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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ハバクク書2:4 / 《心のまっすぐな人》も凹む)

ハバクク書2:4 / 《心のまっすぐな人》も凹む

このQ&Aのポイント
  • ハバクク書2:4の日本語訳について異なる見解を募集します。
  • ハバクク書2:4では、「心のまっすぐな人」が凹んでいる様子が描かれています。
  • この聖句は、信仰によって生きることの重要性を教えています。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

こんにちは。 NIV(New International Version)ですと、 ───────── “See, the enemy is puffed up; his desires are not upright— but the righteous person will live by his faithfulness ───────── となっているようです。 これを日本語訳すると、 「見よ、敵はのぼせ上がり、 彼の望みは正しからず。 しかし、正しき人は、信仰によって生くべし」 とかになりそうなので、 共同訳に近いようです。 ですが、 《puff》を《吹き消される》などの意味にすれば、口語訳に近くなる。 なお、文語訳 ───────── 2:4 視よ彼の心は高ぶりその中にありて直からず 然ど義き者はその信仰によりて活べし ───────── やっぱ、口語訳、共同訳よりも、格調が高くて、《文語訳》の方が、いいな~(わらい)。 ☆☆☆☆☆☆ ───────── 2:5 indeed, wine betrays him; he is arrogant and never at rest. Because he is as greedy as the grave and like death is never satisfied, he gathers to himself all the nations and takes captive all the peoples. (NIV) ───────── 格調高く(? 笑い)文語訳すると、 「酒は人を欺く。 彼は尊大にして、休まず。 彼は、墓場?(冥府?、死?)の如く貪欲にして、 死のごとく飽くことを知らず。 彼は万民を集め、 万民を捕ふ」 とかになるんでしょうか。 歴史的に言えば、この一文は《バビロン捕囚》と考えるべきなのでしょうね。 そして、この《彼》はネブガドネザル2世を指しているとなる。 で、これと2:4をあわせて読むならば、 正しくない人(ネブガトネザル2世)と正しき人(ユダヤ教の律法にしたがう人orユダ王国の人)と読み解くこともできるのでしょう。 《ハバクク書》を歴史物語、あるいは、当時のユダヤの民に発せられた警告と考えれば、 口語訳、共同訳とも、その訳の正統性は主張できる、と考えます。 この前に書かれている《物見の塔》がホニャララだという文章とも整合します。 ですが、 信仰の書として《ハバクク書》を現代にひきつけ考えるのであれば、 そう読むべきではないのでしょう。 ☆そうではなく 同じひとりの人について語っているのではないか? ◇こうした解釈があってもいいと考えます。 そして、この《彼》は、人間の弱い心や欲望と考えてもいいのでしょうね。 ☆つまり《よい人》の場合にも 前段の《わるいこと》が起きている。のではないか? ◇わたしは、《善い人》の心の中でも、《邪なココロ》があるのだ、と考えたいです。

