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神は自ら悪人を創っておいて地獄に落とすのか?

人間の死後、悪人は地獄に落ちるとすれば、 神がその悪人を創っておいてあまりにも酷くないですか? 悪行というのは人の弱い心がまねくものだと思う。 その弱い心をもつ人間を創ったのも神であり、神がその気に なれば善人ばかりの世の中を創る事も当然可能であろう。 小説「沈黙」でキチジローが役人に脅されて、宣教師のロドリゴを 裏切る場面があるが、キチジローも同じようなことを言っていた。 弱い人間、悪人をつくったのも神だ。 神は自らそれらを創っておいて、後で地獄に落とすようなまねを するほど残酷なものなのか? と、いう事で僕の結論としては、「やはり神はいない。」 ちなみに、小説「沈黙」は史実に基づている、といわれてはいるが、 一番肝心なところは、史実とは違い、キリスト教を美化した作品です。

みんなの回答

  • hhituji
  • ベストアンサー率30% (15/49)
回答No.21

今、科学の世界で「意識」に関する研究が進んでいます。 が、いまだに「意識」の定義すら科学はすることができません。 高性能のコンピュータを何百台もつなぐと、そこに「意識」は発生するのでしょうか? 直感的には「No」でしょうね。 神が作ったのは、「魂」、「精神」などとよく言われますが、それはおそらく 科学でいう「意識」というものなのでしょうね。 そして、その「意識」の重要な特性の一つが 「外部からそれを変えることができない」という自己決定能力にあると思われます。 ナチス強制収容所を生き延びたV.E.フランクルの有名な発見の一つに、人間はどんな運命に対して も「自由意志」を持つというものがあります。つまり、人間の体の自由は奪える、その痛みや 運命も従わせることができる。しかし、それに対して人間がどう感じ、どう考えるかの自由だけは 誰にも奪えないのです。つまり、強制収容所においてでさえ、そこで人格的にきわめて高潔に ふるまう人間がいて、それを看守や劣悪な環境は変えることはできなかったのです。 神が作ったのは、「よい人間、悪い人間」ではないと思います。神が作ったのは「意識」なのだと 思います。神が、自由意志を持つ存在を創造したとき、神はその意識に「自己決定権」があり、神の 望むとおりにふるまわないことも覚悟していたのでしょう。 ですから、さらにこういえます。 「自ら進んで、神を認めない境遇に行きたがる人に対して、神はそれを変えることができない。」 神はすべての人間を救いたいのだと思います。しかし、神に従うことを拒否する人間に神が助けを 差し伸べても結局うまくはいかないでしょう。それは放蕩息子を持った親なら容易に想像できると思います。 地獄とは、神が刑罰を与える場所ではないと思います。そこは、その人たちが自ら望んで 入る場所だと思います。 これは、私が間違っているかもしれませんが、キチジローのような人間が地獄に行くかどうかは わからないと思います。むしろ、その罪をはっきり認めて、悔い改めた人生を送れば必ず神は 許してくれると思います。 神が「善しか」行わない人間を作ったとき、果たしてその行動は善といえるのでしょうか? 人間は「善と悪を選択することができる」存在であるがゆえに、善をおこなったときそれに 意味があるのだと思います。 そして、それはわたしたちに任されています。

  • pantomana
  • ベストアンサー率10% (1/10)
回答No.20

"悪行と言うのは人間の弱い心が招くものだと思う"。 正にその通りですね。その弱い心を強めて悪行を犯さない支えとなるのが神の真理(神の目的、御意志)の言葉です。 現在(アダムとエバが創造された少し後から)は、神の創造の第7日目で聖なる日の創造が成されている時です。 悪行に手を染めたエバは、悪魔に唆されましたが、アダムは騙されなかった、つまりアダムは自らの意志で悪行を犯したのです。 アダムは、「神が妻として与えてくれた女が勧めたので食べた」と言い訳しました。 これは、「私は、神に仕えている者です」。「私は、神の預言者です」。「私は、神が地上で用いている正当なキリスト教組織です」。と言っても、神の御意志(聖書)と不一致の部分が有れば従ってはならないと思います。(列王記第1ー13:1.~34.)。 従って、人は悪行に走るか、とどまるかは、神の御意志をどれ程理解し信頼しているかに掛かっていると思います。 そして、神が今創造している新しい天地は、悪を憎み、肉的命を掛けても神の平和を愛する者たちを天の王国に集め入れる業が成されている最中と言えます。

noname#155901
noname#155901
回答No.19

神がいないと断定できるものではありませんよ。おそらく「神はいるかどうかわからないがおそらくいないだろう」が原理的表現では限界だと思いますよ。全ての宇宙からミクロの世界次元の違う世界をご自身が確認しましたか?してないでしょ?じゃあ「いるかどうかわからない」一番正確な解答であり「やはり神はいない。」というのはご自身の妄想に過ぎないんですよ。神の定義にもよると思うのですが私はおそらく宇宙人が神なんじゃないかなーと思うんですよ?どうかな?

