• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:個人主義の要件となる寛容)

個人主義の要件となる寛容

maruikamoの回答

回答No.3

おもしろい質問ですね。 しかし、Diekbecさんのおっしゃる「寛容」「個人主義」「集団主義」のどれも、ご質問を読む限りでは、人によって色々な解釈に分かれてしまうと思います。 例えば「寛容」を同じ事象を多角度から見ることと捉える人もいれば、自分の考えに反したとしても文句を言わず黙っていることだと捉える人もいるでしょう。 「個人主義」を、自分で自分の行動の結果に責任を持つことだと捉える人もいれば、気分の赴くままにやりたいことをやることだと捉える人もいるでしょう。 「集団主義」を協力することで個人では不可能なことを達成する手段だと捉える人もいれば、特定の型にあてはまらない者は排除することだと捉える人もいるでしょう。 ただ、ご質問の内容から、Diekbecさんが何か個人的な人間関係においてフラストレーションを抱えていると仮定して、できるだけ建設的になるように意見を述べてみようと思います。 (1)について 人間の行動や性格特性は、自分の習慣や好みから離れて考えるようにすると、ある場合には非常に面倒を引き起こすものが、別の場合にはうまく働くということがよくあります。ですので、その同じ特性を、どうしたらうまく働くように導けるか考えます。 自分はたいした例が出せませんが、同じ作業を単純に量で分割して横並びでさせたところ、同じ職位でも他よりスキルが高く、プライドも高い人が明らかに腐っていたので、作業を分割しなおしてその人はチェック・修正をする、という段階を入れ、その後で全員でなぜそのように直すのか、本当にそれでいいか、といった確認をするようにしたら、スキルの低い人からは勉強になった、高い人からはやりがいがあった、という感想をもらったことがあります。 「周囲に気を使わせるほど腐っていた」という社会人らしくない態度の部分だけ注目して注意していたら、その人は不満をためこみ、せっかく高い能力を発揮しなかったでしょう。ただ、これは単純で簡単に解決できるようなケースであったとも言えます。だからといって厄介なケースに取り組まなくていいということにはなりませんけどね。 (2)について Diekbeckさんのおっしゃる「ミス」とは、ある特定のルールに反する行動を取ること、という理解でよいでしょうか。例に挙げておられる大学からの処分や就職試験の話は、「実際は分からないけど、面倒になりそうなことはとりあえず避けておく」というルールに基づく行動のように見えますね。それがエスカレートすれば、確かに「その集団の中でやってもいいこと」の範囲は狭まるでしょう。 しかし、「ある特定のルールに反する行動を取ること」を集団主義とした場合、人が思いつかないようなことができないと、その集団から外されてしまうような集団もあり得ます。普通に大人しくしていると、それはミスとして指摘されてしまう集団です。それも非常に不寛容に適用され得ます。Googleのような会社はきっとそうなんじゃないでしょうか。 日本は集団主義で、欧米は個人主義、という使い古された言い方がありますが、Diekbeckさんがお気づきのように、欧米は個人主義ではありませんね。日本に比べると、それぞれ多様なルールを持った小集団が一国に寄せ集まっているのであって、それぞれの小集団の中での束縛は日本よりもむしろ強いように思います。そのため身動きが取れなくなっている面もあるように見えます。 日本は桁違いに大人数の人がもう少し緩めのルールの範囲で暮らしているために、むしろ自由な面があります。ある程度ルールに沿った公の顔を保っていれば、プライベートは何でもありが許されていると思います。 ただ、企業のグローバル化などで、日本の大集団も欧米型に細分化されていく過渡期なのかもしれません。となると、自分がどのような性格の小集団を形成できるか(受動的に考えれば所属できるか)という部分に、自分の行動範囲の幅が左右される、ということになります。

