猿でもわかる国体護持

このQ&Aのポイント
  • 日本の伝統文化を守り、古さを壊す流れに対抗する国体護持の意義について考えてみましょう。
  • 国体護持の目的は、他国からの文化侵略や撹乱を防ぐことであり、国への忠誠を確かなものとすることです。
  • 戦後、伝統文化は衰退し、最先端の流行に合わせる傾向が強まっていますが、国体護持はそれに抵抗する意義を持っています。
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猿でもわかる国体護持

こんにちは。 最近国体護持という言葉に興味があります。 要するに日本の伝統文化を頑固一徹まもるんだみたいな発想だと思います。 戦後はそうした言葉は使いわれなくなり、最先端にぱくついて、そうでないものをダサいとかくさいなどと、古さを壊すことがかっこいいかのうように推移してるようです。 神社にお参りする人は少なくなり、伝統はかすれてます。 万札に福沢の肖像があるのに、大日本帝国のみなおし遅れましたな^^; 推測するに国体護持とは、他国からの撹乱予防のためではないですかな?文化侵略も防いでいたようですし。国への忠誠を上から下まで徹底させるということですかな? 何のために国体護持を目指していたのでしょうか?

noname#184860
noname#184860
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国体護持の国体とは、天皇を国家元首とした国の体制をいいます。 ポツダム宣言受諾にあたり、国体が護持されるかどうかで御前会議は紛糾しました。結果的に国体護持することを条件にポツダム宣言の受諾を決めました。 戦後の日本は国体護持されているかどうかは意見の分かれるところです。

noname#184860
質問者

お礼

ありがとうございます。天皇陛下のみならず、それに付随するもろもろですか?付随するものとは何でしょうか?

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