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「無」だったのか?

昔から疑問だったのですが 『混沌でないかどうかよりも、最初「無」だったというのがホントなら何だって「無」のままにしとかなかったんか、ということのほうがフシギ…。』 哲学カテの質疑において私が、このように述べましたところ >『「無」のままにしておくっていうことは「無」が「有る」っていうことですから、それは「有る」ということに他なりません。要するに「有らへん」ということは「有りえない」のです。』 >『ここで言っている「有る、無い」は、机の上にリンゴが「有る、無い」と同じ意味の「有る、無い」じゃないですか?確かに、さっきまで机の上にあったリンゴを食べてしまえば「そのリンゴが無いという状態」が「有り続け」ていますね。でも、その場合は机は有ることが前提だし、譬え机がなかったとしても時空間はあることが前提ですよね。でも、それは本当の「無」ではないように思います。そして疑問は、本当の「無」などというものが本当に「有り得る」のでしょうか?』 このような返事がありました。 このとき自分には何故、机やリンゴという前提を出されなければならないんかという違和感があったのですが結局、最後の 『「無」などというものが本当に「有り得る」のでしょうか?』 という一文が自分の最終的な疑問の前に立ちはだかっているわけです。 物理とか天文学には興味はあれど畑違いの人間です。実際のところ今現在、宇宙発生の前に本来的な意味での「無」ということがあったのかどうかについて、どのあたりまで研究が進んでいるんでしょうか。 噛み砕いた御説明をいただけましたら有り難いです。

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  • ベストアンサー
  • sekisei
  • ベストアンサー率38% (94/246)
回答No.3

こんにちは。 物理学や宇宙論で言われている宇宙誕生前の無は実は物理法則は存在しているというものです。 (最初の参考URLの(2)で量子的揺らぎは・・の箇所) そのため本来的な全く何もない無とは違っています。 (もう一件参考URL http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity107.html ) どのあたりまで研究が進んでいるかについては 宇宙論は無を扱うものも含め現状いくつか仮説があるようですがまだどれも確実視されるような説はありません。 (正しさを確認するための実験には概ね非常に高いエネルギーを要求されるためです) 蛇足をして申し訳ありません、goosuka003様がこの質問の前半で言われた内容と近い内容が宇宙論でもあるように思えます。 物理学・宇宙論で無を扱うにはその無に少なくとも物理法則だけは存在しないといけません。 物理法則もない無はすでに物理学の範疇ではなくなってしまうためです。 (逆に言うと物理の範疇では完全な無は存在しないと言えるかもしれません。)

参考URL:
http://members.jcom.home.ne.jp/ht_matsuzaki/Singularity.htm
goosuka003
質問者

お礼

科学の世界では「始まりの問いを避けてきた」とか。これは釈迦が「無記」ということを示したことを思い出させます。 しかし、これが分からんことには…!!んー歯がゆい!! ヴァガバーンと梵天、そして「一粒の麦もし死なずば」というコトバも一緒に連想してしまいました。 しかし我々日常の卑近な例では、これすべて始めがあって終わりがある世界ですから、この法則が宇宙生成に当たっては全く通用しないものなのかなあという気もします… 御投稿、感謝申し上げます。

