このカテにおける釈尊の覚りの否定とは?

このQ&Aのポイント
  • 最近のこのカテでは、釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか?何か根拠でもあるのだろうか。
  • 無の覚りの意味がわからないなど、無という概念について疑問が投げかけられています。
  • 釈尊の覚りを否定する方は、何を根拠に言うのでしょう。このカテの風潮が心配に思えます。徳などの話題も出てほしいという声もあります。
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このカテにおいて、釈尊の覚りを否定する流れ

最近のこのカテでは、釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか? 何か根拠でもあるのだろうか。 大昔のこと、現代に生きる我々としては、釈尊に出会ったわけでもないだろうに。 どうやら、無というものがひっかかっているようですが、 無とは本来、何かが無いという意味であり、全部が無いとか、あれは無いとか、これは無いとか、主語に対して使う言葉であって、どうも無の覚りが云々という言説が舞い上がっている意味がよくわからない。 自分も十年ほど前は、無というものが何処か自由を保証するような気がして、それにかぶれた記憶もありますが、それから延長して釈尊は覚ってないとか、そんなことは言ったことがない。破門で始まる仏道があるとかのたまって、自己に酔いしれた経験はあるが、それでも今振り返れば、若かったな、何もわかってなかったなということに終始します。 このカテで、釈尊の覚りを否定する方は、何を根拠に言うのでしょう。 釈尊や仏教の肩を持つわけではないが、このカテのその風潮のうき具合が少し心配に思えます。 どちらかと言うと、徳とか、そういう話がもっと出ても良いと思うのですが。

noname#181644
noname#181644

質問者が選んだベストアンサー

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noname#180711
noname#180711
回答No.8

 面白いことが始まったなあと思って見物させていただいております。なるほど仏教に縁が深い方なのですね。となると腹が立つのも当然でしょうか。 >最近のこのカテでは、釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか?  私のリサーチによると、次の理由でした。 (1)宗教とは信仰を行うものである。例えば仏教以外では、ヤハウェ、アラー、イエスなどの信仰対象がいる。神道にも神がいる。 (2)しかるに仏教は信じるものがない。悟るのである。悟りは信仰と違う。信じるものがないと、信仰ができない。 (3)信仰できないとは大変な問題である。キリスト教を支持する立場からすれば、仏教は宗教として認められない。 (4)こうした不出来な宗教は解体され、自身の構想する新たなる宗教(神道をベースにしたもの)に吸収されるであろう。  私個人は、(1)と(2)はあながち間違いとは思いません。しかし(3)については異論があります。私は、違うものは違うものとして、面白いと思うんですがねえ。私は仏教とは「哲学の成りそこない」と表現しましたが、他の宗教より哲学に近いとは素晴らしいことだと思うのですよ。(4)については、……まあ、新興宗教の勧誘の類いかもしれません。それは今後、時間がある時に聞いてみようと思いますが、あまり気が乗りません。 No1の方がおっしゃるのも、わからないでもありません。しかしキ印だとしても、それはそれで面白いこともありはします。何というか、この話狂っているなあと思っても、それを面白がれるのが、人の度量とも思います。大体、世にある大抵のものは、狂っているんですからねえ。一杯のコーヒーにも狂気が潜んでいます。  ところでこのカテの批判には、適度な距離を置いて接することをお勧めします。 住人になってしまった方もいるが、その理由の大半は、住人になりたくてなったというより、煽られて、ムキになって反論しているうちに、ネット中毒になってしまったというものです。  煽られてムカつくのは分かりますが、他のカテでは、煽られて自殺した青年の父親が怒りの投稿をしているものまでありました。程々でやめないと、取り返しがつかないことになります。破門から始まるとおっしゃるように、のめり込み易い性格であるのかもしれないと思ったので、よけいな一言を言わせていただきました。  面白いと思うなら議論すればよく、くだならいと思えば放っておけば良い。くだらない話なら、誰も相手にせず、滅んでいくだろう。それくらいに達観しておけばいいと思いますよ。

noname#181644
質問者

お礼

そういう経緯がありましたか。端的にご説明くださってありがとうございます。 また、事件のお話などがあったと聞いて、ただならぬ話と察しましたし、社会的に見て、サイト運営の責任など、看過されるべき事柄ではないなと思ったのが正直なところです。 ご心配どうもありがとうございました。

