりでは 《アートマン・我》=《自性》だと見られているようなのですが。 ◇ナーガルジュナ説です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 梵我一如  ☆ これは 言わば理念型です。  ここでの議論はすでに ブラフマンもアートマンも 《非経験の場》という想定にもとづきその神ないしその霊にあてはめています。  つまり 信仰のかたちとしての類型です。  もしそこまでの意味合いが インドにはなかったとするなら 放っておくか それとも いまおぎなって理念型にまでととのえ議論において扱うかです。  割り切ってよいと考えます。    ☆☆ 《法・ダルマ》には《存在》の意味があり だとすると《有為法》としての現象は これも《存在》に属していると見るなら 《ブッダター=アートマン》のやどるその存在と一体であるのではないか。といううたがいであり 質問です。  ◇ いえいえ、 / 《有為法》は煩悩によって構成・形成されるものです。  ☆ いえいえ。《煩悩によって構成・形成されるもの》は 《存在》に属しているものではないか? という反問です。よって  ☆☆ 《法》としての《有為法》も 《ブッダター=アートマン》のやどるその存在と一体であるのではないか。  ○ 一切衆生悉有仏性  ☆ これは 実際には 人間にとって 《神とわれとの関係》が 《梵我一如》だというだけで済むことです。  生命あるものすべてにおよぼすか またはさらに草木国土といった自然環界にまで広げるかは おまけの議論だと見ます。信仰の成ったあとで その人が どう自然や生物に対処するかという問題になります。  アートマンがやどるのは人間にのみだと思っている人でも 自然や動物・植物に対して そのあり方を存続・保守の方向へとすすめることはあり得ますから。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そもそも、  ゴータマ仏教というのは、《心身》に限定されたもので、世界観を提示していない!!  《世界》や《宇宙》などは、《わたし・ゴータマ》のいう《さとり》に直接関係しない、というのが、  原始仏教で描かれるゴータマさんの仰せです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《世界》あるいはその経験世界を超えたところの《非経験の場》について 《さとりに直接関係しない》というのであれば それは 非経験の場を《無い神》として扱ったことになる。という見方です。すなわち 無梵無我一如なる信仰のかたちです。  ですから ゴータマ氏は みづからの《非思考の庭》のことを――そこで実際に何らかのヒラメキの起きることを経験していたとしても―― 知らなかった。実践的には――意識なしに――捉えていたかも知れない。けれども 信仰としては 自覚していない。  あるいは 非思考ということを 実質的に実践していたかも知れない。しかも そのことが まさに思考に非ずなる信仰としての自覚に成っていたかは 何とも言えない。  アートマンの扱いで けっきょく 経験存在としての人間のわれとして使ったか 非経験なる霊我アートマンとして 知らず知らずに 用いていたか。自覚なしに使い分けしていたのではないだろうか。  ――こういったおぼろげなる見方です。  ◇ 《五蘊》を形成する〔《原子のような》or《法体=仏教的イデア》〕ものは《自性・svabhava》を有するとする。  ☆ この《自性》についても 霊我アートマンと同じもの(無為法)と捉えたか それとも 究極の経験事物(有為法)として扱ったか いづれでもあったのではないかと考えられます。しっかりと区別出来ていたのかどうか。・・・・  ゴータマにあっては 混沌としていた。  ナーガールジュナでは どうか。・・・と こちらの思いが混沌としています。  

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noname#195146
noname#195146
回答No.47

> ☆ そのゴータマの見方は いただけません。という物言いを始めます。  それならゴータマの名前を借りずに、自分でお始めなさい。悟後の彼はアートマンなど意に介さなかったのですから、彼が言ってもいないことで『論難』はできないし、『論破』も不可能です。  今から何か作っても、ゴータマがどこかから蘇って、文句を言ったりはしませんよ。安心して宜しい。  あるいは、ゴータマが現在でも有名、盛名であることを用いてはいけません。彼を上回った、と豪語することは誰にでもできます。もっとも、その内容いかんであり、ここにいくつも寄せられた回答のようなことにもなります。  ゴータマは今や反論ができない死者ですしね。彼に反論することは無益です。死者が言い返すこともなければ、誰も死者を論破することもできません。ましてや的外れではね。  私は愚鈍ながら、あなたを哀れに思います。独力で新たなことを言いだす勇気がなく、今の仏教者が怖くて口出しができず、腹いせに遥か過去の人を貶し、かつ依存してしまっていますから。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ましてや的外れではね。  ☆ 例証も論証もありません。こういう小学生の作文のごとき議論は いただけません。  ご回答をありがとうございます。  ★ 独力で新たなことを言いだす勇気がなく、今の仏教者が怖くて口出しができず、腹いせに遥か過去の人を貶し、かつ依存してしまっていますから。  ☆ ご存じないだけです。《独力で新たなことを言い出》しており 《今の仏教者が怖く》はなく《口出しができ》ております。  なおこういった質問をとおしての情報交換は何のためにおこなっているかと問われれば 回答No.40のお礼欄に書き込みましたので 参照してもらえればさいわいです。  【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3454478.html   ☆ 初めてのブディズム論です。まだ シャイな質問者です。  【Q:やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7552652.html   ☆ 表題のとおりです。  【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7526932.html   ☆ 表題どおりです。  【Q:ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。】     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7593798.html  【Q:ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4279578.html  【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html  【Q:キサーゴータミーの説話について】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7880066.html   ☆ 説話の設定が間違っておりそもそも成り立たないと明かしています。  【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html   ☆ 聖徳ボンクラ太子への批判です。  【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  【Q:ブッダとキリスト】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3580615.html  【Q:創価学会への公開質問です。】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8061851.html  【Q:組織としての宗教は 違憲ではないか】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8296733.html    ☆ ローマ教会をはじめ 組織宗教は 自己解体せよと言っています。     【Q:《信じる》を哲学として定義せよ】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8081389.html  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html   ☆ 神についての定義で その決定版です。  【Q:《神》は 補助線である。】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8258970.html  