goosuka003
質問者

補足

御回答ありがとうございます。 何はともあれ参考URLを一所懸命、読んでみましたが…はあ~@@;(タメ息) でも、良いサイトを御紹介いただきました! 私なぞは子どもの時分から「最初は無だった」というのが通り相場のように聞かされていましたので当たり前のように絶対的な「無」を想定していました。それで「無から有は生じない」というコトバも聞かされますたびに苦悩していたんですが…。 URL文中『無の世界にも物理法則が、あらかじめ存在している』という仮定、これはやはりナンセンスだ!と言いたい感があります。違和感は感じますが、まだ『超空間』でも何でも言い換えてもらったほうがいいです。 ニュートン/ホイヘンス(ロン毛のハードロッカーとニューロマ風肖像画!)の光の性質に関する議論を読みましたが私はこれ、目次を見た時点で粒と波両方の性質を持つと直感的に思いましたが、偉い学者が営々と実験を繰り返してきた歴史が私なんぞにも人類の普遍的記憶として内包されているのかと思いました。 やはり、ここでも我々の周囲を取り巻く形而下の現象を敷衍して確認不能な遠大な現象までも推察しているんですね。 自分は、この世界の究極はミクロからマクロまで球形をとっているだろうと想像していたんですが「ひも理論」というのがあるんですね。 球が動いて(振動して)線(ひも)にならないのかな…?? なんか卵子と精子を連想してしまいましたが、そういえば細長い形状のものは「神の依り代」だとか「霊が取り付くよすが」だとか聞いたことあります。オカルト? 『この質問の前半で言われた内容と近い内容が宇宙論でもあるように思えます。 物理学・宇宙論で無を扱うにはその無に少なくとも物理法則だけは存在しないといけません。 物理法則もない無はすでに物理学の範疇ではなくなってしまうためです。 (逆に言うと物理の範疇では完全な無は存在しないと言えるかもしれません。)』 仰ること分かりました。 詰まりは質疑の相手方は物理科学のスタンスで話をし、私こそがカテにふさわしく真っ当な哲学の話をしていた、ということになりますか!てっきりコトバを弄んでいるかと思ったのですが実際的にも現時点の限界なわけですね。コトバの限界と物理現象確認の限界ってリンクしてるのだろうか…

その他の回答 (5)

回答No.6

ニュートンという雑誌に書かれていたのですが、無を作り出す真空の装置を作り作動させ、そのままおいておくと、何もないはずなのに原子が誕生し、消えて、また誕生し、消えて、という繰り返しの反応が発生するそうです。ビックバンもこの論理で発生したと雑誌に説明されていました。 何もないのに何かが出てくるなんて不気味ですね・・・。 しかし人間が考えている「無」なんて、所詮人間の考えた「無」ですから・・・。人間の考えている「有」なんて、所詮人間の考えた「有」なんですよ・・・。

goosuka003
質問者

お礼

返事が遅くなりまして、たいへん失礼しました。 御回答ありがとうございます。 >何もないはずなのに原子が誕生し、消えて、また誕生し、消えて、という繰り返しの反応が発生するそうです。 ああ、それ。私も何かで読みましたわ。 「ゲッあんた、どっから湧いてきたの??」ってカビか虫みたいですが。ホント不気味ですねえ! するとヒトが「無」って呼んでる前提自体に問題があるということになりましょうか。 『人間が考えてる「無」か「有」なんて所詮、人間が考えた「無」であり「有」である。』 哲学カテゴリでカンカンガクガク飽きもせず、やってるアレですね。いまんとこ形而上でしか捉えられないですからねえ。。 御回答者様の今年がハッピーな一年でありますよう祈念しております。

  • Tigers29
  • ベストアンサー率6% (6/88)
回答No.5

難しい問題ですね。無か有か? けど切り口を変えれば以外と簡単かもしれないですよ。 科学者はこの宇宙を無の状態から有の状態(現在)を創りたかった。そのためには「無」では何も創りだすことはできない。 そこで、「無」だけど物理法則だけは存在するとか・・・ つまり、科学者のエゴから生まれた幻(仮説)にしか過ぎません。 では実際の宇宙はどうなのか? おそらく膨張宇宙論(仮説)を突き詰めるとビックバンにたどりつくため、始まりも終わりもなかったとするのが一番いいかもしれませんね。 真実は神のみぞ知る!

