対立物の一致 〜神と人が共存するための命題〜

このQ&Aのポイント
  • 対立物の一致、coincidentia oppositorumとは、有るは無いであり無いは有るという命題であり、善は悪であり悪は善であるという考え方です。
  • この命題は古代ギリシャの哲学からインスピレーションを受けており、神の本質はあらゆる対立の統一であり、すべての被造物は神の映しであり、相互に調和しているとされています。
  • しかし、人間と神の間にはへだたりがあり、対立物の一致は人間にとっては見ることができないという問いもあります。また、対立物の統一は時間の過程や社会の変化によって解決する可能性があります。
回答を見る
  • ベストアンサー

コインキデンチア・オッポシトールム

 ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。  

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.1

こんばんは。 私は鼻水がすごく出ていて辛いのですが、鼻水に負けるのもプライドが許さないので頑張って回答しようと思います。 >これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが 幸せとは外部にあると思っていたのですが、まさか鼻水が出ないことが幸せの基礎だったとはと驚いております。 ここで言いたいのは、有る無し・善と悪の根拠はあると思い込んでいた場所にはないのではということです。 もっと内面に、相対的にあるもので、固定的に存在するものではないのでは。 身近な例で言えば、探し物が目の前にあるのに気がつかないとかありますね。 特に、「黒いケーブル!黒いケーブル!」とか急いでいるときは、本当は白いケーブルだったとかあります。 私、あほですね。 ということは「お前の探したは探してない」であり、「お前の善は俺にとっては悪であり」という誰でも心辺りのあるお叱りを考察してみればいかがでしょうか? ところで、これを難しい言葉で言えば、なんなんでしょうね? 抽象的な事柄を現実的な事柄に当てはめるときに、すきなように当てはめられるでしょうか・・・ 壁の銃弾の跡に的の絵を描いて自慢をするというのに近いかもしれません・・・ 自分の理論を元に社会現象を解釈して「俺って凄い!」というのも近いでしょうね・・・

bragelonne
質問者

お礼

 もぐさん お早うございます。  ★ フラクタル構造  ☆ これを遣わせてもらっています。  前回のやり取りで得られた内容を重ねて述べます。  ○ (世界のフラクタル構造) ~~~  1. 神は 自分のすがたに似せて ヒトをつくった。  〔創造主と被造物というのは そういう表現の問題である。特には 次から述べるように 両者のあいだには埋めつくせない隔たりがあるということを言っていると取るべきです〕。  2. 神は三位一体の神として 光にたとえると 父なる神は光のみなもとであり 子なる神はそのかがやきであり その父と子とから発出すると言われる聖霊なる神は 光の明るさやあたたかさである。  3. 光の比喩は まだまだ 経験事象に例を取っているだけに 神のことを表わし得ていない部分がある。  4. その分かりづらい部分としては:   (あ) ひとつに 光源と発耀と明・暖とは 神において時間差がないこと。   (い) ひとつに 神の三位一体においては――フラクタル構造にたとえるごとく―― 父も子も じつは聖霊と同じくそれぞれ聖霊である。光源も発耀も それぞれ明・暖である。子だけが発耀であるのではなく 父もそして聖霊もそれぞれ発耀としての光である。また父だけが光源であるのではなく 子も聖霊もじつはそれぞれ光源である。  5. ひとは 神に似せてつくられているとすれば その自然本性が 神のその三位一体なるすがたに類似していると捉えられる。  〔繰り返しますが 創造主と被造物といった規定は ただ表現の問題であると思われる。生まれつきの存在の成り立ち――自然本性――を問題にしています〕。  6. ひとは身と心とから成るが 心の領域について 三位一体の似像を捉える。  自然本性は 記憶と知解とそして意志とから成る。三つの行為能力ないし能力行為。  7. 《記憶》は おぼえるというとき整理整頓といったかたちにおいてその秩序作用にむしろ焦点があたる。精神の中核である。   この記憶から人間存在の公理――すなわち自由や平等あるいは愛――を引き出して来ると思われるごとく そしてまた法の精神がそこにやどり 自然法としてもやがて人定法としての法律の淵源となるように 自己秩序というはたらきが 記憶の基軸である。  8. 人の存在が自由であるなら 人は互いに自由である。自由であることが互いに平等であるかたちになっている。よってこの《自由――または先取りして 自由意志――》は互いにとうとばねばならない。これが 愛である。といったことがらを精神の中核たる記憶から引き出して来るのは 知解という二つ目のハタラキである。《知解》が 父たる光源からの発耀としての子なる神に喩えられる。  9. 一人ひとりが自由な存在としてある ゆえにこれを互いにとうとぶという知解を得て これを心つもりとして持ちさらに自己表現に移すのは 自然本性の三つ目のハタラキである《意志》である。この意志が 聖霊なる神に似るものとして 光の明るさやあたたかさに喩えられる。《愛》である。ただし 人間の意志は その自由意志の中身として 明るさに背きあたたかさを踏みにじる負の愛も くわだて得る。おのれの心にしたがうという意味での善に背き 負の善すなわちそれとしての悪をもおこない しかもときにはこの悪を好むことすら 《自由に》おこなうようである。  10. これら三つのハタラキから成る自然本性は 神の三位一体に似ているが はなはだ隔たりのある類似であると言わねばならない。  神は (4‐あ / い)により 存在が存在であるしかなく 自由が自由であるしかなく 愛は愛であるしかない。そしてそこに・つまり三つのペルソナ(位格)のあいだに 時間差がない。つねに《一体》である。《無限》とはそういう意味である。  11. しかるに 人間の場合は 存在がほかの意志のハタラキによって傷つけられ侵され得る。自由がへそ曲がりを起こす。愛が マイナスの世界に沈んでしまう。みなおのれの自由意志が ときには好き好んでこれらをおこなう。  12. そうして――理論上は――それでも 三つのハタラキはその自然本性において 時間差を持ちつつも 一体であるとも見なされる。自由にはそれと裏腹の責任があると。とにもかくにも辻褄が合うように 神との類似性としての自然本性が 最後にはハタラクと見なされる。(このことを 仏性がひとにやどると言っているのだと考えられる)。    13. これを 人間の三一性( trinity )と言うらしい。三位一体( Trinity )に似ているゆえ。   つまりは 意志にも自己秩序としての記憶やその知解なるハタラキがやどり 記憶や知解のそれぞれのハタラキにすでに意志もやどるといったようにフラクタル構造を成していると。自省や自浄作用が効くはずだと。  ~~~~~~~~~~~~  ここまでを 前身の質問で もぐさんとやり取りしたと思います。さらに詳しく展開しました。  この質問での問いは 自然本性にさからう自由意志の自由によって 負の善なる悪をおこない マイナスのつめたい愛をも発言し行動に移す。そのような状態に人間があるとき それでは 三一性において 善は悪であり 悪は善なのだとか 愛は憎悪であり憎悪は愛であると言って 対立物の一致をそのまま説いていてよいものかどうか? これです。  悪は 悪という存在があるのではなく 飽くまで存在とその持続そして共生という善を損傷させる意志のハタラキであり その行為があるのみである。ただその意図や行為を 現象として悪と名づけるのみであると。   cf.【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5552729.html  あるいはまた 愛は ヒトという存在にかんする限りまた存在が善だとする限り その自然本性に従順なる場合も逆らう場合も おおきく愛である。その広義の愛に やさしさや暖かい愛情もあれば いがみ合いや憎しみもある。つまり愛情と憎悪とをふくめて《愛》とよぶのがよい。と考えられます。  以上このように 悪は存在せず 善とその善の損傷行為としての悪とが この世界にはあるのみだということ および 愛情と憎悪とをまとめて《愛》と呼ぶのだということ この二点は 一見すると この対立物の合一ということに似ている。  ところが 善なる行為と悪なる行為とは――後者が 善なる要素を欠如しているからには―― 互いに別である。また 憎悪は 愛という意志が マイナスの世界に下りて行ってしまっているからには 愛情とは正負の違いがある。  あまり長くなるので ここらで端折りますが 果たしてどうでしょう?  つまり 西田幾太郎の《絶対矛盾的自己同一》というときにも まづは目の前に起きていることは 《絶対矛盾》なる現象だと言ってよいと考えます。正と負 あるいは 共生としての肯定とそうでなく抹殺をもくわだてる否定 これらの対立する二項は どうしても相容れないのではないか?  というのも きわめて通俗的に言って 人びとはそして特に日本では おとなであることは物分かりがよいことだと考えられているようで まづ初めに けんかはいけない まあまあまあというところから入ります。ところが そうしているなら いつまで経っても その実際の対立状態は解消されません。そういうことが 決して少なくありません。  もっと卑近なことを例にあげれば ここでたとえば回答をブロックするということがあります。わたし自身もしたことがあるので言うのですが その手段では一向に解決は見られないという事態。つまり《対立物の一致》は その命題だけでは ウソになる。という問題です。そこから この問いは来ています。  あるいは どうなんでしょう もうひとつ例示しますと あいつは今はすねていてその自由意志もマイナスの世界に足を突っ込んでいる。いい加減したい放題で暴れまくっている。だが それも大きくは《愛》に含まれるのだから あたかもお釈迦さんの掌の上を飛び回っている孫悟空のようなものに過ぎない。だから じっと見守っていてやればよいのだ。という場合 果たして それでよいのか?  対立状態という現実から出発しなくてよいのか?  以上まづは 趣旨説明をさらに詳しくのべました。  ご回答へのお応えは 補足欄にておこないます。あしからず。