bragelonne
質問者

お礼

 《敵》を登場させるという手ですか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  NIV(New International Version)ですと、  ─────────  “See, the enemy is puffed up;  「見よ、敵はのぼせ上がり、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううん。この翻訳は たしかに解釈を入れているのでしょうね。  まづは ねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ 共同訳に近いようです。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (新共同訳 1987) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   見よ、高慢な者を。   彼の心は正しくありえない。   しかし、神に従う人は信仰によって生きる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように表現している場合 考えてみるに 《高慢な者》と《神に従う人》とは 言わば同じ共同体ないし社会の中に大きくは共生しているという前提があるように思われるのです。これは 根拠はなく 表現から受けるそういう感触です。  ▲ (口語訳 1955) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   見よ、その魂の正しくない者は 衰える。   しかし義人はその信仰によって 生きる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも われらが共同体の中にともに生活しているのだが 中で《その魂の正しくない者》がいるうんぬんというふうな感じであって 部族や民族の異なるところの《敵》ではないようなのですよね。どうでしょうか。  ◇ 文語訳  ─────────  2:4 視よ彼の心は高ぶりその中にありて直からず 然ど義き者はその信仰によりて活べし  ─────────  ☆ なるほど。これだったら 後段の《義き者》は 前段の《彼》を《彼ら》(*)としたその人びとの内に入っている者だととれば 同じ人物でありうる。となる。わたしは このほうがすんなりと受け取りやすいんです。(おのれの好みを押し通して どうするんだ? という声をむろん聞いています)。  * 《彼ら》というふうに複数に解する翻訳例:  ( NLT : New Living Translation ) ~~~~~~~~~    http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Hab&c=2&t=KJV#s=t_bibles_905004  2:4 “Look at the proud!   They trust in themselves, and their lives are crooked.   But the righteous will live by their faithfulness to God.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  歴史的に言えば、この一文(ハバクク書2:5)は《バビロン捕囚》と考えるべきなのでしょうね。  そして、この《彼》はネブガドネザル2世を指しているとなる。  で、これと2:4をあわせて読むならば、  正しくない人(ネブガトネザル2世)と正しき人(ユダヤ教の律法にしたがう人orユダ王国の人)と読み解くこともできるのでしょう。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と同時にですね・それと同等に 《ユダヤ人のあいだのわるい人とよい人と》として読む場合もあるようなのです。すなわち  ▲ (ハバクク書 2:3 ) ~~~~~~~~~~~~  この幻はなお定められたときを待ち、  終りをさして急いでいる。それは偽りではない。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった《まぼろし》またはそれとしての予言(預言にして予報)をそのままでは受け取らない高ぶりの人とそうでない人というふうに読む場合もあるようなのです。そのときは 2:5の征服者ネブカドネザルの読み取りとは 別になると考えられます。    ▽ (Matthew Henry :: Commentary on Habakkuk 2) ~~~~~   http://www.blueletterbible.org/Comm/mhc/Hab/Hab_002.cfm?a=905004    3. This vision, the accomplishment of which is so long waited for, will be such an exercise of faith and patience as will try and discover men what they are,〔 v. 4. (1.)〕.  * つまり 2:3のマボロシを受け容れるかどうかで わるい・よいが分けられて行くようなのです。   There are some who will proudly disdain this vision, whose hearts are so lifted up that they scorn to take notice of it; if God will work for them immediately, they will thank him, but they will not give him credit; their hearts are lifted up towards vanity, and, since God puts them off, they will shift for themselves and not be beholden to him; they think their own hands sufficient for them, and God's promise is to them an insignificant thing. That man's soul that is thus lifted up is not upright in him; it is not right with God, is not as it should be.  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり ユダヤ人のあいだにおけるわるい人びとのことだという解釈もありうるようなのです。文脈の後続にかかわらせるのではなく 先行部分からのつなぎだと見る場合のようです。  2:5の世界征服者を はっきり歴史にかかわらせて出して来ているのも 実際でしょうし それとしてわるい人の系列だということも 合致しているのですが。    ですから この場合の問題は――設問にあたって拙速したようでもあるのですが―― むしろギリシャ語翻訳書のセプトゥアギンタのほうにあるかも知れません。  《もし・・・であれば そうだとしても ・・・生きる》というふうに訳せるなら   ・ひとつに《ひとりの人間について》言っていると思われること。   ・もうひとつに 言ってみれば 《もし神が去って行ってしまって 信仰がなくなったとしても 信仰によって生きる》というような矛盾したことをも言っている。らしいこと。  このような問題のありかです。  この方向でも  ☆☆ つまり《よい人》の場合にも 前段の《わるいこと》が起きている。のではないか?  ◇ わたしは、《善い人》の心の中でも、《邪なココロ》があるのだ、と考えたいです。  ☆ というように 賛同してもらってはいるのですが。  わたしのチカラは ここらへんまでのようです。  事態を見守ります。つまり 《救世主》なる回答者を俟ちます。  (ここまでで かなりの解釈の可能性を見ることが出来たと考えますし それほどわるくはないでしょう)。  

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その他の回答 (2)

