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維新政府=攘夷?

shirokuro1533の回答

回答No.4

ご指摘の”維新政府”を”新政府”に置き換えるとわかりやすいのかもしれませんね。 御承知かとは思いますが、維新史料編纂会とよばれる組織があります(東京大学史料編纂所に吸収※1942年) 同組織は明治44年(1911年)維新の元勲らによる彰明会を改組し発展させて出来上がる、明治維新とは何だったのか?といった問題を研究する組織です。 この組織の顔触れは井上馨(後に金子堅太郎)を総裁に、元老・旧幕府・諸藩の代表を持って構成され発足します。当初より同組織の設置に関しては「薩長の喧伝である」との批判もあるのですが、維新史料編纂事務局を中心に、昭和6年(1931年)稿本4180冊を脱稿し、別に『概観維新史』『維新史』も上程されるのですが、特に『概観維新史』には、新政府が方向転換をして攘夷の方向性を変えてゆく場面が指摘されています。特に注意すべきは岩倉具視を中心として、なかば強引に方向転換をしてゆくという事です。 「初め王政復古大号令が煥発せられるや、参与岩倉具視は、朝議において欧米諸国と和親交際すべしとの論を唱え、従来鎖港攘夷に慣れてきた朝臣の多数を一驚せしめたが、ついに廟議は勅使を外国公使の許に派遣して、大政帰一の顛末を通告することに決し、宸裁を經るに至った。」 といった経緯です。もうお分かりでしょう。王政復古大号令までは、新政府を作る人々は間違いなく攘夷を標榜していたのですね。そして、この外交の方針転換について朝臣の多数は驚いたんです。 幕末から明治維新といった移り変わりの中で、様々な時代の転換点はあるのですが、王政復古大号令はもちろん時代の画期にあたります。 その様な中”明治維新の結果”としての王政復古大号令と位置づけるのであれば、薩長を主体とした新政府は、新しい時代に入ったとたん、新しい外交政策を打ち出すのです。ですから例え新政府が出来上がった瞬間に方向転換をしたにせよ、明治維新といった変革期には攘夷を標榜していたわけですから、倒幕を含めた、彼ら新政府を作る人々の行動は、やはり尊王攘夷といった思想のもと、明治維新という変革を成し遂げる。といった具合にも評価できるとは思いますが。

edobakuhu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 しっくりきました。

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