bragelonne
質問者

補足

 もぐさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  お礼欄では ご回答内容にほとんど触れずじまいでした。でも出発点における風景をさらに明らかにし得たかと思います。もう回答は来ないかなと思っていたところへ 三件重なって来ました。  さて 鼻水の哲学でしたね。いや 鼻水はなぜ出るか? いや 鼻水を垂らしている小学生をとんと見なくなったのは なぜか? いや 鼻水は口に通じている ゆえに 一致している。  ええっと 何でしたっけ。鼻に栓をすると 息が出来ない。ゆえに鼻水と呼吸とは対立物である。けれども からだの維持にはどちらも必要である。ゆえに 一致する。  ええっと  ★ 幸せとは外部にあると思っていたのですが、まさか鼻水が出ないことが幸せの基礎だったとはと驚いております。  ☆ 内部と外部とは 《わたし》なる人間として まとまった存在である。人間は 社会的な動物であると言うなら その存在はすでに 社会的な関係としてある。みづからの内に社会関係・人間関係を有している。外部としてなのであるが つまり 無いであるが その存在の性格からして 内部につうじていて あるとも言える。ゆえに 一致する。  いやいやいや。鼻水が出ると出ないとは 対立物であるが これらの互いの相転移は ひとのしあわせに関係してくるから どちらでもよいとは行かない。ゆえに 対立物が一致する気遣いはない。これで反証できたか?  いやいやいや。  ★ ~~~~  ここで言いたいのは、有る無し・善と悪の根拠はあると思い込んでいた場所にはないのではということです。  もっと内面に、相対的にあるもので、固定的に存在するものではないのでは。  ~~~~~~  ☆ No.2のあともなどすさんへのお応えで書いたのですが おそらく 対立物が 同じひとつの《自己》の内にある場合には それを人間がみづからの意志のもとにおさめて 全体として取り計らうものであるゆえに その対立関係というのは――きびしい葛藤をもたらすことはありましょうが―― それほど経営しがたい問題であるとは思われない。とも考えました。  対立物が互いに外部どうしである場合に その対立関係が 扱い難いものとなる。  その二項ないし二者の 共通の根拠は たとえば人間どうしという基礎としてないわけではない。けれども 互いににくしみ合って 対立関係があたかも永続するというのも 実際である。おそらくどこにその調和を求めるかというときの根拠も どこにもないと言うのが正解なのかも知れません。  つまり 根拠がどこかにあると思い込むのがいけないのであって ただしだからと言って ほかのところを探せばよいということに じつは ならないのではないか? こうも思うのですが どうでしょうか?  それとも  ★ ということは「お前の探したは探してない」であり、「お前の善は俺にとっては悪であり」という誰でも心辺りのあるお叱りを考察してみればいかがでしょうか?  ☆ というように まだ探し足りないでしょうか?   この後者の《善と悪》の判定の問題は おそらく主観の問題でしょうから 一概に言えるとも思えません。その当事者どうしで じっくりと話し合うしかないでしょう。そうすれば 善と悪との定義で互いに歩み寄れましょうから。  ★ 抽象的な事柄を現実的な事柄に当てはめるときに、すきなように当てはめられるでしょうか・・・  ☆ これも 定義の問題に帰着しましょう。二人の間なら二人の間で 話し合い歩み寄ることになりましょう。  ★ 壁の銃弾の跡に的の絵を描いて自慢をするというのに近いかもしれません・・・  ☆ これは レトリックでしょうか。言葉の表現として 確かにそのような話を聞くと 対立物が一致しているかに思われます。なぜ対立しあっているのかと疑問に思うようになります。それゆえ あるいはその対立関係を溶かし合って行けるかも分かりません。  ★ 自分の理論を元に社会現象を解釈して「俺って凄い!」というのも近いでしょうね・・・  ☆ これは ありますね。あり得ますね。俺って凄い!と思うというよりは ううーんとうなる場合があります。つまりは 所謂るジョウシキとは違った見方が出来ると そしてその見方が現実にあてはまっているとするなら まづはうなります。そんな歩みを社会はして来ていたのかと 何度も言うようですが うなります。もののあはれを知った瞬間です。あはっ! というひと言です。  なるほどそのジョウシキとは違ったあたらしい見方は それとしてジョウシキと対立しているわけですから そしてしかもそれらが見ている社会の実態は同じひとつの事実関係なのですから そこからは《対立物の一致》が言えるかも知れません。  でもこれも どうなんでしょう? つまりは それならば・それゆえに まさに両者は《対立しあっている》ということにもなります。  社会のお二階さんの見方とそれがクウキとなったジョウシキ およびそれを一階から見てどうなっているのかを明らかにしたもの これら二つの見方は 同じひとつのものを見てその世界観を述べているのですが 互いにやはり対立しています。互いに批判しあっているといったかたちになります。  スサノヲ市民が お二階に上がる・そういった出世志向を アマアガリ症候群と見るのが スサノヲ史観ですし いやいや それでこそ社会の・国の秩序と発展のためにみづからの能力を活かして仕事ができるというアマアガリ史観とくらべるならそれらは 対象としての歴史社会が一致していつつ 見方は対立していましょう。  たぶん そのように勘違いではなく  対立する史観が打ち出される場合というのは  ★ 自分の理論を元に社会現象を解釈して  ☆ というのではなく そうではなく 社会現象がまづあって それを捉えた結果 自分の理論を導き出す こういったあたらしい見方である場合ではないでしょうか?   こういうそれとして有効な見方が出された場合には 対立物の一致はむつかしく 互いに対立しあって行くものと考えられます。  というよりも ほんとうは 一般に一方の見方が時代の移り変わりとともに ふるくなりその理論としても不備となり間に合わなくなるということなのでしょう。  しかもここで質問者がこだわったことは そのように《時間行為としての解決》を見ることによる合一や一致を言うのではなく なぜなら むしろおおきく歴史が自然史過程であることは 大前提であるのであって そのあと 個人個人が どのように《対立物の一致》を見ることができるか? こういう問いになっています。  一致を見ていない。見えない。なら 見えないと言って つまり対立しあっているとはっきり言って そのあと 互いに対立を超えてとは言わなくとも 話し合いに入りこれをつづける。そういう姿勢と態度が まづ出発点に必要なのではないか。こういう問いです。

その他の回答 (13)

回答No.14

 こんばんは。『絶対矛盾的自己同一』全1103文中,【矛盾】と言う語は約30%の文で使用されています。  それでは人間の対立や矛盾について考えましょう。「ブロックで回答拒否」の例題がありましたね。  回答拒否は「善いこと」と「善くないこと」との意見の対立ではく,回答拒否「する人」と「される人」との対立が問題視されていると思います。  前者は顕かに矛盾としての対立です。後者は矛盾の対立という保証はありません。矛盾概念は,互いに否定しあう関係として,部分集合として互いに補集合の関係としてあります。ブラさんの「矛盾」という語の用法は論理的でないことを指摘しておきます。これがぼくにはとっても残念なことなのです。 > (3) 《矛盾》:したがってこの用語にも ふたつの意味がある。経験世界に存在する時間的・有限的・可変的なモノ・コトが 有と無との相転移を起こすことを言う。  とともに このような有無いづれかの状態にあることを余儀なくされる経験世界を超えたところ――つまり神――と人間とのあいだの隔たりとしての矛盾。  これは文学的表現として認めましょう。ミュートス(神話)もまた文学的です。西田はこう言っています。原始社会はミトス的である(二 18-8),論理が真の論理となるためにミトス的なものは否定されねばならない(四 2-9)。「そこには何処までもミトス的に我々を抑圧するものを否定し行かねばならない」(四 2-16)。  けれども,これより多く33の文でポイエーシス(創作)を用い,例えば「右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない」(一 6-1),と創作を肯定しています。世界が創作的に発展していくことを強調していると思いますが,神話的ではいけないのです。西田によるとですが。  もとにもどります。回答拒否「する人」と「される人」との対立を,絶対矛盾的自己同一的に解消するには,「回答拒否「する人」と「される人」との対立」全部を否定しなければなりません。「回答拒否「する人」と「される人」との対立」のような見方をしている自己をポイエーシス(創作)的に変えるということです。  「現前にある姿を否定する」「現前に有る姿を肯定する」これが矛盾であって,対立ということもできるけれども,相互いに補いあって転変していくことで,現実の世界がすすんでいきます。  現れを消去して,表しを表出し,その表象は現象であり,その現れを・・・。表現世界ですね。 > ○ この哲学カテにおいて ブロック制度を使用するのは 対話を拒みまた阻みあるいは対話の相手に例外をつくることになるゆえ いただけない。のではないか? それは哲学の精神に反する。  このブロックが対立関係をつくること もしくはすでに作っているところへ上塗りをするといったことについては 皆で話し合って出来るものなら共通の見解を立てておくのがよい。と。 共通の見解は立てないほうがいいでしょう。そもそも対立関係はないのかもしれないのだから。(う~ん。創作力足りずの回答ですね) ではこのへんで。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。  西田説の解釈と例題への回答など 参考にしたいと思います。  ここまでよくおつきあいいただきありがとうございました。

