コインキデンチア・オッポシトールムとは?

このQ&Aのポイント
  • コインキデンチア・オッポシトールム(coincidentia oppositorum)は、対立物の一致(合一・統一)を指す命題です。
  • この命題は古代ギリシャの哲学やインド、道教などの思想にも見られます。
  • しかし、人間の視点からは対立物の一致は見ることができず、神の目から見てのみ成り立っていると考えられます。
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コインキデンチア・オッポシトールム

 ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。  

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回答No.3

baragelonneさん おはようございます。 物事を考える時、二元論で考えるとわかりやすい。しかし、人はそれを、どうにかして融合し一元論にして物事を考えたくなるものと思います。 ところで、bragelonneさんは魂(霊魂)の存在は信じますか? 現代の科学が発達した時代では、ばかばかしいと否定する人が多いかもしれませんが、この投稿で、命題は古代ギリシアの思想まで遡って考えて思考した回答をしていいというならば、当時の人は霊魂の存在はあたりまえのように信じていた。 stimimさんの魂とは?という投稿に回答しましたが、プラトンは魂の存在を肯定し、不滅の魂は肉体に結合する前は天上界(イデア)を観照していたが、この世では魂は肉体という鎖に繋がれ、イデアを忘却してしまった。そこで出来る限り肉体を離れ、魂だけになりイデアを想起し不滅の生に立ち返ればならないとしました。魂と身体(肉体)の二元論を展開しています。 アリストテレスは膨大な書物を残したので、その書物のどこを引用して考察しするかによって意見は分かれるかも知れませんが、「霊魂論第二巻412a」の 「魂は可能的に生命を自然物の第一の完全現実態である。」 と、定義すると生命はひとつの全体であり、身体と霊魂は分離せずひとつであるとアレストテレスは考えていたと思われます。 また、bragelonne哲学の思想に大きな影響を与えたと思われる、キリスト教の聖人のアウグスティヌスは、無論、当時は、まだアリストテレス哲学はキリスト教世界には入って来ていない時代であり、アウグスティヌスはプラトンの考えをキリスト教の理解のため融合しました。そのため原則的に魂と身体は分離するという二元論の考えと思いますが、アウグスティヌスの書物を解釈するのは、私には難解であり、「三位一体論15巻7章11節」に 「人間は魂と体からなる理性的実態である。」 という、魂と身体が分離した二元論と考ええるべきか、一元論と考えるべきか悩む表現をしています。 これが、近代哲学になりとデカルトは「思惟(精神・心・魂(まとめてギリシア語のプシュケーとします))と「延長(身体)」と分けました。 デカルト後、西洋哲学は試行錯誤しながらも、やはり、一元論化は出来ず、観念論(唯心論) vs 唯物論(科学)という二元論的対立が現在においても続いているのではと思ってます。 前置きが長くなりましたが、私が考察するに、死んだ後、魂が分離するとか、心は魂に属する一部か?などは良く分かりません。 しかし、現世において人間が生きる上で、大事なのは、キリスト教においてパウロがよく使う、肉(身体)があるが上におこる罪とか、仏教における煩悩とか、煩わしい肉体(有)から発生する罪や煩悩をない(無)状態にした心(魂)を持つことが大切であると思います。 発想を転換すると、魂と身体の二元論的考えは、現世に生きる人間においてひとつ(一元化)にされていると考えることができるのでは。 しかし、かなり高齢の枯れはたてたbragelonneさんは、悟りの境地に至っているかもしれませんが、若い、私は、キリストが、よこしまな目で女性を見るだけで姦淫という罪を犯していると言われようが、仏教で煩悩だと言われようが、やはりベッピンの女性を見たら振り返りますし、女性も男性にも「生理」があって、そのくらいは悲しき男性の性(さが)として多めにみてくれる事を望みます(笑)