goosuka003
質問者

お礼

なにしろ考え込んでしまって(私ごときが考え込んでもしょうがないんですが)返事が遅くなり、たいへん失礼致しました。御回答ありがとうございます。 膨張するからには外側があるんだろ!ってなとこで引っかかってる単純門外漢なもんで。 そうですねえ仮説と実際…その乖離… 心理学のカテゴリなど見ておりましてもヒトの心理を、ある状況から推察して、いかにうまくツジツマが合うよう穿った見解をしてみせても所詮それは取り付くための島であって決して、その心理の全体ではないんですよね。素人さんでも「島」を探し出すのに長けた人って見かけますが専門の研究者は「その島が全体像」ではない、ということを神経質なくらいに自戒しているのだろうと見受けられます。 むしろ「ツジツマが合う」というのは意外な危険性を孕んでいる恐れもあるかしれません。 ま、穿った見方はシロートの楽しみ、ってとこでしょうか。部分から全体を推察するってのは私自身よくやってしまいます。 最近どこぞで拾ったコトバです。 『真理とは結局最もよく機能することが分かった仮説に過ぎない』~金枝篇 御回答者様にとって今年も良き一年でありますように。。。

  • sekisei
  • ベストアンサー率38% (94/246)
回答No.4

こんばんは、再びお邪魔します。 >URL中の・・・言い換えてもらったほうがいいです。 同感です。私も”実は物理法則だけはあって・・・”という説明を見たとき”無じゃないじゃん”と思ってしまいました。 紹介したURLの内容は実は過去にNHKで放映された「アインシュタインロマン」という作品を文章にしたもののようです。 ビデオが見られる場合はそれを見られるとかなり面白いと思います。 (レンタルビデオ屋には置かれなさそうなのでかなり難しいと思いますが・・・) >自分は、この世界の究極はミクロ・・にならないのかな…?? ひも理論以前は物質の究極は点(大きさのない)として考えられていました。 素人目に見ると点をひも(今度は太さがない)にしただけのような感じに思えますがこれでいろいろうまく素粒子の種類とか説明が付きそうだとのことです。 >ニュートン/ホイヘンス(ロン毛のハードロッカーとニューロマ風肖像画!)・・推察しているんですね。 ニューロマ?と思って思わず調べてしまいました^^;。 光の粒子と波の性質のあたりですが、量子論でそのあたりが扱われていますがこちらもかなり哲学的に面白いのではと思います。 実在は実在するかといった内容です。個人的に非常に面白いと思っています。 >仰ること分かりました。・・リンクしてるのだろうか… 今現在出てる仮説では完全な無は出てないみたいです。 なにせ宇宙誕生前と問われても時間自身が宇宙と一緒に誕生したためそれ以前の”以前”が存在しな状態です。 個人的な(また蛇足です^^;)無のイメージは”全てのものが均一な状態になっていることと”ではと考えたりしてみました。 例えば人間がモノを見るには色や明るさの差がないとモノを見られない。過激な例えを入れると時間も過去も未来も完全に混ざっている。 なにも知覚でき無い状態は無と一緒では・・。 これだと無から有も生じるのでは・・。均一だったものに偏りが出る。 ごめんなさい。後半は本当に私の勝手な考えですので無視してもらって構いません。 あまり満足行く回答にはなっておらずすいません。

