• 締切済み

岐阜の名前は、信長が命名したにもかかわらず

岐阜の名前は、信長が命名したにもかかわらず、岐阜市役所は、信長ではないと歴史を捏造しています。尾張藩の植民地だったからでしょうか???????????? もともと岐阜なら、信長が岐阜と改名する必要はないはず。江戸時代以降の捏造された室町時代の資料と称するモノにだまされないように。井ノ口の別名に岐阜があったという文献はない。岐阜市役所と郷土史家の捏造。

noname#157998
noname#157998
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数0

みんなの回答

  • at9_am
  • ベストアンサー率40% (1540/3760)
回答No.2

> 岐阜市役所は、信長ではないと歴史を捏造しています。 信長が岐阜を命名したというのは岐阜市編纂の岐阜市史に記載されているが、それ以前からあったという異説は、本文としては記載されていない。 美濃国諸旧記に 「永正の頃迄の旧記に、岐阜・今泉・桑田・中節・井ノ口といひけるを、信長公ご入場の後、(略)中節・井ノ口・今泉・桑田を合わせて岐阜とさだめらるる」 とあるように、元々呼ばれていたという説も存在する。 因みに、永正年間には、信長の父信秀が生まれている。 > もともと岐阜なら、信長が岐阜と改名する必要はないはず。 と言っているが、いくつかの町をまとめて一つの町にする際、以前からあった名前の一つを付けるのは、平成の大合併でもよくみられた現象である。 例えば豊川市は2008年にいくつかの町と合併して豊川市となった。合併後に豊川市と名付けられたからといって、それ以前にそう呼ばれていなかったというのは事実に反している。 さて。 豊橋だけではなく岐阜も攻撃し始めたようですが、矛先が色々と拡大するのは、病気が重くなって行っている場合によく見られる現象の一つです。 お見舞い申し上げます。

  • Verhalten
  • ベストアンサー率17% (36/201)
回答No.1

信長が岐阜と言う言葉を作成したとは信長公記に記載がありません。 >もともと岐阜なら、信長が岐阜と改名する必要はないはず。 失礼ですが、 この考査が相当浅はかなのです。(いつもです。) 土岐氏を考えれば「岐府、岐陽、岐山、岐下」これらは全て説明が付きます。 むしろ、 一番酷い捏造を繰り返しているのは質問者です。 信長公記に記載が無いから捏造で 宝永6年だから捏造で

関連するQ&A

  • 鷹狩りを好んだ武将を教えてください。(戦国、江戸時代)

    鷹狩りを好んだ武将を教えてください。(戦国、江戸時代) 織田信長が鷹狩りを好んだのは知られていますが、 他に鷹狩りをよく行った武将は誰でしょうか。 あと尾張藩で鷹狩りを行った藩主はいますか? 近所に尾張藩の鷹場があったそうなので気になります。

  • 信長が生涯最も輝いていた時期は?

    戦国時代最大の英雄は当然、織田信長だと思います。信長の49年の生涯で質実ともに最も充実していた時期は何時だとおもいますか?1)尾張統一戦(家督相続~桶狭間まで)、2)上洛戦(美濃経略~上洛まで)、3)江濃越戦争(元亀年間)、4)天下布武戦(室町幕府滅亡~長篠の役まで)、5)天下統一戦(安土築城~本能寺の変まで)。勝手に信長の生涯を五分割させて頂きました。

  • 何で幕府は首都ではないのか?

    日本の都は東京遷都されるまでは 朝廷がある都(京都の平安京、それ以前に平城京や長岡京など)ですが 実質の政権は朝廷ではなく幕府ですよね 鎌倉時代は鎌倉幕府で鎌倉、江戸時代は江戸幕府で江戸 (室町時代は室町幕府で京都ですけど) 室町幕府が織田信長に滅ぼされて信長が天下を握っていた安土桃山時代は桃山城で安土ではないですか? なぜ平安京以後は明治時代になるまで1000年以上首都は京都なのですか?

  • 「桑名」について

    「戦国時代の暮らし図鑑」という本に、「戦国時代の要所」というのが紹介されていて、、そのうちの1か所に「桑名」が挙げられているのですが、その「桑名」の説明に「十楽の津といわれ、自由に交易がされた都市」とありました。 (質問1) 説明にある「十楽」というのは、何か意味なり、由来があるのでしょうか???それとも単に、「桑名」の別名なのでしょうか??? 「桑名」が、尾張藩に属するのか、現在の三重県のほうの藩に属するのか知りませんが、名古屋の尾張藩というのは、家康が江戸防衛の重要な拠点として御三家の一つを配置した要所だと思うのですが、現在の三重県のほうの藩が、私の記憶が間違っていなければ、「外様大名」が配置されていたように記憶しています。……なんの本で見たのか探し出せませんでしたが……私の記憶違いだったのか。 (質問2) その時、なんでこんな要所に「外様大名」を配置したのだろうか???ということが気にかかっていました。この疑問に何か説明がつくでしょうか???それとも、単なる偶然の配置だったのか???