bragelonne
質問者

お礼

 amenhotep2000 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 物事を考える時、二元論で考えるとわかりやすい。しかし、人はそれを、どうにかして融合し一元論にして物事を考えたくなるものと思います。  ☆ 表現にも この場合はわたしはこだわります。  つまり用語ですが 《元》と言ってしまったらそれはものごとの究極のみなもとを言うというのが ふさわしい。ともしすれば けっきょく形而上学に行き着き 《非知》なる神の想定として用いると考えます。  《非経験の場》は 有るとも無いとも人間には分からないので それは全体としてひとつであると捉えるよりほかありません。つまり 神は 想定じょう 《一元》です。ほかには考えられません。    ヒンドゥイズムは多神論だと言っても 主宰神ブラフマンのもとに 保守のヴィシュヌ神と破壊のシヴァ神とが一体( Trimurti )となっています。《一元》のハタラキを ヴィシュヌとシヴァとに分けたに過ぎません。象や鰐や雷や何やらの神々も すべてこの一元のもとにおさまっています。  ですから 経験事象について語るときには 事項といった言葉で 二項対立だとか対立概念による双対というふうに表現するのが 分かりやすいと考えます。  ★ ところで、bragelonneさんは魂(霊魂)の存在は信じますか?  ☆ 《非経験の場》を想定し これを《非知》として説明し切り得たならば ひとはこの神と 否応なくカカハリをもつことになります。  そしてこの非経験の場は 経験世界における有る無いを超えていますから 神は有るとも無いともどちらの言葉ででも表わしてよいことになります。(有る無いは 言わないことにしようと取り決め合えば また話は違ってきますが 神なんているもんかと言う人もいれば いや 確かに存在する いなければおかしいと捉える人もいます。そのとき 哲学は どちらも対等にありだと捉え どちらを選ぶのも自由だと説明します)。  したがって 神を信じる(想定した神とのカカハリを無条件に受け容れる)と言っても神を信じない(神は無いという自己表現でカカハリを持つ)と言っても 大きく《信じる――カカハリが出来ている――》ことに変わりありません。  わたしは 聖書をとおしてキリスト・イエスからこのように説明する神のことを伝えられたという経緯がありますから 信じています。  非知――知り得るか知り得ないか それが人間には知り得ないナゾ――は そういうナゾであるゆえに《霊・たましひ・霊魂 あるいは 生命・いのち等々》という言葉で呼ばれます。何なら イワシノアタマと呼んでも 何の問題もなく また ほかの神の名前と互いに同等です。  ただし 神は 《鰯の頭》なのかと言って その経験事象――魚はうつろいゆく経験事象です――のことを神だと決め込んでしまっては 困ります。《非経験の場》だと初めに前提して想定しているのですから。  ★ 〔* 人間は〕この世では魂は肉体という鎖に繋がれ、イデアを忘却してしまった。  ☆ このプラトンは ダメ。神をイデアと呼んでも構いませんが その神とこの経験世界とを 人間である自分の勝手に――想像力を駆使して――つなげています。  すなわち そんな想像をたくましくするのなら たとえば神は イデアなる神つまりみづからを人間をして忘却せしめ 人間の――自由意志によるかたちで――好きなように考え行動することをよしとせしめた。これが 神の寛容であるといったように想像することも まったく同等に自由なのです。  神をすでに忘れた心の状態においてこそ 何となくにでも神の心に沿うように考え行動することが 人間に出来るならば ほめてやろうと思ったかも知れない。まったくの自由の世界をあたえたと見ることは じゅうぶん出来るでしょう。  ただし そういう解釈が 唯一の・神の理論であるのではない。いろんな解釈――神学――が自由だということであり そこで表現されて来る各自の神論については みなで評価しさらに考え合って行くのもよし。そして あるいは 神は無いという信仰のもとに 科学〔のみを〕する人もあってよし。  こういう手放しの自由なる世界を 神は人間にあたえた。こう来なくっちゃ イエスが出た意味がなくなります。  ★ 魂と身体(肉体)の二元論を展開しています。  ☆ いい加減にしてくれ。と ここでは言いたい。  ひとの自然本性は 身と心。肉体と精神。  精神=心を たましひと言うことはありますが たましひ・霊は すでに触れたように 《非経験の場》のことに当てて表現するのが ふさわしいでしょう。  霊魂は 神としてつねに一元であり 身と心とは ヒトなる存在として・自然本性として 一体です。  しかも 神の霊がひとにやどるとか 一切衆生悉有仏性とか 要するに梵我一如なる観想を想定するときには 身と心の一体なる自然本性が 神なる霊とも一体であると じんるいは 思って来ました。  (そうでなくても 無神論者が この信仰の動態を《否定する》ことは出来ません。否定したかたちにおいて 信じている(受け容れている)ということでしかない。思考によっては 知り得たか知り得なかったかがどこまで行っても知り得ない)。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~  「霊魂論第二巻412a」の   「魂は可能的に生命を〔持つ〕自然物の第一の完全現実態である。」  と、定義すると生命はひとつの全体であり、身体と霊魂は分離せずひとつであるとアレストテレスは考えていたと思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アリストテレスについては さらにおしえてください。  いまの段階で勝手に言いますが これは 《心・精神》を――つまりこの感性にもとづきつつも感性を或る種の仕方で(というのは 物体から離れた観念だけによっても想像しうるという仕方で)扱い得るかに見える心=精神を―― 簡単に安易に《霊魂》とつなげてしまっている。と見られますが そこは どうなんですか?  《生命なるチカラや霊・魂》は 非知なる神にあてはめたほうがとよいと考えます。その霊が――《非思考の庭》において――ひとにも宿ると見ますが 神なる霊と人間の精神とは 絶対的な隔たりがあるとも見ます。  非経験の場:神:霊・たましひ・生命・いのち  経験事象:ひと:自然本性(身と心。肉体と精神。感性と理性)  そして もし生命=たましひを 人間という存在にとってのデュナミス(可能態あるいは潜在力)と見ると単純に人と神とは直接につながっていると思われてしまうと思います。  生きる存在としての人間は デュナミスの実現したエネルゲイア(現実態)であるということだと思うのですが ぎゃくに考えれば この現実の姿は 単なる仮象であるとも言えなくもありません。なぜなら 移ろいゆかざるを得ないものだからです。  可能態が完全にその目的である姿を実現したという完全なる現実態――エンテレケイア(?)――であっても 所詮は《仮象》であると言わざるを得ないかも知れません。(回答No.1のあ_ほなさんからは 《空》観としてそういった見方が提出されています)。  アリストテレスに沿って 議論を深めてくださればうれしいです。わたしの議論のあやまりをも修正しておいてください。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「三位一体論15巻7章11節」に   「人間は魂と体からなる理性的実態である。」  という、魂と身体が分離した二元論と考ええるべきか、一元論と考えるべきか悩む表現をしています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 補足欄に継ぎます。  