回答No.13

こんにちは,お礼ありがとうございます。不覚にも「働く」を動くと読み違えていました。詳しく見ていきたいと思います。 >むしろ《対立》とは言わず 《矛盾》と言って これが絶対的なものだと捉える。おそらく物の有ると無いとの間に矛盾を見るのでしょうか?   まず大まかな回答をしておきます。絶対的矛盾は有と無の他にもありそうですが,おそらくそれらは「○○性の有と無という絶対的矛盾が必然的になければならない」と言えると思います。  順をたどっていきますと, >《対立》  これは,「物と物との相働く世界」においては,主体である物と客体である物の《対立》です。この《対立》は,相対的です。 >むしろ《対立》とは言わず 《矛盾》と言って   絶対化とは対立を独立とすることです。「物と物の相動く関係」を一体の「物」として独立させて見る立場と,「物と物の相動く関係」の部分の「物」として独立させて見る立場があります。  「一体の物」は内部に《対立》を含んでいます。「部分の物」は内部に《対立》を含んでいません。それどころか後者は内部に《矛盾》を含んでいると主張します。  前者は,後者が主張しているのは,むしろ《対立》とは言わず《矛盾》というべきだと言っていると解釈します。  ところが,「部分の物」観は,始めから内部に《対立》はなく,《対立》を《矛盾》に言いかえる必要を感じていません。 >これが絶対的なものだと捉える。  さらに,「一体の物」観は,「部分の物」が,《矛盾》は絶対的なものとして捉えるべきと主張していると解釈します。  ところが,「部分の物」観は,《矛盾》は絶対的なものとしても,相対的なものとしてもあると考えています。絶対的なものとして捉える必然性があるのは,対象が,他に依存せずあって独立的なものである場合だと考えています。  (物の存在を問うことをせず,物は有るとしておいて,)「物と物が相働く」ということは──言語一般の主語と目的語の関係をイメージしていただければ思うのですが──「主体と客体が相互作用する」ということに言いかえられるでしょう。  そして,相互作用する物と物の主客の立場は交換可能です。また,同じことなのですが,物一つに限って見れば,主体性,客体性の属性の転換が可能ということになります。  つまり,「一体の物」観では,主体と客体のそれぞれの立場が交換する相対的な関係を内に含み,「部分の物」観では,主体性や客体性のそれぞれの属性が転換する相対的な関係を内に含んでいると言えますね。  さらに吟味すれば,「一体の物」観では,主体でなれば客体,客体でなければ主体という関係が必然なのに対して「部分の物」観では,──物が真に独立であれば相対的な主体性や客体性というのは有りようはないので──(相対的)主体性もない(相対的)客体性もないだが(主客の相対を超えた能動性)絶対的主体性が有る(または無い)。あるいは再帰的に自己を客体として,主体性と客体性がそれぞれに有る(または無い)などと言われると思います。  「部分の物」観は,このような○○性の有と無の矛盾概念を,絶対的矛盾としています。対して「一体の物」観で,内包する対立が矛盾だとしてもそれは相対的矛盾にとどまります。    絶対的矛盾と相対的矛盾がどう働くか,よく調べる必要があると思います。  少し飛躍しますが,矛盾概念のもつ相互否定性は「一体の物」観では,もし相対矛盾が含まれる物同士にあれば,物と物の闘争として現れるのかもしれません。それに対して,「部分の物」観では,矛盾概念のもつ相互否定性は,ただ一つの物の中に必然的にあり,自己否定性として現れるでしょう。  自己否定性が変化の根源であるというのは弁証法的思想ですね。西田は弁証法を取り込んでいるでしょう。  「一体の物」観での相対的矛盾の他者否定性が弁証法的かどうか,ぼくはよく分かりません。  例えば,利害の対立ならば,それは矛盾対立ではないはずです。利がなくなれば害を被り,害がなくなれば利が得られるというような関係が必然的には成り立ちません。他者を害して,自らをも害すといったことがよく見受けられます。  ならば,他者を害して必然的に自らを利するなら弁証法的?矛盾の要件は整っているようですが・・・・どうなんだろう。  このへんにしておきます。例題の回答までたどり着けまんでしたが,保留ということで。

bragelonne
質問者

お礼

 あともさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  全体としてですね どうも《物》として話をすすめると 問題が整理されない嫌いがありませんか?    やはり 《人間》で対立なら対立の話をすすめる必要がある。こう思います。  物が有ったり無くなったりするのは 有と無とでは確かに矛盾ではありますが 人間にとってどういう意味があるのかとなると それは必ずしも明確ではない。どうでもよい場合さえあります。  ですから ことを人間のことにしぼって対立や矛盾を捉えて行くと 話は進むでしょうし 分かりやすくなると考えます。  という簡単なお応えをお返しして まづは 例の《絶対矛盾的自己同一》のサイトを しっかりと読んでみたいと思います。あまり問題にしないとしたとしても きちんとおさえておかないと大きなことは言えないでしょうから。  ひととおり読んでみます。

bragelonne
質問者

補足

 西田幾多郎の論文:  ◆ 《絶対矛盾的自己同一》   http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html  を読みました。  § 1 結論をまえがきします。  (1) 神学である。ただし そこから導き出した人間論は 実存主義思想に近い。   ◆ (四) ~~~  ( a ) 矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。  ( b ) 故に我々は神に対することによって人格であり、而してまた神を媒介とすることによって私は汝(なんじ)に対し、人格は人格に対するということでもある。  ~~~~~~~~~~  § 2 用語にかんする意味を読み取り その遣い方としての特徴を捉えます。  (2) 《絶対》:これは ふたつの意味があるようです。   (2-1) ひとつは 神の絶対です。この経験世界を超えたところ すなわち 非経験の領域。つまり人間には経験しうべからざる隔たりのある場 これが想定されており 《絶対》と言って表わす。   (2-2) この経験世界における事物や事象は すべて移ろいゆくモノ・コトである。生あるものは死し 有は必ず無となる。この《必然性》という意味を以って 特に《絶対矛盾》というときの絶対を表わしている。  (3) 《矛盾》:したがってこの用語にも ふたつの意味がある。経験世界に存在する時間的・有限的・可変的なモノ・コトが 有と無との相転移を起こすことを言う。  とともに このような有無いづれかの状態にあることを余儀なくされる経験世界を超えたところ――つまり神――と人間とのあいだの隔たりとしての矛盾。  (4) 《自己同一》:これらの術語から明らかになるように この場合の《自己》とは 大前提としては〔想定上の〕神のそれである。議論の前提としてそれに対するに《人間》としての自己は その神の自己(そして自己同一)とは隔たりを持つ存在性を言う。   (4-1) 有無が定まらない存在として矛盾を有する人間(ほかのモノ・コトも同じであるが)の自己は 《矛盾的自己同一》としてある。言いかえると 《自己同一》ではない。   (4-2) 《自己同一性》を 人間は自己自身の能力と努力とでは 保てない。可変的であり しかもこの変わり得るという性質には 心が定まらないことがありうると言っている。心変わりがあり得る。つまりは《矛盾的なる自己同一》である。その矛盾は 神と向かい合うなら分かるように《絶対》である。   (4-3) けれども それにもかかわらず ( b )の命題〔(1)〕を提起している。神を持ち出しているにもかかわらず 実存主義の思想に近い。  (5) 《一と多》:多義的である。   (5-1) 《一》は 個別の存在としての一であるとともに それら個物の全体としての一でもある。さらには この《全体としての一》を 非経験の場において超えつつ包含するその意味での――つまり神としての――《一》をも意味しうる。   (5-2) 《多》は 個物の集まりとしての多である。その集まりの全体を意味することもある。   (5-3) 次の命題は いかに読むべきか?  ◆ ( a ) 矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。  ☆ 《個物的多として》:これは《個物的多なる集まりの中のひとりの個物として》か?  《一に対する / 一に結合する》:たぶん《自己矛盾的に》というのは すでに解読したと思う。この《一》とは 何か? 《に結合する》場合には 神のことか? 《に対する》という場合には 人間としての――自由意志の有りかとしてそれぞれ違っているところの――人格存在としての一のことか?    (5-4) 《わたし》なる一にあい向き合うとき それは あやふやな同一性の自己である〔(4)〕ゆえ 高い次元の神の一に結合されて初めて一なる人格という状態に――なお移ろいゆくのであるが――成り得るのだと。すなわち続く( b )の命題が証明されたか?   (5-5) ちなみに ぶらじゅろんぬの定理ではこうである。    ・《わたしはわたしである》: 1=1    ・《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》: 1x1=1    ・《あやまつなら われあり》:1―→ (-1)x(-1)=1      ・自省ないし自己批判ないし《われに立ち帰る》    ・ 《わたしはわたしである》の自己表現なる文体:1x1x・・・x1=1      ・《われに立ち帰る》:1^n=1    ・文体とは 一なる《わたし》の連乗積(ベキ)としての軌跡である。  § 3 原文について例解をこころみます。  (6) ◆ (四) ~~~~~   ( c ) 斯(か)くこの世界が絶対に超越的なるものにおいて自己同一を有つということは、個物的多が何処までも超越的一に対するということでなければならない、個物が何処までも超越的なるものに対することによって個物となるということでなければならない。   ( d ) 我々は神に対することによって人格となるのである。而して斯く我々が何処までも人格的自己として神に対するということは、逆に我々が神に結び附くことでなければならない。   ( e ) 神と我々とは、多と一との絶対矛盾的自己同一の関係においてあるのである。   ( f ) 絶対矛盾的自己同一的世界の個物として我々は自己成立の根柢において自己矛盾的なのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~   (6-1) ( c / e / f )は すでに通って来た道である。   (6-2) ( d )で《ひとが 人格となる》というとき  ◆ 行為的直観  ☆ という用語を用いて説明している。《直観》には 神に相対するわれ――ないしそのヒラメキ――が言われているはず。《行為的》というのは ひとの生まれ存在するその条件つまり所与のものとして与件 これを受け留め受け容れて受け身であるだけではなく そこから――儚いながらも――自己同一でありつづけようとするその意志行為を言う。これが 《人格となる》ことだと言う。   (6-3) すなわち:  ◆(三) 我々が自己自身を形成する世界の形成的要素として、《行為的直観》的に物を把握する所に、真理があるのである。そこには逆に世界が世界自身を証明するということができるであろう。   (6-4) あるいは:  ◆(二) 個物は何処までも表現作用的に自己自身を形成することによって個物である。しかしそれは個物が自己否定において自己を有つということであり、自己自身を形成する世界の一角であるということである。  ☆ 《自己否定において自己を有(も)つ》:自省や自己批判として《われに還る》ときの《否定的契機》を言っているようである。ややこの否定の側面を強く推し出しているきらいがあると思われる。《自己自身を形成する》すなわちわたしの文体をかたちづくりこれを うんうんとどこまでも――わたしはわたしよりほかの人格ではないのだから――推して生ききる。と言いたいためらしい。また 神との隔たりゆえに その否定的な作用をしばしば出して来る。いわく:   (6-5) ◆(三) 絶対矛盾的自己同一の世界において、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するのではない、我々の魂をも否定するのでなければならない。  ☆ 《否定》だけに目を止めると おやっと思う。その矛盾においてしかもそれを超えるような自己同一を みづからも人間として形成ししかも 不可変的な一なる神から与えられると。言いかえると この人生の動態の時間においては あやふやな人間の自己同一はささえられていると。     (6-6) さらにこの《否定的契機》の文例として:  ◆(三) ~~~  それは歴史的過去として我々の個人的自己の生命の根柢に迫るものでなければならない、我々を魂の底から動かすものでなければならない。行為的直観の立場において、歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根柢から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。  ~~~~~~~~  ☆ この否定も 矛盾――すなわち 有と無 生と死 善と悪といった経験的な矛盾対立および それ以上に 神とのあいだの隔たりとしての絶対矛盾――を言いたいためらしい。読み違えやすいと言うか 表現に語弊があるようだ。つまり その《絶対矛盾》的にして さいわいなるかな 《われはわれなり。 / われあやまつなら われあり》としての立ち帰り得る自己同一へとひとは みちびかれて行くのだと。  これらが 人間の条件であると同時に すでに生きる場であり 言わば自由に選択しうるかたちで 生きる道が用意されている。道と言っても 見えていない。ゆえに 自由意志の出番となる。  (6-7) 人間にとって おのおのの自由意志の出番として捉えられるこのような世界は すでに人びとが生きて来た歴史と社会にあって むしろ《生産様式》という言葉で表わしている。  この《生産》には したがってむろん基礎として経済生活のことを言っており しかもそれだけではなく 政治および文化 学問および芸術のあらゆる人間の活動をふくむということらしい。  (7) うんぬん。さらにこうして 読み解いて行けると思います。  

