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ノモンハン事件の発端

dayoneの回答

  • dayone
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回答No.5

例えば、ソ連、モンゴル側のいわゆる東京裁判の宣誓口述証人の証言の 一部を拾い読みすると以下のとおりです。(※一部判読できませんが…) 件名:A級極東国際軍事裁判記録(和文) (NO.134) [レファレンスコード]A08071300500[画像数]484 [階層]国立公文書館>法務省>戦犯関係>戦争犯罪裁判関係資料>A級裁判記録> http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A08071300500 <368~379/484> <「ブイコツ」ソ連陸軍少佐証言> <372/484> 四、…五月十一日二百名ヲ越ユル日滿騎兵部隊ガ「ノモンハン」地區ニ於テ國境ヲ   通過シ十五乃至十八粁蒙古領内ニ進出シタト云フ…。   此ノ部隊ト衝突シタ際蒙國境警備兵數名ガ殺サレマシタ。   一九三九年(昭和十四年)五月十二日侵犯者ハ國境垨備豫備隊ニ依リ滿洲領内ニ   撃退サレマシタ。… <蒙古人民共和國内蒙省國境警備軍司令官「ドルジ」少将証言> <413/484> 五九、一九三九年五月十一日…武装シタ??百名ノ日本兵ガ… <414/484> 國境警備隊員二名ハ戰死シ、一名ハ負傷シタ。日本軍ハ…奪ツタ。 六〇、一九三九年五月十二日、…武装シタ日本人六十名ハ「シレン・オボ」地區テ    越境、我國境警備隊員ニ對シテ射撃ヲ加ヘタ。ソノ結果軍馬ガ一頭射殺サレタ。… <459~468/484> <蒙古人民共和國國境警備(隊長)チョグドン(チョグダン)証言> <461~462/484> 例ヘバ一九三九年五月十日?カラ?十一日ヘノ夜 私ハ「ノムンハン・ブルド・オボ」南西六粁ノ地点ニ哨所政治部員同志「ツェドイブ」ヲ 長トスル二十名ニテ??一時的?國境警備哨ヲ派遣シマシタ。 一九三九年五月十一日朝八時頃、重機、輕機、小銃、手榴彈??武装シタ日滿騎兵隊 約三〇〇名ガ貨物自動車四台ヲトモナッテ「ノムンハン・ブルド・オボ」地區デ 國境ヲ越エテ我哨ヲ攻撃シマシタ。 コノ部隊ノ偵察隊トノ戰斗ニオイテ哨兵「バトテ?」手榴彈兵「ドフシン・ノルボ」ハ戰死。 兵「オチシバト」ハ負傷シマシタ。尚軍馬三頭ガヤラレマシタ。 優勢ナ敵ノ攻撃ヲ受ケテ我哨ハ蒙古領土内奥深ク後退シマシタ。 日滿軍ハ我領土間?二粁侵入シマシタガ到着シタ我國警備隊豫備隊? テ「ノムン・ハン・ブルド・オボ」南方十八粁ノ「????」地區デ停止サシ、 一九三九年五月十二日ノ晩迄???國境ノ外ニ撃退サレマシタ。… 何とも曖昧です。また、日本側となると余り芳しくありませんが、 ・件名:週報 第139号 [レファレンスコード]A06031030100[画像数]29 [階層]国立公文書館>内閣文庫>内閣情報局関係出版物>週報 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A06031030100 <12/29> 内閣情報部編輯(昭和十四年)六月十四日號 ノモンハン事件 陸軍省情報部 三、戰鬪經過の槪要 …更に五月十一日、重輕攪擲彈筒を有する約八、九十の外蒙兵がノモンハン西南約十五粁 附近に於いて不法越境して來たので同地警備隊は之をハルハ河以南に撃退した。この戰鬪 に於ける敵の遺棄死體五、われに損害はなかった。… ・件名:外蒙軍越境の件(関参に電第538号) [レファレンスコード]C01003453200[画像数]2 [階層]防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>陸満機密・密・普大日記>陸満密大日記> 陸満密大日記>昭和14年>昭和14年 「満受大日記 第11号」 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C01003453200 ◇『草原の肉弾-ノモンハン事件全貌記-/樋口紅陽/同文館出版部/昭和17.8』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130969/14 <14/167> これでは何の事やら分かりませんのでほかをあたったところ、 下記に行き当たりましたが、 goo-par1732 様のことですから、既に読破済みのようにも思いますが… 『政経研究 48(4)/日本大学/2012-03-10』(97-132頁) 「草原の国境紛争 : 第一次ノモンハン事件/秦郁彦」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110008895569 4つの一次情報を対比し、かなりの異同があるとした上で、 やや精度が高いのは3として、 3、五月十一日ノモンハン西南約十五キロ付近の地区に不法越境せる外蒙軍 (機関銃を有する八、九十名)に対し、警備隊の一団は二時三十分攻撃を開始し 勇戦奮闘、敵に多大の損害を与え之を国境線外に撃退せり。 敵の遺棄死体五。防衛司令官(注:小松原)は警備隊の郭文通隊長に対し 賞詞を与えられたり(第二十三師団参謀部の情報記録、五月十二日の項) 対するソ蒙側については、冒頭とダブりますので省略しますが、 双方の言い分を照合、兵力数はせいぜい数十人が数百人にふくれ、 数時間の「激戦」だというのに、五月十一日の戦死者はモンゴル軍は2人、 満軍は0にすぎないと、 日満・ソ蒙共に交戦の規模を誇大に申立てているとしていますが、 やはり真相ははっきりしません(><) 下記なども目を通しましたが?のままですm(_"_)m http://www.kaikosha.or.jp/_userdata/kin-12.pdf 『立命館文學 第622号/2011.7』 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/622.htm 「ノモンハン事件(ハルハ河戦争)の歴史的研究―共同研究の経緯― Tumurbaatar Narmandakh」 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/622/622PDF/narmanda.pdf 『一橋論叢 135巻2号/日本評論社/2006.2.1』(139-163頁) 「ノモンハン事件発生原因と「国境線不明」論/ アリウンサイハン・マンダフ」 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/15612 余りヒントにはならないと思いますが、 久々なので投稿させていただきました^^

goo-par1732
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私としては、「第二十三師団参謀部の情報記録、五月十二日の項」にある 五月十一日ノモンハン西南約十五キロ付近の地区に不法越境せる外蒙軍 (機関銃を有する八、九十名)に対し、警備隊の一団は二時三十分攻撃を開始し 勇戦奮闘、敵に多大の損害を与え之を国境線外に撃退せり。 この情報を結論にしたいと思います。 内容の精度がどうであれ、この情報でもって5月13日、師団は捜索隊(東中佐)を出したのですから。 この記録では、「不法越境せる外蒙軍(機関銃を有する八、九十名)に対し、警備隊の一団は二時三十分攻撃を開始し」となっていますから、自軍から積極的に攻撃を開始したのだと、宣言していますね。 攻撃されたから反撃したのかも知れませんが、まず、それはないでしょうし、また、あったとしてもそんなことを記録に残すことはありえませんから。 いつも、詳しく教えて下さって感謝しております。 満州国軍の主力は第10軍管区の国境警備部隊で、司令官だったモンゴル人のウルジン氏は戦後、ソ連に処刑されています。 ソ連と日本との戦いに利用されたモンゴル民族の若者が、今、日本の国技・相撲を支えているのだ、と感慨にふけっています。

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