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.18

>なれば善人ばかりの世の中を創る事も当然可能であろう。 可能であるが何故かやらなかった。 堕罪後や、ノアの洪水のときに人類を全滅させ無原罪の人類を 新しく作ることも出来たと思いますが、神の考えることは 人間には理解出来ません。 >悪行というのは人の弱い心がまねくものだと思う。 弱い心だけでなく、悪魔の誘惑もある。 人間は天使と違い悔い改め、罪を許されることが 認められている。

回答No.17

神とは、人間が人間を支配するために発明した概念にすぎないということを気付いた人がたくさんいます。 でも、それに気付かれる前に、神は人間が誕生する前から存在していたと洗脳する勢力(=人間勢力)が大勢いるのも事実です。 貴方はすでに、気付いてしまった側の人間でしょう? であれば、神の所業の残忍さよりも、それを造り出している人間どもの残忍さに注目するべきですな。

  • alterd1953
  • ベストアンサー率20% (239/1173)
回答No.16

全くもって私が「神」を信じない理由がそこです。 まぁ、私の理由は罪の無い人達が「大量殺戮」に遭ったり 「凶悪犯罪の犠牲者」になったりすることなんですが 同じことだと思います。 人間の願望が生み出した「幻想」としか思えません。 少なくとも「全知全能の神」は信じられません。 いてもいなくても同じです。 この世を創ったものをどうしても想定したいのなら 別に物理法則でもなんでもいいです。 どっちにしても現在誰も知りません。 人間が知っていることなんか、ほとんど「無」に等しいと思います。 その不安感に耐えられない人々が「全能感」を「神」に投影しているのだと思います。 私は不安感を抱えたまま「神」を信じずに死んでいきます。 それが私のささやかなプライドです。

  • okw_gpw
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.15

あなたは「神」を勘違いしていますし、「小説」を読めていません。 概念理解と、国語力が足りません。 「神が居ない」とも、「キリスト教の美化」とも、小説は述べていません。 まず、あなたは神の意味が良く判っていません。 あなたの知っている「神」は、ゲームやおとぎ話の「神様」です。それはキリスト教の、現実世界の神では、ありません。だから「どこにも居ない」のです。 あなたは場面ごとをバラバラにしか読めていません。 「行間を読め」とは良く言われることですが、それは小説として優れた作品ですから、文章を通じ作品全体から主題を把握しなければなりません。そうでなければ、優れた小説だと呼ばれていないでしょう。だから「キリスト教の美化」が表現されているとは判っても、「その意味」が読み取れていないのです。それは国語力です。 どうして史実に基づいていると言われるのか、 なぜあなたの神が居ないのか、なぜ小説として高く評価されるのか、 自分が、どれだけの意味を、そこから読み取る事ができるか。 そうした事を自分で考える「題材」が、小説です。 自分が考え、感じとった意味に価値があり、それは「宝探し」と同じです。良作であれば、文章や題材にとても巧みに、人間としての意味で非常に高い価値を隠しています。それが「神」という難しい題材であれば、ほとんど最高難度なのです。簡単には見つかりませんが、私はヒントしか教えません。教えてしまったら面白くありませんし、せっかくの宝物が手に入りません。 あなたが自分で見つける事、 努力をゲームの様に楽しみながら、学ぶこと。 そうして手に入るかけがえの無い宝物があること。 それが小説の魅力なのだと、私は思います。

siyuusukexxx
質問者

補足

あなたのおっしゃる現実社会の神とやらは、 いったいどのようなものなのか? まるで神を知っているかのごとく、ヒントしか 与えないなどとはいうのは、卑怯ではないのか? それと、あの小説はキリスト教の信者は感動するで しょうが、そうでないものには、それほどでも ありませんでした。

noname#181697
noname#181697
回答No.14

創造主とか、唯一神とかってーのは、高度な知性を持つ生物に善悪という基準を与える事で、力の拮抗や、せめぎ合い、葛藤や、苦悩の中から、バランスや更なる発展を導き出す方法を思いついたんじゃないですかね。 で、我々は、その実験の為に生み出されたと。だからまあ、善人ばかり、悪人ばかりの変に安定したアンバランスな世界を創る気なんぞは、さらさら無かったという事で。 「イイ事するのは大変だけど、死んだら天国に行かせたるから頑張れや。悪い事するのは色々な面で有利かもだが、それなりにペナルティつけたらなアカンわな。おお、こりゃ我ながらナイスアイディーア!」 ・・・みたいな感じで、この地球という名のシャーレ上で蠢く、人類という名の微生物の行く末を、創造主とか、唯一神とかってー存在は、今も興味津々で眺めているのかも知れません。 我々からしてみれば「ふざけんな!!」って話ですけど、そんな我々も自らの体内に居る微生物の気持ちだとか、養殖してる生き物の気持ちなんぞは、全く考えていない訳ですし、この宇宙の創造主もまた、被造物である可能性も否定できない訳で・・・。