goosuka003
質問者

お礼

>ニューロマ?と思って思わず調べてしまいました 何かの素粒子名とでも思われましたでしょうか?(笑) >”実は物理法則だけはあって・・・” これ、しかし他のサイトでは普通に「無」を出発点として説明してるところも、けっこうありましたよ。イイカゲンなのかサイト主催者も理解できてないのか。 (大きさのない)点、(太さがない)ひも。 これもまた、なかなか想像し難いものですね。物としてイメージするからいけないんでしょうか。振動の軌跡自体を「ひも」と表現しているのでしょうか。 >無のイメージは”全てのものが均一な状態になっていること”ではと考えたりしてみました。 む、難しいイメージですね…勝手にJ・P・スーラの絵を思い出してしまいました。 >なにも知覚でき無い状態は無と一緒では・・。 実際何も知覚できない状態に置かれると普通人は発狂するらしいですが(トコトン差別化を測らずにいられないのが本性なんですね)まさか実験はできますまいね。 つまり思考停止。不立文字。なんにも言えない。 私個人の素直な気持ちでは、我々が発生した過程があるからには、その過程を発生させた過程も、またあるはずだと思えてしまいます。 >なにも知覚でき無い状態は無と一緒では・・。 これだと無から有も生じるのでは・・。均一だったものに偏りが出る。 うむむむ…後半が…深いですね(汗) 「吉凶、動より生ず」ってなとこでしょうか?ビミョーですが… まあそうすると、やっぱり「本当の意味での無」はないんだということになるのでしょうか。 哲学カテで昔の偉い人が『存在は無限』とかって仰ったそうなんですけど、まあ鋭いというか、さすがというか。大昔の人なのに~。 でも普通に「無」というものが存在しないとしたら私は息が詰まりそうです。でも「真の無」も息が詰まりそうです。 宇宙生成前の「空白」は実は我々とともに「有り続けて」いる?? 「量子論」にも興味津々なんですが、お勉強する余力に自信がありません~(悲) ホントはもっといろいろ質問したいんですけど自分の限界も考えてホドホドにしておきます… ああ、研究者になりたかった。会社なんて、つまんね~。 再度お優しい御回答をいただきまして心から感謝申し上げます。また宜しくお願いします。 この一年も御回答者様にとってステキな年でありますように。

goosuka003
質問者

補足

返事が遅くなってしまいまして失礼致しました。 いや~あれから時に自分でも検索して他のサイトを覗いてみたりしたのですが科学系、取り分け物理の素養など皆無に等しいもので読めば読むほど救いようのない気分になってしまってA^^; お礼を書き込むにも何から書いたら良いのか見当もつかない体たらく。 こんな私ですが計算能力さえ弱くなかったら本当は天文学が一番学びたかった学問なのです。 どうやら今しかるべき筋においては『トンネル効果』 とやらの仮説が取り沙汰されているようすですが私なんか、これを理解するのに四苦八苦。 他にも暗黒物質ですとか反物質ですとか事象の境界線問題ですとか引っかかる議題は後から後から出てくるんですけど。正直「脳みそバーン!!」状態からフと気づくと「無我の境地」を彷徨っていました…間もなく一企業人として俗世に戻らねばならない身の上、これ以上、頭のねじが外れて社会復帰できなくなったら困りますので一まず締めることにします。 このような問題を考えるとき、ついウパニシャッド哲学とかバガヴァーン(梵天)とか連想してしまうんですが、そういえば羽織の紐なんかについてる「梵天」あれって「丸い」と「細長い」を顕現してますよね。何故あれを「梵天」と呼び習わすのでしょうか。。 それと御幣ってありますよね。祈祷のときに用いる棒の先にビラビラをつけた物。あれって「振って」使うんですよね。 しめ縄なんかにぶら下がってるビラビラあれは雷を表してるそうなんですが。 どうも現代人が忘れ果ててしまった、この世界の秘密、古代の人は、まだ記憶してたんじゃないかという気がします。我々よりは確実に宇宙生成の時代に近かったわけですしね。 それから、このサイトのどこかで目にしたんですが小ささを表す古い単位用語に「毛」というのがあり最後に行き着いたところを「清浄」と呼ぶそうですが、このあたりもどうもバガヴァッドギーターが想起される… キリスト教で「光と闇の闘い」として、この世界を捉える考えがあるらしいのも意味深なことだと思えてなりません。

