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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:認識が存在に先行するか?)

存在と認識の関係について

ok9608の回答

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  • ok9608
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回答No.10

素人のトンチンカンな答えです。参考になるようでしたらどうぞ。 『<<神>>は補助線か』 にも関係しているかもしれませんが。  人にとっての存在とは 存在そのものが有意味なモノと思います。無意味なモノも一つの有意味として捉えます。未知な存在も将来には知られる存在と考えます。森羅万象全て有意味の存在です。 他方、認識とは対象としているモノがハードであってもソフトであっても それが記憶の中の存在のであると認めること だと思います。記憶とは記憶媒体に刻まれたものであって 人間の場合 脳です。脳のハード存在が先行しなければ記憶もなく認識もない となります。 しかし、この有意味な脳は いかにして理解されたかが問題です。一個人が誕生(受精細胞活動開始)して以来、一度は母親をはじめとする別人間あるいは自分自身あるいは環境の中の何かの存在が認識され、その認識が脳に刺激を与え脳に記憶を刻みます。そして人間としての機能を持つ脳になると思います。つまり個人の誕生以前に 人の共有認識があって それを利用して脳が出来上がるということです。勿論、認識のみが脳機能形成に役立っているわけではありませんが 欠かせない要素になっていると思います。共有認識は 人類誕生以来 何世代にも渡って この脳に刺激を与え続けているとおもわれます。認識とは人類共有の膨大な有意味な存在なのです。そして 人類誕生時点 突然共有認識が生まれたわけではなく 人類以前の類猿人などとは連続した認識の共有があったとおもわれます。 その延長の 猿あるいは犬の存在とか認識はどうでしょうか。程度の問題であり 人間の場合と同様だとおもいます。ただ未知なる存在領域が相当に大きいということです。将来 人類と共有の存在を得たなら 認識も共有されるでしょう。 さらに推し進めていけば DNAをもつ最も単純な機能生物にまで 程度の問題と理解されると思います。この場合何が記憶媒体かといえば DNAを構成する分子であり 記憶されるものはDNAであり その意味する存在とは生物の命ではないか と思います。圧倒的に未知の存在の記憶は膨大ですが 命DNAは延々と子孫に受け継がれるということです。このDNA構成分子とDNA認識の時間差はなく同時発生のように思われます。この生物は 過去の同タイプの生物のコピーを拡大させるという生物の最低限の定義をもつ生物のように思われます。 それ以前のウイルスは DNAはもっているが 単独ではコピー拡大は出来ず 生物の細胞に進入にして初めて コピー拡大ができます。PC用のメモリーのようなものです。メモリー+CPUなどの機能素子と合体してPC機能が生まれることに似ています。このウイルス取り込み細胞は生物と見做されます、が ウイルスは複雑な分子構造をもつ生物―無生物境界線の無生物ということだと思います。ただウイルスのDNAは記憶された命の意味を意味付け仕損じたように思われます。勿論、無生物であればエントロピー増大仮説に従っています。 存在と認識の問題の一つの始点は 無生物から生物が どのようにして生まれたのか を科学的に説明できるかどうかではないでしょうか。それができれば存在と認識 問題が解決するように思います。 複数のウイルスがある環境化で絡み合えば必ず生物が誕生するのか 僥倖の一瞬が生物を誕生させたのか、私は前者の未知の存在(経験域)にくみしたいと思っていますが 科学的説明は完成しておらず 後者の意見(非経験域のできごと あるは 神の意思)も根強くあると思います。 生物の世界では存在は有意味と思います が無生物の世界では 存在の意味は問えないと思います。例えば 量子力学で解明された電子の動きというコトを認識することは 人間にとって意味があることですが ウイルスにとってはその意味は問えないと思います。意味が問えないコトは私には理解できないということです。

