- 締切済み
平家の落人って・・・
最近、平家物語に興味を持ち出して本を買ったりネットなどでいろいろ調べたりして楽しんでいるのですが、そこで気になったことがありました。 ネットなどで「わたしは平家の落人の子孫です」と発言されている方がけっこういらっしゃるのですが、その方達はどちらかといえば清盛などの直系の子孫などではないのではないでしょうか?というのも、「落ち延びた」などという伝説は全国各地に残ってはいるものの、信憑性は不明で、主だった人物は壇ノ浦をなどでほとんど入水、戦死なさったりしていますよね。 例えば中流以下の平家方の貴族や、平家方について戦った平氏ではない一般人なども共に戦ったが故に「平氏である」と名乗た場合もあり、それが現代まで伝わっている場合もあるのではないでしょうか? 興味を持ち出してから日も浅いため思い違いなどもあると思いますが、このことが気になりだしてからここ数日、気がつけばこのことばかり考えてるので、ご存知の方がいらっしゃいましたらおしえてください。
- lalapoo
- お礼率80% (112/139)
- 歴史
- 回答数4
- ありがとう数6
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- galabeat
- ベストアンサー率13% (7/53)
私も祖先は平家と言われて育ちました。 既に他界している祖父母の住まいが現在の岡山県笠岡市でしたし、戦前までゆかりの品があったそうで、祖先が落武者だった可能性は高そうです。 ですが直接平家と血縁関係があったかと言うと、可能性は限りなくゼロに近いと思います。 もう900年も前の事ですし、おそらくご先祖様が誇張して子孫に伝えたのではないかと思っています。
- souta_n
- ベストアンサー率33% (79/234)
私は平家の子孫です。(らしい・・・かもしれない) うちの先祖は平家方の武士のひとりで、どうも壇ノ浦敗戦以後、猟師になりすまして、ゲリラしていたらしいです。 源氏の監視がごろごろしている中、夜中に小船に乗って、平家物語で有名な入水自殺した安徳天皇の死体を引き上げて、赤間神宮というところにまつったそうです。(と、その昔、じいさんばあさんに教えられました。) ひょんなことですが、ある日知り合いと話していて、その先祖の話をしたら、「あっうちの先祖もおんなじことした言い伝えがある!」・・・もちろん親戚でもなんでもないですから、そうすると何百年も前に、うちの先祖と貴方の先祖は同僚かなんかで、一緒にゲリラして、一緒に小船に乗って死体を引き上げにいったんだ!そして何百年たった今、その子孫が再会したんだ!ロマンだねぇ・・・って。 なんの回答にもなってませんでしたか。 こりゃまた、すんずれぃ致しました。
お礼
すっごいお話ですねぇ。こういう話大好きなんです。ご先祖様がどのようなことをしておられたのか、分かるだけでもうらやましいですよ。わたしは何にも聞いたことないですからね。そえゆえにいろいろ考えちゃいますし。 それにしてもsouta_n様のご先祖のお話とおりなら安徳天皇はやはりあの時に亡くなってしまっていたのですね。硫黄島をはじめ各地に生存説が残っていますけれども・・・。それでもはっきり分からないところが歴史の魅力なのでしょうかね。 ありがとうございました。
- izumokun
- ベストアンサー率30% (1129/3679)
平家の落人は、平家に味方して落ち延びた武将も含まれるので、「わたしは平家の落人の子孫です」という発言に対して、清盛の直系の子孫と考える必要はありません。
お礼
仰るとおりなのですが、わたしの考えとしては、「だったら”平家”の子孫じゃないじゃん!」と思ってしまうのです・・・。ひねくれモノなんでしょうかね。ハハハ・・・
補足
すみません。お礼を書くのを忘れていました。 ありがとうございました。
- o24hi
- ベストアンサー率36% (2961/8168)
こんにちは。 >例えば中流以下の平家方の貴族や、平家方について戦った平氏ではない一般人なども共に戦ったが故に「平氏である」と名乗た場合もあり、それが現代まで伝わっている場合もあるのではないでしょうか? おっしゃるとおりですね。中には全然関係ない場合もあるみたいですね。(戦国期から江戸初期にかけて開拓された武士の村で,本家を中心に同族の団結がきわめて強く,その結合の拠り所として平家の末裔の伝説が伝承されてきた場所もあるようです。) http://www.tabiken.com/history/doc/C/C262L100.HTM
お礼
実はわたしは富山県在住でして、ご紹介していただいた参考URL内の >富山県東砺波郡の五箇山の「平」という地名は地形によってつけられたものであろうし, この部分はちょっとショッキングでした。いつか平村に行きたいと思っていましたので・・・。でも、これはこれとしていずれ行きたいです。 どうもありがとうございました。
関連するQ&A
- 壇ノ浦の戦いで生き延びた平家の武将。
壇ノ浦の戦いで生き延びた武将はいるのでしょうか? 確実に分かってるのが平宗盛父子と平時忠だと思いますが。 平家の落人の伝説ではそれ以外でも生き残りはありありですね(;^_^A
- ベストアンサー
- 歴史
- みなさんは平家派?源氏派?どちら?
