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石橋湛山の「靖国神社廃止の議」
石橋湛山は、昭和20年10月27日号の東洋経済新報で、「靖国神社廃止の議-難きを忍んで敢て提言す-」を発表しています。 この記事に対する「発表直後の反響」を教えてください。 ○○がこのような理由で「理解を示した」とか、「反論した」とか…。 靖国神社に対する敗戦直後の各方面の考え方を知りたいと思っています。 よろしくお願いします。 「靖国神社廃止の議」は、例えば、このサイトで読むことができます。 「社会科学者の時評」 http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=3228564
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- mekuriya
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以下の文を英訳していただきたいです...長文で訳しづらいところも多々あるのですがよろしくお願いいたします。 皆さんこんにちは。私はこれから、私が尊敬する一人の人物について紹介したいと思います。彼の名は「第55代内閣総理大臣 石橋湛山(タンザン)」です。彼のことを知っている人はいますか?(おそらくいない) …OK。それでは彼がどんな人物なのか紹介したいと思います。 石橋湛山は日本のジャーナリストであり、政治家でもあります。1884年東京都に生まれます。 中学生時代(1895年)、北海道大学の前身である札幌農学校の第一期生として、クラーク博士の教えを受けた校長・大島正健(マサタケ)との出会いは、湛山の人生観に大きな影響を与えます。湛山は大島からクラーク博士による「全人教育」を教わります。「全人教育(英語)」とは日本語で言う「全人教育(日本語)」です。「全人教育」とは「人間は頭の良さだけでなく、道徳的にも優れていなければならない」という教育です。湛山はこの「全人教育」に大きく影響を受けます。 その後、1907年に早稲田大学文学部を首席で卒業します。1911年、東洋経済新報社に入社して、ジャーナリストとなった彼は当時の日本の政治を痛烈に批判します。当時は帝国主義の時代で、政府を批判することはとても勇気のいる行動でした。ジャーナリストは皆、政府を恐れて批判することができませんでした。しかし湛山は違いました。なぜなら彼には日本を大国にしたいという夢があったからです。軍事大国?違います。経済大国?違います。そう、道徳大国です。彼には日本を世界の平和の象徴にしたいという夢があったのです。その夢をかなえるべく、彼は政治家の道へ進みます。 1946年、湛山は衆議院議員総選挙に立候補し、5月に第1次吉田内閣の大蔵大臣に就任します。そして1956年12月内閣総理大臣に就任します。彼は夢への一歩を踏み出しました。日本全体が敗戦直後で暗い雰囲気の中、彼は「道徳大国としての日本の未来は明るくひらけている。これこそ日本の歩むべき道である。」と述べました。 その後、1959年、当時関係が最悪だった中国に訪問し、日中国交正常化を果たします。しかし、日本を「道徳大国」へ導き始めた矢先、彼は病気を患い総理を辞任してしまいます。 そして1973年湛山は亡くなりました。夢の実現までもう少しのところでした。 今の日本に彼のような政治家はいるのでしょうか。批判を恐れない。高い志。こんなことをしている場合ではないのかもしれません(野々村議員の写真を見せながら。皮肉っぽく)。湛山が目指した「道徳大国」になるために私たちは何ができるのでしょうか。今こそ日本が再び「道徳大国」へ歩みだす時なのかもしれません。 ご清聴ありがとうございました。
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ご回答ありがとうございます。 私もそう思ってました。 喰うことに精いっぱいな時代でしたからね。