bragelonne
質問者

お礼

 ok9608 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうなんでしょうか。つまり  ★ 存在と認識の問題の一つの始点は 無生物から生物が どのようにして生まれたのか を科学的に説明できるかどうかではないでしょうか。  ☆ こういう問い求めの視点ないし仕方なのでしょうか?  つまりわたしは 知りませんでした。  おそらくそのとき  ★ この場合何が記憶媒体かといえば DNAを構成する分子であり 記憶されるものはDNAであり その意味する存在とは生物の命ではないか と思います。  ☆ ということになれば  ★ ・・・このDNA構成分子とDNA認識の時間差はなく同時発生のように思われます。  ☆ というひとつの結論がみちびかれるかと確かにわたしも考えます。    ただひとつ 《DNA 記憶》はよいとして  ★ DNA 認識  ☆ というならそれは 誰が・何がその認識をするのか? と問われましょうから 答えは DNA 自身だということになるでしょうか。  となるなら その《 DNA 自身》というのは 認識機能を持った或る種の存在 ということではないでしょうか?  微妙ですが もしそうなら DNA は 《みづからを認識したから存在が成り立った》のではなく 《存在が成っているからそのみづからの存在の内容についての認識をおこなった》ということではないのでしょうか?  すなわち 萌芽としてでもヒトとしての存在が成った ゆえに 認識も始まる。のではないでしょうか?  それとも 人は・あるいは DNA は みづからを認識しつつ少しづつ存在を成り立たせて行く のでしょうか?  ★ 命 DNA  ☆ はすでに 認識機能をそなえた存在なのではないでしょうか?  あるいはそれとも  ★ ただウイルスのDNAは記憶された命の意味を意味付け仕損じたように思われます。・・・複数のウイルスがある環境化で絡み合えば必ず生物が誕生するのか   ☆ というように 初めに《認識というハタラキ》が存在して そのあとに《認識行為をおこなうヒトならヒトという存在の全体》が成るということなのでしょうか?  ★ 認識とは人類共有の膨大な有意味な存在なのです。  ☆ これは ヒトという存在が知解能力をはたらかせておこなって得た認識ないし知識・情報のことを言っているのではないでしょうか? つまり 認識とは 人間という存在がおこなうことでありその結果得たものであるのではないのでしょうか?  それが代々受け継がれて来ているわけなのでしょうが ということは 《認識なる存在》がその受け継ぎを人間にさせているということなのでしょうか? あるいはつまり遺伝子が ヒトなる存在をつくっており 生きるようにさせているということでしょうか?  遺伝子は ヒトないし生物なる存在に属すのではないのでしょうか?  遺伝子にたとえば――《認識》の問題というよりは――《意志》があって ほかの人にゆづるという意志行為をその遺伝子じたいの意志として ヒトにその《ゆづる》行為を行なわせているものであるか? こういう問いに収斂してくるかと考えます。

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     善悪論と善人悪人論とは 根本的に違う。  ひとを《善人や悪人》に分けることが マチガイ。  そのように捌くことができるというおまえさまは いったいなにさまだい。  を問います。賛成票をもどうぞ。  人は 自然本性なる善を基礎として 心のへそ曲がりを 止む無くにしろすすんでにしろ・多かれ少なかれ おこなって来た意志行為とともに自己形成して来ている存在である。時に悪をも引き受けている全体を成す人格としての存在である。  善人と悪人とに いったい誰が分けるのか。  善人なほもて往生をとぐ いわんや悪人をや は揚棄されるべきである。  善人ゆえにだいじょうぶだとか いやいや悪人ゆえにこそすくわれるのだとか そのレッテル貼りから自由に成らざるべからず。

  • デカルトのコギトはどこが独自性なのか

     アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。  ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。  ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。  精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――   ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ  うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは  いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り  きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ  る と仮想しようと決心した。   (方法序説 4)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考    する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。  或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。  それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・   (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:  ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・  (方法序説 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と書いたことは よく知られているところである。  これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。  ● (パスカル) ~~~~~~~~~~  デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・  なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。  (パスカル:幾何学の精神について 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。  《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。  デカルトのコギトに独自性はあるのか?