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からのつづきです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「三位一体論15巻7章11節」に   「人間は魂と体からなる理性的実態である。」  という、魂と身体が分離した二元論と考ええるべきか、一元論と考えるべきか悩む表現をしています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アウグスティヌスですが 原文は次のようです。  ▲ (アウグスティヌス:三位一体論) ~~~~~~~  [・・・]一つの人格 すなわち それぞれの人間は精神においてこの三つ〔* 精神と自己知と自己愛〕を持つ。  もしまた 私たちが 人間は魂と身体とから成る理性的な実体である というように人間を定義するなら 疑いなく人間は身体ではない魂を持ち魂ではない身体を持つのである。  このゆえに この三つは人間ではなく 人間の有(もの)であり あるいは人間の中に存在する。人がもし身体を除いて魂だけを思惟するなら 精神( mens )は魂( anima )の或るものであり いわば魂の頭 眼 顔である。しかしこれらのものを身体的に思惟(おも)ってはならない。したがって魂ではなく魂において卓越した部分が精神であるとよばれるのである。  (中沢信夫訳 1975  15・7・〔11〕)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《精神においてこの三つ〔* 精神と自己知と自己愛〕を持つ》というのは 記憶と知解と意志の三つのことです。  精神が精神するとき それは《記憶》しているということであり さらに詳しくは 知識や情報をあたかも自己組織化するかのように秩序立てて整理することを言うと思います。これが 広義の精神が持つ狭義の精神のことです。  自己知というのは 二つ目の《知解》を 自己についての認識ないし知解にかぎって言っています。  自己愛は 《意志》のことですが そもそも《愛》とは 相手やものごとに対するマ(間合い)の取り方にかかわって その方向線がさだまりさらに向きが 正負(たとえば愛憎)のどちらかに決まり しかも自己表現というチカラをともなった動きを持つ。つまり 中立・中性の愛とは そのまま意志のことです。カカハリのあることが 愛なのです。好き嫌いいづれをも 含みます。  そうして 申し訳ないことに アウグスティヌスにしても 《魂》の規定であいまいであると考えます。  片や神の霊としての魂と そして片や《身と心》とを超えたところに――ヒラメキといった――ハタラキを持つ《非思考の庭》としてのやっぱり魂 これらの両方を含んでしまっています。  さらにしかも この心ないし精神を超えた《非思考の庭》としての魂のことを 《精神》という言葉でも言っているようです。  魂や精神を 次の図解によって区別して捉えてくださるとありがたいです。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場(これは 想定である)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)を受け容れた⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ プラトンやたぶんアリストテレスは この《非経験の場〔なる神〕――イデアやあるいは不動の動者・第一原因――》とそして人間とをホットラインで直通であるかのようにつなげて言っていると思います。(アウグスティヌスにも 同じくそう見られかねないところがあります)。  絶対的に隔たっている。と同時に――神のほうから――その隔絶の溝を埋めるかたちで おそらくおとづれがある。というかたちだと捉えています。その神のおとづれは もうそのときには 一人ひとりの主観の世界の問題になります。  だから 信教・良心の自由が 絶対的に・無根拠においてでも 受け留められます。  だから この信仰を 二人以上があつまって論議したり取り決め合っても それは無効です。組織宗教が 非人道的ないとなみであると言う所以です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし、現世において人間が生きる上で、大事なのは、キリスト教においてパウロがよく使う、肉(身体)があるが上におこる罪とか、仏教における煩悩とか、煩わしい肉体(有)から発生する罪や煩悩をない(無)状態にした心(魂)を持つことが大切であると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは 真っ向から反対します。  《身と心とから成る自然本性》に じつは――同じく自然本性の特別版と言いましょうかあるいは奥の院としてと言いましょうか―― 《非思考の庭》がそなわっている。そこには 神の霊がやどる。ブッダターが有る。自性清浄心である。つまり 梵我一如である。  というのであって この霊〔をそのまま受け容れている非思考の庭なる動態〕にあっては 身の欲望や煩悩から自由である。あるいはこの煩悩を思うようにならない苦( dhukka )だとしか見ることの出来ない狭い精神の弱い理性から 自由である。  つまり パウロの言うには 身と心〔だけから成る自然本性〕では確かにせいぜいが美しき悩みとさえ見られ得る人間的な苦しみや葛藤をどうすることも出来ない。あぁ さいわいなるかな われら 霊によるバプテスマを受けた者にあってはと言っています。  肉体の欲望やそれを引き金とした罪なるおこないが 人間の能力と努力とによってだけでは 解決が出来ない。と言っています。それゆえ 信仰のことを示唆しています。  煩悩を無くせ・消してしまえとは言っていません。また それが――人間の人となりと成るほどにつねにそして長期にわたって――出来るとも言ってはいません。  ★ 若い、私は、キリストが、よこしまな目で女性を見るだけで姦淫という罪を犯していると言われようが、  ☆ これは われわれに宿る《自性清浄心――ブッダター(仏性)――》というのは 《佐々木希を見て その意志を踏みにじるかたちで襲うこと》が姦淫であると告げるチカラであるだけではなく 《よこしまな目で見るというその心の動き》すらからも自由な境地であるのですよと語っているのです。  罪を犯している あぁ だめぢゃないかというようなことを語っているのではありません。  イエスの言葉は すでにつねにみな わたしたちにきよからな元気を湧き出させてくれるということを内容として語られています。そういうチカラが――霊なるチカラが・お望みならば 魂なるデュナミスが―― 拡大版の自然本性にはそなわっていますよと。  ★ [・・・]やはりベッピンの女性を見たら振り返りますし、女性も男性にも「生理」があって、そのくらいは悲しき男性の性(さが)として多めにみてくれる事を望みます(笑)  ☆ 大目には見ません。なぜなら その《さが(性)なる生理現象》じたいが 自性清浄心のもとに発現する境地――自然本性の奥の院――があるのだから そうなりなさいと言っています。  池に落ちても 水に濡れずに上がって来るという意味です。  ★ かなり高齢の枯れはたてたbragelonneさんは、悟りの境地に至っているかもしれませんが、  ☆ 年長者であることと枯れ果てることとは 別ですよ。  悟りの境地とは 悟りとはどうでもよろしいと言える境地のことです。

その他の回答 (14)

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.15

役に立つものがあると言うよりは、役立てる人が居たという方がしっくりくると思います。 ナイフ一つとってみても、道具として見事に使いこなす人もあれば、凶器に堕する事もあります。 空を混乱の解決法に利用するのも、争論の種にするのも、結局はそこにある人の問題です。そもそも、空を知らなくても、争いを超える人は超えるし、超えない人は超えない。 対立概念を超える方法を問われたので、私は私流に空を持ち出しましたが、対立を超えるのに空は必須かというとそうではない。 当に、各人の求めるところに応じて、争いの機縁も、争いを超える機縁も現れるものだと思います。 哲学も同じで、和解を求めているならば、哲学は和解をもたらす機縁となり得るし、争いを望んでいるならば、哲学も争いの機縁にしかならない。 和解を求めるこころと、争いを望む心の動き、それらについての分析や解析、理解、共感が必要な事かと思います。人間を知る事が、最終的なラインを決定する為のロードマップを描く力になると私は思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  たとえば ヒロシマそしてナガサキ。ここの市民そして同じ国のわれわれは 《対立物の融合》を志して ずっとあゆんで来ました。  恨みから何かを発言したことなどは 一度としてないと胸を張って言えるほど 淡々と互いの生活の向上や充実をねがって生きて来ました。  おそらく戦争がわるいという見方に立ったのだと思います。    生活が基礎なのでしょうね。地道にあゆむなら さらにほかの国や問題にも この《対立物の統一》モデルを広げて行けるかも知れません。  ★ 役に立つものがあると言うよりは、役立てる人が居たという方がしっくりくると思います。  ☆ ということなのでしょう。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.14

