非思考の庭(信仰)とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 非思考の庭(信仰)は誰からも汚され得ない存在であり、神の存在を受け容れる行為である。
  • 信仰は人間の経験世界を超えたものであり、内外からの干渉に対して無力である。
  • 人間が神に委ねることで真の自由を得ることができる。
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《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。

 たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。  《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。  なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。  《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。    《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。  信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。  (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。  受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。  何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。  このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。  つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。  (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。  神および信仰は 人間の経験世界を超えている。  この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか?     内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。  神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。  これが 神である。これが 良心・信教の自由である。  無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。  まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。

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  • a_hona
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回答No.12

少しルールを逸脱しますが、私は螺旋階段さんの言うことはわかる気がします。というのもブラジェロンヌさんの言う神の訪れの予感なる心的現象、見神体験とも見えてしまうそれが、個人的経験であるという事実です。その事実が、ブラジェロンヌさんに絶対の自信を与えると同時に、その論理が普遍性を保有することを難しくしているのです。なぜ私がブラジェロンヌさんの話に曲がりなりにもついていけるかというと、私にも、一種の見神体験が過去にあって、遍在する神ともよびうるそれの存在を体感したからです。その自己の経験と照らし合わせることで、何となくこうではなかろうか、ということで話をさせてもらっているのです。 また、空に関して猫さんの言うことは最もで、異存はないのですが、イデアの究極、空の空たる所以とも言うべきものがあり得ると知った時には、空の形而上学なるものもあり得ると思うのです。仏教の言うところの色界や無色界の話です。 以上の話は補足です。 次に自然本性について認識を深めたいと思います。自然本性はそれを善悪で判じることはおそらく出来ない。性善説や性悪説とは異なる次元だと思います。それがそれそのものであるという事実を以って本性と言い、それが元来のものという意味で自然と言っています。難しく考えず、もっと軽やかな捉え方も自然本性にはあるでしょうが、掘り下げるために、ここではあえて難しく言ってあります。そんな自然本性との対話ができるなら、それは何によって可能でしょうか。ただしがらみを除けば、残った部分が自然本性でしょうか。自然本性は神のような遍在ではなく、全く固有の何かであるゆえに、万人において普遍であり、誰しもに宿っているそれであると思います。これは一体何でしょう。今になって言いますが、我々は自然本性というものがあるという前提で話してきました。存在を支える存在があるはずだという見方に基づいて。 固有とは一体どういうことでしょう。私を私たら占めているものは一体?そんな風に考えると、魂とも呼ぶべき領域が存在するのではないかと思えてきます。 長文失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ というのもブラジェロンヌさんの言う神の訪れの予感なる心的現象、見神体験とも見えてしまうそれが、個人的経験であるという事実です。  ☆ ここには・つまり特には 《神の訪れの予感なる心的現象》という表現には ( a )信仰――非思考の庭――がわが心に成るときのコトと ( b )その後そのわが心に起こり得る神をめぐる体験とが混ざっています。  ( a ) ☆☆(No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  非知の何某から 或る日或る時 そのナゾの風が吹いて来てナゾのおとづれがある。のです。雲をつかむようなナゾをナゾとして受け取り 神として受け容れる。これです。信仰の成立は。  ( b ) ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  言いかえると 《神の知るところとなる》かどうかは 分からないとも言っています。(分からないというのは げんみつに言えば 《分かるか分からないかが分からない》という意味です。したがって それゆえにこそ 主観は 《神を知った》とか《神の知るところとなったという予感がする》とかというふうには 主観の範囲内では 言えるという事態が 神ないし信仰の問題では起きることです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうして つづいて次のように批評されることには 違うという見方を持ちます。すなわち  ★ その事実が、ブラジェロンヌさんに絶対の自信を与えると同時に、その論理が普遍性を保有することを難しくしているのです。  ☆ すなわち( c ) これら( a )( b )ふたつの――別々の《事件》ですが――体験がひとに《絶対の自信を与える》ということは それがそのままほんとうであったとしても いまの議論には関係しません。推論の上で根拠とすることは ありません。  また ( d ) 《見神体験〔の予感〕》は あくまでその人の主観内にとどまるとも言っているからには 《その論理が普遍性を保有することを難しくしている》こととは やはり関係しません。決して ひとかけらとしても 関係させていません。    自然本性をめぐる次のご判断にも微妙な違いがあります。  ★ 今になって言いますが、我々は自然本性というものがあるという前提で話してきました。存在を支える存在があるはずだという見方に基づいて。  ☆ ( e ) 自然本性は 身と心とから成る――生まれつきの――存在を言います。  心は 精神でもあり 精神には 例の三つの行為能力――記憶と知解と意志と――が含まれます。    ( f ) この自然本性に 《神の霊 あるいは アートマン(霊我) または ブッダター(仏性)》がやどる。と言っています。これが   ★ 存在を支える存在  ☆ のことです。想定です。  ( g ) むろん非思考の庭がわが心に成るのは この聖霊あるいはブッダターの言わばハタラキであるとも見ています。(非思考の庭というべき領域が わが存在――自然本性としての存在――にはあると捉えたところから マクロコスモス世界の主宰神ブラフマンが ミクロコスモスなる人間の内にアートマンや神の霊として やどるという見方が成されたのかも知れません)。  すなわち重ねてまとめれば:  ( h ) 《自然本性》は そのままヒトという存在についての事実です。  そこに 神の霊がやどるというのは 想定です。  ★ 自然本性はそれを善悪で判じることはおそらく出来ない。性善説や性悪説とは異なる次元だと思います。  ☆ ええ。  ★ それがそれそのものであるという事実を以って本性と言い、それが元来のものという意味で自然と言っています。  ☆ ええ。異存ありません。身と心と。心とは 記憶と知解と意志と。これら三つの思考(および感性)にかかわる領域とはあたかも別に 非思考の庭が たとえばヒラメキの起こる場として〔見れば 現実を成すと捉えられるゆえに〕 あると想定しています。  ★ 難しく考えず、もっと軽やかな捉え方も自然本性にはあるでしょうが、掘り下げるために、ここではあえて難しく言ってあります。そんな自然本性との対話ができるなら、それは何によって可能でしょうか。  ☆ たぶん 三つの能力行為の内のその中軸を成すと見られる《意志行為》についてそのあり方や行方を検証するとよいと考えます。  意志行為が 人間にあってどのようにはたらき 互いの意志行為の錯綜する社会を形成しつつこんどは社会からの影響をどう受け留めさらにあらたにどう反応して社会を再形成するか。    したがって 自然本性たる樅ノ木としてのわが存在に 社会的な行為の蓄積としてのカザリ≒シガラミが クリスマスツリーとしてのごとく まとわりついて来る。  そこらあたりを きちんと腑分けするように分析していくのが ひとつの探究の道であるかと考えています。  ★☆ 固有とは一体どういうことでしょう。私を私たらしめているものは一体?  なお 空にかんして:  ★ ・・・空の形而上学なるものもあり得ると思うのです。仏教の言うところの色界や無色界の話です。  ☆ 形而上学は有り得るとわたしも考えます。ただ それが《色界や無色界の話》であるかどうかは いまよく分かりません。いい加減なことは言わないこととします。重要であれば ねこさんが触れてくれて 明らかにしてくれるでしょう。