  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.2

現代物理学までの無についての論争は、紀元前300年の 古代ギリシャの自然哲学の考え方その発端になって います。「自然は真空(真に空の状態=無)を 嫌う」と有名な言葉があり、これは本当なんだろうか? という議論がずーとあります。 >宇宙発生の前に本来的な意味での「無」ということがあったのかどうかについて、  宇宙の発生以前に、この宇宙に無という 状態があるのか?という議論があります。  中学、高校で物質は原子(という粒)でできている と習う(習った?)と思います。粒が小さな球体だと すると、球体はどんな並べ方をしても必ず 隙間があきますから、この隙間には物質は 存在していないわけで、無の状態のはずです。 ちなみにこの考え方は17世紀の数学者 デカルトのもので、デカルトは古代ギリシャの 「自然は真空を嫌う」という言葉を信じていたので、 同じ古代ギリシャのデモクリトスのいう、万物の 根源は粒であるという考えは間違っていると 言っていたんです。球を並べて空間を満たすと いうのは、幾何学的に非常に重要な問題で、 数学的に無を議論した有名な話だったわけですが。  20世紀に入り、電子ビームを物体に 当てると言う方法で、大きな物質も、その 質量は中心のごく一部に集まっていることが わかってきました。デモクリトスの現代版、 原子核の発見です。  電子ビームの大半は、物質をとおり 抜け、たまに反射されるという現象が 観測されたんです。物質の構成単位は 原子という粒で、その質量の大半は中心の 原子核と呼ばれる部分に集まっていて、 一部が電子という粒子で、原子核のまわりに 散在しているわけです。  電子と原子核の間には、物質は存在して いないんです。つまり無。  しかし、話はここで終わりませんでした。 すいません長くなりましたので、とりあえず ここまで。  しかしその後の研究で、  

goosuka003
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 『粒が小さな球体だとすると球体はどんな並べ方をしても必ず隙間があきますから、この隙間には物質は 存在していないわけで無の状態のはずです。』 これなんですが我々が生息している、この空間において、その隙間は絶対の「無」と言えるのでしょうか?空気でさえも分解していって究極こうなる、ということなのでしょうか?? >「自然は真空を嫌う」 確かに、普通に我々を取り巻くいまの状況を顧みて言うなら、そうとしか言えないですよね。 『質量の大半は中心の原子核と呼ばれる部分に集まっていて、一部が電子という粒子で原子核のまわりに 散在しているわけです。』 これ、衛星を従えた恒星を彷彿させますね。 『電子と原子核の間には物質は存在していないんです。つまり無。』 哲学カテゴリでの過去の質問で『死後』と題するスレッドを見つけましたが、そのなかの御回答の一つに 『無とは有の対象です。無がなければ有もない』 というコトバがありました。 これが示しているのは無と有が並立しているということですね。自分は単にコトバのうえでのリクツという印象で受け止めていましたが実際この現象が出現しているわけですよね。 現実的に普通に我々が確認できている、この世界の諸法則と宇宙生成のそれは乖離しているのかどうか? 結局「ツジツマが合う、ムジュンのない仮説」を探し出し打ち立てて、それを拠りどころにするしかない。或いは、その「仮説」こそ、いまや、この現象世界のみなもと??--; それにしても古代人って頭イイですねえ。 大した実験するわけでもないでしょうに。 ヒトの疑問は、すでに大昔に置かれていて、こんにちまでずっと、そのことの追究解明に切磋琢磨してきたに過ぎないということなのでしょうか。 だから最古の疑問は常に新しい… 『しかし、話はここで終わりませんでした。』 『しかしその後の研究で、』 も、ものすごく気になります…

  • N64
  • ベストアンサー率25% (160/622)
回答No.1

「無」を「存在しないもの」あるいは「ありえないもの」とすると、「無が存在する」、というのは、「存在しないものが存在する」、となって矛盾します。でも「無」という概念を議論することはできますから、「無という概念は存在する」と言っても、矛盾しません。私たちは「無」について考えることはできます。

goosuka003
質問者

お礼

そりゃそうですね。 それで、ここは、せっかく天文学のカテゴリですから質問文にあります「本来的な無」については、どうなんでしょう?概念を議論するなら哲カテで足りますので。 早速の御回答ありがとうございました。

goosuka003
質問者

補足

>私たちは「無」について考えることはできます。 詰まるところ或る意味これが現実、正解ですね(苦笑)思い知らされました。 トップ御回答をいただき改めて、お礼申し上げます。 すばらしい一年を過ごされますように。。。@06/1/8