いつもご回答いただきましてありがとうございます! 今回は大河ドラマ「平清盛」にちなんで、みなさんにお聞きしてみたい質問です。 ▼質問 「みなさんは平家派?源氏派?好きなのはどちら?」 大河ドラマや「平家物語」で知った方も、歴史の授業や源平に関する観光名所等で知った方もぜひご回答ください。 ★特集企画「平清盛Q&A大特集」: http://entame.okwave.jp/tairanokiyomori/ 特選した平清盛&平家関連Q&Aを紹介しております。 ★OKMusic企画「ゆけ!ゆけ!平清盛!!」カバーコンテスト: http://okmusic.jp/events/kiyomori/ 嘉門達夫さんによる平清盛イメージソング「ゆけ!ゆけ!平清盛!!」を 自由にカバーできるコンテストです。 たくさんの回答、お待ちしております! ※質問は予告なく締め切らせていただきます。 ※参加にあたっては、下記リンク先の注意事項をご一読ください。 http://okch.okwave.jp/#attention
- ベストアンサー
- その他(趣味・娯楽・エンターテイメント)
- 平家納経はなぜ神社に?
NHK大河ドラマの「平清盛」の「平家納経」の回を見ました。 そこで不思議に思ったのは,平家の一門が納経する先が厳島神社でしたが,なぜ,お経を神社に納めたのでしょうか? 私の理解では,お経は仏教のもののはずで,それをお寺に納めるというのならば分かるのですが,神道のはずの神社に納めるというのは,どうも腑に落ちません。 これが神仏習合と言われるものなのでしょうか? だとしても,違う宗教のものを納めて,神社側もそれを受け取るというのは,かなり不思議な気がします。 平安時代は,このあたりは,どのように考えられていたのでしょうか? お寺と神社の区別はされていなかったのでしょうか? 神社にお経を納めてもよかったのでしょうか? ご存知の方,ご教示をよろしくお願い致します。
- ベストアンサー
- 歴史
- 壇ノ浦の戦い後の平家の女性の遊女化等
平家物語の中で不思議に思った事をいくつか質問させて下さい 1・壇ノ浦の戦い後、生き残った女性達が下関で遊女化したという伝説について 1-1まず、どうして生き残ったのか不思議です。入水したのに、どうして多数生き残っているのでしょうか?一応下関の方が助けたとかいう事になってますけど、場所は戦場!間に合いませんよね 1-2なぜ、平家の女性達は、生き残った後殺されなかったのでしょうか?子どもを産むと不利益にしかならないのは源氏も分かってますよね 1-3生き残った遊女化した平家の女性はどのような遊女生活を送ったのでしょうか?(文献等あれば教えて下さい。一応、毎年安徳天皇の墓参りに行った、上座に座って接待した(わちゃですね)という文献だけは見つけました) 2 生き残った女性の中でも徳子について 2-1どうして殺されなかったのか本当に不思議です。源氏の武士に助けられたって事になっていますけど・・・(武士の情け?尼になったから?) 文献等紹介していただけたら嬉しいです。宜しくお願い致します
- 締切済み
- 文学・古典
- 平家全盛時の北面の武士って
先日、大河ドラマ「平清盛」で、清盛が後白河院を攻めようとしたときに嫡男重盛に 踏みとどまるようにと説得されたシーンで、「まあ、よい。院を攻めるとなると北面の武士どもも うるさいからな」という台詞を述べていましたが、この台詞にとても違和感を覚えました。 平治や保元の乱以前ならともかく、平家全盛時の北面の武士といっても、当然に たいした力もない護衛だとはわかるのですが、この時期の北面の武士って、どういう勢力が 任ぜられていたのですか? 大阪夏の陣や冬の陣ならば、豊臣方には関が原で敗北した武将の勢力や浪人が組したのは 有名ですが、平家全盛時の北面の武士についての中身がみえてきません。 どなたか詳しい方にご教授願いたいと思います。 またこの時期の北面の武士について、何か記述されている書物はあるのですか よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 壇ノ浦の場所
