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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:認識が存在に先行するか?)

存在と認識の関係について

ok9608の回答

  • ok9608
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回答No.11

No.10です。読んで頂きありがとうございました。以下蛇足です。 次世代へのDNAの伝わり方は 親DNAの大分子構造を構成する各分子のならびかたに従って 順次子DNAの各分子を親と同じく構成していきます。PCのメモリーチップは 予め用意され分子を例えば電気極性をコード規則によって加工していきます。用意されたハードにソフトが記録されるということです。DNAはそうではなくハードからハードに分子ごとに親DNAの最後の分子まで記録されるのです。一分子が記録されないと 次世代に命を繋ぐことにならないのです。この事実を存在と認識という観点からどう評価するかです。DNAが親から子に伝わる様子を 『命を繋ぐという意味を認識しつつあることとその記憶媒体の存在が誕生しつつあること』と見做し 同時発生ではないかと表現したということです。 命DNAは人がそのように意味するということであって DNA自身がどのように認識しているか 今のところ分かりようがありません。現在は その様子をみて人間の言葉で理解しておけばいいのではないかと思います。将来はもっと理解は進むと思います。 勿論、存在と認識については多様な見方があると思います。私が開示したのはその一つであると考えています。続いて 私の考えるところですが 哲学の意味する一つは思考の限界を示すことではないか と思うのです。だから少なくとも先端科学の知識は重要ではないかと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ok9608 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 続いて 私の考えるところですが 哲学の意味する一つは思考の限界を示すことではないか と思うのです。だから少なくとも先端科学の知識は重要ではないかと思っています。  ☆ これは もしそのとき・その時代における現在にとっての《思考の限界》というふうに相対的で変わり得る内容だけではないとしたら・つまりはそもそも人間一般にとっての思考の限界とは これこれであると示すものであるとしたら おおきな意義を持つと考えます。  言いかえると 一般的な限界としては 次のような区分をしていますという意味です。  ○ (思考の限界とは) ~~~~~        経験事象      可知        既知        未知      不可知(分からないと分かっている)    非経験の場      非知(分かるか分からないかが分からない)  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むろん《非経験の場》はこれも 補助線です。       *  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  命DNAは人がそのように意味するということであって DNA自身がどのように認識しているか 今のところ分かりようがありません。現在は その様子をみて人間の言葉で理解しておけばいいのではないかと思います。将来はもっと理解は進むと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《命 DNA 》とは 前回あいまいに捉えてしまいましたが 今回もけっきょくあいまいではあるのですが     遺伝子・プラス・アルファ = 生命存在  というふうに捉えます。プラスアルファとは わけが分からないが何かあると見られる というくらいの意味であり やはりあいまいです。  素人から見て 生命存在ないし生命体であるなら すでに《存在》であって 他方 《認識》ということがあるならそのハタラキは じつは 存在に付属している。といった捉え方でした。        *  ★ DNAが親から子に伝わる様子を 『命を繋ぐという意味を認識しつつあることとその記憶媒体の存在が誕生しつつあること』と見做し 同時発生ではないかと表現したということです。  ☆ ここには ふたつの主題があると見ます。  (1) それでは 《親 DNA 》の誕生とは なぜは措いておいても どういうふうに成ったのか?  (2) 《親 DNA 》は 《子 DNA 》へと受け継がれるその前にすでに それとして《存在》であるのではないか?  ☆ (2)の課題にあっては 《認識》は 副次的な問題であるように思われます。存在に付属するという見方です。  (1)の主題が けっきょく《命をつなぐ》ことにかかわっていて そのまさにつなぐときに《命の受け継ぎなる意味を認識しつつある》ことと《その記憶媒体の存在》との異同・区別はどうなっているのか? が問われると思います。  けれども 《記憶媒体の存在》――あるいはつまり 遺伝子の存在か または 遺伝子・プラス・アルファとしての生命なる存在――にあってはすでにみづからの中に《自己認識》のハタラキはそなわっている。のではないでしょうか?  遺伝子の受け継ぎなるその過程において 片や 生命体が受け継がれるという《存在の継続》と 片や まさにそのことの意味を認識するというハタラキないし自己認識の行為とは 互いに同等に捉えられるふたつの事柄であるということでしょうか?  まづ分かっていることは 遺伝子が自己認識するゆえに 遺伝子プラスアルファとしての生命体が存在するというのではないと思います。認識作用は 生命存在にそなわったハタラキだと考えられるからです。  さもなければ 世界は あたかも《認識なるお化け(霊)》が初めにあってこれが自己運動を起こし そこから生命が作り出され やがてその生命存在としてヒトも生まれ出て来た。――といった物語りになるかと思われます。  では 生命存在の誕生 いえつまり――その主題は大きすぎるので――ここでは 生命体の受け継ぎを取り上げるのですが その受け継ぎにあたって 生命体の自己認識や受け継ぎについての自己認識は その受け継ぎのおこなわれる過程と同時進行しているものか?  存在が みづからの存在の中で・あるいは存在として 自己運動のごとく 具体物としては遺伝子を自己形成している。のではないでしょうか?  この自己形成の中で 遺伝子の自己解読のような作業も 《認識》なるハタラキとして おこなわれている。のではないのでしょうか。  言いかえると 怖れ知らずの発言としては 存在と認識とは 次元が違うと思われて来ます。  さもなければ 世界は 認識大魔神の支配するところとなるのではないかと思います。  そのことと コギト エルゴ スムとの関係は どうなのでしょうか。

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     善悪論と善人悪人論とは 根本的に違う。  ひとを《善人や悪人》に分けることが マチガイ。  そのように捌くことができるというおまえさまは いったいなにさまだい。  を問います。賛成票をもどうぞ。  人は 自然本性なる善を基礎として 心のへそ曲がりを 止む無くにしろすすんでにしろ・多かれ少なかれ おこなって来た意志行為とともに自己形成して来ている存在である。時に悪をも引き受けている全体を成す人格としての存在である。  善人と悪人とに いったい誰が分けるのか。  善人なほもて往生をとぐ いわんや悪人をや は揚棄されるべきである。  善人ゆえにだいじょうぶだとか いやいや悪人ゆえにこそすくわれるのだとか そのレッテル貼りから自由に成らざるべからず。

  • デカルトのコギトはどこが独自性なのか

     アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。  ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。  ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。  精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――   ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ  うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは  いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り  きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ  る と仮想しようと決心した。   (方法序説 4)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考    する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。  或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。  それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・   (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:  ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・  (方法序説 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と書いたことは よく知られているところである。  これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。  ● (パスカル) ~~~~~~~~~~  デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・  なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。  (パスカル:幾何学の精神について 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。  《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。  デカルトのコギトに独自性はあるのか?