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.12

>そこで争っているきみたち こころしてこの世のほんとうの成り立ちを知るようにしなさい。  高度な哲学を見つけ出したと思って《俺って凄い!》と思っていても この世界の成り立ちのほうこそスゴイ!と知って 身の程をわきまえなさい。 なにか勘違いさせてしまったみたいですが bragelonneさんへの皮肉ではなくO.Fさんへの警句なんですよ。 bragelonneさんは私には理解不能なだけです。 伝わってないかもしれないですけど、敬意を感じていますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  そうでしたか。分かりました。  でもそういうことですよね? 《対立》にかんしてはです。  そしてさらに もうひとつの解としては いまこんなことを思い浮かびました。  すなわち:   ○ (対立からの突き抜け) ~~~~  対立しあう双方の側が 互いに異なるところをしっかりと捉え 出来れば理解し合うようにする。    その互いに異なる対立点について どちらの側も さらにしっかりと保持しつつ話し合いをすすめる。  この違いについての相互理解 ここまでは両者ともに進み出て行くことが まづ求められる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.11

文献を教えていただきましてありがとうございます。 ところで、私も西田幾多郎さんの文章を分析してみたいと思います。 まあ、分析といっても、無意識に私の頭にある勝手理論で解釈しているので責任はもてませんが・・・ 西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一 最初のパラグラフ -------------------------------------------------------------------------  現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。 ------------------------------------------------------------------------ >現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。 以前お話した、ブレーキとシャーシとエンジンの関係ということです。 相互作用で形が決まるということでしょうね。 >しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。 極端に言えば、ジグソーパズルで1ピースが欠けたとしても、四方のピースによって欠けた部分が影として顕れる(再生される)ということに近いでしょう。 同じように、自然界も相互作用によって形が決まっていきます。 その様は、最適化することにより物が自己自身を否定すると言えるでしょう。 >物力は空間的なるものの変化とも考えられる。 空間に広がっているシステムの機能の顕れが物力ということでしょうか。 >しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。 ここはよくわかりません。個がシステムの機能の部分的な顕れならば、自ら!!!働くと言えなくなり、それは現実としてありえないということでしょうか? >現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。 前半はよくわからないのですが、後半は、自然はジグソーパズルのようにカッチリ規定しあうものではないしねということでしょうか。 前にお話した、ギョリュウとイルカが物理法則の影響により似たような形になった件ですけど 正確に言えば、全く同じではなく類似はシルエットに留まります。 ここらへんがヒントになりそうなんですが・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 前にお話した、ギョリュウとイルカが物理法則の影響により似たような形になった件ですけど 正確に言えば、全く同じではなく類似はシルエットに留まります。  ☆ この《フラクタル構造》から何を取り出してどう展開するかですが。  ★ ここらへんがヒントになりそうなんですが・・・  ☆ と言われているので 気になりますが まづは保留とせざるを得ません。  もぐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ▲(ヰキぺ:収斂進化) ~~~  収斂進化(しゅうれんしんか)とは、複数の異なるグループの生物が、同様の生態的地位についたときに、系統に関わらず身体的特徴が似通った姿に進化する現象。  § 魚竜とイルカとサメ   これらは水中を高速で遊泳する姿への進化である。  特にイルカと魚竜の場合、いずれも陸生動物からの水中への適応であり、非常に似た姿である。  魚竜は爬虫類でありながら卵胎生で子供を産む点でも共通する。つまり生理における収斂である。  また、体色においても(魚竜のそれは不明だが)背面の黒、腹面が白というほぼ共通の配色をもち、これは水中での保護色の基本である。  なお、サメ、魚竜は体を左右にくねらせ、尾ひれは左右に扁平なのに対して、イルカはむしろ垂直方向の動きで推進力を得ていて、尾ひれは上下に扁平である。部分的には選択肢もある、というところである。  ~~~~~~~~~~  ☆ イクチオ‐サウルス=魚‐竜。サウルスは 調べたら《とかげ( lizard )》のことですね。  さて 要するに たとえば:  ○ (もぐさんのこの世への警告またはお告げ) ~~~~  人間と人間がその思想やイデオロギーや宗教をめぐって対立するとき 双方の態度や行動は 互いに収斂進化する。つまりは 相似形を持つようになる。あたかも長年連れ添った夫婦のごとく互いに似て来る。  やはり世の中はフラクタル構造から成っている。  そこで争っているきみたち こころしてこの世のほんとうの成り立ちを知るようにしなさい。  高度な哲学を見つけ出したと思って《俺って凄い!》と思っていても この世界の成り立ちのほうこそスゴイ!と知って 身の程をわきまえなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言っていますか? まさかですか? ひょっとしてですか? むしろ当然だですか? 鼻水はなおりましたか?  ○ (世の中は 《絶対矛盾的自己同一》か) ~~~~  1. 種(たね)は 有だが そのとき花も実もまだ無である。  だがやがて 芽を出しまた根を張り 幹を伸ばし枝葉をつければ 花も実も成る。  無から有である。  2. しかもこの有が 萎(しお)れる。朽ちる。枯れる。  無に帰す。  3. 有と無とは 絶対的矛盾なり。しかも自己同一のもとにある。  4. かくのごとくして 木と木 水と空気 おれとおまえ きみとぼくは 全体として一なる宇宙のもとに それぞれが個別の存在体であり 多としてあつまっている。  5. それぞれが しかるべく移ろいゆくものであり その無から有へ・また有から無への変化は 言ってみれば 動から静へまた静から動へとその様相を変えるようなものだ。それだけだ。宇宙は その自分が 自己同一性としてあるのだから。  5. きみもぼくも それぞれ小宇宙である。しからば 一人ひとりが ミクロの自己同一性として存在する。ゆえに――あともさんから言わせれば―― 世に起きる《対立》などというのは 屁の河童である。  〔6. ちなみに かのニーチェの馬鹿に言わせれば――と ぶらクンがほざきますが―― 大きな宇宙も小さな宇宙も 自己同一性において 《永劫回帰》するのだとか。  けれども われと同じ DNA を持った人間は 過去には存在していない。《回帰》などしていない。  つまり 輪廻転生は 文学のみの話である。  この文学が 政治つまり統治のために古代インドのブラフマニズムなる宗教では使われたらしい。〕  ~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 対立はある。その現実をみつめなければならない。  ☆ というのが 質問者の立ち場であり いまもまだここでの問いです。  再考として:  ○ ~~~~~~  ひょっとして わたくし・ぶらクンは もぐさん・てふてふさん・わいわいえいとさん そしてそれらの人びととわたくしとの中間に位置してむしろ――人間性という同一性に立つからには――中道をうったえる あともなどすさん さらにそしてこれらの人びとの見解におおむね同意する訪問者の方々にさからって   つまりは 要するにわたくしは 世の中にさからって   おぉ 神よ いつまでこの不毛な対立はつづくのですか?    早く片を付けてください。   すでに何度も請求書を出しているぢゃありませんか?    どうして無視されるのですか?・・・  と言ったように神をなじっているとお思いになりましょうか?  回答者さんたちや訪問者の方々は もうちょっと気長にときを待ちなさいなと声をかけていらっしゃるのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の次のくだりで 舌足らずのところがありましたので おわびして訂正します。  ☆☆(本回答お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ○ (世の中は 《絶対矛盾的自己同一》か) ~~~~   ・・・   5. きみもぼくも それぞれ小宇宙である。しからば 一人ひとりが ミクロの自己同一性として存在する。ゆえに――あともさんから言わせれば―― 世に起きる《対立》などというのは 屁の河童である。   ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これですと あともなどすさんご自身の見解だと誤解されますので 次のようになおします。つまり あともさんは 西田見解をそのように解釈するという意味でした。ご自身の見解とは別です。   ● まちがい:・・・ゆえに――あともさんから言わせれば―― 世に起きる《対立》などというのは 屁の河童である。   ◎ ただしい:・・・ゆえに――あともさんから言わせれば 西田見解は 次のように言っているに過ぎないと見られる つまり―― 世に起きる《対立》などというのは 屁の河童であると。

