• 締切済み

不義理

兄弟無く育ってきた♂です 人間関係においての『義理』についての考え方を教えて下さい 人は一生の間に出会える人に限りがあります その中でいったい何人と関わり、かつ仲良くなれるか? そんな事を考えると出会いって大切にしたいなと思う今日この頃です 問題視するのは友人に友人を紹介したにも関わらず、それを有り難く思わない さも自らが築いたかのように振る舞い、挙げ句のはてには私を避けて村八分状態にする人間が理解出来ません 人間関係が希薄になっている気がします もう今の日本人に『義理』や『人情』は存在しないのでしょうか? 意見を聞きたいです ただし、ひねくれて解釈しての回答は遠慮します

みんなの回答

  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2314/7952)
回答No.4

A1です。 >ちなみに回答者さんには兄弟はいますか? >やはり、そういった人間関係は兄弟から学ぶ事も多いのではないでしょうか? 弟が一人いますが、10年以上会ってもいないし、どこでなにをしているのかも知りません。 親兄弟というのは血縁で結ばれている先天的依存関係の馴れ合いですので、義理と人情という話題に一番遠い関係だと思いますよ。 それを断ち切っているから的確で大切なのかもしれませんが。

noname#194795
質問者

お礼

回答ありがとうございます 兄弟がいたらいたで大変なんですね

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • qwe2010
  • ベストアンサー率19% (2142/10858)
回答No.3

義理人情は存在しなくなってきました。 とくに感じるのは、小泉政権以降です。 町内の店がつぶれていき、 経営者も自分の利益だけを考え、 政治は嘘の付放題、 年老いた親は他人任せ、 何もしないくせに、死んだときには財産を求め兄弟で喧嘩。 働くところもなくなり、生きていくのが精一杯。 義理人情、そんな余裕はありません。

noname#194795
質問者

お礼

回答ありがとうございます 世知辛い世の中になったものですね

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • troml
  • ベストアンサー率17% (561/3167)
回答No.2

人間関係を築く上で、義理や人情も大事ではあるけど、それ以上に重要なのが、他人を受け入れることだと私は思います。 あなたは、あなたが理解できない言動をする人間を否定しているわけですが、人にはそれぞれ自分の考えがあり、性格も感性も価値観も違いますから、理解できない人がいるのは当たり前です。 自分と違う考えの人を受け入れる、それができれば、他人に対して、無駄に腹を立てたりすることがなくなりますから、人間関係を築いていくのが簡単になりますよね。 それと、人には好き嫌いがあるし、相性というのもありますから、誰とでも親しくできるわけじゃありません。合わない人との人間関係はストレスにもなりますからね・・・。 好きじゃない人ともお義理で付き合う術を知っているっていうのは、日本人のとても賢い部分ではありますが、義理や人情を大事にするにしても、その人を好きでないと限界はありますから、関わらなくても困らない相手なら、縁を切るのもありなんじゃないですか。

noname#194795
質問者

お礼

回答ありがとうございます 深い話が聞けて良かったです 今後に活かして行きたいと思います

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2314/7952)
回答No.1

>ただし、ひねくれて解釈しての回答は遠慮します 自分の望まないものは拒否するとは、義理も人情もねえなw 出会いを大切にしたいなら、他人を批判しないことです。他人には他人の義と情があります。 理解する必要はありません。本当の理解なんてできないし、理解した気でいるのが一番理解できていない。 理解できないことを理解しないまま受け入れ尊重することです。 その包容力こそが、義理であり、人情であると思いますし、 自分の意見をはっきりいう事をよしとする風潮の現代の日本人に欠けている人間関係ではないかと思います。 欧米が自分の意見をはっきりいうのは、交渉のゲームであり、駆け引きが終われば相互を許容するようにできているため、 日本人のような意見が人格批判などに繋がりません。その点で、日本人の自己主張は未熟です。

noname#194795
質問者

お礼

回答ありがとうございます 日本人と欧米人とでは根本的に考え方が違うみたいですね 参考になりました

noname#194795
質問者

補足

的確な回答で非常に分りやすいです ちなみに回答者さんには兄弟はいますか? やはり、そういった人間関係は兄弟から学ぶ事も多いのではないでしょうか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 義理堅い、または人情に厚い人周りにいますか ?

    義理堅い人っていますよね、あの時にしてくれた恩が忘れられないからとか また、人情に厚いという人もいます。 実生活の中で人間関係が希薄になりつつ そんな中で、皆さんの周りに義理堅いまたは人情に厚い ! そのように感じる方はいますか ? つい先日この曲を見つけて聴いたので(笑) https://www.youtube.com/watch?v=BOaFWUsfLgs

  • 義理

    宜しくお願いします。 兄弟姉妹が結婚して、義理の兄弟姉妹になる人いますよね。 婚約者は結婚するから良いけれど、婚約者の兄弟姉妹はいきなり義理の兄弟姉妹になるわけで、婚約者も含めて義理の兄、義理の妹、義理の姉、義理の弟という関係ってどのような気持ちですか? 離婚しない限り義理の兄弟姉妹ですから距離を置きたいのか、大人の関係としての淡白な付き合いなのか? 必要以上に関わりたくないのか?