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.46

俺は主を自分勝手な男やと思ったな。自分では回答者に自己流の長文を読ませることを強いておいて、いざ自分が受けにまわったら、私の力では及ばない、代わりに応対してくれ、なんて、失礼すぎるやろ。 主にはええ機会や。主がいろんな回答者から何を得るのも主次第。誤っても回答者を啓蒙しようなんて考えんことや。立場は反対なんやから。 又、俺は基本的にスレッドを、全部読むようなことはしない。他の回答者の回答や、そのやりとりを読むとしても部分的や。それに、第三者がちょっかい出すのはルール違反やろ。 だから、あくまで俺の感想として述べるにとどめおく。 人の不幸は計り知れん。無限や。 だから、大乗では無限の功徳を数多の喩えで説く。計り知れない苦しみに対し、計り知れない救いのあるのを提示する。無論言葉の世界の話や。せやけども、人間やから言葉で救われることもある。なんで仏教がここまで支持されるんかゆうたら、自力にしろ他力にしろ、一人残らず救われることを説くからやと俺は考える。仏教の汎用性は半端ない。次々と土地の宗教と融合しつつ東アジアの果てまで来た。それだけの思想としての懐があったからやろう。 俺は少しやが、人の苦しみはわかる。分かるから、苦を扱う仏教には一定の理解を示す。 ところで俺は、衆生や仏、という分別があるのに疑義がある。衆生がダメで、仏が良いという見方自体、無分別智とは違うんじゃないかと。 とある経典の一説にこうある。 迷えば仏も衆生なり、 覚れば衆生も仏なり、と。 俺はそれを読んで、差別してるわけでもないのかなと思った。 俺の知ってる仏教知識なんで僅かや。議論するに及ばへん。 せやけど自分なりの見解を用意して回答に当たったつもりや。それを質問者のカタルシスの餌食にされるんは困るんよ。 話は戻るが、最終的に苦を解決しない仏教なんてのはザルや。 またある仏典にこうある。 この道は、聞いただけでも、口先で語るだけでも歩み行くことはできない、と。 簡単ではないということやろ。 そらそうや、人生歩くだけだって簡単やないねん、まして人生の苦しみを取り除くのがどうして簡単やろう。 せやけど思ってまうやろ、楽になりたいなと。苦しみから解放されたいなと。ただこれだけのシンプルな動機が、仏教の隆盛を支えたんやろうと思う。他の宗教も似たようなとこはあるやろ。そういう意味では仏教だけが特別やあれへん。 諦めるという言葉がある。仔細を明らかにすることが本来の意味やが、あきらめる、努力を終わらすという意味でも使ってるよな。 諦めることによって解脱すると言う、これは微妙やで。人智の限界を知って、しかもそれに頼るのを諦めて、かえって仏智に到達するとも聞く。仏智ってなんやろな。それが所謂さとりの中身かもしれんな。主の求める。

bragelonne
質問者

お礼

 おお。言うときは言うんだな。  だが 尻をたたかなければ言わない。んぢゃないの?  あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ところで 直前の回答(No.45)で 脱帽しました。あたまを丸めます。  あなたのこのご回答は No.41の方が見てくれればさいわいです。感謝。  あんたには わたしの自分勝手がとおる。つとにお見通し。だって 社会のためになることしか 要望しない。求道心が ルールを凌駕する。  ★ 諦めることによって解脱すると言う、これは微妙やで。人智の限界を知って、しかもそれに頼るのを諦めて、かえって仏智に到達するとも聞く。仏智ってなんやろな。それが所謂さとりの中身かもしれんな。  ☆ ここは びみょうやでぇ。  あんたは  ★★ 死をも取り込んでいる生の動態ですか。あり得ると思います。  ☆ と書いた。《人智の限界》と《人智を超えるあたかも人智》と りょうほう要るんちゃうか。ブッダは 人間が成るもんやでぇ。  

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noname#195146
noname#195146
回答No.44