回答No.10

こんばんは ブラさん(と呼ばせていただければ) >☆ わたしは つぶさにはよく知りませんが けっきょくどうも西田幾太郎に軍配が上がるような気がします。いまの状態ではです。  西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一 最初のパラグラフ -------------------------------------------------------------------------  現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。 ------------------------------------------------------------------------  ぼくはこれを次のように解釈しました。我田引水と思われるかもしれないですが,彼の思想はぼくが素人ながら親しんできた古代ギリシア哲学思想が背景として感じられているので,同じ道を歩む人に思えるのです。  現実の世界は一でもあり多でもあると言え,その現実は有るとも無いとも考えられ,その部分である物によって動的であるとも静的であるとも言える。(古代ギリシア哲学者がそう言ってきたように。)ならば,どちらかであるとせず,そのように考え言い得てきた世界を,ありのままに(矛盾したままの状態で)構想して,現実の世界を絶対矛盾的自己同一と言うことにしよう。 (異なる存在者における矛盾は相対的であるが自己が自己に矛盾するものは絶対的に矛盾であり,絶対的矛盾をどこまでも内包しつづける限りにおいて自己同一的である)  ここでの対立者は矛盾概念です。有と無,一と多(一と零は,前項,有と無),動と静。これは大事なことで,愛憎などは,古代ギリシア哲学者でそれを用いた説を述べた人はいても,西田氏は構想に組入れなかったのです。そしてこの矛盾,思想史的には動と静をめぐる論争がありました。あくまで静的世界にとどまるエレア派(パルメニデス,ゼノン)対するはヘラクレイトス。有と無,一と多に関してはパルメニデスが背景に,特に後者は一多論。これはプラトン『パルメニデス』のなかで,同じ前提から,互いに矛盾する結論を導く論で,自己論争的です。はっきりいって内容の無い屁理屈がそれらしくながながと推論されていくんですが,矛盾する結論がそのオチで「おやっ」と思うわけです。  古代ギリシア哲学がアテナイ期にはいってソフィストが活躍したころ,プロタゴラスが『人間尺度論』これは,相対主義が明確に示されています。いわんとするところ,何とでも言い得るのだから「勝手にしろ」なのか「お先真っ暗」なのか分かりませんが,矛盾する両論をも内包できる思想です。  ぼくが思うに,ブラさんの対立に関する意識と,西田氏の矛盾に関する意識には齟齬があるのです。  ブラさんは,現実世界に解消することが難しい対立があると仰っていますね。西田氏は内部の対立なんか屁とも思っていないとも。  西田氏は解消することが不可能な対立すなわち古代よりあるアポリアである矛盾を「解消するわけ無い」として現実の認識形式に取り込んで「…でなければならない」「…でなければならない」と構想したのです。矛盾対立を利用した認識の形式を構想して,それによって現実を見ていこうという立場なんで,争うべき対立ではないんです。  それと,この人為的構想は,実は先天的な認識形式のうちにあって単にその自覚ということもできます。ぼくが思うにですよ。  で,ブラさんが絶対矛盾的自己同一に,今のところはと条件付きで軍配をあげてらっしゃるのは,そういう齟齬ことなのかなと思いました。違っていたらすみません。

bragelonne
質問者

お礼

 あともさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。きちんとボールを返していただきました。  やはり西田幾太郎の説についてのわたしの解釈があいまいでしたか。  むしろ《対立》とは言わず 《矛盾》と言って これが絶対的なものだと捉える。おそらく物の有ると無いとの間に矛盾を見るのでしょうか? しかもその上で 物と物との関係としては 相互依存関係にあって全体として《自己同一》と見ざるを得ないとする。  そしてわたしの場合は  ★ (異なる存在者における矛盾は相対的であるが自己が自己に矛盾するものは絶対的に矛盾であり,絶対的矛盾をどこまでも内包しつづける限りにおいて自己同一的である)  ☆ というようにまづ捉えるとき ここでの《自己》についてもその範囲を拡張するというものでした。 宇宙なら宇宙としての自己あるいは人類なら人類としての自己であると解釈してもよいのではないかというものでした。その解釈がゆるされるならば 西田に軍配が上がるかも知れないと。  ただし 西田は 矛盾は矛盾としてあり そのままあってよいとした上で 自己同一を言う。だとしたら 対立物の一致というのとは どうも筋が違うようですね。《自己同一》という表現の中に 《対立物の互いに衝突するような動きをも含め得るとすれば また話は広がりますが。  けれどもさらにただし  ★ 愛憎などは,古代ギリシア哲学者でそれを用いた説を述べた人はいても,西田氏は構想に組入れなかったのです。  ☆ ということなのですね。つまりは それだけではなく  ★ 矛盾対立を利用した認識の形式を構想して,それによって現実を見ていこうという立場なんで,争うべき対立ではないんです。  ☆ ぢゃあ もう西田はあまり出さないほうがいいようですね。  ★ それと,この人為的構想は,実は先天的な認識形式のうちにあって単にその自覚ということもできます。ぼくが思うにですよ。  ☆ つまり 世界はすべて《自己同一》のもとにあるといった宗教ということでしょうか?  あらためてですが わたしは あともさんのご見解を解釈してこう表わしました。そしておおむねにおいて それは もぐさん・てふてふさん・そして新たに わいわいえいとさんを加えて四人の方々が思っておられるご見解であろうと考えます。  ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~   どういうことか?  ○ 人間 A と人間 B とが他人であっても そこには《〈人間〉という通底性》がある。つまりは《じんるいの一員という類的同一性》のもとにある。のだから やはり互いは互いにとって いかに対立をしていても 《内部としての対立》である。そこにおさまる。だとしたら 潜在性と顕在性とが いろんな要素についてそれぞれ相転移を起こしつづけて行くといった状態および情況として捉えればよい。互いは大きくは 協調関係にある。  これだと思います。  ○ いづれじんるいの DNA がそれとしてはたらいて 自己組織化なりあるいはひょっとすると自然淘汰なりとして しかるべく変化してゆくであろう。   こういった所謂る大きな視野としての自然史過程に すべての対立はおさまって収束するであろう。  と。  ~~~~~~~~~~  ☆ わたくし・ぶらじゅろんぬクンとしましてはですね この大きくは自然史過程にしたがうというところは 同感なのです。  しかも同時に もし対立関係があると見たら それを話題として取り上げ皆で考え合う。こういうことをつけ加えて言っている。それだけだとも言えますし その対立ということを持ち出すということは この和を以って貴しと為す国にあっては 至難のわざであるようになってしまっているとも考えられます。そこをどうすればよいかと尋ねています。むつかしいことは やめたほうがよいのかどうかです。  ★ 動と静  ☆ これは おっしゃるような顕在・潜在の相転移という見方で捉えられるように思います。  ★ 一と多  ☆ これは むしろ《多》が 個体としての《一》がいくつか集まっているときの《多》とするのがよく その《多》に対する意味での《一》は 多を包括する全体としての一を言うとするほうが すっきり規定できるように思いますが どうなのでしょう?  ★ 有と無 愛と憎 善と悪  ☆ これらは 対立する概念だと見ます。(わたしの場合は 主観にもとづく判断を基礎としていますので その主観が共同性を持ちがたいという場合には 哲学の議論になじめなくなることもあり得ますが)。  古代ギリシャとの異同で触れておくべきと思われたところがありましたら おしえてください。  そうして 話があまりすすまなくなっているとも見えますので No.9のわいわいえいとさんへのお応えの中で ひとつの例題を取り上げました。    ○ この哲学カテにおいて ブロック制度を使用するのは 対話を拒みまた阻みあるいは対話の相手に例外をつくることになるゆえ いただけない。のではないか? それは哲学の精神に反する。  このブロックが対立関係をつくること もしくはすでに作っているところへ上塗りをするといったことについては 皆で話し合って出来るものなら共通の見解を立てておくのがよい。と。  さて どうなりますか。

回答No.9

 ブラジュロンヌさんは“哲学”の人ですね。  質問や返答を見ながら私の“考え”が少しづつ言葉に置き換えられていきます。  哲学は“理”の世界。信仰は“情”の世界。宗教は“理と情”を含む世界。    こうした捉え方はブラジュロンヌさんにとっては至極当たり前でしょうが、改めてこう認識すると私なんぞ、こうした捉え方でいいのだと“此処”では気持ちが落ち着きます。  広大な空間を含めた“宇宙”から、物質を構成する原子分子に至るまで、それらは総て“同質”と思えば、そして人が心を持って想定する“神”を精神世界の“事柄”とするならば“悪魔”も精神世界の事柄で、それらは同質と言いたくなります。  神としての精神も悪魔としての精神も、人間と云う肉体(物質)に宿る心も“精神”として同じと思えばブラジュロンヌさんの問いは自ずと知れるのではないでしょうか。  質問で取り上げたことは、要するに「同質」だ、という事を言っているのだと思います。  大海を宇宙の本質とするならば岩に砕ける波しぶきも個々の“宇宙”なのだと。    