  • ひとは他人に甘えることができるか?

     (α) ひとは他人に《甘える》ことができるか?  (β) できれば それが《愛》と言えるか?  次にしたがって 用語を確認してください。土井健郎:『《甘え》の構造』に拠っています。  (γ) 親子だけは無条件に他人ではない。  (δ) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。  (ε) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。  (ζ) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずるか あるいはそれと何らかのかかわりを持つ場合と考えられる。  (η) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明する。   (η‐1) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。   (η‐2) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。   (η‐3) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。    (θ) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関係自体が重視される時は 義理として意識される。  (ι) つぎは(α)および(β)を判定するための説明文です。(第二章 《甘え》の世界)     親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく その    関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対して遠    慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。     親子以外の人間関係は それが親しむを増すにつれ遠慮が減じ 疎    遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも ずい    ぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という場合は     このような友人関係を指すのである。     要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。でき    れば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。    それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最も    望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。  

  • 義理の兄弟との付き合いかた

    世間一般的に、兄弟の結婚相手に当たる、義理の兄弟とは どのようにお付き合いしているものなのでしょうか? 実は、妹の結婚相手、そして私にとっては義理の弟に当たるのですが、正直、あまり仲がいいとは言えず、とても良好な関係を築いているとはいえまえん。 不仲の発端は、妹夫婦が入籍した日に、姉夫婦の家には 「義姉さん、これからもよろしくお願いします」との挨拶の電話があったのに、私のところには何も無かったことにまず腹が立ちました。 姉夫婦とは結婚前から泊まりに行くほど親睦もあり、私はほとんど面識もなかったのです、だからと言って、 何の挨拶もないとうのはどういうことでしょう。 そして極めつけに、結婚して一年後、夫婦で実家に帰ることがあり、私も丁度その日、実家に帰る用があったのですが、義理の弟は先に実家に着いていたのにもかかわらず、何の挨拶もなし・・・。 私の方も流石に頭にきて、何も言葉を交わさず、翌日、 実家に遊びにきた友人に彼のことを愚痴っていたのですが、まさか、それを彼が近くで聞いていたとは知らず、 ますます関係がこじれてしまいました。 それから3年、彼とは全く口を聞いてませんし、会ってもいません。 人間的には、悪い人間ではなく、人見知りが激しく、積極的に人間関係を築いていくタイプではないので、 気を利かせて話し掛けるのがすごく苦手なんだと思います。 妹とは、誕生日に電話がかかってきたり、時々電話で話したりと、悪くはないのですが、妹も、きっと彼とは仲良くして欲しいと思っているはずです。 長くなってしまいましたが、世間一般的に、義理の兄弟とは、どんな感じのお付き合いをしているものなのでしょうか?

  • ひとは他人に甘えることができるでしょうか?

     (α) ひとは他人に《甘える》ことができるか?  (β) できれば それが《愛》と言えるか?  次にしたがって 用語を確認してください。土井健郎:『《甘え》の構造』に拠っています。  (γ) 親子だけは無条件に他人ではない。  (δ) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。  (ε) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。  (ζ) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずるか あるいはそれと何らかのかかわりを持つ場合と考えられる。  (η) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明する。   (η‐1) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。   (η‐2) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。   (η‐3) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。    (θ) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関係自体が重視される時は 義理として意識される。  (ι) つぎは(α)および(β)を判定するための資料になるかと思われる説明文です。(第二章 《甘え》の世界)     親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく その    関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対して遠    慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。     親子以外の人間関係は それが親しむを増すにつれ遠慮が減じ 疎    遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも ずい    ぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という場合は     このような友人関係を指すのである。     要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。でき    れば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。    それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最も    望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。    (κ) たとえば 《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは アマエだと思うのですが どうでしょう。   これをキッカケとして 愛――スサノヲ市民の個人としての自治 および それにもとづく互いのまじわり(交通)の 好悪・愛憎をないまぜにした永続的な関係――が はぐくまれるか?  (λ) 他人どうしでしかない《無縁》なる関係における《甘え》は むしろ《愛》か?

  • 《あまえ》は ゴミクズでしかないか?