お世話になります。 文学、歴史、地理のどのカテゴリに質問させていただくのがよいか、悩んだのですが、平家物語にお詳しい方がご存知なのかなと思い、こちらに質問させていただきます。 ”壇ノ浦の戦い”の壇ノ浦とは下関付近のことだとずっと思っていたのですが、”屋島の合戦”の香川県屋島のすぐ近くにも壇ノ浦という場所があり 「源平の古戦場」http://www.h4.dion.ne.jp/~yashima/dankorei.htm とされているのを知りました。 ひょっとして、下関までの内灘をかつてはすべて壇ノ浦といったのでしょうか? もしや屋島山頂から下関の壇ノ浦まで見通すことはできませんよね・・・? (すみません、関東の者なので。でも地図から見ても愚問ですよね・・・) 安徳天皇が入水されたのは、下関の方でいいのですよね・・・?
- ベストアンサー
- 文学・古典
- 平清盛の父親は誰ですか?
先日、大河ドラマで、平清盛の本当の父が白河院だということになっていたのですが、これはフィクションでしょうか?気になっていろいろ調べていたのですが、この説にも裏付けがあるらしいとか、祇園の女御が白河院のこどもを身ごもっているなか、忠盛に嫁いだとか、いろいろな情報がでてくるのですが、実際のところ、誰が父親なのでしょうか?清盛は平家の正当な血族ではないということなのでしょうか?
- 締切済み
- 歴史
- 琵琶法師はなぜ平家物語を民衆に語って良かったの?
閲覧ありがとうございます。 マニアックな質問かと思いますが ダメもとで書いてみます。 平家物語って… どうして 琵琶法師がほいほいと民衆に語って良かったのでしょうか? 琵琶法師が語ったのは鎮魂のためだった、という説はわかるのですが なぜ 身分の高くない一般民衆にまで話す必要があったのでしょう? 源平の戦乱で民衆もとばっちりを受けていたから 説明代わりに…でしょうか…? ただ平家物語の内容って 貴族や(当時は神である)天皇がバンバン出て来られて 最後は安徳天皇の入水、三種の神器の一部紛失など ものすごくタブーな事が書いてあると思うのですが… そんなの民衆が気軽に聞いて良かったのでしょうか?? 平家物語の成立が ものすごく後年だったなら 「昔のことだから」と許される部分もあるかと思うのですが 作者が信濃前司行長説でしたら 「三種の神器がそろわなかったという コンプレックスを持っていた」後鳥羽上皇の時代ですよね… 琵琶法師…処罰されなかったのですか…… と…(汗) すごく…「それを知ってどうする!」という疑問ですが モヤモヤが晴れないので どなたかご存知の方いらっしゃいましたら 教えて下さい! よろしくお願いします。 (カテゴリ、文学かと思いましたが 作品の成立背景が知りたいということで 歴史で失礼します)
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
これまた素晴らしいお話をありがとうございました。冷静になってよく考えてみると 平家の落人=平家の血をひくもの とは限らないのは当たり前といえば当たり前でした・・・。 しかしgalabeatさん、万が一!ということもあり得ますよ!世が世なら、もしかしたらわたしなどとはこうやって関わりあうこともできないようなお方の子孫かもしれませんよ。あの時代にはインターネットなどという便利なものはありませんでしたけどね。 重ね重ねお礼を申し上げます。