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関ヶ原の戦いの先陣について
oskaの回答
>はたしてどんな感じだったのでしょうか? ウイキの情報は、色んな情報が混ざっていますよね。 誰もが納得する情報があれば、おや?と思う情報もあります。 まぁ、歴史というものは「勝者・時の権力者の歴史」に過ぎません。 元関が原町長だった、藤井治冴左衛門さんが集めた資料集によれば若干異なりますね。 1.会津征伐に向かっていた家康軍が、清洲城に引き返す時の軍「東海道軍」先鋒は福島正則。 2.関が原での陣形。 2-1.左翼縦隊。第一陣福島正則。第二陣藤堂高虎・京極高知。第三陣・・・。 2-2.右翼縦隊。第一陣黒田長政・竹中重門。第二陣細川忠興・加藤嘉明・田中吉政。 2-3.中堅。松平忠吉・井伊直正。 2-4.後続部隊。筒井定次・生駒一正・金森長近・織田有楽・・・。 2-5.家康本隊。軍監本田忠勝。 実は、福島正則が関が原でも先陣との記述はありません。 左右両縦隊は、全て豊臣恩顧の武将ですよね。中堅と本隊が、徳川軍の親衛隊です。 関が原の戦いが始まったのは、午前8時頃。 本田忠勝は、使者を中堅の忠吉・直正の陣に馳せて「すみやかに開戦すべし」と命令を伝えています。 つまり、先陣です。 直正は、忠吉に「前進を進言」して正面に陣取る宇喜田陣営攻撃に向かいます。 決して、福島隊を出し抜いた訳ではありません。家康の命令に従っただけです。 家康としては、忠吉の戦果を期待したのでしようかね? が、享年27歳で死亡。2ヵ月後には、兄の秀康も死去。漁夫の利を得たのは、秀忠?との説もあります。 この説では、忠吉・秀康は「秀忠に暗殺された」という事になりますね。^^; 秀忠としては、合戦に遅れた事が大きなマイナスになっていますから・・・。 では、何故「可児吉長が、忠吉・直正軍の宇喜田攻撃をやめさせたのか?」が疑問ですよね。 昔聞いた事があるのですが「豊臣恩顧の武将同士で戦わせる計画」があった様です。 宇喜田・福島双方が共倒れになれば、家康にとって一石ニ鳥です。 この説が正しいなら、(事前に家康の戦法を知っていた)直正も宇喜田攻撃を福島隊に譲った事で理解できますね。
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- もし、関が原で西軍が勝利してたら?
東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名) 徳川家康 ○ 255.0 西軍 毛利輝元 120.5 前田利長 83.0 上杉景勝 120.0 伊達政宗 58.0 島津義久 73.0 加藤清正 24.5 宇喜多秀家 ○ 57.4 福島正則 ○ 20.0 佐竹義宣 56.0 細川忠興 ○ 18.0 石田三成 ○ 19.4 浅野幸長 ○ 16.0 小西行長 ○ 20.0 池田輝政 ○ 15.2 増田長盛 20.0 黒田長政 ○ 18.0 小川祐忠 ● 7.0 加藤嘉明 ○ 10.0 大谷吉継 ○ 5.0 田中吉政 ○ 10.0 脇坂安治 ● 3.3 藤堂高虎 ○ 8.0 安国寺恵瓊 ○ 6.0 最上義光 24.0 小早川秀秋● 35.7 山内一豊 ○ 6.9 織田秀信 13.5 蜂須賀至鎮 17.7 長宗我部盛親 ○ 22.0 本多忠勝 ○ 10.0 朽木元綱 ● 1.0 寺沢広高 ○ 8.0 赤座直保 ● 2.0 生駒一正 ○ 15.0 吉川広家 ● 14.2 井伊直政 ○ 12.0 長束正家 5.0 松平忠吉 ○ 10.0 毛利秀元 ○ 20.0 筒井定次 ○ 20.0 戸田勝成 ○ 1.0 京極高知 ○ 10.0 真田昌幸 3.8 本多忠勝・井伊直政・松平忠吉の所領は徳川家康の、毛利秀元・吉川広家の所領は毛利輝元の領地に含まれます。 あなたが、輝元あるいは三成、もしくは西軍サイドで勝利したあとの処断・処遇を任せられたとしたら・・ どういった裁きをしますか? 歴史に詳しい方や、自分だったらこういう処断・処遇にするといった考えの方など、様々な回答をお待ちしてます!
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