回答No.13

 こんばんは。  こう書いてあります。  ▲ (ヨハネ福音 3:8) 風は思いのままに吹く。  あるいは ちょっと長いですが こうも解説してあります。  ▲ (パウロ:ローマ書9:11-18) ~~~~~  (α) その子供たち(双子)がまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、    「兄は弟に仕えるであろう」(創世記25:23)  と〔母〕リベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行ないにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。    「わたし〔=神〕は〔弟の〕ヤコブを愛し、〔兄の〕エサウを憎んだ」     (マラキ書1:2-3)  と書いてあるとおりです。  (β) では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、    「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、     慈しもうと思う者を慈しむ」(出エジプト記33:19)  と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。  (γ)  聖書には〔モーセに敵対したエジプト王〕ファラオについて、    「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現わし、    わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」        (出エジプト記9:16)  と書いてあります。 このように、神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 神は えこひいきする。  ということではないでしょうか?

回答No.12

>神は自ら悪人を創っておいて地獄に落とすのか? >神は自らそれらを創っておいて、後で地獄に落とすようなまねをするほど残酷なものなのか?  それでいいんじゃありませんか。  神は残酷であるでいいと思います。  2週間ほど前に地獄へ行ってきて、2丁目のスナックで飲んで来たのですが、  そこのマスターも神からの締め付けがきついと悲鳴をあげてました。

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 地獄へあえて落ちる方法はありますか?

    冗談な質問ではありません。 私と彼女、それぞれの家族は信頼のあると噂される前世 占いやチャネリングで聖書でいう天使の魂であると確認 しました。 聖書を読めば地球には堕天使の悪魔、類似猿が進化した 人間(魂は動物)、天使の3種類がいることがわかりますが 、この世の仕組みというか何のために地球があり、3者が 生まれるのかを聞いて、何度も永遠に生まれ変わる天使 であることが嫌になりました。 猿(人間)と悪魔は不純な魂なのでいわばドブ水で、天使 は同じ地球に生まれる清流の水で、ドブ水が権力を持ち、 清流がたとえば千利休のように豊富秀吉(有名な猿代表) に囲われて、無駄な時間を過ごし、怪我されて処刑された り、自殺したりの繰り返しだそうです。 ちゃんとした神父や霊能者に聞いたら、神はある意味で 天使にさえも残酷で、天界戦争でミカエル率いる天使が 悪魔のサタンらを殺したが、火星などに逃げたサタンらの 魂までも消すために、人間として悪魔や猿(人間)を生ま れさせ、天使を汚したり、時間とエネルギーの無駄をさせ てサタンとサルの魂を消すという、時間がかかり、天使に 負担がかかるシステムなのだそうです。 これテレビ朝日の江原さん、インチキの噂もありましたが 、この切磋琢磨でサルと悪魔を宇宙から消す説は信頼 のある神父や霊能者の多くと一致します。 なので私たちはもうそのシステムにつかれたので、悪魔 同様に地獄へ落ちても構わないので、神が望むクソ味噌 ミックスのアベノミクスから脱却したいと思っています。 自殺をすると地獄へ落ちるという説は本当でしょうか? たとえば、彼女と私がお互いを同時に刺して、天使同志 を殺せば地獄へ落ちられるでしょうか? いずれにしても今世が最後と思い、生きられるとこまで 生きますが、面倒な人間(サル)や悪魔との関わりは避 けて、神には逆らうつもりですが。 ちゃんとした霊能者や神父さんにお話を聞きたいと 思います。勘で答えるのはご遠慮ください。

  • 童話が好きなのに性格悪い なぜでしょう?

    小説の中で主人公が疑問に思っていたことです。この主人公の疑問と同じことを思っていたので質問します。 小説の中の話ですが、童話が好きな人がいて、どう見ても性格が悪いのです。 童話は悪人と善人がいるとして、読み手は善人の行動などから心洗われ、混み終わってすっきりする。ものですよね。 読み手は、善人の主人公になって読んでいると思うのです。 なのに現実の本人はなぜこんなに性格が悪いのか、なぜだ~と書かれていました。 小説に限らず、ドラマや映画を見ている人って、皆自分は主人公側に立ってみてますよね。なのに、日々の暮らしの中でそんなに性格が悪い人が多いのですか?