その他の回答 (23)

noname#195588
noname#195588
回答No.24

あとついでに、 人間が鏡像ではなくて、むしろ神が鏡像だろう という意見も出てくるでしょうから 鏡と鏡を合わせて、合わせ鏡なんてのはどうでしょうか。 無限? 鏡より、水面とかならもっと、古風なんですかねえ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  神と人間との絶対としてのへだたりは 大前提です。これが 問題になりましょう。

noname#195588
noname#195588
回答No.23

私も考えはまとまっていませんけれど、 神に鏡は必要か? 神が自身の姿を見るのに鏡として、世界が必要であり、 世界は鏡像としての神の姿 そこに人間も含まれれば、神の似姿としての人間 ということになるのかなあ?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ひとつ 誤解があります。   ○ 神は ひとり満ち足りている存在である。  こうでなければ 《非知》ではありません。《欠け》があると知り得たことになります。そのとき神は 無限や絶対ではなくなります。  人間が   ○ 神の似像  であるのは 神との絶対としてのへだたりがあったそのあとのことです。よ。

noname#195588
noname#195588
回答No.22

神は自身を知りたいと思った。 神が自身を知るにつれて世界は現れた。 まあ、神即自然ということでしょうけれど、 こういった話はブラジュロンヌさんの考えだとどうなるでしょうか。 神が自身を知りたいということについて。 もしくは見たいということについて。 神が望むのをやめれば無となる。 もしくは神は何も見ていない場合。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神は自身を知りたいと思った。  ☆ ここには すでに初めに神の擬人化があります。すでに人格を付与したその上で 神について説明する議論であるとなっています。  つまりは この擬人化の以前の神について どう捉えているのか? これが むしろ問われますし 問わなければならないでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  神が自身を知るにつれて世界は現れた。    まあ、神即自然ということでしょうけれど、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神は 絶対であり無限であるなら この相対で有限の経験世界を覆い包むことも 推測としての説明において あり得ます。つまりは 神の遍在という見方です。  神即自然は 人間と自然とを分けているとすれば 神の遍在説と少し違う感じがありますが ほぼ同じようであると思われます。  あるいは 神即自然は 神が人格のような存在であるとは見ていないかも知れず 自然そのものが神そのものであるといった見方をしているかも知れません。  そのときには では その自然即神を われわれ人間は どう捉えているのか? こういう問いも持たれて来るかと考えます。自然が人間やその他の生物をも覆い包むとすれば 神の遍在説とさほど変わりないように思われます。  人間も 自然であるとして 即・神であると見たばあい どうなるか? どうなるでしょうね?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  神が自身を知りたいということについて。  もしくは見たいということについて。  神が望むのをやめれば無となる。  もしくは神は何も見ていない場合。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あなたご自身は どう考えますか?

