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関ヶ原の戦いの先陣について
あずき なな(@azuki-7)の回答
- あずき なな(@azuki-7)
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家康は先陣の約束などしていませんよ? 自分は総大将なので当然動かず 秀忠が遅参することは開戦前には家康に知らされてて当然 家康はこちらから仕掛けるのではなく石田方から来るのを待った 前線の黒田長政には鉄砲隊があるので西軍の宇喜田秀家に懐に突っ込ませれば鉄砲で狙い撃ちできると考えていたから ところが功をあせった福島正則が先駆けしあわてて松平忠吉が追いかける 福島はかつての先陣のように一番槍の手柄がほしかったんだろうな… 結果は先の回答で述べたとおり 島左近に返り討ちにされてしまう… それから前の回答者が忠吉と忠輝は松平家に養子にと書いてるが これは間違い 家康の息子は結城家に養子に行った秀康以外は全員松平姓を名乗らせている 後の秀忠でさえ 公式にはこのころ松平姓を名乗っている(のちに将軍になることから一般的に徳川で表記しているが このころは後継者ではなかったので松平秀忠と名乗ってた) 徳川を名乗る息子は切腹した長男信康とのちに御三家となる義直 頼宣 頼房 まぁ御三家の時代には秀忠も将軍で徳川姓ですが 笑
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東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名) 徳川家康 ○ 255.0 西軍 毛利輝元 120.5 前田利長 83.0 上杉景勝 120.0 伊達政宗 58.0 島津義久 73.0 加藤清正 24.5 宇喜多秀家 ○ 57.4 福島正則 ○ 20.0 佐竹義宣 56.0 細川忠興 ○ 18.0 石田三成 ○ 19.4 浅野幸長 ○ 16.0 小西行長 ○ 20.0 池田輝政 ○ 15.2 増田長盛 20.0 黒田長政 ○ 18.0 小川祐忠 ● 7.0 加藤嘉明 ○ 10.0 大谷吉継 ○ 5.0 田中吉政 ○ 10.0 脇坂安治 ● 3.3 藤堂高虎 ○ 8.0 安国寺恵瓊 ○ 6.0 最上義光 24.0 小早川秀秋● 35.7 山内一豊 ○ 6.9 織田秀信 13.5 蜂須賀至鎮 17.7 長宗我部盛親 ○ 22.0 本多忠勝 ○ 10.0 朽木元綱 ● 1.0 寺沢広高 ○ 8.0 赤座直保 ● 2.0 生駒一正 ○ 15.0 吉川広家 ● 14.2 井伊直政 ○ 12.0 長束正家 5.0 松平忠吉 ○ 10.0 毛利秀元 ○ 20.0 筒井定次 ○ 20.0 戸田勝成 ○ 1.0 京極高知 ○ 10.0 真田昌幸 3.8 本多忠勝・井伊直政・松平忠吉の所領は徳川家康の、毛利秀元・吉川広家の所領は毛利輝元の領地に含まれます。 あなたが、輝元あるいは三成、もしくは西軍サイドで勝利したあとの処断・処遇を任せられたとしたら・・ どういった裁きをしますか? 歴史に詳しい方や、自分だったらこういう処断・処遇にするといった考えの方など、様々な回答をお待ちしてます!
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お礼
なるほど。わかりやすい回答ありがとうございました。 関ヶ原は戦国の最末期の頃の出来事ですし、そのような戦国が終わりを告げる雰囲気って同時代にあったのかもしれませんね。 そのような中、腕に覚えのある猛者は、自慢の辣腕をふるえる数少ないチャンスである関ヶ原にかける思いもあったのかもしれません。 そして豊臣政権内での武断派・文治派の対立に加えて、徐々に猛者を必要としなくなってきた時代に対する焦りなども、福島正則の中にはあったのかもしれませんね。 また松平姓についてのご教授ありがとうございました。 確かに秀忠は大事な合戦に遅刻するわ、後世に生きる僕にもちょっと武将らしい働きがすぐに想像できないので、当初から内政向きの人物だったのでしょうね。 だからこそ、家康は迷うことなく後継に秀忠を据えたのかもしれませんね。 いつもありがとうございます。文面から「歴史が本当に好きなんだな…」と想像でき、読んでいるだけで楽しくなりますし、勉強にもなります<m(__)m>