その他の回答 (10)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.11

”釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか? 何か根拠でもあるのだろうか。 大昔のこと、現代に生きる我々としては、釈尊に出会ったわけでもないだろうに。”     ↑ 出会ったことも無いのに、どうして悟ったと 判るのでしょうか。 悟りとは何か判らないのに、どうして彼が悟ったと 判るのでしょうか。 そもそも超人など存在するのですか? 王貞治と同じ才能を持った人間は、同世代に少なくとも 200人はいるといいます。 釈迦さんだって、ちょっと優れたユニークな人、 それだけでしょう? そういう人の言ったことを、どうして無条件に信じ られるのか、理解できません。 人類の歴史において、超人など存在したことは いまだかつてないではありませんか。

noname#181644
質問者

お礼

私は、釈尊が覚ったとか、覚っていないとかは言っておらず、仏伝に、釈尊は覚ったとあるという事です。 ところが、釈尊は覚っていないとか、釈尊は覚っていると、自分の言葉として言う方もおられます。 それぞれの方々は自己の発言に責任を持つべきであろうと私は考えるのですが、あまりにもむやみな論調に、心配になったという話でした。

noname#181644
質問者

補足

この欄をお借りして、ご回答いただいた皆様に御礼を申し上げます。短い間に十一件ものご回答をよせてくださりありがとうございました。 ベストアンサーは、もっとも回答として相応しい回答をいただけた方に進呈したいと思います。 問:最近のこのカテでは、釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか? に答えていただけたということで、NO.8の方をベストアンサーとしたいと思います。 ありがとうございました。

noname#181697
noname#181697
回答No.10

仏教でいう「無」とは、有の反対を意味する言葉ではなく、有も無も無い「未生の絶対無」を意味しています。早い話「本当は何も無い」という事なのですが、この真理に目覚めて「有るという思い込み」即ち、迷いが無くなる事を「悟り」といっているだけの話で、実際には悟りなんてものは無いんですよ。そういう意味では、釈尊は悟ってない、彼はただ迷いが晴れただけだ、とも言えるのですけどね。 仏教が誤解されているのは、別にこのカテに限った事ではありません。ってか、キチンと仏教を理解している人なんか滅多に居なくて、僧侶も学者もほぼ全滅に近い状態です。ですから、自分がどう仏教を理解しているのか、そしてそれは本当に正しいのかという事だけを問題にするべきだと思います。 身も蓋もない言い方になりますが、解らない人には一生解らないのが、真理というものです。叡智というものは、誰にでも会得出来るものじゃないのだから、これはもう仕方ない。下手に宗教に触れたばかりに、妄言ばかり垂れている迷惑な人も居るけど、そういう可哀想な人は、そっとしておいてあげましょう。まあ、一度くらいは真剣に相手しても良いかもですけど、徒労に終わる事は確実ですよ。 ちなみに、徳性と悟りは、無関係です。因果の道理に基づく最低限の知性を持つ人間なら、アングリマーラの様な悪党でも悟れます。徳性というのは、飽くまでも幸福な人生を送る為に必要なものであって、悟る為に必要なものではないのです。

noname#181644
質問者

お礼

確かに疲弊しそうですのでそこそこにしておこうと思います。 私の聞いた話では、徳は陽に積めば福徳に、陰に積めば功徳になり、功徳の方は覚りと深く関係するという話でしたが、ここで深く話すことでもないでしょうか。 ご心配ありがとうございます。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.9

結論は文末において、まず寄り道から 言葉や論理が詳細に述べられていても、自身の内面に響くものがないと真の理解にはいたりません。 例えば、学術書等を読んで、後から理解して初めて意味がわかるという奇妙な感覚はそういうことです。 極論を言えば、思考や議論に何時間を費やそうが真の理解とは比例しないということです。 むしろ、簡単なことを徹底的にやる。ゆっくりやる。それによって理解力は深まります。 しかし、それはもうこの上なく無慈悲なんです。 限りある時間の中で、急がないわけですから、世間的に観ればどうかしています。 それとは別に、悟りの実体を把握して労力を投入しようという意識も世間的常識にかなうのですが、とりあえず一歩進むほうが結局はやい場合が多いのです。 これらの世間的常識に反する逆説的現象の原因は人間的なものと思われます。 急いだり議論にあけくれることで焦りをごまかす、 実体を把握しているつもりが、実は行動しない言い訳になっているなど。 悟りをわからないで済まさず、否定する方々は言葉や論理を過信し、人間的要素を無視しているのではと思います。