noname#195588
noname#195588
回答No.21

今度は両論を書くやつが現れた。 こういうのを考えてみるに、 言論の中身よりも、相手に勝ちたいという闘争の道具に 言論が使用されているだけなのかもしれない。 言論は言論でその中身を確認していけばいいのだろう。 その一方で言論が人間の行為の一部として 宗教が戦争の話を何千年も継承し続けているように 戦争というものが宗教の根幹の一部を形成しているのであれば もうしかたが無いことなのかもしれない。 だからこそ聖者は沈黙するのだろう。 でも、宗教はうんざり。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 言論は言論でその中身を確認していけばいいのだろう。  ☆ ならば   ★ 今度は両論を書くやつが現れた。  ☆ その文章について 直接批判すればよい。また しなければならない。

noname#195588
noname#195588
回答No.20

私が、あるといえば無いといい 私が、無いと言えばあるといい 私が、幻影だと言えば実在だと言い 私が、実在だと言えば幻影だといい 私が、生きると言えば死ぬといい 私が、死ぬと言えば生きるといい 私が、同一だと言えば差異だといい 私が、差異だと言えば同一だといい 要するに単に私を批判したいだけの屑がいるということが、わかった。 そのおかげで、仏教なんかまったく興味がなくなりました。 お蔭様でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ぎゃくにことごとく相手のまねをする場合が 記紀神話に出て来ます。ひとことぬしの神です。  ▲ (<第21代 雄略(ゆうりゃく)天皇>:ひとことぬしのかみ) ~~~~   http://inoues.net/tenno/yuryaku_tenno.html  一言主神にまつわる次のようなエピソードが、『日本書紀』雄略天皇の段に載っている。     (雄略)四年の春二月、天皇は葛城山で狩りをした。突然、背の高い人に出合った。顔や姿が天皇によく似ていた。   天皇は「神に違いない」と考えたが、「どこのものか」と尋ねた。背の高い人は、「私は姿を表した神である。お前から先に名のれ。その後私が名のろう。」と答えた。   天皇は「わたしは幼武尊(ワカタケルミコト)である。」と名のると、背の高い人は「私は、一言主神である」と名のった。ともに猟を楽しみ、一匹の鹿を追って弓を放つことも互いに譲りあった。日が暮れて猟を終え、神は、天皇を来目河(くめがわ)まで送った。  『古事記』にも同じようなエピソードが載っているが、部分的に若干ニュアンスが異なる。       例えば、雄略天皇は一言主神を見つけて、自分と変わらぬ装束や態度に驚き、「この倭の国に、吾以外に王はないはず」と怒り、互いに弓を構えて一触即発の状況となった。    そこで、一言主は     「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、      言い放つ神。葛城の一言主神だぞ。」    と答えた。「記」では一言主の方が先に名乗ったことになっている。しかし、これを聞いた天皇は「あな恐(おそろ)し、我が大神」と大いにかしこまった。そして、従者らの着ていた衣服を全部脱がせて奉じると、一言主神は手を打って喜び、それを受け取った、とある。まるで、山賊に出会って、丸剥ぎにされたような記述だが、一言主神の威厳に満ちた態度は、『日本書紀』と同じである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  おもしろかったら おなぐさみです。

  • kurinal
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回答No.19

B様。 あ、、、 それは、そうかもね。 そのうち「純粋自慰批判」みたいなのが、出るでしょうか? (出ても、人権侵害さえ無ければ、良い)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。  ★ あ、、、 / それは、そうかもね。  ☆ ということですよね。  ★ そのうち「純粋自慰批判」みたいなのが、出るでしょうか?  ☆ これは 《非思考の庭》の中のことを言うのではなく そうではなく 外からこの庭を人間のさかしらが批判をする場合のことを言うのでしょうね。すなわち 次のような発言も そこに入ります:  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~  《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。    《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.18

