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お手本至上主義の弊害から思索を飛躍させたい

芸術に由来して考えてみました。 芸術とは自らの心に感じた美の感動をいかに表現するかです。 あくまでも自らの心の感動でなければいけませんが肝心の自らの心がない日曜芸術家もいます。 私は写真芸術が得意なので写真分野から検討を進めます 竹内敏信と言う風景写真の写真家が日曜写真家から絶大な尊敬を集めています。 私から見れば、彼の作品が、彼自身が風景を前に誰よりも深く感動しその自らの感動を写真としてカメラに収めたのだと理解できます。 日曜写真家が彼に触発されて写真を撮影し、かつ成功した写真を撮影するなら、彼がした様に自分なりに風景に強く感動しその自らの感動を写真として収める事が本来ですが、彼らは自らの感動をないがしろにし、竹内敏信のような写真が撮りたいとだけ願います。 そして、日曜写真家はお手本至上主義的人格を発揮して美しい風景を目の前に、その風景にイメージを膨らませようとしないで、有名写真家の作風イメージのみが頭を駆け巡り、風景から真実をくみ取ろうとしない。 そうすると美の表現とはならないでどんなに頑張ってもカメラが自動的にシャッターを切っただけの無味乾燥とした写真となる。 写真業界によくある師弟関係や、目の前の風景を写しとるのか、それとも師匠の作風を写し取るのか、といった芸術論に対して思索をさらに進めるご意見募集です。 竹内敏信さん自身に関しては写真家としても教育者としても尊敬できる人物でその点に否定的な意見は持っておりません。 私自身はお手本至上主義では無く、むしろ彼らへの啓発法を検討しています。

  • 写真
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みんなの回答

  • 18OSX
  • ベストアンサー率42% (553/1290)
回答No.3

自分が感動した写真なり写真集なりを見て「同じように撮りたい」と思ったのなら それはそれでひとつの自己表現なのだと思います。 感動を受ける対象とか創作を刺激される要因などが すべて実物や実体験を元にしたものでなければいけない理由はありません。 人それぞれでいいのではないでしょうか。 「真似る」という行為が自分のためのものであるのなら、 私はそれに対して大きな異論は持ちません。 それと、これらは個人が表現行為に関わる時間の長さにもよるでしょう。 誰でも最初は模倣から入るのは仕方のないことです。 それを否定してしまうと入り口さえ見つけられないようになってしまいます。 そうして、ある程度の時間が過ぎれば それまでの自分の行為が何であるのか?は自ずと分かるのではないでしょうか。

Flareon
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ずけずけした物言いの質問趣旨に対して共感よりも反目が多い事は心得ており気にしていません。 お手本至上主義と言っても、趣旨に「なるほどね」と理解できるだけでも被写体と向き合う時に、より集中できるようになるでしょう。 「芸術アート」に分類されるこのカテゴリーにおいてカメラのスペックの話より話題として適合性があるでしょうが、芸術を扱うのなら特にいけない事は言っていません。 日曜写真家は仲間、あるいは友人であり、彼らと話題を共有する場合は、私の場合こういう話になります。 ほとんど学問のような話ですが、論理を戦わせたり雑談をしようとする趣旨では無くて、ほとんど学問のような個人的思索をさらに進める題材の募集です。

  • mac1963
  • ベストアンサー率27% (841/3023)
回答No.2

写真に限らず芸術に関しては 基本や理論等という物が存在します そもそも基本や理論は過去の膨大な作品から傾向等を読み取ったにすぎません その読み取った手法をまねすればある程度のレベルになる事はこれも又事実です 尊敬又は敬愛する先輩方のまねをしたいという欲求はそれはそれで悪くないと思います すべてのカメラマンがプロになる訳ではなくアマチュアとして憧れるのは当然の事です 他人の写真を見て同じ物を撮影出来たらその人と同じレベルになれる訳ではなく ようやく五合目に到達したにすぎません 目標を超えてやっと一流になるんです そんなにたくさんの人が一流になれる世界ではないので二合目くらいのアマチュアカメラマンがたくさん存在するというのが自然な事だと思いますよ 啓発なんかしてもすべてのアマチュアカメラマンが進歩する訳は無いと思うけどナゼそんなに他人に対して意見等しようと思われたのでしょう それこそあなたの独りよがりなのでは 私はカメラマンとして仕事をしていますが作品は作りません

Flareon
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 考えた事を述べます。 中学生の時に同級生だった友人が、若手としてまあまあな技量のプロカメラマンになれたのですが、彼が若いころ務めた写真事務所で撮影をまかされたときは先輩や師匠の助言に必死で答えようとして付いて行くのがやっとだったそうです。 これはまねでなく追従ですね。 業種を問わず就職したならこのように先輩の言う事をとにかく聞く追従は社会人一年生としてごく普通です。 真似と言うなら作品が同等と評価される事が前提で、すなわち均しい実力を持ち合わせていなければならない。 そんな実力者なら自由に撮影できれば自分の思い通りに撮影しようとするでしょうが、それはともかく、大先生のアシスタントには少なからず真似の技術が必要でしょう。 このようにまねも追従も、それなりに意味のある事だと考えました。 真似や追従を心得てするならばそれはいいでしょう。 それが「なんちゃって遊び」だけになっているなら啓発は意義のある事ですが、それは友人たちに対して行う事でこの場では趣旨を理解できる方からの助言を求めています。

  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7987/21355)
回答No.1

写真を撮る人は、写真を「芸術の一環」と考え、自己表現手段に する人と、手本になった写真と同じ場所での映像を集めることを 主な目的とする「コレクター」が居ます。 後者の場合、自己表現はむしろ罪悪でして、お手本と全く同じで あることが重要視されます。こちらの価値観の人間に「自己表現 のためにアングルを考えろ」と言うことは、「価値観の否定」になり 「何言ってんだ」と拒否されるんですね。 鉄道写真は「走ってくる車両が微妙に違うことが多い」ため、結構 こういう「コレクター」が居るんですね。「同じアングルで撮ってどう する」ってのは、彼らに対して「禁句」なんですよ。 ま、良いんじゃないですか?好きにすれば・・・と、私は思ってます。 そういう連中とは私、違うアングルで撮ったり、そういう連中を画面 に入れて面白い「絵」を狙ったりしますので・・・。

Flareon
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですか言われてみれば確かにそんな感じですね。

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