noname#181644
質問者

お礼

概ね同意できるご回答でした。 ありがとうございました。

回答No.7

 No.2&6です。  いくらか説明がありました。  ちょっと視点を変えて 次のように問うてみます。    長いですが 次の解説では ゴータマ以前にさとりは探究されていたことを知ります。    ▲ (ヰキぺ:悟り) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A  § 1-4  ヒンドゥー教(バラモン教)  ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。  仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟りは意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態のいくつかを言う。サンスクリットのニルヴァーナ(涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。  インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。  ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。  悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。  悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。  現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。  通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでの《最高の状態》に 《やすらぎ》も《苦悩からの解放》も入るでしょう。  けれどもそれ以上のそれ以外の説明は ありません。    その《伝統》を ゴータマも踏襲しています。定義はありません。  ゴータマとブラフマニズムの違いは 後者が 支配階級である自分たち・ブラフミン(バラモン僧)の身分を既得権益としてのように保守しようとして 身分制を強化し固めようとするそのおこないが無いか有るかです。ゴータマは 身分制に反対しました。  あとは さとりについて外形的な説明があるのみです。  ▲(同上:§ 1.1 仏教 ) ~~~~~~  1. 迷妄を去った真理やその取得を言う  2. 真理(法)に目覚めること。  3. 仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここにはいくつか ツッコミを入れたくなる事柄が書かれています。  (あ) 《智慧》が基本だが 《分別を用いて思考することは 智慧に反する》と言っているらしい。  (い) さとりは 《事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する》と言う。――これが《外形的な説明》でないと言えましょうか?  (う) 《智慧》とは何か? という問いに代わっただけであり 堂々巡りである。  (え) 最初の(1)や(2)のほうの《真理》とは何か? 《法》とは何か?――どこまで行っても 問いはそのまままったく同じかたちで続きます。     ▲(同上:同箇所) ~~~~~  4. 釈迦は・・・ピッパラ樹の下で坐禅をして禅定に入った。その禅定がしだいに深化し、三昧の中で「三明」が顕れ、真理を悟ることができた。これによって釈迦は悟った者(覚者)、すなわち「ブッダ(仏陀)」になったのである。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このとき  (お) 《禅定》とは 何か? 《三明》とは? 《真理》とは?  ▲(承前) 5. 煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。    ☆ ということは  (か) 《とらわれのないこと》や《心の静けさがあること》は それとして人びとの同感を得ると思われますが それは ブディズムのさとりであるか無いかにはかかわらず 一般的なことがらであるはずではありませんか? どうして専売特許になるのかが分かりません。  (き) 《煩悩が制御されている》は これも一般的だと言えましょうが 《煩悩》とは何か? については ブディズム独自のオシエなのかも知れません。けれども おそらく次のような定義にしかならないでしょう。  (く) すなわち 《さとり》とは さとりを得ることを妨げている煩悩から自由になる智慧を得てその智慧を発揮することだと。――これを 外形的な定義と言います。作文です。生煮えと言いますか 残尿感を感じさせる《定義》です。      ▲(承前) ~~~~~  6. 大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜(ろくはらみつ)という利他行を実践する菩薩行(ぼさつぎょう)を強調する。   悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、大乗以降の仏教における菩薩の特徴である。   そして菩薩の悟りは声聞や縁覚と違い、究極最高のものであるとして「阿耨多羅三藐三菩提」「無上正等正覚」、あるいは単に正覚と呼ばれる。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ さてどうでしょう?   (け) ▲ 自らの悟りに安住することなく――☆ というのは すでにさとりを得たと言っています。そういうことがゆるされましょうか?  (こ) 何ら定義をしないまま《おれが さとりを成就したぞ。この上ない智慧を得たんだ》と宣言したまま 《その実践を指導し活動しつづけた》ということに人びとも倣うということでしょうか?  (さ) ただし確かにその説明には 一理あるかも知れません。無住処涅槃という考え方があるからです。  あるいは 《自未得度 先度他》というように――そして人間どうしの《関係の絶対性》にもとづくかのように―― さとりは実際には分からないが或る種の仕方で生まれつきそのイメージはあると知っているのでそれにもとづき ともかく実践してみる。といった立ち場のことです。  (し) ならば そう説明すればよいのです。これは ゴータマがです。問題は ゴータマです。後世の人びとにおぎなってもらったということではないでしょうか?  (す) すなわち そのときには ゴータマの《成道》はウソっぱちだったと知られます。そのことを明らかにして おのれの真実をのべる義務がブディストにはありましょう。  (せ) つまりは最初の《真理》にもどりますが 要するに《変わらざる真実――すなわち真理――を人間の主観が得ることが出来るか》という問題になります。《ひとり満ち足りている存在で ひとはありうるか》という意味です。《ひとは神になりうるか》です。  (そ) ゴータマの神格化は そろそろやめにしましょうという意味です。ゴータマのさとりは ただのまやかしです。そこ(つまりその確認)から出発するのではないでしょうか 人がいやしくもブディストであるというときには。  またブディズムを多少とも擁護しようとするときには。    

