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ノモンハン事件の発端

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回答No.3

日本・満州側とソ連・モンゴル側の主張が対立しているので正確なところは現代になってもはっきりしていませんが・・・ 「日本・満州側の主張」 5月11日朝に満州軍警備隊は、ハルハ河を越えバルシャガル高地近くに侵入したモンゴル軍騎兵30人と遭遇。他にも別のモンゴル軍部隊60人がノロ高地に陣地を構えているのを発見。満州軍警備隊はこのモンゴル軍部隊と7時間にも及ぶ戦闘を繰り広げ敵をハルハ河方面に撃退。後には敵の死体が5体と兵器多数が遺棄されていたとのことです。 5月12日に再びモンゴル軍が同じ地区に侵入。これを満州軍警備隊が撃退。満州軍によると敵モンゴル軍は大幅に増強され700人の兵力とのこと。 そして、この方面を管轄していた日本軍第23師団小松原師団長は報告を受け、関東軍司令部に、12日朝モンゴル軍700人がハルハ河を渡河し不法越境してきており満州軍と交戦中、師団から部隊を派遣して敵を撃滅すると打電し、後は戦火が拡大していきます。 なお、小松原師団長は12日のモンゴル兵700人侵入のその兵数は誤りで、現地の状況から見て敵兵力は30人から50人と数日後には判断しています。 「ソ連・モンゴル側の主張」 この方面を担当していたのはモンゴル第7国境警備隊(200人)です。 この国境警備隊の少尉の話によると、10日夜20人の巡察隊を分所に派遣。 その翌日11日にトラック4台を随伴した約300人の日本・満州騎兵部隊がモンゴルの主張する国境線を越え、モンゴル警備隊の分所を攻撃。モンゴル軍は2人戦死。優勢な敵軍に押され撤退を余儀なくされます。敵軍はモンゴルの主張する国境から20キロも進出します。 しかし国境警備隊の増援部隊が到着し、12日の夕刻までに敵軍を国境の外まで撃退する事に成功しました。 なおどちらが先に発砲したかについては、日本はモンゴル兵が先に満州軍警備隊に発砲したと主張。 ソ連・モンゴル側はモンゴル兵がハルハ河東岸河べりで馬に草を食べさせていたところを、侵入してきた日本・満州軍の兵士が発砲してきたと主張しています。 11日、12日の戦闘については日本軍、ソ連軍の衝突ではなく、満州軍警備隊とモンゴル国境警備隊の衝突という事件です。 双方の主張に食い違いがあるのでどちらが正しいとは言えませんが、11日に小さな衝突が起き、12日にそれより少し大きい衝突があった模様です。

goo-par1732
質問者

お礼

詳しく教えて下さってありがとうございます。 よく解りました。すっきりしました。 「馬に草を食べさせていた」という話は、ソ連側の主張にあるのですね。 これで、もやもやがすっ飛びました。 このような戦闘でも「小競り合い」(朝日新聞記事)と表現するのか、と驚いています。 ご教示に感謝します。

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