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人間の価値は何で決まる?

serpent-owlの回答

回答No.11

 「価値基準の価値は何で決まる?」と反問したら意地悪でしょうか。…意地悪ですね。  なんでこんな意地悪を言うかといいますと、いずれこの質問は締め切られるだろうからです。そしてそのとき、civilさんが回答を選んで「良回答20点」「次点10点」を付与したとしたら、価値基準の価値を決めるのは「あなた」です。ご質問は「個人の価値観が多様化した今だからこそ皆の答えを聞いて」みたいとのことですね。ならばcivilさんが期待されているのは「個々人の多様な価値観そのまま」であるはず。「良回答」「次点」を選んだならば、civilさんは「個々人の多様な価値観」のうち「特に優れていると感じたもの」を選ぶことになります。だから、価値基準の価値を決めるのは「あなた」です。civilさんはこの場で、そういう特権的な立場に立っています。ポイントを付けずに締め切るのもスマートですね、そう考えると。あ、いや、永遠に締め切らないのが一番スマートです。「個々人の多様」は無限にあるはずですから。  意地悪な前置きになりましたが、回答はここからです。  結論を先に言うと「人間の価値を決める絶対的な価値基準は存在しない」となります。いや、さらにもう一歩踏み込んで、「絶対的な価値基準を称するものは積極的に破壊すべきである」と主張します。「答えは人の数だけ存在する」という地点に留まるべきだということです。  映画や小説などであれば、その作品世界内のテーマに即して「人間の価値」が提示されます。が、それは、何がしか人の心に感動を残せばよいというものですから、絶対的なものではありません。しかもそうした作品世界で提示される「人間の価値」は、実は作品自体の出来不出来(映画なら俳優の演技力や演出)にも左右されましょう。映画や小説から何かを学ぶこともあるということを否定するものではありませんが、軽々に信じてはなりません。  これだけで済ませてもナニですので、もう少し問題を掘り下げましょう。  まず「人間の価値は自分が決めるか他人が決めるか」ということから。  ちょっぴり悲しいこともありますが、「他人が決める」というのがほとんど現実です。学校や職場では。偏差値や、契約成立数とかですね。こういうものが人間の価値を定める「絶対的な価値基準」になりえないことは特に論じるまでもないでしょう。では「何を排除するかではなく何を受け入れるか」は? これはそもそも「他人が決める客観的な基準」になりえません。それこそ映画や小説という作品世界の中でのみ表現可能なものでしかありません。「異性経験の人数」だと、一応客観的な基準になりえますが、しかしホストクラブの兄ちゃんたちが「優れた人間的価値を持つ」とは一概に言えないでしょう。いや…テクニックはすごいと思いますが。  客観的基準はすべて相対的なものです。学校では「大人が期待する良い子」。進学塾では偏差値。職場では契約数や作業効率。戦場では殺した人数。これらはすべて、ある一本の線を引いて、人が持つ様々な側面のうち一つだけを抜き出し、その線の上に並べているだけです。ちがう線を引けば、おのずと順序もちがってきます。どんな線を引いても「その人間の価値」には到達できませんし、線の数をどれほど増やしても同じ事です。線の引き方(評価の仕方)自体を論じるのも無意味です。人は多様であるがゆえに。  では、「自分が決める」について。  どちらかというと、私はこの立場をとります。なんせ時代遅れの「じつぞん主義者」ですから。  「ヘーゲルは大きな建物をたてて自分はその脇の掘立小屋に住んでいるのだ、とキルケゴールはいっている。しかしヘーゲルだけではない。どんな人間も実は掘立小屋に住んでいるのである。」(柄谷行人『意味という病』)  詐欺まがいの巨大なコロモを纏った海老天であるserpent-owlなるネット人格は、その実、みすぼらしい一匹のオスにすぎません。が、考えるということが自分にとって何であるのか。それは常に問い続けたいと考えています。そういう意味での「じつぞん主義者」です。「○○は自分にとって何であるのか」。この「○○」には、もちろん「自分」も代入できるわけです。  が、しかしながら、この「自分で決める」も決して貫徹されえません。究極的な答えにはなりえないということです。なぜかというと、「自分の価値は自分で決める」ことを貫徹した場合、自分の価値はただちに「ゼロ」に帰するからです。ということは同時に、他も「ゼロ」であり自分も「ゼロ」である以上、そもそも「人間の価値」を云々する意味が無いということだからです。それがなぜかというと、それはもう、どうせ「私」はいつか死ぬからです。「ボロは着てても心は錦」という思いがあっても、それは自分の死とともに消えてしまうのですから。  「人は世界に投げ出されて存在し、いずれ死ぬ未来に向けて自分を投げつけていく」という見解がハイデガー『存在と時間』には示されています。が、やはり死んでしまえば自分にとっては意味はない。とすれば、おのれの生の意味はどうなるかというと、それは「自分の生と死が共同体に何を残し、刻印したか」になってきます。「私」の生の意味は、共同体に、他者に委ねられるわけです。がしかし、それは「私という存在が他者によって簒奪され収奪されて物語化され、しかも自分はそれに抗することができない」(レヴィナス)という「生き残りによる死者の物語の征服」でもあります。生き残りに委ねられた自分の生の意味は、もはや「私」のものではなく他者のものであり、しかも「私」はそれに異を唱え、抗することができない。  するとやはり、ここでも「人間の価値」は「生き残りの人々の価値基準」に隷属することになります。「自分の価値は自分で決める」というのは、貫徹されえません。せいぜい、生きている間での自己満足以外には。  そういうことですので、「個々人の多様な価値観」をコレクションするだけの、本質的に意味の無い問いを掲げたこの質問スレッドを、永遠に閉じずに開いておいて下さい。  だいたいこの回答自体、私serpento-owlという一匹のオス人間の限界内のものですから、私ごときがおよびもつかぬ方が現れれれば思いも寄らぬ転換がないとも限りませんので。

noname#2626
質問者

お礼

どうやら自分はできの悪いラスコーリニコフだったようですね。仰るとおりこのスレッドは閉じずにおくことにします。しかし自分を見つめ直すいい機会になったような気がします。ありがとうございました。

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