bragelonne
質問者

お礼

 こりゃあまた 豪快な哲学なのですね。その意気込みのままに進み得ればよいのですが。  わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 質問で取り上げたことは、要するに「同質」だ、という事を言っているのだと思います。  ☆ ですか。  たしかに 何度も出て来ますが 西田幾太郎が   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という命題にまとめたことは この《自己》を宇宙であるとか――あともさんのように――じんるいであるとか あるいは 要するに世界(つまり字義は時空間のこと)の全体であるとすれば すべての存在や現象が互いに同質であり同一でもあると考えられて来ます。そのような基礎に立つなら みな――喩えがわるいかも知れませんが―― 同じ穴のムジナだということになります。  ★ 大海を宇宙の本質とするならば岩に砕ける波しぶきも個々の“宇宙”なのだと。  ☆ したがって 海のおもての波風も嵐も そのような対立関係があったとしても 互いに運命共同体の中におさまっており 相互補完している。とも見られて来ます。  しかもさらにご見解に同調しようと思うには   ★ 人が心を持って想定する“神”を精神世界の“事柄”とするならば“悪魔”も精神世界の事柄で、それらは同質と言いたくなります。  ☆ まぁこれは げんみつには 《神》は この経験世界を超えたところに想定されますので その点はあいまいになっていますが 問題は アクマもあたかもこの経験世界の中に観念としておさまると言えたなら もはや怖い物無しであるかも知れません。    じつは 【Q:カインは なぜ・どこが わるかったのか?】で    例のエデンの園の《へび》という主題が出て来て これはアクマで   あったとしても そのような通念として人びとに持たれたかも知れ   ないが けっきょく通念であって人びとのあたまの中に巣食った観   念であるに過ぎない。――こう仮説を立てて 問い求めましたし 今   も問い求めつつあります。  ただし。ただしです。ただし アクマが引っ込んだとしても 人間がおのれの心にさからう《負の善 すなわち 悪》は それほどかんたんになくならない。のではないか?  もっと身近な話をしましょう。  それは この Q&A でのブロックという制度にかんしてです。つらつら考えるにですが これは 哲学カテには 無縁なものとして認識せざるを得ないと考えられるのです。  わたしたちは 話し合いをつうじて哲学を推し進めるというのに・そしてその相手としては例外を持たないゆえに哲学という問い求めや互いの対話が成り立つというのに ブロックという手段を使うことがある。  つまりは言いかえると 知恵を出し合うことに 人によって参加者としての例外を自分の判断でつくるということ。これは 哲学のおこなうことではない。こう考えられます。(もちろんわたしも その前科があるわけですが)。  言わば マイナスの善です。或る種の仕方でアクマでなくても その手下のようなアッキ(悪鬼)であるとなります。  この負の善と そしてふつうの善とは やはり対立します。われわれ人間は その生活および互いの共生において アッキとは対立関係にあります。  ですから もし《万機公論に決すべし》であるとするならば このような対立関係をやはり話題に取り上げるべきです。  そのような問題について 対立物の一致は 《絶対矛盾的自己同一》といった自然史過程において 得られていきましょうか?   まとめますと:  なるほど この世の存在や現象は すべて例外なく経験事物ないし経験事象として大きくは――神の目から見れば――互いに地続きである。同じひとつの運命共同体の中におさまる。  ならば 大海の表面に起こる波風については どんなに対立関係が繰り広げられていても その対立物はやがて合一し一致を見る。こう言い切っているだけでよいか?  こうなります。わたしはまだ《対立》はそれがあるなら きちんと取り上げて話題に挙げるのがよい。と思っています。  なお  ★ 信仰は“情”の世界。  ☆ これはくわしくは 信仰はヒラメキの世界だと思います。そのヒラメキは 知覚をとおしてイメージや直観となって得られるので・そしてそのあと 理性によって言葉化され論理的に整理されるということですから 《情》の世界ということと通じているのかも分かりませんが。

bragelonne
質問者

補足

 哲学のやり取りとしてお褒めにあづかっていました。  光栄です。  お応えしそびれていました。  

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.8

こんばんは。 >すでに《対立物どうしの対立》じたいは それはそれとしてあるのだという前提に立って お答えを寄せてもらっている。こうだと思われます< その通りなんですよ。私は、欲求と感情と感覚はとても密接に関係していると考えた訳であります。 野生動物に於いては、人間より知能は低いでしょう。しかし、自己の欲求がない時は、目の前にどんなに美味しいものがあろうとそれは、只の日常風景となるのではないかということです。 たとえば、ライオンで考えるとお腹が一杯の時は、目の前に美味しい草食動物がいても彼の感覚では、日常風景であり無ともいえます。メスライオンを見つけても発情期でなければ只の仲間です。 植物で考えるともっと分かりやすいですね。ヒマワリは、光で光合成をおこなうときお日様の方に向きます。水が足りないと萎えてしまいます。 このように、あらゆる生き物は、欲求に於いて目の前のものを感覚で有と認識し、そして、人なら欲求が満たされ満足だ嬉しい、楽しいとなると思います。その対象物が自分の欲求から外れていれば、只の風景=無に等しい。 私は、全てのものは、欲求と感覚と感情と結びついている。それは、切っても切り離せないものである。人に於いては、さらに自己の感情を満たすために理性を発展させてきた。 人は、感情がなくなったら、他の生き物と変わらなく欲求が優先する、そして、感覚で有か無を判断する。飛躍しすぎかもしれませんが、人に於いては感情こそが有と無を不安定にしている一因だ。他の生き物に於いては自己の欲求がある時は有であり、ない時は無ともいえ何も矛盾しないと考えました。 結論として、まさに、生きているという実感とした訳です。 >まづお伝えしたいと思うことは 前二者のご回答でのやり取りを参照していただきたい< 楽しく拝見いたしております。私は、敢えて違う考え方を示してみました。

bragelonne
質問者

お礼

 てふてふさん ご回答をありがとうございます。  けっきょくのところ・つまりは話を煮詰めて言ってしまえば こうなりましょうか?  ○ 対立とは もしそれがあるとすれば 一人ひとりの《実感》どうしが ぶつかり合う場合であり そういう状態を言う。  どうでしょう? しかもこの対立は それぞれの《実感》が潮の引いて行くように引いて行けば もう問題はないのだと。もちろん そのときしかるべき努力は 対立の緩和や解消のためにすることは 言うまでもないこととしてだと思います。  理性で解決しようとするよりも 実感によって判断してよいのだし この実感の行方をそれぞれ見守って行けば おのづからどこで手を差し伸べればよいかも分かって来るのだと。  この質問をめぐる回答者さんそれぞれの見方考え方について 少し述べてみました。それは あともなどすさんの回答No.7のお礼欄にてです。  もぐさんをも含めて みなさんお三方ともども 対立は 解決されるべき対立であると見ていらっしゃる。これが基本である。そしてそれは 一般に対立を 決して話の合わない外部どうしの対立と捉えることはないのであって けっきょく内部における対立におさまるのだと見る恰好である。そのゆえにも やがて解消されるであろうと見る。  そんなことを No.7お礼欄に書きましたので それをも参照していただければさいわいです。  そうしてそのあと わたしのように なかなか解消しえない対立もあるのではないかという捉え方にも 再考する余地があればしていただく。そういう段取りを考えました。  わたくしも 静かに考えてみます。

回答No.7

あとも:回答の続きです。  ★ 互いに相転移する者どうしは,相補的な(そして相互に隠覆し合うようような)関係にあり,これは対立関係にあるのではなく,協調関係にあると言えます。  ☆ ここで 次のような例として考えます。  ○ 《相転移する者》を 人間とし たとえば《やさしさ》と《にくしみ》とが互いに相転移すると見ます。つまり 同じ人間どうしが 相向かい合っている場合です。  ★ 厳密には《やさしさ》は,《やさしさの有性》と《やさしさの無性》が対になります。これをYとyで表しましょう。同様に《にくしみ》をN,nとします。 人間Xの状態をiとして,Xiは,X0(y,n),X1(y,N),X2(Y,n),X3(Y,N)が可能です。 《やさしさ》と《にくしみ》とが互いに相転移するとして設定することはありません。  ☆ この場合 どうでしょう? つまり 二つの――互いに対立しうる――ものを 実際の存在としては A ≠ B だと仮定し 《自己同一》ではないとした場合です。人間という存在なら 互いに意志の自由において社会的に独立していると言えるでしょうからその意味で A ≠ B です。  ★ 実際の人間存在をもちだすなら,無限の属性を持っていますからA ≠ Bです。しかし,対立者として捉える場合は,無限の属性を捨象して,問題視している対立項において対立者とみなすべきです。  ☆ 1. 人間 A と 人間 B とは 《相互補完する(そして 相互に隠覆し合うような)関係にある》と言えるか? そういう場合があるか? ――これは ふつう言えましょうね。ふつうにそういう場合はあるでしょうね。互いに助け合うことがあります。  ★ 調和の構想では,人間 A と 人間 B とに相補性を設定しません。ある属性の有性無性を相互補完の関係に設定します。  互いに助け合うということを相互補完すると言えますが,ぼくの調和の構想には当てはまりません。  ☆ 2. よって  ★ これは対立関係にあるのではなく,協調関係にあると言えます。  3. のですが そうなのですが これは そういう場合があるというだけでもあります。つまりは やさしさが 憎しみに相転移することがあり得ますから その意味で対立関係に成り得ます。潜在していたものが 顕在してくることがあり得ます。  4. そのときこの二項対立は つねに一致へと・つまりは協調関係へと必ず成ると言えるか?  こういう問いになってます。  ★ おっしゃっているのはもっともです。ですが,ぼくの構想は,Aさん,Bさんそれぞれに,ある属性の有性無性を(ここでは,Y,yとN,nそれぞれに)相互補完の関係に設定しています。はじめから協調関係です。  ここでの協調とは,人と人との協調ではなく,Y,yのどちらか一方が顕在化すれば,同時に,他方は潜在化するということを言っています。Y→yによってn→Nとなるわけではありません。  やさしさが 憎しみに変わるように見えることはあっても,《やさしさの有性》が《にくしみの有性》に相転移することはあり得ません。「異なるものから異なるものへの変性が,どうして成り得ようか」というような論駁回避の構想です。  ☆ もっと言えば じつはこのとき:  5. このときには A なら A という一人のひとの《自己同一》の中でじつは この《やさしさ》と《にくしみ》との内部の葛藤にかんしてなら 調和を得ることが出来るかも知れません。《わたし》という全体としての存在そして中んづくその《意志》においては 憎しみを超えて 相手の B の《わたし》としての存在をそれとして――何も具体的には出来なくとも――受け容れていることは出来る。  6. そのとき A なる《わたし》には B に対する気遣いや心配こそあれ すでに心は晴れあがっています。すがすがしき心で B を見守っていることでしょう。  ★ そうですね。葛藤の解消: A(Y,N)→A(Y,n) または,A(Y,N)→A(y,N)の うち前者, にくしみの潜在化ですね。  ☆  7. でも・それでも B だけだとしても そこには《対立》が起きています。そして おそらく A なる人物の努力も人徳も かなしいかな 及ばず それはふつう一般に《けんか状態にある》という対立関係のこととなります。  ★ そうですね。おっしゃるとおり,A(Y,n)であっても,B(Y,N),B(y,N)なら対立関係です。  ここでふと思うのですが,A(y,N)/B(y,N),は内部においても外部においても一致してますが,好ましくない関係ですね。    そこで,aのbに対する憎しみの有性をN[ab]と表して, A(y[ab],N[ab])/B(y[ba],N[ba])で不一致となるようにしておきましょう。  この不一致は,当事者同士が憎み合う姿を,第三者として自己の内に表象して好ましく思っていないわけです。当事者の心の内はどうか分かりません。このような場合に,この第三者は,不一致を解消したければ,努力すべきは,  N[ab]→n[ab],N[ba]→n[ba]  y[ab]→Y[ab],y[ba]→Y[ba]   ですね。   ★ ~~~~~~~~   >(ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  その通りですね。そして,肯定的主張と否定的主張があるのも現実です。どこまでも相容れぬとしても,調和のへの道が閉ざされているわけではありませんね。  ~~~~~~~~~  ☆ とおっしゃったこと この同じ方向を質問者も向いていますし 見ようとしていますが まだその具体的な道が見えて来ない。残念ながら こう思うのですが 果たしていかがでしょう?  ★ そうですね。具体的な道が見えて来ませんね。感情や意志が関わると難しいです。 ただ,例えば,次のような理性的な認識の対立の場合,  天動説:天は回り,地は不動  地動説:天は不動,地は回る 互いに相容れないし,どこまでも相容れない。しかし,両者互いに相容れぬ両説を包容することで一致する。という方向性は見えています。 以上です。長文失礼いたしました。