     アマエについて 再度問います。  まづ同じく再度 土井健郎:『《甘え》の構造』に拠って用語や議論〔の背景・土壌〕を確認します。  (あ) 親子だけは無条件に他人ではない。  (い) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。  (う) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。  (え) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずると見立てた場合だと考えられる。  (お) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明している。   ( a ) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。   ( b ) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。   ( c ) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。    (か) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関係自体が重視される時は 義理として意識される。  (き) つぎは さらにアマエの有効かどうかを判定するための資料になるかと思われる説明文です。(第二章 《甘え》の世界)     親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく そ    の関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対    して遠慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。     親子以外の人間関係は それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ     疎遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも     ずいぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という    場合は このような友人関係を指すのである。     要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。でき    れば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。    それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最    も望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。    (く) たとえば 《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは アマエであると見ることができるか?  (け) もしそうなら そのアマエをキッカケとして 愛――スサノヲ市民の個人としての自治 および それにもとづく互いのまじわり(交通)の 好悪・愛憎をないまぜにした共生の関係――が はぐくまれ得るか?  (こ) 他人どうしでしかない《無縁》なる関係においても アマエはあり得るか?  (さ) あり得るという志向性が 有効なアマエではないか?  (し) われわれは このアマエを棄てて来てしまったのではないか?  (す) ほかの世界では どうか?

  • 義理兄弟姉妹

    宜しくお願いします。 義理の兄弟や姉妹の相性や存在。 例えば、自分の兄弟姉妹が相手と結婚して、必然的に私たちと相手は義理の兄弟姉妹になりますね。 その相手と私たちの関係は必ずしも良好ではないと思いますが、悪くない付き合い、良い関係を築くにはどのようにすればいいですか? 兄弟姉妹になっても義理だから頻繁に会うのも相手の気に障りますね。 義理の兄弟姉妹もそうですが、私たちが育った環境や考え方が違うのは当然のこと。 教養の部分、または常識的に考えればどの程度の付き合いがいいですか? 例えば、直接会わなくても一年に一度の御歳暮を贈る程度なのか? なかには意気投合したかのように本当の兄弟姉妹のように頻繁に会ったり出かける人もいると思います。 相手が気に障るような存在を避けるため、或いは会いたくない人と思われないようにするためにはどれくらいの距離を置けばいいですか?

  • 義理家族との悩み…

    まず最初に…私22、旦那36です。 敷地内同居したばかりなのですが…。 人見知りのせいか、義理家族になかなか慣れません(;_;) 旦那と居る時は明るいしありのままの自分を出せるのですが、義理家族と居ると遠慮がちになるというか話もままなりません…。 旦那と結婚してから2年近く経ち、敷地内同居する前もたまに旦那の実家に行っていたのですが、その時から少しは話せるようになったのですが、いまいち進歩できていません。 私と旦那は年の差があり、義理兄弟が私より年上で気まずくてうまく話せません。 早く慣れたいのですが、旦那にありのままを出していいんだよと言われますが、いざ話するとなるとやっぱり遠慮がちになってしまいます。 お馬鹿キャラみたいな感じなので、旦那にありのままを出していいんだよと言われますがなかなかで…。 ありのままが出せないのはプライドが高いからじゃないのか!と言われてしまいました…。 (自分ではプライドが高いとは思ってません) どうすれば慣れるのでしょうか…? 自然とうまくいくようなものなのでしょうか? たくさんの回答お待ちしております。

  • 皆様方は、児童虐待する親達を、どう思いますか?我が子を殴ったり、蹴った

    皆様方は、児童虐待する親達を、どう思いますか?我が子を殴ったり、蹴ったり。挙げ句の果てに、自らの手で殺害する。この様な人達は、親と言うか人間では有りません。御意見をお聞かせ下さい。

  • 義理のきょうだいとのつきあいについて

    義妹(夫の弟の妻)は小さい頃から「かわいいね」といわれて育った感じで、 まわりの友人はみんな義妹をそうやってお姫様のように扱っています。 かわいがってもらうための本人の立ち回りもとても上手で、 義理の両親と話すときは「パパ」「ママ」と少し甘えた声を出したり、 夫に尽くしている自分をうまくアピールして、 いいお嫁さんだということを印象付けています。 自分に直接関係ない人に対してはえらく無関心というか冷淡ですが、 彼女に関わっている人たちにとっては多分、いい子、なんだろうと思います。 義弟の結婚当初は、同年代の女性・同じ家の嫁として、 親戚になった彼女と仲良くしたいとはりきっていたのですが、 自分から働きかけることもなく、こちらから働きかけても反応がなく、 私とお義母さんが話しているだけで機嫌が悪くなることが続き、 常に自分が中心でないと気にくわない人なんだと分かりました。 彼女も、ほかの人と違って自分を特別視しない私を、 忌々しく思っていると思います。 私は目上の人にはかしこまってしまうところがあり、 義理の両親にはずっと敬語です。もともと人見知りなこともあり、 他人行儀でとっつきにくい子だと思われているかもしれません。 一方義妹は、自分が私よりいい人だということをさりげなく、 義理の両親にとびっきりの笑顔でうまくアピールします。 私はあまりそういうことが得意ではないので、彼女の器用さがうらやましいです。 義理の両親は義妹を単純に、かわいい嫁、と思っているようなので、 それによって義理の両親の関心がまた義妹たちのほうへ向いてしまうと思うと、 寂しく悲しく、自分の努力がむなしいです。 親戚といえども、合わない人とは無理につきあうことはないでしょうか。 義理のきょうだいとのつきあいについて、お聞きしたいです。 よろしくお願いします。