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  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

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     お邪魔します。初めてこのカテに質問するので舌足らずな点があるやもしれませんが、ご容赦下さい。  私は大学で心理学の授業をきっかけにいろいろと本を読んでいるのですが、やはり未熟なせいでボキャブリのなさをひしひしと痛感しています。  心理学もいろいろと辿ると哲学的な話も関与してくるのでわからない単語の意味がたくさんあります。  特に、日常的にも使われるし、国語の授業の文章中でもよく見かけましたが未だに使い方を理解していないのが「相対的に~/○○は○○と相対的なもので~」といった使われ方の「相対」について。広辞苑引いてもよくわからないのです・・・。  さらに、もっとわからないのは「形而上・下」。とりあえず上は「形のないもの・カタチとかそういった目に見える人が感じる問題以前のこと?もの?」といった捉え方をしています(大汗)ホントはまったくわからないのです・・・が(泣)  こういった単語をきちんと理解して立派にサラっと使いこなせるようになりたいな、って思うのです。哲学的な意味と日常の使われ方だと少し違うと思うのですが、国語ではなく哲学のカテに質問させていただきました。  説明していただけると大変嬉しいですが、わかりやすい本など(本当に初心者向けの)紹介していただけるとさらに喜びます!  ゼヒ、お願いします。。

  • 結局、死んで無になるのに、なぜ生きるのか?

    どんなに楽しいことをしても、嬉しいことをしても、結局死んでなにも覚えてない、なにもわからないなら今死んでも同じじゃないですか?私は、特に現状に不満もないし、幸せですが、なんだかどうせ死ぬと思うと全てが虚しいです。無意味に感じます。最初から生まれてこないのが人間にとっての一番の幸せですよね。子供を作る人間って本当にバカだと思います。出生は殺人以上の悪です。なんのために人間には理性があるのでしょうか?生まれてくる子供の気持ちを考えず本能のままに子孫を繁栄して、なんの意味があるのか。人類のゴール、目的ってなんですか?生まれてこなければ幸せになる必要はないし、そもそも幸せになりたいとも思わない。私は生まれてくるまでに過ぎた何億年という時間の間、全くの無であり、なにひとつ不自由はなかったのに、両親のエゴで誕生させられ、生を強制させられ、最後には恐ろしい死が待っている。なんて、残酷なんでしょうか。 自分は自殺する勇気がなくて、惰性で生きてます。早く死んだ方が人間は得です。 安楽死が合法になれば、今すぐに死のうと思っていますが。 こんなことを質問していることも結局死ぬのだから無駄であり、なんの意味もないのですけど。死後の世界や、輪廻転成など、スピリチュアルを持ち出すのは、やめてください。仮にそんなものが、あるとしたら、永遠に終わりのない地獄です。

  • 無の境地に至る簡単な方法を教わりました、科学的?