回答No.3

こんにちは。 ☆☆ これも われらが共同体の中にともに生活しているのだが 中で《その魂の正しくない者》がいるうんぬんというふうな感じであって 部族や民族の異なるところの《敵》ではないようなのですよね。どうでしょうか。 ◇《ネブガドネザル2世》の話を抜きにすれば、 わたしもこのように解釈します。 《ネブガドネザル2世》を含めても、その意味が込められているのだ、と思います。 結局、ユダ王国が滅んだのは、ユダヤの民が神に離反したためなので。 ☆☆ なるほど。これだったら 後段の《義き者》は 前段の《彼》を《彼ら》(*)としたその人びとの内に入っている者だととれば 同じ人物でありうる。となる。わたしは このほうがすんなりと受け取りやすいんです。(おのれの好みを押し通して どうするんだ? という声をむろん聞いています)。 ◇おそらく最も聖書研究が進んでいる英語圏(アメリカがありますので)ですら、その立ち位置、視点によって解釈、翻訳が分かれているようですから、 キリスト者でないわたしなどは、「好みで選んでもいいのでは」と思っちゃいます。 ───わたしが《NIV》をことさら贔屓にするのは、学術的研究の成果がすぐに反映されやすく、宗教的に中立で、自由であるから─── 《ハバクク書》は予言書であり、《未完了》的、《反復》の意味で読むことも可能なのではないでしょうか。 どうせ《予言書》、 ただでも謎めいていて、何が書いてあるか、分からない(わらい)。 《筋のいい》方をとっていいのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ですね。でしょうね。いくつかの可能性を 柔軟に捉えておくことが まづ大事でしょうね。  ねこさん ご回答をありがとうございます。  《好み》の問題ですら――解釈の可能性が成り立っているなら―― 受け容れられうると たしかに思われたりします。  ◇ 《筋のいい》方をとっていいのではないでしょうか。  ☆ と。    ひとつ資料として見つかったものがあります。ギリシャ語聖書の翻訳で ギリシャ語原文に忠実だと思われる訳です。  ▽ ( Brenton's Septuagint (LXX) - Holy Name KJV ) ~~~~~  http://www.qbible.com/brenton-septuagint/habakkuk/2.html#4  2:4 If he should draw back, my soul has no pleasure in him: but the just shall live by my faith.  もしその人が縮こまってしまうなら わが霊はその人においてよろこばない(満足しないで 去ってしまう)。けれどもこころのまっすぐな人は まこと(非思考の庭)の中から立ち上がり生きる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    そして いづれにせよ このハバクク書のくだりは 旧約聖書の中で 《信仰によって生きる》――モーセ寄りのかたちで律法を守ることによってではなく アブラハム寄りにおいて信仰によって生きる――ことを明らかなかたちで語っているので とうといと思われます。  もう少し開いています。

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回答No.1

こんにちは。 私も同じひとりの人間についてのことだと考えます。「よい人」の心の中に良いことばかり起きているのではその良さを具体的に自覚することはできません。悪いことが起こることによって比較の対象が自覚され、「よい人」にとっての日常である心の状態が良いものとして当人の認識のレベルで自覚されることが可能になる。そういうことが言いたいのだと思います。前段のネガティヴな状態を後段のポジティヴな状態を深く自覚するための必要条件ととらえることが可能だということのたとえなのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 すずめのこくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。    と わたしも思いました。それが 無難な線であろうと。  そして疑い深いのを取り柄としているわたしが考えたことが いくつかあります。  回答を寄せてくださるほかのみなさんに向けても それを書いておきたいと思います。  1. ★ 「よい人」の心の中に良いことばかり起きているのではその良さを具体的に自覚することはできません。  ☆ これが ほんとうにそうであるか? をまづ問います。  1-1. というのも いくら《よい人》と言っても 生まれてこのかたウソを一度も言ったことがない人はいないであろうと考えられるからです。  1-2. つまり 厳密には《良いことばかり起きている》わけではない。だったら おおむね《良いことばかり起きている》としても じっさいには良い人も わるいことを知っている。  1-3. つまり その良さを自覚することができるはずだ。――となるかと思われるからです。ペンディングにします。  2. したがって考えるに  ★ 前段のネガティヴな状態  ☆ は もし無いとしても 良さを自覚することは出来る。とすれば どう話は展開するか?  2-1. それは こうなります。それでは 良き人が どうして――このハバクク書の事例としては ユダヤの国がバビロニアに滅ぼされ 主だった人びとは捕虜としてその都に連れて行かれ幽閉されるというかなしい出来事となったようなのですが―― 一般にわるいことに出くわすか 捕虜となってしまわねばならないほど社会の実力者や有力者に支配されるとしたら それは どうしてか? という問いが持たれることになります。  2-2. 良き人は 一度や二度はウソをついているので いちいち悪い情況に落とし入れられなくても 良さを自覚することができる。とすれば なぜ 災難に遭うこともあるのか?  2-3. これについても考えました。  2-3-1. やはり完全によい人はいないのだから 多少は悪い出来事にも遭う。それは ふつうのことであろうと考えるか。それとも  2-3-2. いや よい人は 一般に悪いことをおこなっていない。程度問題だけれど おおむね良いことをおこなっている。けれども わるい情況に落ち入り その悲惨さを嘗めることがある。  2-3-3. それは 言ってみれば 人間の存在が 社会的な動物というかのごとく 関係性において成り立っているから。つまり だから わるい人のこうむる悪い出来事をも 関係性の網の中でいっしょにこうむるのだ。と考えるのは 妥当かどうか?  2-4. そのように関係性という存在の性格から 悪や災難を 良き人もわろき人も誰もが一緒に経験する。そういう事態に遭う。けれども――すなわちそのとき 神の霊つまりそれとしてのチカラは その人の心から去って行ってしまうことすらあるかも知れないのだけれど―― それでも その人が 心のまっすぐなることをたもち 被害にもめげずにあゆむならば やがて立ち上がり 生きる。ことになる。・・・こう言っていましょうか?  2-5. 《心のまっすぐな人》も凹む。  一気に質問者が出しゃばって しゃべってしまいましたが ご批判をあおぎます。    関係性というのは それによって ミラーニューロンがはたらくことになるのだと思います。

