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維新政府=攘夷?

mekuriyaの回答

  • mekuriya
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回答No.5

違います。明治維新でそのような言葉が使われたという事実はありません。誰も攘夷を名乗ったわけでも呼称したわけでもありません。そのような事実は全くありません。 デジタル馬鹿の現代歴史家が勝手に塗り絵をして、そう呼んでいるだけです。 そもそも幕府だって尊王だったのです。大政委任論です。幕府は朝廷から統治権を委任されているという理論です。デジタル馬鹿の現代歴史家は、そうした歴史的事実を全く無視して、あたかも朝廷と幕府が対立していたかのような出鱈目な洗脳を無知蒙昧な子羊たちに及ぼしている。余りにも酷すぎます。 朝廷から預かっていた統治権を、朝廷に返すべきだ、いやまだ返さないという意見の対立があっただけでどちらも尊王であったに違いないのです。 そもそも将軍である徳川慶喜が大政奉還を有力な大名に諮って実施しました。徳川慶喜はそのタイミングを計っていただけで、長州征伐の失敗から幕府の限界を悟っていました。じゃ徳川慶喜は尊王攘夷なのか、そうでないのか。そんな色分けをしても無意味です。歴史は塗り絵じゃないんです。 じゃ徳川慶喜は佐幕派なのか討幕派なのか。くだらない無意味な議論です。当時の人物は現代人の頭のレベルに合わせて綱引きをしていたわけではない。 欧米列強の脅威を目の当たりにして、これからの日本はどうあるべきなのか。そういうさまざまな議論があったのです。 幕府内部の開国派の幕閣もいたし、攘夷派の幕閣もいたのです。誰が実権を握るかによって、幕府の政策は開国にもなったし攘夷にもなった。200年以上、徳川幕府は「二度と戦国時代に戻さない」という至上命題の元、大名統制、治安回復に努めてきた。しかし幕末に日本近海に異国船が出没し、もう国内統制だけでは問題を解決できなくなった。異国人には朝廷の権威も幕府の権力も通用しないからです。たとえ水戸黄門が印籠を振りかざしたところで異国人には効き目がありません。前例踏襲主義が通用しない時代になったのです。 江戸時代初期は、スペイン・ポルトガルはもう来なくていいと断れば、彼らはすごすごと撤退してくれた。しかし欧米で産業革命が起きて蒸気船の軍艦が日本を及ぼす時代になると、彼らはすんなりとひきさがってくれなくなった。酒屋の御用聞きが、暴力団の若頭に代わったようなものです。 ただし、幕府はそうした海外情報を独占して諸大名と共有しようとしなかったから、かならずしも同時期に武士が同じ時代認識を持っていたわけではない。まだ時代が変わったことを知らない武士も大勢いたということです。 そういう国際情勢に対する認識の相違が、開国か攘夷かという対立になった。その対立が変わったのが下関戦争、薩英戦争での長州藩・薩摩藩の敗北です。西南雄藩といわれ先進的な大藩と思われていた長州・薩摩があのざまでは攘夷なんて到底不可能だという認識を全国で共有することができた。今まで攘夷を叫んでいた人も開国支持に転じたといったことです。幕藩体制で、薩長が腕試ししてくれたお陰で安い勉強代で済んだといったことです。 ちなみに清はアヘン戦争・アロー戦争・清仏戦争・日清戦争と連戦連敗だったにもかかわらず、もはや中華思想の通じる時代じゃないという認識を持てないまま義和団事件で西太后が欧米列強に宣戦布告してしまいます。 攘夷という思想はそもそも無菌室の日本列島に病原菌を運ぶ異国人を入れさせないという思想です。これは決して差別ではありません。実際にアメリカ人宣教師に無警戒だったハワイ王国は、原住民が抗体を持たない天然痘を持ち込まれて、人口が激減し、ついに国を亡くしてしまいました。実際、幕末にコレラが異国人から持ち込まれて流行しました。今まで見たこともない伝染病は人々を恐怖のどん底に叩き込んだ。しかしそれが大流行にまでは至らず、人口が激減せずに済んだのは、蘭学者がオランダの医学に学んで流行病を拡大させない施策を知っていて、それを実施できたからです。 欧米は病原菌の巣みたいなもので西洋では古代から何度もペストの大流行で人口が激減していました。中世はそれはユダヤ人のせいだと思われたりしましたが、19世紀になってさすがに御馬鹿な西洋人もそんな原因じゃないことに気づきました。そうした西洋医学・西洋疫学を学んだ成果で日本は被害を極小化することに成功しました。徳川幕府が長い間、鎖国を続けたのは日本に無い、ウイルス・細菌を海外から持ち込まれるのを恐れたからです。徳川幕府が主要街道に関所を設けたのは、伝染病の感染者がふらうらと出歩いて、病気を広めさせない為だったのです。 長州藩・薩摩藩が下関戦争、薩英戦争に及んでいたのは、攘夷と看板だけは掲げるが、優柔不断でさっぱり実力行使に及ぼうとしない弱腰の幕府に代わって天下に実力をアピールするつもりだったからです。 要は朝廷に対して、もう頼りない幕府に大政を委任する時代じゃありませんよ。これからは頼りになる薩長におまかせあれと訴えたい為の実績作りが下関戦争、薩英戦争だった。ところが結果は薩長のボロ負け。 そうして、誰もが現実を知り、攘夷の無理を悟ることができたのです。 歴史とは歴史家が捏造した記号の解釈学ではありません。

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