noname#181644
質問者

お礼

別にゴータマを神格化したのは私ではないのでそれを追求されても困りますが、仏教には法(ダルマ)という言葉があり、それを信じるというのは、語義的に正しい言葉なのです。神とは違いますが、信じるものもあるということをご了承していただければと思います。 ちなみに私は宗教はありません。しかも、どの宗教を否定するという立場をとることも基本的にはないです。 長文のご回答ありがとうございました。

回答No.6

 No.2です。  ★(No.2お礼欄) ~~~  覚れば、不滅の安らぎ=ニルヴァーナに至ると言われていますが、それだと(中身としては)ダメなのでしょうか?  或いは苦悩がなくなると言われていますが、それらは実に明快な説明のように思えるのですが。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 《やすらぎ》《苦悩がなくなる》は ふつうの言葉であり概念です。どうして それがもっぱらブディズムのさとりにとっての説明になるのでしょう?  あるいは やすらぎを得ることやまた苦悩から解放されることは 別にブディズムのやはり専売特許でも何でもないはずです。  ただし  ★ 不滅の安らぎ=ニルワーナ  ☆ とは書いてあります。では どうして     ○ さとりにおいては やすらぎが不滅であるのか?  を説明しなければなりません。諸行無常の・つまり移ろい行かざるを得ず朽ちざるを得ない身の人間が どのようにして《不滅のやすらぎ》を得ることが出来るのか? この問いに答えねばなりません。  この上なくとうとい智慧のさとり とは何ですか? という問いです。  中身のないものを 勝手に作文してもダメです。  インチキ・ペテン・詐欺また自己欺瞞です。

noname#181644
質問者

お礼

ようするに、余計な名色が脱落するので、苦悩が集滅すると説かれます。名色とは、名称と形態のことです。煩悩とは本能に基づく心の動揺であり、余計な名称と形態の作用がなくなるゆえに煩悩も消えるということです。 しかしこのような専門的な用語をつかっても理解できないでしょう?そのために平易な表現で語るのです。中身が無いと言われても、あなたにとってそうなだけで、あなたがそういう受け取りをしているに過ぎないでしょう。ただの我侭ですよ。

noname#181644
質問者

補足

私は、回答者さんが何をわからないのかが伝わってこないので、困っているのです。平易な表現の何処がダメなのか、専売特許などとは私は一つも言っていない。別にいいではないですか、オリジナリティを競っているわけではないのです。

  • oKwavea
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.5

このカテで『科学が発達したら、体得しないでも悟れる?』と質問投稿した者です。 ベストアンサーのお礼に「悟るのは、ブッダの偽りを証明していくことでもありそうだと思いました。」と書いていたのでどきっとしました。 いろいろ悩んでいます。心理学や哲学や社会学に救いを求めたりします。 前に禅を勧めていただいたことがあって、宗教によって救われるのではないかと考えるようになりました。 本心ではブッダの言説に惹かれたり仏教の言説に惹かれたりしています。 それなのになぜブッダについて否定的なことを書いてしまったか回答します。 悟るのはブッダの悟りを証明することでもあるという本の内容を真似ました。 悟りが何なのかわからないので憶測しました。 うろ覚えの内容から、あまのじゃくっぽく「悟るのは、ブッダの偽りを証明していくことでもありそうだと」と書きました。 そうは書いたものの、やはりブッダの悟りを信じています。ブッダの語ったアミダブツも信じています。 でも、もし生まれ変わったとして次の生でも信じていられるかと聞かれると自信がないです。 ブッダを信じるときブッダを好き嫌いするのと同じくらいの信じ方をしているからだと思います。 悟りが言葉の方便で示されていて最も重要な体験については直接伝わらないので、言説は偽りだと思います。 またブッダの悟りを偽りと証明できたなら救われているような気がします。悟ることでブッダの悟りを頼らなくていいと証明する、という解釈です。 頼らなくてもいい他を頼っていたのなら頼っていた他は偽りだったということで少し詭弁な気もします。 結果「悟るのはブッダの偽りを証明することでもありそうだと思いました」になりました。 伝統的な仏教集派によってブッダの悟りは現在まで継がれているらしいと聞きました。 それが科学の発展(脳チップ義務化など)によって途絶えてしまうか不安になって『科学が発達したら、体得しないでも悟れる?』と質問しました。 自分の持ってた考えがスタンダードだと勘違いしていたので、悟りとはなんなのか問題になろうとは思ってもみませんでした。 匿名なのでついつい自分のことを書いてしまうのですが、これでは悟りから離れてしまうんだろうかと思ったりします。

