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鎖国の通告

いわゆる“鎖国”をするということを幕府は事前に外国(中国、朝鮮その他)に伝えたのですか。 伝えたとすればどのようにして伝えたのですか。 例えば、1639年(寛永18年)ポルトガル船の来航を禁止しましたが、ポルトガルにはいつ、どのような方法で通告したのですか。 よろしくお願いします。

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  • hena-hena
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回答No.5

ポルトガルに対しては1639年9月、将軍の特使・太田備中守が長崎に下向し、主だったポルトガル人に対し「島原の乱では多くの日本人が死に被害も大きいので、今後はポルトガル人が日本に来るのを禁止し、もしこれに違反する時は死刑に処する」と日本からの追放を申し渡しました。 これに対しポルトガル人は「マカオは日本貿易で成り立っており、それの禁止は死活問題となるので布教と無関係な人の来航は許可して欲しい」と懇願しましたが、それは認められませんでした。 これを知ったマカオ政庁は翌年、貿易再開の嘆願書をルイス・バエス・バチェコら4人の使節の持たせ商品は一切載せずに日本に派遣し、7月6日に長崎に入港しました。 ところが使節を含めた76名は直ちに抑留され、江戸に報告が送られ幕府は処分実行の特使として野々山新兵衛を派遣、新兵衛は8月2日に長崎に着くと直ちにポルトガル人を呼び出し、幕府の処分を告げました。 処分は前年の宣告通り死刑でしたが、商品を持たず誓願のみの来航を考慮して安楽死(斬首)とされました。 76名のうち、クリスチャンであるポルトガル人61名が翌日に斬首となり、残りの黒人や原住民13人は処刑の事実を報告するために中国船・ジャンクで翌日マカオに送られ、これにより日本とポルトガルとの国交は絶たれたのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく解りました。 やはり、このような具体的な事例を知らないことには、「ポルトガル船来航禁止」と言ってもピンときません。 「太田備中守 ポルトガル」で検索すると詳しい論文を見つけることもできました。 ポルトガルについてはすっきりしました。 丁寧なご回答に感謝します。

その他の回答 (4)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.4

江戸幕府は、海外との貿易を統制し、キリスト教を禁止するという対外政策を進めました。 長崎をはじめ、薩摩・対馬・松前の「4つの窓口」を通して海外交流がおこなわれました。 だから鎖国というのは正確ではありません。 この「鎖国」という言葉ですが、1690年から2年間長崎出島に赴任した ドイツ人医師ケンペルが、著書『日本誌』のなかで、 「日本は国を閉ざした状態」と表現しました。 その著作のオランダ語版を、江戸後期の1801年、長崎通詞であった志筑忠雄が 「鎖国論」として和訳しました。 こうして江戸時代の日本は国を閉ざした「鎖国」だ、 という認識が江戸時代の後期に生まれ、 広まっていったのです。 このように、日本政府が正式に鎖国という言葉を使ったことは ありません。 だから伝えるようなことはしません。 また、中国や朝鮮とは貿易をしていました。 長崎には、唐人屋敷が設けられており、そこを通して 貿易をしていました。 朝鮮とは対馬藩が貿易の仲介をやっていました。 朝鮮の釜山には倭館が設けられ、500人の日本人が 朝鮮との交易の仕事をやっていました。 尚、将軍の代が変わると、朝鮮から通信使がきて挨拶 するのが習わしでした。 幕府が正式に交易をしていたのは朝鮮だけです。 ポルトガルなどへの通告は、妻子を追放し船長に 二度と来るな、という形で行っています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >ポルトガルなどへの通告は、妻子を追放し船長に二度と来るな、 >という形で行っています。 質問文が拙かったですが、私の知りたいのはこの一点です。 「妻子を追放し船長に二度と来るな」と言えば、当時のことですから、それで通告(命令と言った方がよいかも知れませんが)したことになると解釈しています。 妻子を追放した例、船長に二度と来るなと言った事例を知りたく、質問しました。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.3

 一つお話し申し上げますと、「鎖国」とは完全に海外との交渉を持たない孤立状態との意味ではありません。実際に「鎖国」状態の下でも海外との交易は行われていたことも知られています。  質問者の前提には現在の外交関係の様に条約の締結や批准そして貿易協定の取り交わしなどが働いているかと存じますが、少なくとも開国維新以前の状況に現代の形を適用するのはナンセンスな姿勢であるといわざるを得ません。簡単にいいますと、当時の貿易は長崎を除く、対馬・琉球・北方の各貿易相手毎に対馬藩・薩摩藩・松前藩が窓口になって行われた形です。  幕府も南蛮との貿易を当初から否定していた形ではありません。幕府が拒絶したのは「キリスト教および布教活動」であって海外との貿易そのものではありません。また一連の「鎖国令」をお読みになればわかりますが、主眼は「日本人の海外渡航を禁ずる」「海外居留する日本人の帰国を禁止する」ことであって、外国船舶(「がれうた」としてポルトガルの船舶を指す)の来航を禁じているのは寛永十六年令以外には覧られません。  こうした事象をお知りになりたければ、史料として「長崎実録大成」や永積洋子氏が翻訳にあたった『平戸オランダ商館の日記 第1-4輯』(岩波書店)および氏の『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(講談社学術文庫)をお読みになることをお勧めします。  また基本的な認識として、中国(清国)および朝鮮とは鎖国状態にはありませんので「いわゆる“鎖国”をするということを幕府は事前に外国(中国、朝鮮その他)に伝えたのか」との質問は成り立たないことを一言申し添えさせていただきます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 質問が粗雑でしたが、朱印船制度を廃止するとか、出島をつくるとか、明に対して何らかの通知をしたのでしょうか、という程度の質問です。 また、ポルトガル船の来航を禁じると決めても、実際に、ポルトガル船に伝えた例としてどのような例があるのか、という疑問です。 お勧めの本は、どちらか忘れましたが読んでいます。

回答No.2

鎖国という認識は幕府しかなかったようです 実際長崎の出島は開いていたし オランダ商館は日本が鎖国している という意識はしていなかった様です 当時日本と貿易していた外国は少なく 明(中国)は琉球(沖縄)と貿易し琉球から日本に色々入ってきていました なので間接貿易みたいな形になっていました ちなみにポルトガルには鎖国の通知はしていません 貿易形態が変わったのでよろしく と言った感じです 実際幕府の許可があればポルトガルも出島で貿易が可能でした 出島での貿易はオランダのみ許可 と言うのは幕府に申請せずに日本と貿易できる国 のことで 実際申請すれば イスパニア(スペイン)だろうとポルトガルだろうとエゲレス(イギリス)だろうと貿易は可能でした なので外国は日本が鎖国している という認識はありませんでした ペリーが開国を迫ったのは 開国ではなく 不便なので出島以外でも貿易できるようにしてちょ ということで 国を開け と言ったわけではありません

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4848/10262)
回答No.1

「いわゆる鎖国」なので、別に外国の中央政府には通告してないはず。 中国とも貿易してるし、朝鮮とは将軍の代替わりには使いが行き来するし。 >ポルトガルにはいつ、どのような方法で通告したのですか。 日本に来たポルトガル船に、入港できない旨を伝えた。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >日本に来たポルトガル船に、入港できない旨を伝えた。 私もそう思います。 質問文が拙かったですが、私の知りたいのはこの一点です。 入港できない旨を伝えた事例を知りたく、質問しました。

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