bragelonne
質問者

お礼

 あともさん 一夜が明けてこんにちは。詳細な説明のご回答をありがとうございます。  そうですね。  この弁証法論理学をもうひと伸び うかがってみたい気もしますが 質問の趣旨と少しズレルかなとも 残念ながら 思ったりします。    ★(回答No.6) そうですね。内部の対立の捉え方が,外部の対立に適用できればという願望から大風呂敷を広げてしまいました。  ☆ つまり 《内部対立》論を主眼としておられる。すべては ここに帰着するのではないかと思った次第です。  どういうことか?  ○ 人間 A と人間 B とが他人であっても そこには《〈人間〉という通底性》がある。つまりは《じんるいの一員という類的同一性》のもとにある。のだから やはり互いは互いにとって いかに対立をしていても 《内部としての対立》である。そこにおさまる。だとしたら 潜在性と顕在性とが いろんな要素についてそれぞれ相転移を起こしつづけて行くといった状態および情況として捉えればよい。互いは大きくは 協調関係にある。  これだと思います。  ○ いづれじんるいの DNA がそれとしてはたらいて 自己組織化なりあるいはひょっとすると自然淘汰なりとして しかるべく変化してゆくであろう。   こういった所謂る大きな視野としての自然史過程に すべての対立はおさまって収束するであろう。  と。  じつは この視点は 考えてみれば ほかのお二人にも共通であるようにさえ思われます。  個人の能力や努力には限界があるとしても 人類の全体としてその知恵は それとしてはたらくであろう。だから 出来ることだけおこない切り地道にあゆんでゆけばよいのだと。てふてふさんは おそらくもろにそういうお考えであろうと思われますし もぐさんも じつは心の奥底では そのような自然史過程の流れにのっとるのだとおっしゃるかと思われます。  あるいは 何度も出しますが 《絶対矛盾的自己同一》と言った西田幾太郎にしても その意味での《内部対立は 取るに足りず》派を形成しているのではないでしょうか?  あともなどすさんは この《自己同一》の自己を けっきょく上に見たとおりであるならば 人類にまで拡張された。こういうことだと見ます。  てふてふさんは そのときつねに言わば積極姿勢でことに臨むという恰好である。  もぐさんは それにくらべると幾分 斜に構えて 危機をあおることなかれという警鐘を鳴らすだけではなく そのような警世の言葉というのは たとえ論理的にしっかりとした議論であり主張であったとしても 腹八分目に聞いておけばよいのだ。やぶにらみして 受け取るなら それで ちょうどよい具合いになるはずだと。  ちなみに 次の論理などは むしろもぐさんの遣うものであるかにさえ思われます。  ★(回答No.7) ~~~~  ただ,例えば,次のような理性的な認識の対立の場合,  天動説:天は回り,地は不動  地動説:天は不動,地は回る  互いに相容れないし,どこまでも相容れない。しかし,両者互いに相容れぬ両説を包容することで一致する。という方向性は見えています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この事例などは 人工衛星を打ち上げるのに どちらの学説にもとづけばよいか。この判断基準において 決まるのではないでしょうか?  つまり・つまり 質問者の言おうとするところは 対立は対立であり その対立関係の中身をしっかりと知らなければならない。と言うのであって もぐさんらの見方では 初めに《対立》だとか《批判》だとか あるいは《お二階さんは アマアガリ症候群に罹患している》とか《そろそろ お二階さんは 一階の市民社会に対して大政奉還すべきだ》とかいうふうに 危機や敵対関係をあおる表現を出してはいけないというものだと思います。  あともさんは その中間にあって あくまで論理で分析ししかるべき答えを出して行くのが筋だと。こうおっしゃる。   人間:H〔omo sapiens 〕  とすると こうなると見ておられますか?   ○ (対立とは すべて 内部対立である) ~~~~~~  すべての対立は 内部対立であって その根底には つねに両者のあいだに共通性がある。その共通性においては じつは対立者どうしは 《同一》なのである。     H ( A, B, C,・・・・X )     あるいは その人間の状態( i )がいかにあっても同じなのだ。     H ( Ai, Bi, Ci,・・・Xi )    または     Ai = f ( H ), Bi = f ( H ), ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは つぶさにはよく知りませんが けっきょくどうも西田幾太郎に軍配が上がるような気がします。いまの状態ではです。   (δ) 絶対矛盾的自己同一  まぁ 別様にも《両極は相通ず》とも言いますが つまり言いますから そのような見方にはそれ相応の顧慮を払わなければならないのでしょうが どうなんでしょうねぇ。  対立は一たん起きれば 対立としてあって けっこう長くつづくようでもあるのです。その点にいちど注意を払っておきたい。こう思ったのが きっかけでもあったわけですが。  こうなって来ますと 案外その例示は いまちょうど挙げている質問の【Q:《押し籠もり》】という事態に求めるべきかも知れません。  コミュニケーションの途絶。この一語・この一事に 《対立の対立たるゆえんの問題》があると思われて来ました。自分から送信はするが 相手からの受信はしないという半ば鎖国状態にある人間の思想(生活態度)のことです。  これは 対立を事立ててしないという関係を呈している対立だと思われます。  果てさて ここまで述べて ボールをそちらのコートに打ち返したこととしましょうか。もうボールは返って来ないかも分かりませんが ここでどうなるか。考えてもみたいと思います。