noname#181644
質問者

お礼

覚りの道は二歩で通じる道だと言われています。 一つは発心すること、一つは(苦悩から)解脱することです。 私はブッダにこだわりはありません。ただ、あまりにも行き過ぎた言論があったので、それはどうかと思っただけです。 ようするに、しあわせになれたらそれでいいのであって、知り得た某に執着するべきではないと私は考えます。わたしが仏教に興味を持ったのは、徳について具体的に書かれていたからであり、仏教以外にはソクラテスの、ただ生きるのではなく善く生きるといった話にも興味がありました。もちろん新約聖書なども読みました。 回答者さんの文章を読んで、少し思考のふらつきがあるのかなと思いますが、あまり現実離れを起こさないほうが良いと思います。ただできることを為して、その中に平安とか、安穏とかいうものが存在すると考えたほうが良いと思います。無理をなさらず、まずは落ち着いてください。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

こんばんは。 >「どちらかと言うと、徳とか、そういう話がもっと出ても良いと思うのですが」 縋っちゃ、いけない。

noname#181644
質問者

お礼

ちょっと文脈がわかりません。こちら側の文脈が伝わらなかったのかもしれません。 無や空というのは話に出てくるものですが、徳(を修めること)についても忘れないでほしい、みたいな意味なのですが。

回答No.3

当事者の一人だよ。 哲学研究しているんだ。 信じる信じないじゃない。 それから君が救いを求めて仏にすがるのではなく、仏そのものを自覚しようと言うのなら、とてもよい助けになる哲学のはずだ。

noname#181644
質問者

お礼

すいません、お礼遅れました。(お礼したつもりでしたが、できていなかったようです。) 自己に仏を見出すと言ったり、衆生を見出せば仏を見ると言われたりはしています。 落ち着いた回答有難う御座いました。

回答No.2

 こんばんは。  ひとつの流れは ゴータマ・ブッダのさとりを否定するのではなく そうではなくその《さとり》とは何か? にかんして 定義も説明もないではないかという物言いですよ。  定義を示せば 話は済むのではないでしょうか?  ただし妥当性があればのことですが。  中身が何であるかが分からないものを 否定するも肯定するもないぢゃないですか。

noname#181644
質問者

お礼

覚れば、不滅の安らぎ=ニルヴァーナに至ると言われていますが、それだと(中身としては)ダメなのでしょうか? 或いは苦悩がなくなると言われていますが、それらは実に明快な説明のように思えるのですが。

回答No.1

ここの哲学カテは、キチガイの独り言の場と化しているので真面目に考えるのは 時間の無駄です。また、それを放置している運営も同種で、頭も精神もおかしい。

noname#181644
質問者

お礼

うーむ。キチガイというのも少しはばかられますが、突飛というか、物言いが意味不明な時もあるというのは、そうかなとも思います。

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    無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。 無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論) そこで無我について考えてみました。 煩悩を考察する例え話です。 たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。 冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。 このようになります。 ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。 このようにくよくよします。 そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。 この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。 でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。 我には無い、されど世にはあるです。 無我に照らせばフェラーリはあるです。 我に照らせばフェラーリは無いです。 ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。 世の中をあまねく照らせば全てはあるです。 無は信仰のみにしか無い。 ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。 「私があなたを知らないわけがない」と。 そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。 しかし神に照らせば全てはある。 ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。 お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。 私は無我とは偽りであると主張します。 それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。

  • 釈尊のさとりについて

    増谷文雄氏の著作『釈尊のさとり(p.65)』によると、釈尊がさとりを開いた後、次の様に考える場面が、南伝・相応部経典6-1に書かれてあるそうです。 曰く、『私が悟りえたこの法は、はなはだ深くて、見がたく、悟りがたい。寂静微妙にして、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところである。・・・この世間の人々は、・・・この理はとうてい見難い。・・・この理とは、すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたるということである。』 そこで疑問なのですが、釈尊は前段で、「私が悟りえた法は、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところであって、一般の人には理解できない」と言っていますが、後段で述べている内容、つまり、「すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」ということは、一般の人に理解出来ないほど難しい内容ではないと思うのです。 と言うことは、前段で言っていることと、後段で言っていることとの関係は、どのように考えれば良いのでしょうか? 後段で言っていること以外に、何か、あるのでしょうか? あるとしたら、それは何でしょうか? どなたかお教え戴けたら幸いです。

  • 佛教の「無」と無神論者の「無」は違うのでしょうか?

