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ノモンハン事件の発端
ノモンハン事件に関しては 「1939年5月11日、ノモンハン付近の大草原で、国境をめぐる小さな衝突が起きた」 「国境で起きた小規模な紛争が…」 「国境線をめぐって起った小競り合いが…」 等の表現が見られます。 この「小さな衝突」、「小競り合い」とは、具体的にどのようなことが起きたのですか。 浜島書店『新詳日本史図説』(1998年印刷)では、ノモンハン事件突発の日付を「5月12日、国境で衝突」としています。 11日とされている説明が多いですが、12日とする説もあるのですか。 よろしくお願いします。
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お礼
詳しく教えて下さってありがとうございます。 よく解りました。すっきりしました。 「馬に草を食べさせていた」という話は、ソ連側の主張にあるのですね。 これで、もやもやがすっ飛びました。 このような戦闘でも「小競り合い」(朝日新聞記事)と表現するのか、と驚いています。 ご教示に感謝します。