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シベリア抑留の密約

結局、「シベリア抑留」には、日本側から旧ソ連側に日本兵を労役提供するかのような申し出をしていたのですか。 当時の政府・大本営の体質としてそのようなことが考えられますか。 1993年8月モスクワで「大本営朝枝参謀」の名で書かれている「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」という文書が見つかった、という事実は知っていますが、その後「シベリア抑留」の研究に関して新しい資料を見つけたとか何らかの進展はありましたか。 よろしくお願いします。

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  • dayone
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回答No.1

ご無沙汰しております^^ >その後「シベリア抑留」の研究に関して新しい資料 についてまでは、わかりかねますが、 少なくとも ・最高裁判所> http://www.courts.go.jp/ 裁判例情報> 裁判所名: 京都/地方/ 裁判年月日:・期日指定 平成/21/10/28 >検索 平成19(ワ)3986 損害賠償請求事件   平成21年10月28日 京都地方裁判所 棄却  http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20091210141026.pdf ・270/2011.01.18/大阪高裁、シベリア抑留訴訟控訴棄却 http://page.freett.com/haruyamate/new_page_3-7.htm 上記の一審・二審ともに棄却の流れを見る限りでは、 一審棄却「事実及び理由」中の 第4 争点に対する判断    2 シベリア抑留の原因について      ※<40/69>~    3 争点(1)(被告の遺棄行為)について ※<43/69>~<56/69> 昭和20年7月12日要綱、E報告、I宛報告などに対す判断を 変更しうる新たな証拠等の資料は見つかっていないと思われます。 以上 珍しく皆様方の御回答がない御様子を拝見して 久々にカキコミさせていただきましたが 一審棄却「事実及び理由」など御存知の場合は笑って許して下さいm(_"_)m でも未読なら、論旨明快なので御一読いただければと思います^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

いつもご親切な回答をありがとうございます。 「シベリア抑留訴訟」の控訴が棄却されたことは知っていましたが、判決の全文を読んだことはなかったので大変参考になりました。 政府の立場に立って棄却の結論を導く論述は理路整然としており、国の見解はよく解りました。

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