> それとも アートマンは《無いもの》だと見て 何も触れなかったことは マチガイだったと ゴータマの霊が出て来て あやまるのでしょうか?  ゴータマは輪廻してこないでしょうね。それはさておき。あなたにとって『無い』は、それほどに難しいことなんですね。  塵一つ無く、真っ直ぐに開けた道がある。それを指さして言う人がいる。「この道は蛇がどいたから何も無いのだ。蛇でなければ鰻かもしれない」と。  何かを持っていないとしたら、それを捨てたからに違いない。暗いとしたら、光が去ったからに違いない。生きているのは、生き返ったからに違いない。神は存在する。なぜなら神が消え去った証拠がないから。等々。 > ★ バラモンらはアートマンが有るとして、いつかは全てを説明可能かもしれない > ☆ これは マチガイですよ。  そうですよ。無いんですから。ゴータマにとっては、ですがね。

bragelonne
質問者

お礼

 微妙なところで 異なる見解を持ちます。  まづは れいずぃどぐ1さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。    ここです:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   > ★(回答No.37) バラモンらはアートマンが有るとして、いつかは全てを説明可能かもしれない〔と捉えている〕   > ☆ これは マチガイですよ。 / 非経験の場としてブラフマンおよびアートマンを想定しているのですから その《非経験の場》は 経験世界における《有る無い》をとうぜん超えています。  そうですよ。無いんですから。ゴータマにとっては、ですがね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのゴータマの見方は いただけません。という物言いを始めます。  アートマン(霊我)は ブッダター(仏性)と同じく 想定であり補助線であるに過ぎないのだから それを人間の能力によって《有る・無い》の規定に付すことは出来ず ただいづれか一方を人間は その信仰としての受け容れに際して〔自由に〕えらぶだけだということ。信仰は 有神論か無神論かのいづれかになる。まづこう確認しておいて けっきょくこの問題も然ることながら  ★ 無いんですから。  ☆ という理由で 《そうですよ》という判断をくだすのは いただけません。というのが 骨子です。  理由を述べます。  問題は 《アートマン仮説》について   ○ いつかは全てを説明可能かもしれない  と規定することにあります。神については それをなぜ補助線を用いてしか表わせないかと言えば そのナゾが人間には《分かるか分からないかが 分からない》ものだからです。  つまり     いつか説明可能になる とは言えず また    いつまでも説明可能には成らない とも言えない  と言わなければ アートマン仮説についての妥当な評価は与えられないと考えるからです。  微妙ですが 神は 非知であるのであって 不可知でも未知のものでもないからです。未知なら いづれ既知となると考えられる経験的なものごとに属します。  非知は いづれ知られるようになるとも いや決して知られることはないのだとも 人間が決めることは出来ないそのことを指します。  このことは 取りも直さず ゴータマの言い分として説明されているところの《アートマンは 初めから 無い》という議論も そのままでは何を言っているのか分からないことを物語っています。  つまり 一方で アートマンを経験事象として扱って《無い》と言う場合 そんなことを言ったとしても 何も意味を持たないという問題があります。仮りにふつうの単なる想像物だとしてみれば そのアートマンを《無い。だから 定義もない》と言ってみたところで その議論はかみ合っていません。   あるいは 想像物としてではなく ふつうに《自己》という意味での語法が アートマンにはあります。これを そんなものは無いんだと言ったとて 何にもなりません。  他方では もしアートマンが ブラフマン神ないしその霊だとする場合 この場合もけっきょくそれを《無い》と言ってみたところで そのアートマン仮説をゆるがすことには やはり成らない。そういう《無い》という評言は 自分が 神について 《無い神》をえらんだということを意味するだけのことですから。  つまり 有神論としての《アートマン仮説》は 無神論としての《アン-アートマン仮説=ゴータマ仮説》とまったく同等に 人間の非思考の庭における信仰として 名前をたがえているだけで同じ類型であるのだとなります。それ以外にはなりません。  《有る・無い》は 経験世界における行為や現象としてのそれと そして非経験の場にとってのそれと ふたつの場合があります。ふたつの場合は 明らかなかたちで 異なっています。人間の《考える・見る聞く触る等々》の対象である場合と そして《思考に非ず よって信じる(そのまま受け容れる)》の対象(すなわち 非対象)である場合とです。  ★ 神は存在する。なぜなら神が消え去った証拠がないから。  ☆ いえ。消え去ったかどうかを検証する前に そこにいたと見えたかどうかを確かめなくてはなりません。けれども そのような知覚や思考によっては 神はついぞ確認できません。(あるいは ひとりの人の主観にあっては その主観のかぎりで 神を見たとか 神の存在を論理的に証明できたぞとか言えるとは言えるのですが。つまりただし その主観内容が ほかの人びとと共有しうるかは また別の話になります)。  すなわち 神は存在する(または 存在しない)と想定する というのが 哲学として言って妥当な定義なのです。