回答No.6

お礼ありがとうございます。あとも(気に入りました)です。  ☆ さて あともさんのお考えですが たぶんそれはまづ 内部における対立と外部どうしの対立と その両方を扱われていると思います。  ★ そうですね。内部の対立の捉え方が,外部の対立に適用できればという願望から大風呂敷を広げてしまいました。  ☆ まづ根から芽が生じ やがて太い幹にも成り枝葉を繁らせる。これは 《自己》の内部で――必ずしも対立していたわけではありませんが―― 潜在するチカラがはたらいたと見られます。  ★ ごもっともです。  もの(存在)を要素として,ものごと(現象)を表現する場合に,論駁に耐えるため(無用な論争を回避するため)の構想をぼくは提起しました。    その構想では,はたらくという現象を表現する場合,はたらきという存在を要素として,はたらきが有る,はたらきが無い,の転移と見るとよいでしょう。  二相において相補性を発現するように,必ず矛盾概念で一対にします。  また,チカラという存在を要素とし,チカラの有性・無性の転移ではたらくという現象を表現してもよいでしよう。ただ,この場合は,潜在するチカラの有性ははたらかず,顕在するチカラの有性がはたらくと定義され,違和感があるかもしれません。  ☆ 自己の内部で 今度は卑近な話になりますが このケーキを食べようかやめとこうかという対立する考えがあるとき これはおそらく それらを一段高いところから自己のもとにおさめて判断する意志によって どちらかが決められます。  ★ そうですね。対立には,時間的対立(時系列上の対立,同時的対立),無時間的対立があると思いますが,この例は時系列上の対立でしょうか。  ここに書かれた意志決定の例では,食べる意思(A)と食べない意思(B)を存在要素として,それぞれの相転移がパラレルに起こっていると見ます。 (A)/(B)が, (顕在○)/(潜在×)で,「食べる意思」が表象されています。 (潜在×)/(顕在○)で,「食べない意思」が表象されています。  同期した相転移が,短い周期で頻繁に起こっている,○/×,×/○,○/×,×/○,○/×,×/○,○/×,×/○,・・・のような状態は,意思あって意志がない優柔不断な状態であるといえるでしょう。この状態に問題(時系列上の対立)はあるとしても,(同時的)対立はありません。  しかし,つまり同時的対立もあると思うのですが,同期がくずれて,○/○,の状態が,転移の状態の変化のなかで主勢となって強く現れだすと,これは葛藤と呼ばれるでしょう。対立する意思が同時に顕在化することは不自然と思いますが,おそらく,たとえば眠ることに食べないことが結びついていたりして,眠る意思に引きずられて起こるのだと予想されます。  ☆ 相手にウソをつこうか どうしようかと迷うとき これも 同じく全体としての意志による決定が それとしての対立物の統一を果たします。  ★ そうですね。この迷いはかなり複合的でしょうね。プラトンの『国家』だったと思うんですが,「人はただ善いと思ったことのみを行うのであって,悪いと思ったことは決して行わない」ということが議論されていました。仮にそうだとしておいて,認識判断のみに着目すると,(A)ウソをつくことと善の結びつきがあること(B)ウソをつくことと善の結びつきがあること,を存在要素としてそれぞれの相転移を構想します。それれに悪のバージョンを重ねないといけないですね。複雑です。  あくまでこの構想は対話者が,対立物の統一を,論証できないから否とする場合に備えての段取りであって,対立物の統一を認める相手には無用でしたね。  ☆ 例示がすべてを網羅しているかどうかあやしいようですが それでも一般に 同じひとつの《自己》の内部における二項対立は あまり問題にならない。のではないかとも考えられます。《自己経営》の範囲内におさまるものごとは 葛藤や問題がつづくとしても いちおうその《自己》の判断にまかせられるという意味において。  ★ そうですね。自己内部(個人)の問題はさておき,自己外部(社会・世界)の問題に論点を定めましょう。  ☆そうしますと   ○ 潜在有が 顕在有となるというときには その以前の状態において顕在有であったものというのは あらたな顕在有となったものと 同じ自己であるのかないのか。  これが問われて来ます。《対象1 / 対象2》と記されていますが いま簡単に《 A / B 》と言うことにしますと そして A ≠ B なのだとしますと どうでしょう?  ★ 存在の恒常性から,同一自己が潜在,顕在を繰り返すと答えねばなりませんね。そうでなければ論理破綻し,構想も破綻します。  時系列上に現れるA ≠ B は,存在において同一者です。昨日の彼と今日の彼は,一度は私の前から姿を消したし,服装も態度も心持も変化しているけれど,ただ有性において,同一者です。  同時に現れるA ≠ Bは,例えば夫婦であり,偶然そこに居合わせた他人同士であり,それぞれ別人として異なる人物の一組であるけれど,共に有性が顕現しているのであれば,それについては区別することができない。不可識別者同一の原理から,同一者である。ということです。   ○ A なる潜在有が 顕在化して有となった。これは それ以前の B なるものの顕在有とは別のものではないか? それとも B と見えていたものも じつは A と同じものだったということなのか?  ★ 同じものです。潜在的な有が,個々に顕在化したとき,潜在相のなかでも顕在相の中でも区別はできません。   ○ もし A と B とが別のものであるなら 同じ一つのものの相転移であるのではなく そうではなく別々のものの顕在と潜在との交替である。  となります。そしてそれは 対立物の一致ではないはずです。よね?  ★ A と B とは別のものであるとは,互いに異なるものを顕現しているということであり,互いに同じものを顕現して一致し,A と B とは別のものでなくなるということです。この意味では,対立物(対立者)の一致が可能となります。  対立物(属性)を例えば有と無にすれば,これらはあくまで一致しません。その意味では,対立物(属性)の一致はありえません。  ★ ~~~~~~~~~   顕在相の有(対象1)と顕在相の無(対象2)が対立者です。   ─────────────────────────────   潜在層の無(対象1)と潜在相の有(対象2)が協調者です。  対象1が単独に相転移しますと,顕在相の無(対象1)と顕在相の無(対象2)が同一者として顕在することになります。無性において識別不可能でありこれらは同一です。相対者から絶対者に転じると言えます。  ~~~~~~~~~  ☆ これについてつまり:   ○ A が潜在化して 顕在相では無となったし B は もともと潜在化しており 顕在相で無である。そのとき A も B も 顕在相では 無である。と言っているだけですよね?   ★ そうです。  ☆ つまり  ★ 同一者として顕在することになる  ☆ かどうかは A と B とが もともと同じ一つの《自己》のものにあるという場合に限られて来ます。  ★ そうです。個の同一表象《自己》のうちに,A と Bはあります。  ★ 無性において〔* つまり 顕在相では 無であることにおいて A も B も〕 識別不可能でありこれらは同一です。  ☆ というのは どちらも潜在しているから その潜在性において同一であるのであって ものが同一であるかどうかは まだ分かりません。ですよね?  ★ いいえ,顕在相においてA も B も有である場合にも同一です。2つの有性も,2つの無性に劣らず,区別できないので同一です。これは不可識別者同一の原理に基づいています。  何故に2つの有が1つなのか。A も有り, Bも有りと認識できている時,そこには必ず,有性以外の属性の対立があるはずです。いまこの場合について言うと,A と B の識別記号です。これは本来識別されたものに付与すべき記号であり,区別されないものに用いる記号ではありません。区別されない同一のものとなれば記号もそれに伴って変えるべきでしょう。  A→B ゆえに (A,B)→(B,B)→B であり,対立者が一致すると言います。 回答続きます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  何かお慰みになるものでもお出ししようかと思いましたが 案外思い浮かびません。  また お示しの弁証法理論について いぢわる好きの虫が動いてちょっかいを出して見ようかと思いましたが 案外うまく行きません。  いちおう次のNo.7のお礼欄にて ひととおりのお応えを書けたと思います。そう見なします。  もしさらにご返答が聞けますものならば それについてあらためて考えてまいりたい。そう思います。どうでしょう。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.5

訂正です。 誤  残りの 行=意思 と 認識=記憶 の関係ですが 対象に対する立体的な理解というのは、視点の移動が不可欠ですから 視点の移動=行=意思、立体的な理解=知解 となるかと思います。 正 残りの 行=意思 と 認識=記憶 の関係ですが 対象に対する立体的な認識というのは、視点の移動が不可欠ですから 視点の移動=行=意思=実行、立体的な認識=認識=記憶 となるかと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  細かいことを言えばですが:  例によってフラクタル構造がハタラクと言うべきでしょうね。  つまり  ★ 視点の移動=行=意思=実行、  ☆ この《視点の移動》もしくは視点の《探求やその設定》のときに ものごとの認識ないし知解が 不可欠だと思われること。  ★ 立体的な認識=認識=記憶  ☆ 記憶は 認識もしくは知解したものを 整序するハタラキであると思われること。  間違っていたら また訂正してください。  たとえば 身と心をめぐるわが心としての精神があります。これが その言わば原点としてなら 記憶です。  この精神が精神する。そのように記憶の倉庫から その今必要な知識や情報を引き出して来る。これが 知解である。  記憶としての精神が精神するとき 知解作業が起こる。これら精神と《精神が精神する》とが相合わさって わが存在をとうとぶ。そういう意味での愛。したがって 存在の持続およびほかの存在との共生 これを図る。この任務をになうのが 意志である。  日本の学校教育は ものごとを知ることに重きを置いています。  知っておぼえているということ。覚えていても その整序がどうなっているか。ただ暗記していればよいという場合さえ見られます。昔は それ一色でした。  何をどう使うか。何のためにその記憶ないし知識を活かすか? これは 自然科学の分野をのぞけば 暗澹たるありさまではないでしょうか? つまり 意志の問題でしょうし 記憶は 整序立てておぼえるものであり秩序立った情報を用意するものだということも なおさりになっていはしまいか?  知行合一には 何のためという志向性の問題があるように思います。  ヒラメキは インスピレーションとして神につながるか(つまり 信仰の問題であるか) もしくは偶然の問題として受けとめられるでしょうか。

関連するQ&A

  • コインキデンチア・オッポシトールム

     ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。  

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

  • ライプニッツの最善説と悪

    ライプニッツの最善説と弁神論に関する質問です。 ライプニッツは、この世界は可能世界の中では最善の世界であり(最善説)、この世に悪が存在するのは、被造物である人間に問題がある(弁神論)があるといっています。 しかし、この主張からは 「悪に満ちた人間が、神の作ることのできた最善の人間の姿である。つまり、神は『悪をなさない』という完璧な人間を創造することはできなかった」 という、神の全能性を否定する立場が読み取れますが、ライプニッツはそういう立場だったのでしょうか?

  • 神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創

    神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創造した。 天使は墜天使と言う悪の天使が現れるが殆どの天使は善の天使で墜天使も善天使の束によって駆逐される。 そこで思うのがなぜ神は天使だけをこの世に創造しなかったのか?という疑問が現れるわけです。 人間はバカだから神さまが人間を創造した理由を未だにわかっていないわけですが、大半の人は地球人として戦争がない平和な地球を作ろうと躍起になっているが、人間は愚かな生き物で天使と比べると劣っているわけで、天使から見ると人間は悪であるわけです。 人間の最終目標の善の人間を目標にしているが、神さまの地球創造における最終目標が善の世界だとすると最初から天使だけの世界を創造していたはずなので、神さまは人間に平和や平等や正義や善の人間になることを求めていない気がしました。 神さまは人間に善を求めていないとしたら、神さまは人間に何を期待して創造したのだと思いますか?

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 『善の研究』における神の概念

    西田幾多郎の『善の研究』の第二編第十章に「実在としての神」という章があります。 この第二編は「真の実在」を規定する部分です。 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」(第二編第二章) 意識現象は、刻々と移りゆくものである。 その意識の根底に不変の統一力(「統一的或者」)が働いている。 この「統一的或者」は、我々の思惟意志の根底にあるもので、同時に、宇宙現象における統一力でもある。 「神」が出てくるのは、そうした流れです。 「この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」 さらにこの神は 「この点より見て神は無である」 「ただよく無なるが故に、有ならざる所なく働かざる所がないのである」 という存在でもあります。 西田の「純粋経験」の原理から導き出されたこの「神」の概念が、何度読んでもよく理解できません。 すでにお読みになり、ご理解していらっしゃる方に教えていただければ、と思っております。よろしくお願いいたします。

  • 貶すだけでは 前へすすまない。

     よしあしの二項対立を立てる思考から自由になろう。という問いです。  1. 悪は 存在しない。もしそうとすれば善を損傷させる・もともとは善なる意志からの――わが心にさからう心としての――思惟と想像とその実行のことを・つまり負の善を 悪と呼ぶだけである。  2. 聖と俗とは 人間とその思想や意志行為のあいだには 相い対立するふたつの事柄としてはありえない。これを互いに隔たりのある二項として捉えるなら そのときの《俗》であるしかない。  3. 自律と他律というのは それぞれが一面を捉えて言ったものであるに過ぎない。  親が決めた仕事をするのは 他律か? もしそれに従ったなら けっきょく大きく広くおのれを取り巻く情況を捉えて みづからの意志としてそれをえらんだに過ぎない。  自律と言っていても 社会の要請にこたえたり歴史の中からその要請のような流れを捉えてそれにこたえたりするに過ぎない。自他一体であるはずだ。  4. だから その世の中にあってさえ 自律を説く側に回るのは けっきょく《憂き世》を《浮き世》と言いかえているに過ぎない。  世の中は他律人間ばかりぢゃないかとうそぶく思想は 憂き世を乗り越えて出世したときには その身の保守のためにむしろ上にへつらう他律人間になるか それともあいにく成功しなかった場合には 浮き世ぢゃ浮き世ぢゃと騒ぎながら やはりこのわれこそが宇宙なんだとさらに嘯くことになるかだ。  これを問います。

  • おなじみ:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     少し違った角度から 問い求めます。  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。