     佛教は印度の遥か昔は仏像等本尊も無く、  私の心の煩悩からの開放 当たり前であるが苦しき事(老病死)を受け入れていく 事により、覚りの世界へと到達すると云う事が根本にあったと思います。  その象徴として、本尊や浄土や霊山というものが生み出されたと考えられます。  「死ねば唯のカルシウム」と云われる方が居られますが、  「唯のカルシウム」「無に還る」という意見は私も同意できますが、  私の生命も遡れば「無」と云う事から始まり、その繋がりの中にある、  そして、亡き方からご縁があった、そこに「今科学的に観て生命が生きている   「有」ものと成る「無」という世界では解釈できない「有無をはなる」という  世界だと思うのですが?」  説明が悪く申し訳ありません?  1 無神論者の方にとっての「無」は仏教の「無」とは違う「無意味」「無価値」なものであり、死ねば完全な「もの」として捉えていくという事なのでしょうか?  (私自身も死ねば「遺体」「白骨」と解釈しますが、何処かに亡き方とのいのち   の繋がりもあるそれこそが同じく「無に還る」という事なのではないかと思います)  2 無神論者の方は 今が良ければそれで良いのでしょうか?    葬儀の参列 墓参りは科学的に何の根拠もないので無意味 無価値なのでしょ  うか? 遺体は処理し、遺骨は捨てる、それで終わりという感覚なのでしょう   か?

  • 経済停滞の原因を心に求める風潮、海外にはある?

    最近、日本の停滞の原因を心に求める意見が多くあります。 大きく分けると、 (1)道徳低下論 「今の日本がうまくいかないのは、日本人が堕落したからだ」 「日本衰退の原因は日本人に徳がなくなったからだ」 (石原慎太郎など) (2)意欲低下論 「今の日本がうまくいかないのは、日本人がアニマル・スピリッツを失ったからだ」 「教育現場で競争させないからガッツがない若者が増えたのだ」 (大前研一など) この2つに分けられるのでしょう。 (1)のタイプは戦前回帰志向の復古的保守派、(2)のタイプは高度成長回帰志向の市場原理主義者だと思います。 どちらの言説も根拠に乏しく、物事の原因を安易に心に求める精神論・根性論だと思いますが、 (1)と(2)の言説は時に相反する場合もあり、例えば石原氏は「今の日本人が我欲にまみれていること」が諸悪の根源であるよう著書で述べていますが、大前氏は「今の日本人、特に若者が物欲等の意欲がないこと」が日本衰退の原因であるよう著書で述べています。 ところで、このような経済停滞の原因を心に求める風潮って海外(とくに欧米)にはあるんですかね? 「今のアメリカが衰退しているのは、アメリカ人が堕落したからだ」 「ギリシャが財政破綻したのは、ギリシャ人がアニマル・スピリッツを失ったからだ」 なんて。 現代社会の諸問題を安易に「心」や「教育」に求める風潮を批判している人もいるんですがね。 広田照幸氏、内藤朝雄氏、後藤和智氏の著書にそのことがよく書かれています。

  • 創価学会って、結局のところ何ですか?