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回答No.43

☆でしたら ゴータマ氏のさとりは はじめっから 梵我一如説だったということでしょうか? ◇ひょっとしたら。 あるいは、 これすら突き抜け、《梵一元論》なのかもしれないです。 『ダンマパダ』第二十六章 バラモン ───────── 422 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。 423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。 ───────── で、 ブッダ=真の〈バラモン〉 イエス⇔ゴータマ ユダヤの律法主義⇔バラモン教の祭式至上主義 となぞらえると、 類型的には似ているように思います。 ゴータマさんは、祭式主義に堕したバラモン教の改革者であると仮定するならば、 《梵我一如》は言わずもがな・・・。 でも、これらはすべて、わたしの妄想です。 まっ、一番可能性が高いのは、バラモン階級出身者が経典の編纂をしたからでしょう。 岩本裕の研究によりますと、 阿含などの小乗経典において、 仏教教団に占める、氏名と出自のわかる人の中で、バラモン階級出身者の割合は、5割を越えています。 そして、シュードラ・奴隷階級の出身者は一人もいない!! ゴータマさんの教えがどのようなものであったにせよ、 仏教はバラモン教化してしまう運命にあった。 中観の創始者のナーガルジュナも、唯識の大成者であるアサンガ(無著)とヴァスバンドゥー(世親)の兄弟も、バラモン階級出身です。 ☆◇◇(回答No.28)  ブディストの〔* というよりは ゴータマの〕いう《アートマン》は 《svabhava・自性・実体》の意味で~す。  ☆ ということなのでしょうか? ◇いえ、バラモン教の個体原理である《アートマン》の意味です。 もっとダイレクトに、《プルシャ・神我》と呼んでいいのかもしれません。 ☆▲ 《一切の事物は我れならざるものである》(諸法非我)  ☆ というとき 人間つまり我れつまりアートマンは 諸法つまり一切の事物のなかに含まれるのではないかと考えられるからです。 ◇インドでは、そのように考えません。 仏教においても、バラモン教と言いますか後期バラモン教哲学においても、 現象は《幻影・マーヤー:maya》の如きものです。 バラモン教の学派によって、違いはありますけれども。 中国において、変わった。 インド仏教では、事物に仏が宿っているとは考えませんよ。 現象は、《有為法・samskrta-dharmah》、煩悩あるダルマなので。 大乗仏教は、すこし微妙なところがありますが・・・。 ☆つまりは 非経験の場ないし非思考の庭なる神の霊である ということになるのでしょうか? ◇《アートマン》は。 でも、事物に《アートマン》は宿っていませんけれど。 中国・日本の仏教は違いますよ。 《草木国土皆悉成仏》とか言いますんで。 わたしは、こちらの方が好きです。

bragelonne
質問者

お礼

 ねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。    まづ《ブッダター / ブッダダートゥ》のほうから確認して行きます。    《中国・日本の仏教》における《草木国土皆悉成仏》とは違って 一切衆生悉有仏性と言う。衆生(サットワ)とは 生命あるものである。  ただし 《諸法無我》というときの《法・ダルマ》については 微妙ではないかと思いましたので いま一度確認を願います。  《諸法》を《一切の事物》と訳したばあい:  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  インド仏教では、事物に仏が宿っているとは考えませんよ。  現象は、《有為法・samskrta-dharmah》、煩悩あるダルマなので。  大乗仏教は、すこし微妙なところがありますが・・・。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というとき 《法》には《存在》の意味があり だとすると《有為法》としての現象は これも《存在》に属していると見るなら 《ブッダター=アートマン》のやどるその存在と一体であるのではないか。といううたがいであり 質問です。  ▲ (ヰキぺ:法 (仏教)) ~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  § まえがき     仏教では・・・この法ということばで、法則・真理を示し、それから教法や説法も指し、存在を意味し、具体的な存在を構成する要素的存在を意味する。  § 2 仏教における「法」  § 2.2 存在を意味する「法」   存在としての「法」とは、具体的に「存在している個々のもの」を法という。この場合も、単にそこに現象として存在しているものではなく、「真理のままに」そこに現象として存在しているという意味を考えるべきである。   後には、形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法とに分けて考えられる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変の法を説く。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~        *  《バラモン教の個体原理である》アートマンは  ◇ もっとダイレクトに、《プルシャ・神我》と呼んでいいのかもしれません。  ☆ というとき それが 《 svabhaava・自性・実体》とは別なのか。だとすれば どう違うのか。についてのやはり確認です。  つまり  ▲ (ヰキぺ:諸法無我) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91  ( sarva-dharma-anaatman )   インド古来の考え方は、変化するものに主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)である。  ところが、仏教は、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。  そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために諸法無我が説かれた。  これは一般に有我論が説かれている最中に釈迦だけが主張した仏教の特色である。  諸法無我は、インド在来の実体的な「我」の存在をも否定し、「我」を含むあらゆる存在は「実体」ではありえないことを主張する。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という解説によるかぎりでは 《アートマン・我》=《自性》だと見られているようなのですが。      *  ◇ ゴータマさんは、祭式主義に堕したバラモン教の改革者であると仮定するならば、 / 《梵我一如》は言わずもがな・・・。  ☆ むしろ見え隠れする大前提であることは それ自体が 暗黙の大前提であったと。  すなわち  ☆☆ でしたら ゴータマ氏のさとりは はじめっから 梵我一如説だったということでしょうか?  ◇ ひょっとしたら。 / あるいは、/ これすら突き抜け、《梵一元論》なのかもしれないです。  ☆ ですが まづゴータマ氏の思想および〔好意的な推測によるところの〕信仰の中身は 大きく《梵我一如》だとする見方は つとにわたしも《となえて》来ましたが ただし《梵一元論》という捉え方は まだよく分かりません。  ブラフマンは とりもなおさず アートマンである。はずですから。  ◇ まっ、一番可能性が高いのは、バラモン階級出身者が経典の編纂をしたからでしょう。  ☆ これは あまり大きな材料ではないように思います。もともとゴータマ氏が 《真のバラモン》をそのさとりの中軸としていたのなら バラモン階級出身者の手になる編纂によってそのこと(《梵一元論》)が左右されることはなかったことを明かすだけだからです。  こんなところでしょうか。  