また思い浮かんだことをいい加減な感じで答えるがね。 人間の非思考の庭なら人間同士でお互いに行き来していいじゃないか。 神の住む聖域が非思考の庭ならまた複雑だろうがね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ただ 《思考に非ず》ですからねぇ。感性も 入れない。ところへ どうやって入って行くか?  ワケの分からないナゾを それでもその名を心に受け容れたというのは 人間の意志行為であり 経験的なことです。    またその・そこに成った非思考の庭から ヒラメキを得るということ これが どこをどう通ってやって来たかは分からないけれど ヒラメキが現われたということ これは やはり経験的なことである。  それ以外のことで 非思考の庭に入って行くことは むつかしいと思います。

  • a_hona
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回答No.17

なるほどです。おっしゃるところ、あると思います。合意に基づいて形成される普遍性もありますが、個に内在する普遍性もあることと思います。 少し議論を見守りたいと思います。 過程はそれぞれあるかもしれませんが、心の明けと表現される事象はどなたにも起こりうるのかなと考えたりしました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 合意に基づいて形成される普遍性もありますが、個に内在する普遍性もあることと思います。  ☆ ええ。  ★ 過程はそれぞれあるかもしれませんが、心の明けと表現される事象はどなたにも起こりうるのかなと考えたりしました。  ☆ 《心の明け》を取り上げてもらったんですね。先に ねこさんからでしたか。  これは あんがいおもしろい見方だと われながら 思います。  つまり 心の窓と言えば 単純なかたちで通じるような意味合いが出ますが 非思考の庭にあっては 窓と言っても 別にその扉を開いて外を見るというわけではないと言わねばなりません。  つまりは 明けと言っても 窓を開くように明けて行くものではない。  むしろ 心が 閉じていないということ。これを意味すると考えられます。  心の明け=すなわち 心が閉じられていないということ。こうなると 煮詰めた議論としては 神に対して どんな名の神であろうと・また《無い神》であろうと すべてに心が開かれていることを意味します。  どんな名の神が来ても 心を閉じない。そういう神についての普遍性を心が受け容れる用意があることを意味し得ます。  ちょっと おもしろいと思いました。

  • a_hona
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回答No.16

なるほど、そもそも普遍的な理論を形作ろうとしているわけではなく、私的理論があるのだが、これについての批判をお願いしたい、こういうことでしたか?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。またもや 微妙なところですが まづは ご回答をありがとうございます。  つまりですね。一般に 普遍性というのは 個別の事象や問題を突き詰めて行って 達するものだと思うのです。  ローカルなものの中から グローバルな問題や展望が得られることが しばしばです。  人間ないしワタシが ものごとの物差しであり得ると考えられます。  個ないしミクロコスモスの中に 全体性ないしマクロコスモスが捉えられ得ると思われます。  というようなことなのですが?  (抽象論のままにてですが)。

noname#195588
noname#195588
回答No.15

本覚思想はなにが問題だったんでしょうかね。 することがなくなるからでしょうか? 出家者の存在理由がなくなるとか? すると困るから、本覚思想は否定されて、 覚っているはずなのに、覚っていない とかいうような 穴を掘って埋めて、また穴を掘る ようなことになったのでしょうか? 今思いましたけど、 末法思想と表裏一体では? どちらにせよ仏教が無効化されるから。 でもそれが仏教徒自身がたどり着いた結論。 自己否定。アートマンの否定といえるかな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 本覚思想はなにが問題だったんでしょうかね。  ☆ これも 同じくです。  何もしないでも目指すところに到達するという《筏の無》という道は それとして だいじょうぶなのだと思います。  けれども 到達したら どういう内容の境地になるのか? これを明らかにしなければ 一万年経っても ペテンになります。  どんな《筏》かは 問題になりません。しなくてもよいはずです。《無い筏》でもよいはずです。  けれども どこに到るかを明らかにして欲しい。という問題ではないかと。

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     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 信仰は どんな得があるか?

     1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。  2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。と言われる得がある。  ☆ ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたたき台の考え方を述べます。  A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。  3. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》と呼ぶようである。  4. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。  5. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミターユス(阿弥陀仏)やらマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世界を超えたところのナゾであることに変わりない。  6. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。  7. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いともわれわれは知り得ない。ゆえにである。  8. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓で触れられているかにも思われる。  9. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは《無い神》と捉えて(想定して)開いている。  10. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの心の明けもしくは伸びとして考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》ということが肝心であろうと思われる。  11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人は判断し決めることになっている。これが 信仰である。  12. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか それともその逆かである。  13. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたかもカミとしてのごとくただ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であったりする。そのような曖昧な信仰という形式の場合が考えられるのみである。  B 信仰は真理を知ることができると言うのは どういうことか? そこにどんな得があるか?  14. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つまり《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとしてのように持つ。  15. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえいる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観としてのヒラメキもある。  16. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。  17. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われることである。むろん主観である。  18. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味で《現世利益》である。  19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。  20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。  21. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということではないだろうか?  22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。  23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。  さていかがでしょう

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。