    学会の人もそうでない人も、色んな方からご意見いただければありがたいです。 創価学会の友人にいわゆる折伏を受けるのですが、いくら反論しても認めてくれないので困っています。 私がいつも反論するのは以下の点です。 1.憲法違反をしている 2.フランスではセクト(カルトよりさらに先鋭化した集団)に認定されている 3.宗門から破門され、何を信仰しているのか聞けば聞くほど訳がわからない 4.友人には悪いが、教義が根底から間違っている 5.勧誘もしつこく迷惑 以下、詳細です。 1.公明党は政府与党として国家の中枢にあります。 先日、福田元首相が辞任した時にも、解散総選挙の時期やインド洋での給油継続の補給支援特措法の延長などをめぐって公明党が賛同してくれないことが辞任に至った大きな理由の一つであるとして、マスコミ各社で大々的に報道されたことは有名です。 このように、創価学会は公明党を通じて日本の政治に多大な影響力を持っていますが、こんなことは憲法第20条で明確に禁じられています(政教分離原則)。 2.有名な話なので端折ります。 3.もともと創価学会はご存じのとおり日蓮正宗という一宗派の在家信者の集まりでした。 しかし、1991年に当の日蓮正宗から破門され、今では完全な敵対関係で、日蓮正宗を邪宗と呼んでいます。 在家の信者達が宗門から破門されてしまった状態で、一体何を信仰しているのでしょうか。 もちろん理屈をあれこれつけて学会員達を納得させているわけですが、聞いてみてもどうにも無理があります。 それに、坊さんでもない単なる素人の集まりなのに、導師を選んで「法要」なんてことまでやっています。 4.さらに根本的な教義が(仏教を主張するのなら)間違っているという問題があります。 間違っているというのは、創価学会が拠りどころにしている「法華経」(方便品、寿量品)というお経についてです。 「妙法蓮華経」といういかにもありがたそうな名称ですが、今では釈尊入滅後500年以上も経過してから勝手に創作された経典だということはもはや広く知られており、仏教学の世界では常識です。 釈尊のことを直接知る人間などいない500年以上も後の時代に、「如是我聞=是の如く我れ聞きぬ(私はこのように釈尊から聞きました)」という書き出しで始め、後世の人々にウソを信じ込ませてきた経典ですから、私は「本当に罪深いお経。こんなものを後先考えずに作った連中がいたから後世の人達がみんな混乱して、ありもしないウソを本当の釈尊の言葉だと勘違いして信じてしまったんだからとんでもない悪事だと思うよ」と言うのですが、友人は怒り心頭です。 「法華経」には、釈尊は実は永遠の過去から仏として輪廻転生を繰り返している(久遠実成)などと書かれていますが、釈尊がとうの昔に亡くなってしまいその場にいないのをいいことに自分達に都合良く勝手に様々な話を創り出し、挙句の果てに仰々しい話に膨らませています。 そのため、有名な天台大師智(ちぎ)のいわゆる「五時八教説」は間違いだったにもかかわらず(明治時代になって初めてこの事実は一部の仏教界上層部にだけ知られましたが)、それをそのまま最澄が日本に持ち込み、そして日蓮の「法華経こそ最高の教え」という主張に繋がっています。 「法華経最高!」というつじつま合わせが至る所にしかけられたお経ですから、「法華経」は当然どこからどう読んでもその中では完璧です。 5.そして創価学会では、今では明らかな間違いと認められているこの「五時八教説」に基づいて折伏を繰り返します。 最初の頃に「それ間違いだよ」と反論したところ、それ以来、絶対に折伏しようとしていつまで経っても帰らせてくれないし、「間違ってるものを根拠に反論されても無意味だから」と言っても「そんなことは絶対に無い!何かの間違いだ!」(笑)なーんていう押し問答になってしまいます。 なぜ、仏教として根本的に間違っているのに友人も含めてこれだけの人がいまだに信じているのでしょうか? なぜ、宗門から破門されたのに学会の人達は疑問を感じずそのままいるのでしょうか? なぜ、憲法違反がまかり通り、またそれを疑問に思わないのでしょうか? なぜ、これだけ嫌っている人も多いのにいまだに日本一の信者数を誇る団体なのでしょうか? いま学会の人達は何を信仰しているつもりなのでしょうか? 創価学会って、結局のところ何なのでしょうか? 今後まだ友人と議論が続くと思われる中で、少しでも理解が深まればと思っています。 異論、反論、お好きなようにお願いします。 ただし、上記の質問に答えるという形式にしていただけない場合、また無意味な悪態などにはコメント致しませんのでご了承下さい。 大変長くなってしまい恐縮ですが、よろしくお願いします。

  • 「無」だったのか?

    昔から疑問だったのですが 『混沌でないかどうかよりも、最初「無」だったというのがホントなら何だって「無」のままにしとかなかったんか、ということのほうがフシギ…。』 哲学カテの質疑において私が、このように述べましたところ >『「無」のままにしておくっていうことは「無」が「有る」っていうことですから、それは「有る」ということに他なりません。要するに「有らへん」ということは「有りえない」のです。』 >『ここで言っている「有る、無い」は、机の上にリンゴが「有る、無い」と同じ意味の「有る、無い」じゃないですか?確かに、さっきまで机の上にあったリンゴを食べてしまえば「そのリンゴが無いという状態」が「有り続け」ていますね。でも、その場合は机は有ることが前提だし、譬え机がなかったとしても時空間はあることが前提ですよね。でも、それは本当の「無」ではないように思います。そして疑問は、本当の「無」などというものが本当に「有り得る」のでしょうか?』 このような返事がありました。 このとき自分には何故、机やリンゴという前提を出されなければならないんかという違和感があったのですが結局、最後の 『「無」などというものが本当に「有り得る」のでしょうか?』 という一文が自分の最終的な疑問の前に立ちはだかっているわけです。 物理とか天文学には興味はあれど畑違いの人間です。実際のところ今現在、宇宙発生の前に本来的な意味での「無」ということがあったのかどうかについて、どのあたりまで研究が進んでいるんでしょうか。 噛み砕いた御説明をいただけましたら有り難いです。