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄のあと その議論をおぎないます。  けっきょくゴータマにあっては だとしたら 梵我一如(ないし梵一元論)と無梵無我一如とのふたつを――つまりは なんのことはなく 有神論と無神論とのふたつの形態を―― 類型として同じひとつのかたちにおいて 使い分けていた。とでも 捉えてみればよいのかも知れません。    つまりそれは アートマンの使い分けによってそうなるといったことです。  たぶん自身の内では 整理し得ていなかったものと思われます。

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回答No.42

こんばんは。 ☆あれ。問題は なかったんですか? ◇いやいや、 atta(n)・atmanを《どう訳す》かという最大の問題があります。 これをどう訳すかによって、 ゴータマ仏教は、《隠れ有我論》、《無我論》???(ニコニコ)。 ───────── 自己を愛する  さらに原始仏教では自己を愛することを教えている。アートマンは愛しきものである。或る小さな神が『子に等しい愛しいものはない。』と 答えた。これは明らかに古ウパニシャッドにおいて哲人ヤージュニャヴァルキアが『ああ、実に夫を愛するが故に夫が愛おしいのではない。アートマンを愛するが故に夫が愛しいのである。ああ、妻を愛するが故に妻が愛しいのではない。アートマンを愛するが故に妻が愛しいのである。ああ、子らを愛するが故に子らが 愛しいのではない。アートマンを愛するが故に子らが愛しいのである。』などと説いた教えにもちょうど対応するものである。 中村元 原始仏教:その思想と生活 NHK出版 ───────── ───────── 157. attānañ ce piyaṃ jaññā rakkheyya naṃ surakkhitaṃ tiṇṇaṃ aññataraṃ yāmaṃ paṭijaggeyya paṇḍito. もし人が自己を愛しいと知るならば、 自己をよく守れ。 賢い人は、夜の三つの区分の一つだけで、 つつしんで目覚めておれ。 ダンマパダ 157 (日本語訳は、中村元のもの) ───────── の部分、 バラモン教の「アートマンを愛する」というのと酷似している・・・。 中村元は、明言は避けていますけれども、 「《atta(n)》は《アートマン》だ」 と言外に言いたいのでしょう。 そして、こんな風に『五 自己の探求───無我説───』を結んでおります。 ─────────  ところが何ものをもアートマンと見なしてはならぬ、という教えをつきつめて考えてみる と、アートマンをことさらにわれ以外の他のものに見出そうとする必要はないのである。解脱はすでに現前しているのである。生滅変化することや苦しみはアートマンならざることにのみ関係しているのであり、アートマンはそれとは無関係である。解脱はすでに体得されているのだといえるであろう。原始仏教ではそこまで明言しなかった。しかし後世の大乗仏教においてそのような立言をなす理論的根拠は、すでに原始仏教の内に存在していたのである。 ───────── わたしは、別に、 ゴータマ仏教が《隠れ有我論》であろうが、《無我論》であろうが構わないのですけれども・・・。 《無我論》を主張するならば、 このパラドキシカルな状況を解決しなければならない!! でしょうね。 ここで使われている《atta(n)・アートマン》が何であるかを説明する必要があるでしょうね。 まっ、 《方便》説でもいいですけれど・・・、 都合の悪い部分はすべて《方便》の一言で片付けてしまうのは、 あまりにもお粗末という気はしますがね~。

bragelonne
質問者

お礼

 でしたら ゴータマ氏のさとりは はじめっから 梵我一如説だったということでしょうか?  まづは ご回答をありがとうございます。    ▼(中村元) ところがのちには「一切の事物は恒存する実体をもたない(anatta無我)」と解釈されるようになった。  ☆ のではなく そうではなく はじめから  ◇◇(回答No.28)  ブディストの〔* というよりは ゴータマの〕いう《アートマン》は 《svabhava・自性・実体》の意味で~す。  ☆ ということなのでしょうか?     問題はあるとみられます。  ▲(ダンマパダ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  279 《一切の事物は我れならざるものである》(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というとき     アートマンならざるものについては    とうとぶべきにあらず。    とうとぶべきは アートマンのみなり。  という意味にとるということでしょうか?   ただし 問題はあります。  ▲ 《一切の事物は我れならざるものである》(諸法非我)  ☆ というとき 人間つまり我れつまりアートマンは 諸法つまり一切の事物のなかに含まれるのではないかと考えられるからです。  それとも アートマンだけは 事物ではなく 法(ダルマ)でもなく 特別な存在だということでしょうか? つまりは 非経験の場ないし非思考の庭なる神の霊である ということになるのでしょうか?  わけが分からなくなってまいりました。