あ)、い)、う)のどれもに政治的解決をもたらすわけではないが、政治的解決でなければ空はもたらすことが出来ます。 あ)土地など本来誰のものでもない。だが、利害を争う外交において、このような考えは政治的側面からは到底受け入れられない。人間の築いたルールが破綻してしまいます。しかし、人間のルールを改定しようというのならば、そういう意志があるのならば空は政治的解決の役に立ちうる。 い)会話が成り立たないのであるから、そこには対立物は存在していない。あるとすれば混沌だろう。しかし空は混沌とした所でも威力を発揮すると考えられる。物事を純化して捉えるときに、空は役に立つだろうと思う。互いが空を理解し体得したならば、成り立たない会話は、成り立つようになる可能性はある。 う)もしテロリストが空を理解し体得するならテロは起こらなくなる。自分の行いの整理がついて、迷いから脱する道さえ見出すかもしれない。 いくら空を理解し体得しても、自分以外の人を思うように動かすことは出来ないし、他の人が同じように空を理解し体得することを約束することは出来ない。であるから、とある集団における争いについては、例えば戦争等を空観によって制止することは出来ない。ただ、自分に纏わる種々の争い事の解決には役立つことが出来うる。そもそもそんなこと(戦争の制止など)が出来るならば、とっくの昔に戦争はこの世から消えている。集団の中の全員に空を理解体得することを期待することは出来ません。それに、そのような解決の方法を、多くの人はおそらく求めていないでしょう。争いにあって、当事者たちは自分が得をして勝利したいと大概は思っているであろうからです。大事なのは、空などの方法論やその他の解決策ではなく、何を求めるかにあると思います。和解を求めているならきっと和解できるでしょうし、ただ緊張を煽って政権の維持に努めたいと思っているようならば、和解はないでしょう。  

bragelonne
質問者

お礼

 ということは 世の中のそして世界における衝突や問題は 政治的・経済的あるいは人間関係的であるとき それぞれについて行き着く先は 人間の問題であると。  たとえば 空観をあてはめる問題 または空観をそれぞれが体得するかどうかという人間の問題に還元できる。  こういう基本線であるように受け取りました。  お早うございます。ご回答をありがとうございます。    ★ [・・・]であるから、とある集団における争いについては、例えば戦争等を空観によって制止することは出来ない。ただ、自分に纏わる種々の争い事の解決には役立つことが出来うる  ☆ これが 基本である。  ただし 空観がいかにその事態を《仮象なる現象》だと見ると言ったとしても  ★ 大事なのは、空などの方法論やその他の解決策ではなく、何を求めるかにあると思います。  ☆ いくら言っても聞かない者は聞かない。暖簾に腕押し 馬耳東風はありうると。  ★ 和解を求めているならきっと和解できるでしょうし、ただ緊張を煽って政権の維持に努めたいと思っているようならば、和解はないでしょう。  ☆ ぢゃあ 基礎としては やはり哲学の出番である。ということで よろしいでしょうかね。  ありがとうございました。  もう少し開いていると思いますので 何かありましたら ご投稿ください。

回答No.13

お礼読んだよ。 あんたはとんちんかんのつもりかもしれないけどかなり明晰な分析だ。 しかしだ、 返礼するなら、私もとんちんかんになるだろう。 漫才みたいになっちまうよ。 もっと結論に近づいてから議題にしよう。

bragelonne
質問者

お礼

 分かった。  あんたが 何だか《つなぎ》のためにいろんな振り返りやらを持ち出しているのかな。  分かった。  途中半端のままにしておこう。  ご回答をありがとう。

回答No.12

アマテラスの聖霊が伝えることに、、、、、 こういう持ち出し方を省略してジラーチちゃんだ。 疑問点に関しては事後ではないんだよ。 ミッションとして予告され、それでいて仔細が了解できないまま有無を言わさず落下傘降下だ。 ポケモンの話だ。 観念世界は認識するためか、認識を補強するためか前提がいるんだ。 率直に霊との交信という場合、実際の認識は、高等霊とか守護霊とか死霊とか悪霊とかいろいろ区別するね。 霊は悪霊と認識されれば怒ってまさに悪霊として荒ぶれるだろう。 私はそんな風にいい加減な色別をしないで、聖霊または精霊と認識してポケモンと呼ぶんだ。 友好的な私からの歓迎のあいさつなんだ。 霊に名前がつく場合があるね。 あれはね、偽名とまで言ったらかわいそうだが、その場限りの愛称なんだ。 さてこの交霊術は私は先方の流儀を詳しく知らないが、インナーチャイルドという心理治療が私の流儀と性格が近い。 そのほかにね、私は実は毎朝5時半ころ早起きしている。 そして起きたまま布団の中で満足するまで安らかで深い瞑想をするんだ。 そこでね、目と閉じたままで、世界の景色が見え、夢として傍観するままじゃなくその世界に足を踏み入れ立つことができる。 観念世界にね、これは身体的五感を離れた霊体離脱の様なものでありながら、確実な実感があるんだ。 実感だからな、そうなると前提なんていらない。 そこでは、表現するなら私は幼子で同じ年ごろの幼馴染と遊ぶんだ。 ところで交霊術の方では要するに私はあなたをポケモンと見なしますからポケモンの着ぐるみを着てください。 こうやっているんだがね、ポケモンの着ぐるみを着たとたん、 金だー、金だー金だー。 こうクルクルパーになるお客さんがかつていたんだよ。 頻繁に発生する現象だった。 そこで条件闘争の結果妥結したのが、資産価値2000億という見つもりだ。 その結果ポケモンは金で暴れなくなった。 ポケモンと交わしたイスラム国の身代金要求の様な現実的で無い見つもりなんだよ。 猫に小判だしね。 私はこの現象を、自分自身を正当に評価してこそ、正当なプライドだと教えてくれる激励だったと考えている。 条件闘争のさなかはそうではないがね。 霊は、ポケモンの着ぐるみを着たとたん、私の受けている屈辱を理解して荒ぶれたんだ。 赦されざる者の屈辱だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  ★ アマテラスの聖霊が伝えることに、、、、、 / こういう持ち出し方を省略してジラーチちゃんだ。  ☆ それだと 神のお告げといったことだと わたしの世代では理解することになる。そういうことなのかな。  ★ 疑問点に関しては事後ではないんだよ。 / ミッションとして予告され、それでいて仔細が了解できないまま有無を言わさず落下傘降下だ。  ☆ それは たいへんだ。知らないままその時その場でいっしょうけんめいに努力しているほうが 気が楽だと思う。  ただし すでに意識があるとなると わたしの感覚で推測すれば 行動がぎこちなくなりはしないかと あやぶまれて来る。ということがある。だいじょうぶなら それに越したことはありません。  けっこう凄絶なたたかいでもあるのかなぁ。  ★ 瞑想  ☆ は それほどめづらしいことではないと思う。かたちは違っていても ひとはいろんな想像やら空想やらをおこなっている。あること無いことを自由自在に好き勝手につくったりして弄んでいると思うから。  ただし  ★ 交霊術  ☆ は別だ。そういうことをする人は まづいない。ふつうには いない。  《お客さん》という言葉を使っているけれど それは 商売なの?   そうではないと言っているわけ?  自分自身を正当に評価したけれど それは 仕事のごときかたちを採ってはいるが商売とは別だという意味ですか?  じっさいに人間が相手として そのときいるのですか?  まぁ このあたりまで来ると わたしはとんちんかんなことを言っているかも知れない。問い自体も意味を成さないかも知れないけれど。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