  • 無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。

    無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。 慈悲とは無の悟りを補う行いである。 http://okwave.jp/qa/q6062229.html これに続く質問です。 「信じることは束縛される事である。」 そんな獣(ヤプー)は相手にしません。 仏道を理解しようとする方限定で質問を差し上げています。 慈悲を手向ける必要や、慈悲を発露する必要は悪因とかかわっています。 ようるに、悪だからこそ慈悲が必要になる。 私は人の心に悪が忍び寄ったとしても、「世」要するに「自然の摂理」にはあくまでも、、、 悪は無い。 罪は無い。 嘘は無い。 このようになります。 したがって私はあくまでも悪人を悪人と見なさず人間としている。 仏教の解釈では、それならば大悲であるとも言いうるかも知れません。 私はそのような解釈を拒否します。 人間存在は自然の摂理にかなっており、それと調和するものである。 要するに悪意をふっ飛ばせるし、我が事に限ればすでに吹っ飛ばした。 あとはただ他者をぶっ飛ばすのみです。 無我に置いて無我以外には悪は存在したと論説されてある。 これに我をもって無根である。 「そんなもんありゃしねー」。 このようにするのが、無我の無にあらづ、我の無です。 有神論と解釈するといいでしょう。 お釈迦さまに関しては他者の信仰への積極的干渉が明白である通り、当時のインドの初源の神の姿と密接にかかわっていた。 多くを語った無については、 無根であるゆえ文字通りの無である。「そんなもんありゃしねー」と、 我が信仰のみの事柄であり、それを表すすべを知らないし必要もない。非思考ゆえの信仰ある無。 この二つが交錯しています。 無神論の「無」とは、たんに神を一切言葉で表さない事を意味しています。 それから仏、要するに人間の姿を信仰とするのなら、それは神の姿を人間になぞらえて信仰する事です。 したがって無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。 問題となるのは宗教上では縄張り争いばっかりでこの手の考察に検討する余地を見出さない事でしょう。

  • 無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。(その2)

    無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。(その2) 慈悲とは無の悟りを補う行いである。 http://okwave.jp/qa/q6062229.html これに続く質問です。 「信じることは束縛される事である。」 そんな獣(ヤプー)は相手にしません。 仏道を理解しようとする方限定で質問を差し上げています。 慈悲を手向ける必要や、慈悲を発露する必要は悪因とかかわっています。 ようるに、悪だからこそ慈悲が必要になる。 私は人の心に悪が忍び寄ったとしても、「世」要するに「自然の摂理」にはあくまでも、、、 悪は無い。 罪は無い。 嘘は無い。 このようになります。 したがって私はあくまでも悪人を悪人と見なさず人間としている。 仏教の解釈では、それならば大悲であるとも言いうるかも知れません。 私はそのような解釈を拒否します。 人間存在は自然の摂理にかなっており、それと調和するものである。 要するに悪意をふっ飛ばせるし、我が事に限ればすでに吹っ飛ばした。 あとはただ他者をぶっ飛ばすのみです。 経典では、無我に置いて無我以外には悪は存在したと論説されてある。 これに我をもって無根である。 「そんなもんありゃしねー」。 このようにするのが、無我の無にあらづ、我の無です。 有神論と解釈するといいでしょう。 お釈迦さまに関しては他者の信仰への積極的干渉が明白である通り、当時のインドの初源の神の姿と密接にかかわっていた。 多くを語った無については、 無根であるゆえ文字通りの無である。「そんなもんありゃしねー」と、 我が信仰のみの事柄であり、それを表すすべを知らないし必要もない。非思考ゆえの信仰ある無。 この二つが交錯しています。 本来の無神論の「無」とは、たんに神を一切言葉で表さない事を意味しています。 それから仏、要するに人間の姿を(仏になぞらえて)信仰とするのなら、それは神の姿を人間になぞらえて信仰する事です。 したがって無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。 問題となるのは宗教上では縄張り争いばっかりでこの手の考察に検討する余地を見出さない事でしょう。