noname#180711
質問者

お礼

 ありがとうございます。 >しかし、Diekbecさんのおっしゃる「寛容」「個人主義」「集団主義」のどれも、ご質問を読む限りでは、人によって色々な解釈に分かれてしまうと思います。  そうですね。これはどうしようかと思いましたが、そこまで指定すると回答がしにくいかと思いました。問いも、ある種の概念を練り上げようという類いのものではなく、各自の経験を伺って、思索の糧にしようという緩いものです。Wikipediaにいろいろ書いてあるので、まあ、その程度を念頭においてくださったらいいかなとは思いました。 >ただ、ご質問の内容から、Diekbecさんが何か個人的な人間関係においてフラストレーションを抱えていると仮定して、  お気遣い、ありがとうございます。とはいえ、これは違うのです。このカテの住人の他の質問に答えていたら、こういう個人主義についての考える際の肝となる「寛容」という考え方が浮かび上がってきました。それを発展させた形です。 >(1)について 人間の行動や性格特性は、自分の習慣や好みから離れて考えるようにすると、ある場合には非常に面倒を引き起こすものが、別の場合にはうまく働くということがよくあります。ですので、その同じ特性を、どうしたらうまく働くように導けるか考えます。  ありがとうございます。確かに私が寛容をもっと定義しておくべきだったかもしれないと思いました。むしろミスをした人を前にした時、わーわーと批判できるが、そうしなかったという事例を想定していました。部活などでもあるでしょう。ドンマイって言って、相手のミスを流したりすることが。ここでは、腐っている社員に対して寛容な接し方をした事例を紹介してくださった、ということでしょうか。 >(2)について Diekbeckさんのおっしゃる「ミス」とは、ある特定のルールに反する行動を取ること、という理解でよいでしょうか。  法律もルールですし、道徳規範もルールというのであれば、そうなりますね。 >例に挙げておられる大学からの処分や就職試験の話は、「実際は分からないけど、面倒になりそうなことはとりあえず避けておく」というルールに基づく行動のように見えますね。それがエスカレートすれば、確かに「その集団の中でやってもいいこと」の範囲は狭まるでしょう。  はい。そうですね。 >しかし、「ある特定のルールに反する行動を取ること」を集団主義とした場合、  これはわかりません。 「ある特定のルールに反する行動を取らせないことを集団主義とした場合」の間違いではないですか。 >普通に大人しくしていると、それはミスとして指摘されてしまう集団です。Googleのような会社はきっとそうなんじゃないでしょうか。  そういう会社もあるでしょう。しかし、それは個人主義ですよ。それに当初から契約でどのような行動をとるべきかが決まっているはずです。集団主義というのは、空気読んで行動してよー、というやつです。これも定義しておくべきだったかもしれませんね。 >日本は集団主義で、欧米は個人主義、という使い古された言い方がありますが、Diekbeckさんがお気づきのように、欧米は個人主義ではありませんね。  私が気づいているのですか。特にここでは書いていませんが、ぶらじゅろんぬさんの問いへの投稿をお読みになったのかな。欧米は個人主義ではないという全否定ではなく、一部ではそうでもないという部分否定で書いたつもりでした。 >日本に比べると、それぞれ多様なルールを持った小集団が一国に寄せ集まっているのであって、それぞれの小集団の中での束縛は日本よりもむしろ強いように思います。そのため身動きが取れなくなっている面もあるように見えます。  例えば、どういう事例でしょうか? すみませんが、おっしゃる意味が取れません。 >日本は桁違いに大人数の人がもう少し緩めのルールの範囲で暮らしているために、むしろ自由な面があります。ある程度ルールに沿った公の顔を保っていれば、プライベートは何でもありが許されていると思います。  許されていない様ですよ。例えば松下電器など、会社は人也というキャッチフレーズのもと、プライベートもとても親密です。これが許されていたら、個人主義の国になっているでしょうね。 >ただ、企業のグローバル化などで、日本の大集団も欧米型に細分化されていく過渡期なのかもしれません。となると、自分がどのような性格の小集団を形成できるか(受動的に考えれば所属できるか)という部分に、自分の行動範囲の幅が左右される、ということになります。  ・・・うーん。それは会社選びにかかっているのでしょうけれど、この点は何十年も前からそういうことになっているでしょう。

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