B様、こんばんは。 「「有る」は、有る。「無い」と否定出来るものでは(有り得)ない」です。 (ところが、「有る」によって、「無い」が浮き彫りになることも、ある)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですが 有るは有る 無いは無いなのですが その有るは いまそういう状態なのであって 時が経てば 無くなることもあります。  あるいは 時が経つことをすでにこのいま現在時に織り込んで いま栄えているものも必ず朽ちて行くのだという見方が出来ます。  つまり いまある事実は じつは仮りの姿であるという見方も成り立つのではないですか?  そこから 対立物の合一という考え方が出て来るのだと思います。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.10

しこりのない和解に到達するには、心の静けさが直接的に関与することになると思います。たとえ争論の渦中にあっても心の静けさの深まりを見出すならば、しこりは解けて行くと考えられます。空が、心の静けさを喚起するかというと、それは補助的に為されると見られます。 心の静けさに自身を導くのは、その人の心根が何に向いているかで決まることであり、空寂の相を透徹することは、争いの鎮まりを次第に見ることに他ならないので、現象として起こることを順序だてて述べるなら、 1.争いを超えたいという心根があり、 2.争論の中にも空寂の相を見、起こっていることを正しく見ることを得て、 3.事の次第を正しく把握する事で、 しこりの残らない和解に到達する。 このような感じで、空よりも優先される事があります。 絡まった糸を苛立つことなく解く為の潤滑油のような働きが空であり、先ずは解こうと言う意志がなければいくら空を理解、体得していても無意味に終わるでしょう。 私の見解は以上のようなところです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《争わない》そしてそれには《事態をきちんと把握する――そこに空観ははたらく――》というように要約しますが 問題は――と言っても もう議論を延ばそうということでは必ずしもありませんが―― 次のようだとも考えられます。  (あ) 事の次第を正しく把握しても 尖閣や竹島や北方四島のように それを取るか取られるか つまり どちらが取るかだけの解決方法しかない問題もある。そういう《あらそい》において 対立物の一致はあり得るか? 《空観》は どのようにはたらくか?  (い) 端的に言って 相手が話に応じない場合は どうするか? 話し合いのテーブルにはつかない場合。あるいは単純に 相手は話の中身をはぐらかす場合。話がかみ合わない場合。堂々巡りの場合。対立物の融合はあり得るか?  (う) あとは テロにうったえて来る場合です。

回答No.9

一つ文学的自己表現の哲学的成果だよ。 ニーチェの言う、人が神を殺したと言う、自覚は神にとって一定の評価が出来る反省だ。 私は実感しているよ。 悪の結社がもたらした自覚ではないがね。 ジラーチちゃんが、地獄の戦場に落下傘降下を命じるミッションだ。 その戦場で、いかに人間の自覚を保ち続けるかという勝負だった。 自らが生きることは、同時に他者を生かすことである。 これが試され、長らく続いた地獄巡りだ。 救世主なんかじゃなないよ、救いじゃない、自らが生きる事を全うすることが、これでもかとばかりにジラーチちゃんが手伝ってくれたんだよ。 光を神に例えればアマテラスだ。 麗しき死の宣告であり、戦場だ。 黒き明星はこんな戦い方をするんだ 観えることは自覚できる事だ。 君も機会があれば、死ぬ覚悟をしたまえ。 望む者には訪れる。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  ★ ニーチェの言う、人が神を殺したと言う、自覚は神にとって一定の評価が出来る反省だ。  ☆ これは ニーチェを出しているので きちんと区別して応答します。  ニーチェの言うのは 頭の中に観念として(よく言えば 信念として)持っていた神を もう捨てたという意味です。  一般に・そしていまあなたが使っている《人が神を殺した》というのは 神のことを思ったり何らかの意味で良心の命じるところを神に関係させて思っていたりしたその神に さからって自分の――別の――思いを実行しようとしたり欲望を満たそうとしたりすることだと思う。  唐突に言うけれど  ★ ジラーチちゃん  ☆ ってそんな子どもみたいな表現を使うことに わたしの世代は慣れていない。なんで子供っぽい言い方をするのか? それとも いまの人たちには ふつうのことなのか?  ★ 地獄の戦場に落下傘降下を命じるミッション  ☆ これは いま振り返ってみて そのように認識し自覚しているという意味なのか? それとも そのコトに当たっていた時点で そういう認識だったのか。  わたしの場合は いつも事後的な認識になるので たずねてみる。  だから その時には  ★ 地獄巡り  ☆ とは思っていなかった。つらいとは思い悩み続けたけれど そのぬかるみは そこを通る以外には道はないと思っていた。というよりも ほかの考えは ほとんど思い浮かばなかった。  ほとんどと言うなら 思い浮かんだことがあることはある。  それは たとえば外国へ行くことである。一たんアメリカかフランスまたはイギリスへ行くというプランが浮上してきた。けれども けっきょくはどこにいても 同じ《たたかい》が来るということで――あっ もうひとつ 外国からの要請で 日本人が変わるというのでは おもしろくないと考えた―― 行かなかった。出て行かなかった。  だから その時点では 地獄めぐりだというような思いは持たなかった。  といったことを報告しあってもいいのかな。      