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回答No.41

回答No29に回答した者ですが、即お礼文をいただき、ありがとうございます。 》 ★ 私の中での結論は、ゴータマはペテン師なんかではないわけですが^^。  ☆ という反論を――何であるかその根拠の分からない理由によって〔と判断せざるを得なかったのですが〕―― 発言するというまでの状態にあるということは ゴータマ・マジックなるペテンにかかっていることになりませんか。  それとも ゴータマは 何もさとっていないのだというご議論でしょうか。《 とのことですが、 ということは、ご質問自体すでにゴータマ・ブッダへの批判が前提となっている点では「質問するまでもない事だ」としてその答えを知っていながら質問している姿勢を意味するものと思いますが^^、 また、私自身のNo29に「質問への質問」という形の最初の質問を書かせていただいたことには、お答えいただけなかったことも含めて、 ここでは、そちらの仏教の長い歴史(記述されてきた事実)の悪い面への叱咤の情熱ゆえと理解させていただき、No29の質問は、場合によって無視していいことをもこちらから語っていますので、むしかえし繰り返すをことやめ、先へと次の論議展開を求めて回答をつづけさせていただきましょう。 ただし、すでに前回の回答に語っているように、私の方からの論議は、現代の文献学から類推されるところのブッダ自身の言動についての後の記述は、とても史実としての記述とは言えないものであり、今となってはこれこそ「わかりえない」ものであり、 したがって、せいぜい後のその創作記述群が、その実在の人物の言動のなにがしかの影響は受けているだろうとの推理の下にて、さらにそう推理して判断ではなくて推理は推理としたまま「そのような推理が自然ではないか」という程度のことしか導き出せないことを、その史実に関してはですが前提としている点は、まず書かせていただきます。 (そんなことは百も承知をいわれるところでしょうが、これを読んでいる人は大勢おられるだろうことを念頭に書いていますので) 一つ一つ議論してゆくしか、時間的に無理であることはすでに書かせていただきましたが、 》 さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?《 との情熱ほとばしる問について、 ほんとうにとても一括りで回答出来ない世界が仏教思想の歴史となってしまっているというふうに私が認識しているため(あるいは現在そう思い込んでいるため と思っていてくださってもかまいません) 能力の無さゆえなのかもしれませんが、 やはり、一つ一つ、一つづつ議論を展開させていただこうと思います。 宜しくお願いいたします。 では、まず「生老病死」というブッダの生涯の物語でも、それについて思索したことが記述創作されているその内容について、最初には私流に徹底批判のメスをいれておきましょう。 物語、つまりおとぎ話しの中でのそのへんの記述自体については、不問に付しますが、後々までそのへんを多くのブッディストが何の疑問も持たず重要なブッダの根本思想として受け取ってきた形跡があるのは明らかだと思われますので、そのことへの徹底批判です。 「生老病死」いくらなんでも、こんなむちゃくちゃな人生の分類の仕方があるでしょうか? いえ、これは別に人生を分類したのではなく、それぞれをたまたま一緒に語っただけというのであれば、それって哲学ですらないと言えませんか? これは、今これを読まれている人への質問なのですが、宗教や哲学自体が、全人生を思索せんとすることを前提とした思索の世界であることは思索されていますか? 明らかに、これを宗教思想と呼ぶのであれば、この「生」「老」「病」「死」の思索展開は、仏教思想において関連性のあるものとして語られているはずだということはごく当然のこととして判断されてしまうところでしょう。 つまり明らかにここは「人生の分類」の一つとして語られてしまっているということなのです。 このこと自体、もし詳しい説明をするとなると長くなりすぎますが、 そのへんの簡単な説明をしておきましょう。 まず、例えば「死」という事態につても、私達の具体的な切実な生活の真っただ中においては、あまりにもさまざまなケースがある世界なのではないですか? 一度設備業の仕事で高い所から ふいに落ちたことがあります。 まず逆さまの景色が見えた後、私は気を失っていました。 次の瞬間、私は左手で頭をかばう形でコンクリートの角に落ちて横たわっていることに気が付きました。 つまり角と左手が頭を守っていた形です。 