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     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

  • エホバの証人は 神を信じているか?

     表題のとおり 特定の宗派のことがらについて問うものです。  その問いを ヨハネ福音の解釈をとおしておこなおうとします。  次のくだりの解釈を示してください。特に《人間の意志によってでもなく》と《神によって生まれた》とに焦点を当てています。  ▼ (ヨハネによる福音書 1:1~18  新共同訳) ~~~~~   http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  11: 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。  12: しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。  13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。  △(新世界訳=エホバの証人の聖書) ~~~~  http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/nwt/%E5%90%84%E6%9B%B8/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D/1/  11: 彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。  12: しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。  13: 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち:  ▼ (ヨハネ福音 1:13) ~~~~~~~~~~~  ▽ (1:13)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=1&t=KJV#s=t_conc_998013   οἳ  οὐκ  ἐξ  αἱμάτων  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  σαρκὸς  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  ἀνδρὸς  ἀλλ᾽ ἐκ  θεοῦ  ἐγεννήθησαν  ▽(KJV 1:13) Which were born, not of blood, nor of the will of the flesh, nor of the will of man, but of God.  △(新世界訳) 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが この《人間の意志からではなく 神によって生まれた》というくだりは 《感性や理性ではなく・つまりは感じたり考えたりすることによるのではなく 信じること・すなわちその名を受け容れること》を言っており つまりは信仰のことだと考えられます。《思考に非ず》なのだと捉えられます。  しかるに エホバの証人の側では 《信じる》をたとえば次のように用いています。  △ (エホバの証人はイエスを信じていますか) ~~~~   http://www.jw.org/ja/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B/    はい,信じています。  イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べました。(ヨハネ 14:6)  わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。(ヨハネ 3:16)  わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  とはいえ,イエスが述べた「父はわたしより偉大な方」という言葉もそのとおりに受け止めています。(ヨハネ 14:28)  イエスが全能の神であるとは信じていないため,イエスを崇拝することはしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 端的に言って 問題とすべきは 次です。:  (あ)  △ わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  ☆ これは あくまでもオシエです。信仰ではありません。そして 《天から地上に来た》というのは 経験事象になります。すなわち これはその名を受け容れる信仰ではなく オシエの内容を考えることです。この思考としてのオシエを理解し知ったという《人の意志から エホバの証人が生まれた》ことになります。そういうことにしかなりません。ヨハネ福音1:13とは 矛盾です。  (い)   △ イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。   ☆ すなわち《信仰を働かせる》のは 《人の意志》です。聖書の言っていることと矛盾しています。  (う)  △ わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  ☆ こんなことは 経験世界を超えたこととしては 想像であり 経験世界のこととしてなら思考の対象として考えるべきことです。《信じる》とは何の関係もありません。  想像や思考をほどこすということは 《人の意志 または 肉的な意志》であり 決して《神から生まれた》と言えるようなことではありません。聖書とは 矛盾します。  さしづめ以上を問います。どうでしょう。

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • その人達の試練。

    初めまして。以前から疑問に思う事があります。 人生は、魂の修行とか、今世では前世からのカルマに沿った試練の人生をおくると、よく言われていますが、では知的障害の人達はどんな修行なのでしょうか? 知的障害のある本人より、周りの人達に何かを気付かせるため? 本当にこの世が、魂の修行というならば、神様もこの人達を健常者として、普通に魂の修行をさせればいいのになぁ~とさえ思うんです。 決して知的障害の人達を軽蔑しているわけではありません。 皆様の中で、私と同じ事を思う方や、これはこう言う事だよって回答出来る方。よろしくお願いいたします。