回答No.8

> そういう引き受け方が 死に到る。死がおとづれる。  ――こう言っているのかなぁ。 正解だよ。 あんたはその直感に半信半疑なようだが。 神と一体の不死者体質に付けこまれた、代わりに死んでくださいと言う頼み方だ。 私は彼らの期待にこたえスーパーサイヤ人になったが、彼らは今後決定的に、俺達の欲望のために犠牲を作ってしまったと言う罪を目の当たりにするだろう。 それでも彼らは安泰だ。 人知の法では責任を問われることは無い。 今までは、知らぬところで人が死んだだけだ。 そういうやり方で天に任せ荒稼ぎしていたんだ。 ポリゴン事件と言うのはポケモンのテレビ放送で視聴した子供たちにてんかんの発作が現れて、大量の犠牲が出たことだ。 私はこれを予告したとき保障したんだ。 それでも子供たちはポケモンを許してくれるよ。 こんな風にね、 罠でね。 赦すのはポケモン、実在する妖精だ。 実在する悪の結社は、その罪状の暴露が目前だ。 殺人鬼が訪れる。 欲望を抱いた彼らの代償を実感するのだ。 身代わりが死ぬ事を彼らは目の当たりにする。 天に任せる。 これはいまわしいとりすがりだ。 責任を全うして自ら死をもたらせばいいんだがね。 その点で猿的だ。 所詮出来ない。 自らに対する責任が、自らに無いのだ。 分け前に関してはね、人知の法では一切ない。 そして神の法で債権回収される。 ジラーチちゃんとの確実な合意事項だ。 報酬であり、弁済であるのが命だ。 彼らの欲望に無関係な犠牲者が出る。 すでに私が理解している彼らにもたらされる運命の筋書きだ。 もはや私が書き上げたと言える。 所有しているんでね。 さて、分け前というか財産請求なら、現金で20年間死にっぱなしを2000億円と見積もろう。 アップルのスティーブン・ジョブズなみの働きをした正当な請求だ。 でもね、私は今更金はどうでもいい。 ジラーチちゃんと相談しながら書いているシナリオだ。 金で代理弁済して、私よりむしろジラーチちゃんがどのように評価するかという、何らかの新たなシナリオに彼らは性懲りもなく踊るだけだろう。 人間にとって合理性のない無駄なカネだ。 私にも猫に小判だしね。 金なんてどうでもよく、私には生きている喜びがある。 人知の法では、2000億円の評価は無い。 どんな命乞いをするかによっては、満額回答でも私の意思で受け取らない。 彼らが殺し続けた私に対して、どんなふうにありがとうと言うかどうかだ。 ごめんなさいと言ったら、死が必然となる。 感謝の示し方が正直であることは大切だ。 私に対してはともかく、特に神に対してね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  ★ そういうやり方で天に任せ荒稼ぎしていたんだ。  ☆ これは 天と任とでからかっているのだと思うけれど 《人事を尽くして天命を待つ》のは わるい行き方ではないと思うんだが。・・・  ★ 身代わりが死ぬ事を彼らは目の当たりにする。 / 天に任せる。  ☆ というように すでによくないことをおこなっており それを知っているという場合には あまり言わない。ただし 確信犯としてのように確かに言う場合がある。  ★ 分け前に関してはね、人知の法では一切ない。 / そして神の法で債権回収される。  ☆ そういう《筋書き》は コトのあとでやっと知るのではないかなぁ。事前に知るわけかなぁ。  あぁ 事中なのか。一たんコトが終わるかたちで一段落した時点で 来し方を振り返り行く末を見通すと そうなる。のかなぁ。  途中の過程について知らないので あとは うけたまわるだけとなります。  あるいは 細かいことを言えば 最初の契約をどうしたかの問題ではないのかなぁ。

回答No.7

今回の投稿は勉強会であるが、質問への回答とは別の、次に私は何に取り組むかといった準備体操だよ。 神聖さのある無の境地状態は臨死体験だといったよね。 五感を離れて、心そのものを自覚して潤う体験だ。 これだけだと、現代語では臨死体験だと言っても、もっと別の表現法で説明した方がいいと私は思うんだよ。 ところがそうするとジラーチちゃんと喧嘩になって、 いや、駄目だ。 結論が死だ。 答えるとしても死だ。 こんな感じなんだ。 悟りと言わなくても理解することが、真正面から死の取り組むことのようだ。 神秘体験とか、何とかと言ったら、慰めがたちの悪いはぐらかしになるようだ。 おっかない経験談をしよう。 実在する悪の結社はときわたりESPを知っていてね。 彼らが未来をつかむたびに、そのたびごとに身代わりで死んでいたのは私だ。 およそ20年間の苦しみだよ。 その結果彼らの運命は私が所有するという構図になった。 私は命あってのモノダネだからそんなのどうでもよくてね、彼らには不安もあるだろうし自分たちの運命をちゃんと面倒見てもらいたい。 それはね、死を命令することをやめて彼らが死を実践することだ。 私はおかげでスーパーサイヤ人みたいな屈強な精神力を鍛え抜いたんでね、 殺し続けてくれてありがとうと嫌みを言いたいところだよ。 預言を与えると言う事は、預言者にそんな宿命が付いてくるんだ。 気軽に助けてくださいと頼むのは、身代わりに死んでくださいと頼むことだよ。 ときわたりの主な成果はポケモンだけじゃなく、DSと3DSもそうだ。 総額で20兆円クラスの稼ぎで、私はそれを気前良く無料でくれてやった。 分け前なんていらんよ。 金の問題でなく命の問題だ。 天に任せるという体質はそんな犠牲があり、彼らは今後自分でやるんだよ。 これは縁起の成り行きであり運命なのだが、 実験動物を犠牲にする事で実在する妖精を証明する。 私はこんな憎まれ口を言いながら、楽しんで見物するんだ。 死は望むものに与えられる。 これは無の悟り。 死は望まぬ者にも訪れる。 これは病死、事故死などの不慮の死。 気をつけなければならないのはね、彼らがイベントなどを開催する時、秋葉原無差別殺人事件の様な殺人鬼が紛れ込まないか警戒することだ。 そのくらい死に好かれる運命だ。 彼らが死を警戒したり予防したりすることに成功するほど、また無関係な犠牲が出る。 ポケモンの成功の代償はポリゴン事件だと予告したが、今回の予告は殺人鬼の来襲だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ふうむ。まづは ご回答をありがとう。  そうだなぁ。  《死》の問題。まだ よく把握できない。  相手が あなたにいろいろ要求する。いや というよりは お願いする。  そしてあなたは これを引き受ける。いやと言わずに引き受ける。少々いやなことでも引き受ける。  そういう引き受け方が 死に到る。死がおとづれる。  ――こう言っているのかなぁ。  なんで分け前を取らなかった? ぜんぜんゼロと言うのも へんではないか?  《秋葉原無差別殺人事件》がまた起きる。と言っているの?