アバラは折れていましたので助けを呼ぶ声は出ませんでしたが、ちょうど近くの人が見つけて救急車を呼んでくれ助かった形です。 これは、もしその最後の逆さまの景色の後に、もし頭を打っていたならば、私はもうここに^^いなかったことを意味します。 なんの苦しみも無かった可能性もありますし、恐怖も無く日常と命が消える最後の体験としての死がそこにあったことになります。 一方、肺胞が一つ一つつぶれてゆく肺炎の死の床にて意識を失えずにいたこともあります。最後は右は全滅、左の肺胞もあと少ししか残っていない状態であと三日の命を医者が説明しているのを聞いています。 極度の苦痛、耐えきれない苦痛の世界、でありつつ死の恐怖と孤独の極限がそこに加わった苦しみの世界がそこにはありました。 同じ死の世界でも、その間にありとあらゆる別世界があります。 老衰して静かに荘厳に死にゆく素朴な村の老人の死と、これからこそ生きられると思っていたものごころついたばかりの子供らの死、戦争状態にて、殺されゆく死、助けたい大人と助けを呼ぶ子供たち、でもみずからも無念の中なにも助けられずに死んでゆく大人たちの死、争いの渦中の恐怖故、殺しあわないではいられなくなった普段は虫も殺せない人たちの威嚇の声と死、…、書けばきりのないあらゆる死の世界があります。 「死」の苦からの解脱?えっっ何が言いたいのでしょう? これ、ここまでの説明では反論のある人はいるのでしょうけれども、ここでは「死」についての具体的なこの存在の大地においての描写を持って簡単な説明とさせていただきました。 「生」はどうなのでしょう。これこそ、何万冊の本でも語りつくせない快苦とその浅深の千差万別な世界、これは書かないでおきましょう。 しかし、まず人生における「生」を具体的に語らんとするならば、健康な心身における無限の幸せの可能性を語る必要があります。信頼という当たり前の人間体験の向こうには無限の触れ合いの豊かさの可能性もあります。 同じ生であっても、例えば、私自身いじめられた恐怖で、頑丈な体が先程書いた死の床へと繋がり、とうとう気がふれるまでになってしまった体験すらあります。 気がふれている状態の時は別に苦しいわけでは無いですよ。しかし、その前後、特にその直後気が付いた時が惨めさの極致とも言える状態となります。 とても普段の人間の意識状態ではなかったことを克明に憶えているからです。 「たった今自分は気が狂っていた」と気が付くほど惨めな事は無いと思います。 ある人は、そのような極限の環境でないのに、ふとしたはずみで人を殺めてしまい、その後のその「生」はもがくような後悔の念にさいなまれ続けるのがその人にとっての「生」となったかもしれません。 で、 《「生」の苦》からの解脱って何が言いたいのでしょうね。解る人いるのでしょか。 また、同じく「老」ってその生の成熟期の世界ですよね。、 苦しい姿だけなのでしょうか? 「病」こそ、苦しみそのものですよね。それをどうして他の3つといっしょに、しかも苦かの解脱として語らんとしたのでしょう? ほんとうに苦しみを理解していたのでしょうか? それとも、人生を何も知らない王子様が少し人生を垣間見て考えに耽った姿にすぎないということのこれはその証明となってしまうような思想ととらえられるのでしょうか? おっと紙数も時間も無くなってきました。 私のこの《「生老病死」思想への批判》は、ほんとうはもっと徹底したものです。 ただ、このへんは考えるまでもないことと、質問者様は言いたいところなのでしょう。 論議するまでもないばかばかしい問題とかたずけたいのではないですか? さてここからが今回の質問者様への質問です。 ですが、これを「ブッダは何を悟ったのか」という最初の設問の推理(あくまで私は推理の問題ととらえているわけですよ)にあてはめて、どうして後の人がこんないい加減な雲をつかむような分類を生んでしまったのかを推理してみて、これでこのへんブッダもただの馬鹿だったと推論しきれるのですか? 質問者様はどう思われますか?、この「生老病死」にまず限っての質問です。 今度は答えていただけるでしょうか? すみません、一遍にはとても語れないのが仏教思想の世界(いまでは確かに大きな流れは分類されていますのであくまで無数の紙数が必要だなどということではないですが)、どうしてもすぐに「さとり」とかのその存在についても疑問視されるお言葉に関してならなおさら、簡単には語りがたく、こんな形の論議展開となってしまいます。 おつきあいください。 宜しくお願いします。 今回は以上です。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.40

