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神は自ら悪人を創っておいて地獄に落とすのか?

人間の死後、悪人は地獄に落ちるとすれば、 神がその悪人を創っておいてあまりにも酷くないですか? 悪行というのは人の弱い心がまねくものだと思う。 その弱い心をもつ人間を創ったのも神であり、神がその気に なれば善人ばかりの世の中を創る事も当然可能であろう。 小説「沈黙」でキチジローが役人に脅されて、宣教師のロドリゴを 裏切る場面があるが、キチジローも同じようなことを言っていた。 弱い人間、悪人をつくったのも神だ。 神は自らそれらを創っておいて、後で地獄に落とすようなまねを するほど残酷なものなのか? と、いう事で僕の結論としては、「やはり神はいない。」 ちなみに、小説「沈黙」は史実に基づている、といわれてはいるが、 一番肝心なところは、史実とは違い、キリスト教を美化した作品です。

みんなの回答

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10269)
回答No.1

>神がその気になれば善人ばかりの世の中を創る事も当然可能であろう。 無理じゃないでしょうか。 そもそも最初の女がいきなり誘惑に負けていますから。 神の過信はいけないということでしょう。

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 地獄へあえて落ちる方法はありますか?

    冗談な質問ではありません。 私と彼女、それぞれの家族は信頼のあると噂される前世 占いやチャネリングで聖書でいう天使の魂であると確認 しました。 聖書を読めば地球には堕天使の悪魔、類似猿が進化した 人間(魂は動物)、天使の3種類がいることがわかりますが 、この世の仕組みというか何のために地球があり、3者が 生まれるのかを聞いて、何度も永遠に生まれ変わる天使 であることが嫌になりました。 猿(人間)と悪魔は不純な魂なのでいわばドブ水で、天使 は同じ地球に生まれる清流の水で、ドブ水が権力を持ち、 清流がたとえば千利休のように豊富秀吉(有名な猿代表) に囲われて、無駄な時間を過ごし、怪我されて処刑された り、自殺したりの繰り返しだそうです。 ちゃんとした神父や霊能者に聞いたら、神はある意味で 天使にさえも残酷で、天界戦争でミカエル率いる天使が 悪魔のサタンらを殺したが、火星などに逃げたサタンらの 魂までも消すために、人間として悪魔や猿(人間)を生ま れさせ、天使を汚したり、時間とエネルギーの無駄をさせ てサタンとサルの魂を消すという、時間がかかり、天使に 負担がかかるシステムなのだそうです。 これテレビ朝日の江原さん、インチキの噂もありましたが 、この切磋琢磨でサルと悪魔を宇宙から消す説は信頼 のある神父や霊能者の多くと一致します。 なので私たちはもうそのシステムにつかれたので、悪魔 同様に地獄へ落ちても構わないので、神が望むクソ味噌 ミックスのアベノミクスから脱却したいと思っています。 自殺をすると地獄へ落ちるという説は本当でしょうか? たとえば、彼女と私がお互いを同時に刺して、天使同志 を殺せば地獄へ落ちられるでしょうか? いずれにしても今世が最後と思い、生きられるとこまで 生きますが、面倒な人間(サル)や悪魔との関わりは避 けて、神には逆らうつもりですが。 ちゃんとした霊能者や神父さんにお話を聞きたいと 思います。勘で答えるのはご遠慮ください。

  • 童話が好きなのに性格悪い なぜでしょう?

    小説の中で主人公が疑問に思っていたことです。この主人公の疑問と同じことを思っていたので質問します。 小説の中の話ですが、童話が好きな人がいて、どう見ても性格が悪いのです。 童話は悪人と善人がいるとして、読み手は善人の行動などから心洗われ、混み終わってすっきりする。ものですよね。 読み手は、善人の主人公になって読んでいると思うのです。 なのに現実の本人はなぜこんなに性格が悪いのか、なぜだ~と書かれていました。 小説に限らず、ドラマや映画を見ている人って、皆自分は主人公側に立ってみてますよね。なのに、日々の暮らしの中でそんなに性格が悪い人が多いのですか?