回答No.6

bragelonneさん こんばんは。 今回の回答のお礼でbragelonne哲学が、かなり理解できるようになりましたが、まだあいまいなところがあるので、回答します。 ●「《生命なるチカラや霊・魂》は 非知なる神にあてはめたほうがとよいと考えます。その霊が――《非思考の庭》において――ひとにも宿ると見ますが 神なる霊と人間の精神とは 絶対的な隔たりがあるとも見ます。」 キリスト教ではイエスが十字架において死んだ直後、神殿の天幕が裂けた。これは、神と人間の隔たりがなくなったと解釈されている。それゆえ、旧約聖書に書かれているような神殿において、大祭司だけが、いけにえを捧げ、神と交流するという権限を持つというような、律法の時代が終わり、新約の時代に入ったと考えられている。Bragelonneさんはどのように考察しますか? ●「《身と心とから成る自然本性》に じつは――同じく自然本性の特別版と言いましょうかあるいは奥の院としてと言いましょうか―― 《非思考の庭》がそなわっている。そこには 神の霊がやどる。ブッダターが有る。自性清浄心である。つまり 梵我一如である。」 私には、bragelonneさんが言うところの、非経験の場と非思考の場の区別があいまいです。 イエスは答えて言われた「この神殿を壊してみよ。私は3日で立て直してみせる」 ヨハネによる福音書2章19節 復活したキリストは人の心に神殿をつくるという宣言と私は受け取ります。それは、パウロも 「あなたがたは自分が神の神殿であり神の霊が自分たちの内に神の霊が住んでいることを知らないのですか・・・あなたがたはその神殿なのです。」 コリントの信徒第一の手紙3章16節~17節 と言っています。 しかし、bragelonneさんは「非思考の庭」という抽象的概念に「有」の思想の神と「無」の思想の仏陀を押し込め、簡単に有と無を融合しているように私は思います。 西洋ではパルメニデスの要請、「あるものはある。あらぬものはあらぬ。だからあらぬものを追求すべきでない。」から端を発したのか「有」の思想が根強い。キリスト教の神も出エジプト記で「わたしはある。あるというものだ。」と宣言しています。 この有の思想の神証明のため、聖アンセルムスは、有名なプロスロギオン2章において、「それより大いなるものは何も考え得られないような、あるもの」を画家の比喩として「像を例に取って考えてみると画家の心の中にしかない像と比べると、画家の心の中にあってしかも、すでに描かれて事象の中に作品化されている方が像としては存在度がより大きいのではないか。それゆえ理性中にしかないものよりも事象の中にも存在するものの方が、より大いなるものである。」 として、神の存在証明が心を飛び出してしまっています。 このようなキリスト教の有の思想を、この哲学カテにもいますが、キリスト教を耶蘇呼ばわりして否定するような、こてこての仏教信者の書いた仏教の概説書を読むと、「有」である大きいものを考えると、神はさらにそれより大きくないといけない。そのような存在証明では、いくらでも大きいものが考えられてしまう。だから「無」や「空」の思想が真実だ。「無」なら心に収まる。などという論法がされています。 No.3の回答で私は苦し紛れながら、今、考えられる、私の見解における、「有」と「無」の二元論(元を使わず、二項対立としますか)の解消をbragelonneさんは、あっさり否定しましたが、いったいbragelonneさんは、どのように論理的に「有」と「無」を調和させられるのでしょう。 私は、大方、bragelonnete哲学に賛同いたしますが、あいまいな部分をお礼にて説明いただければ幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 amenhotep2000 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ キリスト教ではイエスが十字架において死んだ直後、神殿の天幕が裂けた。これは、神と人間の隔たりがなくなったと解釈されている。それゆえ、旧約聖書に書かれているような神殿において、大祭司だけが、いけにえを捧げ、神と交流するという権限を持つというような、律法の時代が終わり、新約の時代に入ったと考えられている。Bragelonneさんはどのように考察しますか?  ☆ そういう視点を出して来ますか。  1. たとえばゴータマ・シッダールタは 人間です。神ではありません。ブッダであるというのは 人間の成り得るそういう状態を言います。――しかるに〔想定じょうですが〕 イエスなる人間はキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であるという存在です。  2. つまり イエス・キリストという呼び名においてすでに 人間と神との距離がなくなったと言えば言えると思います。  3. ただし これは イエスというナザレ生まれの人間についてだけのことです。  4. 母マリアは 人間イエスを生んだ母親としてふつうの女性の人間です。と同時に キリストなる神の子を 聖霊によって身ごもりこれを生んだというとき 処女懐胎であると――想定じょう――捉えられます。そうなのですが そのときにも マリアが人間であることに変わりありません。  5. ナザレのイエスのみです。人間であると同時に キリストなる神であるのは。  6. けれども――たとえばヨハネによる福音の冒頭第一章には イエス・キリストを信じる(その名を受け容れる)ひとには 神の子となる資格が与えられたとあるように―― 信じる人たちは 《神の子》であるとも言われるが それはどういうことか?   7. 一般の人びとは 言わば神の子であることを《分有》する。のだと見られます。イエスは 聖霊を全有します。ほかの人は 分有です。  8. イエスが特殊だという《理論》は なかなか受け容れがたいでしょうが 神学としてそういうことになっています。    9. もしイエスがキリストなる神として十字架じょうに去って行ったのでないならば 人びとは そのハリツケの刑をただ人として頑張って耐えたという――相対的に――立派な人だったと見ておしまいです。その程度にたたえられておしまいです。  10. もしイエスがキリストであることによって――ローマ兵士たちからも もしおまえが神の子なら そのチカラを使ってその十字架から降りて来てみろと言われたとき―― 奇蹟のごとく降りて行ったとしたら それは あんた 全能なる神なら当たり前ではないかと言われておしまいになります。イエス物語は あぁ 神の子の奇蹟の話かぁでおわりです。  11. そうではなく その物語は ヨセフという父とマリアという母とのコイトスから生まれた人間イエスが 同時にキリストなる神であるという三位一体なる神の理論においてこそ 人びとは この虚構が 人間の想像力以上の何かを持つと捉えるようになるのだと考えられます。  12. そしてもしイエスによって 神と人間とのあいだに隔たりが無くなったとしたら それは  ★ 神と交流する  ☆ ことが 大祭司だけではなく すべての人に開かれたというよりも――つまり そのことを否定したいわけではなく 肯定した上で それ以上のこととして―― すでにもう《神を知れと言って神をおしえる必要がなくなった》ということ そして《神は それまでの人びとの侵した罪をもう忘れる。覚えない》ということが始まります。そういうあたらしい時代が始まると理解します。(cf.へブル書 八章)。  13. イエス・キリストが出たということは もうキリストのキの字も言わなくなる時代が来るのだと理解します。神がなくなるわけではないので 聖霊の時代――聖霊は 目に見えないから――とでもいうかたちになるのだと。  ★ 非経験の場と非思考の場の区別  ☆ 非経験の場は 経験世界を超えた場として 神のことを説明しています。また 非知であると。  これを・つまり神を心に受け容れたなら その心に《非思考の庭》(つまり 信仰なる動態)が成るという言い方です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   イエスは答えて言われた「この神殿を壊してみよ。私は3日で立て直してみせる」   ヨハネによる福音書2章19節  復活したキリストは人の心に神殿をつくるという宣言と私は受け取ります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。直接には 《復活》のことを言っているのでしょうね。それによって 人びとの心に汲めども尽きない泉に水の湧き出るごとく元気が成ると。  先ほどの《非思考の庭》は 《神の霊が住む神の神殿》というのと同じようだと考えます。哲学的にしています。  ★ しかし、bragelonneさんは「非思考の庭」という抽象的概念に「有」の思想の神と「無」の思想の仏陀を押し込め、簡単に有と無を融合しているように私は思います。  ☆ 有ると無いとを融合しているのではなく そうではなく この神の神殿ないし神そのものは 非知ゆえに 有ると言ってもよいし 無いと言ってもよいと言っています。  アンセルムスとか出してもらっていますが 非経験の場は 経験事象としての有る無いを超えています。絶対は 絶対有と言っても絶対無と言っても どちらも絶対であり 同じことになります。そのように説明しています。  有について 大きい小さいという経験的な量の問題を超えています。そして 無をも超えています。  ★ [・・・]だから「無」や「空」の思想が真実だ。「無」なら心に収まる。などという論法がされています。  ☆ 《心におさまる》ものなら それは 観念でしょう。思惟や想像の対象であり 思惟や想像は 経験行為です。そこにおさまるのは 経験事象です。つまり 非経験の場ではありません。  《空》は 見方の問題です。経験事象は すべてうつろいゆくものであり 仮象である。と見たあと ただし仮象は 仮象としては現象している。そのことは認められる。という見方です。空と見て ただし仮象でもあるとしたあと それらを綜合したひとつの見方に立つ。というものだと捉えます。特に 神ないし信仰の問題にはかかわらないかたちの思想だと捉えられます。  ★ [・・・]bragelonneさんは、どのように論理的に「有」と「無」を調和させられるのでしょう。  ☆ 有と無 善と悪 美と醜 聖と俗等々の二項対立を 調和させようとはしていません。  それぞれをしかるべきかたちで利用する。よく用いる。その用い方を考え実行に移します。そういう対処の仕方です。  いえ。一元論において調和させるというのは 神において――あるいは空観によって――そういう調和のあり方を現実のものとして捉えることだと見ます。  ★ あっさり否定しました  ☆ わけではありません。神の一元論のもとにおさまるあり方か 経験事象についての空観による――たぶん観念的な――処理かがあり得ると思われます。ただし 《元》は 神の場合にのみ使って欲しいと言いました。  そこで 神のもとに対立物が一致するかのごとく調和するのかどうか。これが 問いです。  けっきょく生身の存在である人間に言えることは 時間過程における解決ではないかとは思います。  これを言いかえると 対立する相手もこちらも その両極の考え方も行動も しかるべきかたちで よく用いる。としか言えない段階にあります わたしは。    