別に俺はブディズム、仏教に親和性があるわけやないし、仏教なんて広大な宗教、把握しきれてない。俺個人はアニミズム的な汎神論をどれかと言われれば支持している。海や風、大地に何か拠り所を見出してると自分では思ってる。仏教については客観的な見方を意識してるから。 確かに日本人やから親和性は他の民族に比べれば高いのかもしれん。立派な教えもあるし、俺の理解を超えたもんを仏教には感じるが、それと俺個人が仏教に懐柔するかは別の話やで。 まぁ、俺の自己紹介しても仕方ない。結局主は何が知りたかったんや。さとりという現象のことか、それとも仏教の教えを洗い出したかったんか。

bragelonne
質問者

お礼

 No.3や No.29に見られる傾倒のすがた これらは 正直に言って・そして何のおことわりもせずにはっきり言いますが あわれむにあわれめない。ほうっておくにしのびない。さりとて なげくなら ますますなげかわしくなるだけである。  この状態は 日本人にとっての危機だと思う。  この行き詰まりからみんなで脱出したい。  これが いつわらざるわが魂胆です。  ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 No.41にこたえてやることはできますか?  わたしのちからではとどきません。

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回答No.39

英語訳でよければ、 ───────── 160 attā hi attano nātho ko hi nātho paro siyā attanā hi sudantena nāthaṃ labhati dullabhaṃ The self is the guardian of self who else could be the guardian ? with self well-controlled one finds a guardian who is difficult to obtain. 自己は、自己の守護者である。 他のものが守護者になれるだろうか? 自己をよく整え、 人は得がたい守護者を見出す(得る?)。 (英語からネコ訳) 一六〇 己を以て主とす、他に何ぞ主あらんや、己を善く調めぬれば能く得難き主を得。 (萩原雲来訳) ───────── パーリ語は知らないので何とも言えないのですが、 natho、nathamは サンスクリットの nAthate{nAth}:be master http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=nath&trans=Translate&direction=AU と関係がありそうなので、 《守護者》よりは、《主》がいいのでしょう。 ちなみに、  ko:誰が  siya:あるであろうか  paro:越えて  hi:実に、何となれば  sudantena:well-controled、よく整えて(?)  lahathi:得る  dullabha:得がたい atta:主格(は) attano:属格(の) attana:具格(によって)

bragelonne
質問者

お礼

 この場合は 《自己》でいいんですか けっきょく?  意味から行けば まあ そうなのでしょうね。特別ほかの凝った意味を見い出すこともないみたいですし。  あれ。問題は なかったんですか? No.17でのわたしの反論は 通りましたか。われながら よくやっていますね。  ご回答をありがとうございます。  ほかのみなさんとのあいだで わたしは けんかっぱやいので まとまる話もまとまらない。のかもです。・・・

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.38

いきがって回答者に八つ当たりしても何にもならへんよ。主はもっと簡潔に要点を伝える術を身につけなあかん。床上浸水とかわけの分からん歌を歌われても理解できん。俺は博識ではないが、回答しようと思って来ている。当たり前よな。主も回答が欲しいから質問してんねやろ。 このままやったら結局何を答えて欲しかったんかさえ不明なまま、つっかかられただけの話に終始してしまう。 ここではとりあえず引いて静観するが、今言ったようなこと、注意した方がええよ。 仏教の話はまた機会があればな。

bragelonne
質問者

お礼

 そうかぁ。逆効果だったかぁ。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 仏教の話はまた機会があればな。  ☆ いま・ここしかないですよという意味を込めて きつい言葉や日本の置かれた位置のけわしさといったことについて 触れて来ている。  これが 裏目に出たということであるらしい。    思うに ブディズムに親和性を持つ人たちは 何も根拠はないみたいである。これが 今回もはっきり分かった。    漠然と ブディズムを応援しているといった雰囲気がすでに身をつつんでいる。この幽冥の境地が ゴータマ・マジックなるツナミがおそったその爪痕となっている。のではないか。それは DNA に刷り込まれているとすら思われるほどである。  人類の敵だとしか考えられません。突き詰めて行ってみてください。  

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     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • ゴータマ・ア=ブッダのペテンの証明

     スッタニパータの一節から 次のゴータマ氏の受け答えではまづい。と異議をとなえます。  ▲ (スッタニパータ:<7、学生ウバシーヴァの質問>) ~~~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1069  ウバシーヴァさんがたずねた、   「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」  1070  師(ブッダ)は言われた、   「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」  1071  ウバシーヴァさんがいった、   「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」  1072  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」  1073   「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」  1074  師が答えた、   「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」  1075   「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」  1076  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1)  《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。  (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。  (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。  (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。  これを問います。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 仏教における小乗と大乗の違いとは?

    仏教における小乗と大乗の違いとはどのようなものでしょうかという質問です。 釈尊の背中を見ていると、菩提樹下でお悟りを開くまでが小乗で、梵天勧請を受けて、伝道を開始して、弟子を増やし教化する段階が大乗のように見えますが、経典主義の方々には違った見方もあると思います。 回答よろしくお願いします。

  • 乳粥

    牛乳歴史クイズの質問第4弾です。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm 上記サイトに、 「お釈迦さまが1杯の乳粥を飲んで悟りを開いたという「乳粥」とは? 」 といふクイズがあります。解説は、かうです。 「『 ヨーグルト 』仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッタルタ)にも、乳をめぐるエピソードが残されています。悟りを開くため出家して山奥で断食苦行をしていた釈迦は、悟りが開けぬまま衰弱したからだで山を下りていきました。その途中、出会ったひとりの乙女スジャータから1杯の乳粥(インドでダヒというヨーグルト)を捧げられます。あまりのおいしさに驚き、その瞬間に悟りを開いたというのです。 」 私は、インドで「キール」と呼ばれる食品だという話は、聞いたことがありますが、「ダヒ」といふヨーグルトだといふ説は初耳です。 「乳粥」は、ほんとうは、何なのですか。