    私は「無の境地に至る簡単な方法」を教わりました。 それをホームページにまとめました。 Most Fate into Zero Mental State http://zero.coolverse.jp/ 簡単に言えば、感じた感覚を極限の速さで忘れるということを 繰り返すのです。最初は忘れるというのがネックになりました。 しかし2時間続けると、時間がゆっくりと感じて、あらゆる感覚 に対して敏感になり、思考は最高スピードで、まるで無敵にな ったような感覚に包まれました。それで無の境地に入った事が 分かりました。 その体験は6時間も、長い時間続き、いまでもその体験を呼び 出すとスイッチが入り、瞬間に無の境地に入ります。でも1時間 ほどすると消えてしまいます。 私はその師匠から、多くの人間が感じてる無の境地は幻想で あると言っていました。音が聞こえないのは単なる無視であると 何も感じないのは単なる無視であると、単なる無視を無の境地 と呼ぶ事が間違っていると断言しました。 その師匠は不思議な術を使い、自分を取り巻く、あらゆる悪を 取り除きました。いまも、その効果は続いていてアンラッキーは 存在しません。たとえば子供の頃から続いていた薬の効かない 幻聴は、 「I defend You !」 の言葉ととも一瞬で消し去りました。いまはどこへ行っても幻聴は ありません。師匠はあなたが死ぬまでの間、必ず護りきるから、 安心していなさいと言って消えました。 無の境地を科学的に解釈すると、感じた瞬間に忘れるという脳の 仕組みが完全に成された時に到達すると思います。たとえば仏教 の座禅で無の境地を目指すとき、それについて具体的には伝承さ れていません。感じた瞬間忘れるという訓練であるという前提で 座禅を考えると、後ろを通り過ぎた瞬間を忘れるという訓練という ことになります。 昔は自動車なんてありませんし、人や馬では練習にならないと 考えたのでしょうね。いまは自動車がたくさん走っています。 感じた瞬間忘れるという訓練がいつでも可能です。つまり座禅で 目指す無の境地の訓練がいつでも可能です。 武術の無の境地もまた、感じた瞬間忘れる事であるという前提を 付ければ、簡単に意味が分かります。相手の攻撃の瞬間を忘れ 自分の反撃だけに集中する。 しかし感じた瞬間忘れるという状態を2時間続けると、無の境地に 入るという科学的な根拠が分かりません。私はそのとき、ただ、 道に向かって、通り過ぎる車を感じて忘れるを繰り返していただけ です。特に集中していたわけでもなく、雑念も大変多い状況でした。 それでも無の境地に突入した科学的根拠が知りたい。 いわゆる運動してトランス状態に入るのとは、まったく別の体験で 呼吸の乱れは一切無く、テンションがハイになるのとも違います。 無の境地とは、感じた瞬間忘れ、それを極限の速さで行う事と 説いたサイトは、私のサイトを除いて一切無いのです。 忘れるといっても感覚を忘れるだけで記憶には残ります。記憶の 消去ではありません。 私の友達が3人協力して、この方法を試みて、全員がたやすく 無の境地へと至りました。約1秒以内の感じた瞬間忘れるという のは、やさしいけど、極限の速さから無の境地に至るまでが 大変だったという感想をもらいました。 私は脳科学の専門ではないので、感じた瞬間忘れるという動作が どういう脳の働きをして起きているのか、そして、なぜ、無の境地 に到達できるのか、不明な点が多いのです。 別にテンションがハイになっているわけではありません。そのテン ションとやらも、感じた瞬間に忘れているのです。気分は平静時の ままです。 それから私の師匠はこの世のものではないと信じています。ひょっ とすると未来の人間だと思っているぐらいです。未来の脳科学では 無の境地という状態を科学的に立証できており、その方法は、感覚 の極限の速さでの消去で達成可能であるということかもしれません。 この方法が正しければ勝負事やスポーツの精神論に大きな影響を 与えるかもしれません。実際、悪口を間近でほのめかされても、 まったく動揺しなかったのです。それは本当に不思議でした。 逆に無の境地を訓練するに不適当な場所とは、無音の空間であると いうことになります。またうるさすぎてもダメであると分かります。 感じた瞬間忘れる余裕がある空間がベストです。 私の師匠はたまたま、電車の高架橋のトンネルと隣接する幹線道路 を利用して、最も効率の良い方法を教えたのかもしれません。 話は逸れますが、私の師匠について宗教にとても詳しい友人に話すと トップクラスの守護霊が守護したと考えられると言いました。まず、そう いうことは滅多にない話ということです。信じられますか? 予備知識は以上で、質問があります。 感じた瞬間忘れるという一連の動作は脳の仕組みでどんな働きを するのでしょうか? それを極限に速くした場合、無の境地に達するという真実には どう科学的根拠があるのでしょうか? 以上です。