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    神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創造した。 天使は墜天使と言う悪の天使が現れるが殆どの天使は善の天使で墜天使も善天使の束によって駆逐される。 そこで思うのがなぜ神は天使だけをこの世に創造しなかったのか?という疑問が現れるわけです。 人間はバカだから神さまが人間を創造した理由を未だにわかっていないわけですが、大半の人は地球人として戦争がない平和な地球を作ろうと躍起になっているが、人間は愚かな生き物で天使と比べると劣っているわけで、天使から見ると人間は悪であるわけです。 人間の最終目標の善の人間を目標にしているが、神さまの地球創造における最終目標が善の世界だとすると最初から天使だけの世界を創造していたはずなので、神さまは人間に平和や平等や正義や善の人間になることを求めていない気がしました。 神さまは人間に善を求めていないとしたら、神さまは人間に何を期待して創造したのだと思いますか?

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 『善の研究』における神の概念

    西田幾多郎の『善の研究』の第二編第十章に「実在としての神」という章があります。 この第二編は「真の実在」を規定する部分です。 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」(第二編第二章) 意識現象は、刻々と移りゆくものである。 その意識の根底に不変の統一力(「統一的或者」)が働いている。 この「統一的或者」は、我々の思惟意志の根底にあるもので、同時に、宇宙現象における統一力でもある。 「神」が出てくるのは、そうした流れです。 「この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」 さらにこの神は 「この点より見て神は無である」 「ただよく無なるが故に、有ならざる所なく働かざる所がないのである」 という存在でもあります。 西田の「純粋経験」の原理から導き出されたこの「神」の概念が、何度読んでもよく理解できません。 すでにお読みになり、ご理解していらっしゃる方に教えていただければ、と思っております。よろしくお願いいたします。

  • 貶すだけでは 前へすすまない。

     よしあしの二項対立を立てる思考から自由になろう。という問いです。  1. 悪は 存在しない。もしそうとすれば善を損傷させる・もともとは善なる意志からの――わが心にさからう心としての――思惟と想像とその実行のことを・つまり負の善を 悪と呼ぶだけである。  2. 聖と俗とは 人間とその思想や意志行為のあいだには 相い対立するふたつの事柄としてはありえない。これを互いに隔たりのある二項として捉えるなら そのときの《俗》であるしかない。  3. 自律と他律というのは それぞれが一面を捉えて言ったものであるに過ぎない。  親が決めた仕事をするのは 他律か? もしそれに従ったなら けっきょく大きく広くおのれを取り巻く情況を捉えて みづからの意志としてそれをえらんだに過ぎない。  自律と言っていても 社会の要請にこたえたり歴史の中からその要請のような流れを捉えてそれにこたえたりするに過ぎない。自他一体であるはずだ。  4. だから その世の中にあってさえ 自律を説く側に回るのは けっきょく《憂き世》を《浮き世》と言いかえているに過ぎない。  世の中は他律人間ばかりぢゃないかとうそぶく思想は 憂き世を乗り越えて出世したときには その身の保守のためにむしろ上にへつらう他律人間になるか それともあいにく成功しなかった場合には 浮き世ぢゃ浮き世ぢゃと騒ぎながら やはりこのわれこそが宇宙なんだとさらに嘯くことになるかだ。  これを問います。

  • おなじみ:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     少し違った角度から 問い求めます。  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。