  • 今川義元、伊達政宗、大谷刑部は、過大評価だろ?

    伊達政宗は、仙台藩による代々のマンセーで、相当美化捏造されている。250万石は、幕末の話で、政宗時代ではない。なんでも、政宗時代から始まると捏造されている。仙台市の七夕は政宗時代からという捏造など、今でも自治体に受け継がれている。

  • 領地に飛び地がある理由

    江戸時代の大名や旗本の領地にはしばしば飛び地があります。 内陸の藩が最寄の海沿いに飛び地を持つのは運輸・交通のためでしょうが、中にはずい分遠くに飛び地があることもあります。 私の住む岡山県内には古河藩(現・茨城県内)、挙母藩(愛知県内)、亀山藩(京都府内)などずい分遠くからの飛び地がありました。 また当地の浅尾藩は現・豊中市内や神戸市内などに、岡田藩は岐阜県内に飛び地を持っていました。 このように遠隔地に飛び地を持つのは特別な理由があったのでしょうか? 単に知行高を合わせるためですか、それとも戦などの時に補給地などとして使うといった目的があったのでしょうか?

  • 江戸時代の関所には関銭はありましたか?

    室町時代の関所には関銭を徴収するという習慣がありましたが、それは信長・秀吉の時代に廃止されたというのは歴史の本などにありました。 江戸時代の関所は「入り鉄砲」「出女」の取り締まりのための関所で通行手形がある人が通れたというようなことかと思いますが、そこでは「関銭」「VISA発行料」のようなものがあったのでしょうか?

  • 律令の国の境の変更

    江戸時代に国の境が変更されてます。 東京の両国橋は武蔵と下総の境だったが江戸時代に両岸とも武蔵になりました。 岐阜羽島は昔は尾張だったが江戸時代に美濃になりました。 このような国の境の変更は誰が決裁したのですか。 幕府か朝廷か。江戸時代、政権は幕府だが、朝廷は年号決めたり、叙位叙官は朝廷でした。 国の境の変更は朝廷ですか、幕府ですか。

  • 信長と秀吉、家康、恐ろしいのはどっちでしょうか。

    例えば、信長は自分の弟を殺していますが、 謝罪を断ったために殺したとの新事実があります。 弟の見方であった柴田勝家を許して自分の部下にしています。 また、岐阜県と滋賀県の間に山中の猿と呼ばれている身障者を助けたというエピソードがあります。 信長を裏切った者の中には、室町幕府の第15代将軍の足利義昭もいるが、義昭が兵を挙げたときなども、信長は最初から踏み潰そうとせずに、交渉で和睦をもちかけている。一度は和平が成立したものの、義昭がまたもや挙兵したため、信長も対処せざるをえなかったです。 そのほか、 松永久秀が謀叛したときも、怒り狂って討伐せよと叫ぶのではなく「どのような事情があるのか。存分に思うところを申せば、望みを叶えてやろう」と信長は交渉を提案しています。 信長は妹のお市の夫・浅井長政が寝返ったときでさえ、容易に信じようとしなかった。「妹を嫁がせているし、江北の支配も任せてあるのに、何が不満なのか」と驚くばかりだったようだ。謀叛の情報がしきりに入ってきて、やっと信用したという有様でした。 さらには摂津の荒木村重が「謀叛心を抱いている」との報があちこちから入っても、信長は事実ではないと思い、明智光秀等を荒木のもとに遣わしているのだ。「何か不満でもあるのだろう。思うところがあるなら、聞いてやろう」と信長は言っていたようなので、物分かりのよい優しい上司のようにも思えます。 荒木村重の一族は皆殺しになるのだが、それも、不憫な思いを抱きつつも処刑したということがわかってきています。 一族皆殺しということ自体が当時としては当たり前、 家康が信長側についた時も、妻子や、妻の両親は今川方に残り、 妻の両親は殺されました。 つまり、荒木村重の件はあの当時としては決して珍しいことではないのです。 第六点魔王という言葉も、武田信玄と書状で喧嘩した際に、発出したということがわかっております。 むしろ個人的には、秀吉の秀次の一族皆殺しの件及び、 九戸城の戦いによる、惨殺事件のほうが残酷です。 九戸政実に和睦を持ちかけといて、全員処刑ですからね。 信長でしたら、あれは、本当に許していますよ。 家康は何をやったかはわかりません。 残酷無慈悲な順にあげてみてください。

  • 稲荷寿司は、尾張名古屋発祥

    稲荷寿司は、尾張名古屋発祥と、幕末の文献にあるのに、豊川稲荷自体も否定しているのに、豊川市役所が、稲荷寿司発祥の地は豊川稲荷門前町の山彦と捏造して、WIKIPEDIAにも掲載。 なぜ、史実を捏造するのでしょうか?